2013/Jul/7 created
2019/Feb/24 last updated
 ”アケメネス朝""アルサケス朝""サーサーン朝"の表記が使われだした時期

   アケメネス朝の語源はハカーマニシュ、サーサーン朝の語源はサーサーンで、 ともに同時代の碑文に登場している言葉ですが、歴史学用語としての”アケメ ネス朝""サーサーン朝"と言う用語が何時から使われ始めたのか調べてみました。簡単には見つからなかったのでメモを作成。

1."アケメネス朝/Achaemenid"の知られている最初の例は1889年とのこと(辞書サイトMerriam Websterに記載あり
2."サーサーン朝/Sassanid"の知られている最初の事例は1776年とのこと(上記辞書サイト

 いづれも出典の記載の無いのが残念ですが、傍証となる日本語文献があります。1880年に外務省からイラン国に派遣された 吉田正春氏の著書「回疆探検ペルシアの旅」(1894年出版)p96-98に古代ペルシア史の 簡単な紹介が記載されています。著者が学習に用いたのは英国人John Malcolm(ジョン・マルカム(1769-1833 年:東インド会社社員でテヘラン駐箚全権公使、ボンベイ知事等を歴任)の著した「ペルシア史(1815年)」との記載が p37にあります。「回疆探検ペル シアの旅」(p96-8)ではアケメネス朝の名称は登場しておらず、"「アルサケス」の朝""「サーサーン」の朝"の表記が 登場しています。上述の辞書サ イトMerriam Websterで「アケメネス朝」が1889年、「サーサーン朝」が1776年に登場したとの記載があり、ジョン・マルカム氏の著作(1815年)と吉田 正春のペルシア派遣(1880年)との記載と整合します。吉田正春氏の「回疆探検ペルシアの旅」の出版は1894年ですが、 1889年に恐らく欧州の著作 で使われたであろう「アケメネス朝」の用語は、吉田正春氏はまず知らなかったものと考えて差し支えないと思います。なんとな く、1776年という年代か ら、1776年の出典はダランベールとディドロの百科全書ではないかという気がしています。


 その他確認した事項のメモ

・アケメネス朝のイランの同時代資料(碑文)ではパールサ(ペルシア)は王朝の中心地域の名称。ペルシア帝国全土を示す言葉 は登場していない。

・ サーサーン朝の同時代資料(碑文)では国名はエーラーン・シャフルと記載されていて、パールス(ペルシア)は王朝の中心地域 を示す。シャフルの語源はアケ メネス時代の地方太守の称号フシャスラパーヴァ(ギリシア語のサトラップ)で、現在のイランの郡(シャフレスターン)・市 (シャフル)にまで継承されてい る)。

・中国の同時代史料(「周書」「北史」「新唐書」など)にはサーサーン朝全土に相当する言葉は「波斯/波刺斯(ファールス /パール ス/ペルシア)」と記載されており、”サーサーン朝”を意味する用語は登場していない。アルサケス朝はarsakidに相当 する「安息」と表記されてい る。

・古代ギリシア・ローマの同時代史料(ヘロドトス、アンミアヌス・マルケリヌス等)ではアケメネス朝とサーサーン朝は「ペル シア」、アルサケス朝は「パルティア」と表記されている。"パルティア"という用語は中国史書には「番兜/樸桃」という用語 で記載されている。

・9世紀アル・タバリーの『諸預言者と諸王の歴史(の英訳)Vol5 The History of Al-Tabari: The Sasanids, the Byzantines, the Lakmids, and Yemen)』に は、「サーサーン朝」もしくはそれに準ずる用語は登場しておらず、「ペルシア」と記されている。アルサケス朝は 「Arsakid(アルシャック)」となっている(Vol4 The History of Al-Tabari: The Ancient Kingdom

・中世ゾロアスター教徒の文書「ジャーマースプに関する回想(伊藤義教訳『ゾロアスター教論集』所収)」(10世紀頃)ではアルシャク朝はアシャク、 サーサーン朝はエーラーン・シャフルと記載されている。ウィーデーウダード(10世紀頃)にはアイリヤナ(アーリア人の土地)と記載 されている(アイリヤナとエーラーンは同じ言葉)。

・20世紀の研究書Fryeの著作や『Cambridge History of Iran Vol1』『王書』等を少し確認したところでは、歴史学用語"アケネメス朝""サーサーン朝"の成り立ちについての説明は無し。


と いうわけで、アケメネス朝もサーサーン朝も、イランにとっては欧州から輸入された外来語なのではないかと思います※(その後サーサーン朝はイラン伝統のも のだと判明。記事末尾追記参照)。こういう ことを考え出すと、"セル ジューク朝"・"ティムール朝"・"サファヴィー朝"・"ゼンド朝"・"ガージャール朝"という用語の初出や、その時代の国 号などを調べたくなって来てし まいました。


 つけたし:イスラーム期以降のイラン地域の地域名と国名

 現在のイラン国の国名に直接繋がるイーラーン・ザミーン(イランの土地/Irānzamīn)の初出は(確 か)14世紀のラーシド・ウッディーンの『集史』だったと思います(が、典拠が見つからないのでそのうち確認予定※記事末尾追記参照)。イラン という地名が国名に転化してゆく過程は、 羽田亨一氏が論説 「2種の「イラン」--「イラン国民」意識形成史序説」 で、サファヴィー朝の中期と推測していて興味深い論考となっています。イスラーム征服後サファヴィー朝後期までの旧サーサー ン朝領土は、現在のイラクあた りはイラク・アラブ(アラブのイラク)、イラン高原はイラク・アジャムという言葉で認識されていて、17世紀後半にサファ ヴィー朝に滞在したフランス商人 ジャン・シャルダンの『ペルシア紀行』(邦訳p373)では、サファヴィー朝領土はアラカジャム(イ ラク・アジャム)、イラク地方はアラカラブ(イラク・アラブ)と表記されてます。1966年に出版された新潮社人類の美術「古代イランの美術<1>」の 冒頭の地図にイラン北部のあたりにフジャムと書かれていて、アジャムと同義だと思われます。20世紀前半においても地域用語 としてアジャムが用いられてい た可能性がありそう。サーサーン朝滅亡とともに一度イラン(エーラーン)の名称は失われ、イスラームにはいり「アジャム」の 用語が20世紀に到るまで使わ れ続ける一方、サファヴィー朝くらいから徐々にイランの名称が復活してきた、という様子が見て取れそうです。

※※2019/Feb/24 追記

1)「イラン」という地理認識

大塚修『普遍史の変貌』によると、957年に成立したアブー・マンスール『王書』で「Īrān shahr」「Īrān zamīn」と用いられているのが現存最古の例とのこと(p80)。アブー・マンスールはハムザ系(ペルシア語系)の史料に基づいているとのこと。タバ リーはアラビア語系なので、古代ペルシア語のアーリアに因んだ用語は継承されていなかった、ということなのかも知れない。ア ブー・マンスールは「イランの国」を「アム河からナイル河まで」と定義しているとのこと。フィルダウシーの『シャーナーメ』 でも利用されているとのこと。更にマクディスィー『創始と歴史』(965/6年)では、Īrān shahrは、「バルフ河 nahrBalkh、アゼルバイジャン、アルメニア、ユーフラテス河、カーディスィーヤ、イエメンの海 baḥr al-Yaman、ファールス、マクラーン、カーブル、トゥハーリスターンとされている」とあります(p94)。

2)「サーサーン朝」という用語の初出

ハムザ・イスファハーニー『王と預言者の年代記』(961年)で al-Sāsānīya  が使われているとのこと(大塚修『普遍史の変貌』p68)。以後ペルシア系史書ではサーサーン朝の用語が継承されたとのこと。アヴェスターを最初に欧米語 に訳したフランス人アブラアム・アンクティル・デュペロン(Abraham Hyacinthe Anquetil Duperron(1731―1805年)は、1755-61年にインドに滞在して文献調査をしていますから、彼から百科全書派に「サーサーン朝」という 用語が伝わった可能性はありそうです。

ハムザが出典とした書籍やその書籍で引用されている書籍の名称にも、サーサーン朝が登場しているそうです。

ムーサー・ブン・イーサー・キスラウィー著 『サーサーン朝の道 Rāh-i al-Sāsānīya』(p80)
バフラーム・ブン・マルダンシャー(ゾロアスター教祭司)著『サーサーン朝史 Kitāb Ta'rīkh Banī Sāsān』(p69)、その著書の中で引用されている『サーサーン朝君主の肖像画 Kitāb Şuwar mulūk banī Sāsān』(p74)
ヒシャーム・ブン・カースィム・アスバハーニー訳・編『サーサーン朝史 Kitāb Ta'rīkh Mulūk Banī Sāsān』(p69)

ハムザ(ペルシア系語史料)と同時代のタバリーの史書(アラビア語系史料)では登場していませんから、「サーサーン朝」はペ ルシア語系史料で10世紀前半には確立されていたようです。

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