あまり知られていない女性君主たち

韓国朝鮮
    - 善徳女王 真徳女王  真聖女王
エジ プト
    - ニトクリス ソベ クネフェル ハトシェプスト タウスレト ベ ルベル人女王アル・カーヒナ シャ ジャル・アッドゥ ル
    ガッサー ン国女王    
アッリリア
    - サ ンムラマート(セミラミス) ニ トクリス
中央アジア
    - マッ サゲタイ女王トミュリス 月氏女王 サヴィル女王ボアクリス ブハラ女王 

イラン
    -  ボー ラーン アーザルミー ドゥクト ク トルグ・テルケン  パー ディシャー・ハトゥン

インド
    -  ラズィーヤ ル ドラマ・デーヴィー レ ヒンディ・ハディージャ ラ ダファティ  近 世インドの藩王国の摂政たち 

ビザンツ世界
    - グルジア 女王タマラ ト レビゾンド帝国の女帝達
 


(1) 韓国朝鮮

 韓国朝鮮史上ではどうやら以下の3人だけが女性君主であるようです。 いづれも新羅女王で 最初の2人は、2代続いています。 

1.善徳女王(金徳曼)(在632-654年)

 真平王(579-632)の長女。新羅による朝鮮統一へ向けて著しく進展した時代を担った。王の時代、甥である金春秋(後の武烈 王在 654-661)と将軍金ユ信との三金協力体制で国難を乗りきった。数次にわたって百済・高句麗との紛争が起こり、晩年にはクーデ ターも勃発した。女王自 身は才気煥発ではあったが軍事には弱く、2金がそれを補った。金春秋は優れた外交官でもあり、唐太宗のもとへ使者に赴き、太宗の編纂 した史書(確か晋書) の献辞は春秋にあてられている。彼は647年に来日もしている。王は内政に尽力し、慈蔵法師を唐に派遣し仏教を保護、瞻星台(天文 台:遺構現存)を残した り、洛陽の国子監に留学生を派遣し、国の地方の人々までが世界情勢に興味をもつようになるなど、文化的業績にも貢献した。

2.真徳女王(金勝曼)(在647-54)

 年号を太和と定め,648年金春秋を唐に派遣、唐制に従い服制を改編するなど唐との同盟路線を推進した。内政は金春秋が掌握し、 金ユ信将 軍との3金体制が続いた。王の死後金春秋が王となり、660年百済滅亡への道へとつきすすんだ。


3.真聖女王(金曼)(在887-897年) 

 この女王の時代、国内政治は乱れ、反乱が勃発した。そもそも即位の経緯が、王族に男性がいなくなっていたため、とされる。彼女の 後、新羅 は、正統な系統の王族が国王につくことがなくなり、この意味でも新羅は女王の時代、衰亡に向かっていたといえる。


(2)エジプト

 エジプトの女性君主というとクレオパトラ、ついてハトシェプストが浮かびます。 しかし他に有名な女性というと、宗教改革を行っ たイク ナートン妃で 写実的な彫像の残るネフェルティティや ツタンカーメン妃のアンケセアメン、ラムセス妃ネフェルラーなどが有名です が、女性ファラオといと  誰がいるのでしょうか。 ということでちょっと調べてみました。
 長いエジプトの歴史の中ですが、あまり女性君主はいなさそうです。

【 エジプトでファラオを名乗った女性君主 】

1.Nitocris(ニトクリス)(c. 2180 BC) ペピ2世の死後王位につき、9年支配したが、彼女を王位につけるために彼女の兄弟を殺した者に復讐をしたあと自殺したとのこ と。このニトクリスは ヘロドトスの歴史にアッシリアの女性君主として登場しています(後述)。ヘロドトスはこの人の伝承を伝えたのでしょうか?

2. Sobekneferu(ソベクネフェル)  第12王朝8代目の王。アメネマット3世の娘で父の死後王位につく。3年間(1763-59)統治した。彼女が王に即位したかどうか は実際には推測されて いるだけで、証明されたわけではないらしい。王位についた理由は異母兄弟のアメネマット4世死後男系の相続者がいなかったからとのこ とだが、第6王朝でも 同様の継承が行われているし、また第2王朝でも女性が王位継承することが出きると決めた記録があるとのことである。彼女のことは、カ ルナックとサッカ ラー、ツーリンの王表に言及されている。ナイルデルタ近くに彼女の彫刻とスフィンクスが発見されているが墓は見つかってはいない。彼 女はアメネマット4世 のきょうだいか異母きょうだいだとされている。4世は9年間統治した。彼は何年間かはわからないが、父と共同統治の期間があったよう である。 名前の意味 は ソベック(ワニの神)の美しさ という意味。12王朝はファイユースオアシスを経済と宗教の中心地としたが、そこはワニが崇拝さ れているのでそれに因 んだもののだと思われる。彼女の印章には彼女の名前がホルス神とされ、”上エジプトと下エジプトの王、シェーベットのソベクネフェ ル、生きたり”とし、彼 女のpernomen(?)は”Son of Re, Sobekneferu"(これも意味不明)とされている。このように彼女はハトシェプストのように男装こそしなかったものの、女性 もののシャツの上に男 性もののキルトをまとうなど、性の混交現象が起きている。彼女の政策は第12王朝の伝統に沿ったものとされ、彼女の死後王朝は断絶し た。

3.ハトシェプスト
  トトメス1世の子でトトメス2世(在前1512-04)妃。セミラミス同様幼年のトトメス3世(在 1504-1450)の摂政として22年 間統治しました。ハトシェプストの建 設した葬祭殿が遺跡として現存しており、彼女の肖像の跡も残っているようですが、殆どがトトメス3世の命により、削除されてしまって いるようです。トトメ ス3 世は実子ではなかったようなので、仲が悪かったみたいで、女王死去後に、女王ゆかりのレリーフ、碑文などを破壊しまくったとのことで す。ハトシェプストは 治世7年目から男装し、王と自称したそうです。

4. Twosret(タウスレット)  (在 1188-86) 夫であるセティ2世(在1216-1210 B.C)の王権の正統性を与えるための王位継承者だった、ということ意外はわかっていないとのことです。

-以上参考資料-

http://au.geocities.com/aten_nz/QueenSobekneferu.htm

5.その他

・大城道則氏の論文「ケントカウエス王妃はエジプト王となったのか?--第4王朝末期から第5王朝初期の編年問題とピラミッド両墓 制からの視点」(雑誌名 : オリエント ; 巻号 : 2007, 50, 1 ; 掲載ページ : 173〜189) というものがあるとことによると(まだ未読ですが)、ケントウアウエス王妃が王となった可能性もあるようです。

・第一王朝(BC3100頃~BC2890頃)の3代目ジェル王もしくは4代目ジェト王の妃と伝えられているメルネイト(メ リトネイト)王妃も、女王、または、摂政となった可能性があるとのこと。サッカラ王名表に記載があるそうです。

【 プトレマイオス朝の女王達 】

 ここでは、勇名なクレオパトラ7世フォロゲロスはじめ数名の共同統治王がいるようなのですが、 彼女達についてはまた今度

【 ローマ時代 】

1. ガッ サーン国 女王

 4世紀-7世紀頃の北アラブのキリすト教国ガッサーン王国の女性主権者です。

1.ハーリス2世(在位363-373)妃、マーウィア。
 元奴隷だったが后となり王の死後女王となった。軍を率いて地中海東海岸に侵攻し、しばしば勝利を収めたそうです。

2.マーリア(在位495-?)ハーリス4世妃。耳輪で有名なんだそうです。「マーリアの耳輪ほどの」というと「全世界の黄金のほど の」という意味にたと えられたとか。

【 イスラム時代 】

1.ベルベル人女王アル・カーヒナ
 690年頃のアルジェリア。西進するアラブ軍に敵対したベルベル族の女王。ウマイヤ朝のアフリカ(イフリキーヤ)総督ハッサーンの 軍を撃退しが、最終的 には破られて殺された。これをもってアラブの北アフリカ征服は完了した。

2.シャジャル・アッドゥル

 マムルーク朝初代の君主。マムルーク達の支持のもと、実力でスルタン位についた(1250年)が、周辺の国々の君主達の非難をか わす為に アイバクと婚姻し、彼に王位をゆずって、自らは退いた。たった80日間の在位だった。 
 


(3)アッシリア

1.サンムラマート(セミラミス)
  アッシリア王シャムシアダト5世(在前823-811)妃で夫王死後 幼年のアダトニラーリ3世の摂政として4年間統 治しました。この話が ギリシャ人に伝わり、 リビア、エジプト、インドを征服したセミラミス女王伝説となったとのことです。ヘロドトスにはバビロンに堤防を作った、という記述し か出てきませんがディ オドロ ス(60-30頃)には、夫ニノス王がバクトリア王オクシュアルテスを攻めた時、妻のセミラミスを呼び寄せ、その助力によって陥落さ せたとのことです。た だし伝 説の方はまったくの虚構で 単に実在の女性統治者サンムラマートのインパクトが大きくて名前だけが伝わったということのようです。ヘ ロドトスにはハトシェ プ ストは出てきませんので、これはサンムラマートがヘロドトスの時代に近かったので、伝説として伝わったのでしょう。
 シチリアのディオドロス(前1世紀)の「歴史文庫」にはクテシアス(クセルクセス王宮に医者として在住したギリシャ人)の「ペルシ カ」を引用してセミラ ミスの記述があるそうである。それによると、もともと羊飼いに見つけられた捨て子であり、東方遠征でバクトリアやインダス方面で戦功 をたて、その後メディ アのバギスタン山に園庭を築き、その山の側面に100人の兵隊に取り巻かれた自分の彫像を彫らせたとのこと。セミラミスは獣を担いで この斜面を登ったこと をシリア文字(アラム語であると推測される)で山の斜面に刻印した。これがどうやら、ダレイオスの作成したベヒストゥーン碑文のこと であるらしい。更にザ グロス山脈に道を作り、エクバターナに湖から水をひいた。9世紀初のゲオルギ・シュンケルス(コンスタンティノープル)は セミラミ スの築いた堤防は 実 は愛人を生き埋めにする為のももだった、という伝説を伝えている。 更に後世12世紀、セルジュークトルコのニザーミーは「ホスロー とシーリーン」の中 で、シーリーンの母であるアルメニア女王としてシャミラーンとしてセミラミスを登場させている。

2.ニトクリス(伝説の王)

セミラミスの記述を求めてヘロドトスを見返していたら、もう一人アッシリア女王が言及されていました。ニトクリスという女王でセミ ラミスの 5世後、セミラミス同 様バビロンに堤防を築き、橋を作り 都市環境の整備につくしたとのこと。彼女の墓は町中の人通りの多い門の上にあり

 「われより後バビロンに王だる者にして、金子に窮する者あらば、この墓を開き欲するままに金子をとれ。然れども窮する ことなく してみだりに開くべからず。凶 事あるべし(松平千秋訳岩波文庫)」

 と彫られていたとのこと。後年ダリウス王が墓を空けてみると、

 「汝にして貪欲あくなく、利をおうて恥を知らざる輩ならざりせば、死人の墓を開くことなかりしものを」

 と刻まれており 死骸しかなかったとのことです。ニトクリスはキュロスに敗北したバビロン王の母とされており、そうな るとベル シャザール王の母となるが、バ ビロニア史にその名を見出せないのでこれはまったくの伝説のようです。
 


(4)中央アジア

1.マッサゲタイ女王トミュリス

  マッサゲタイ族は前6世紀頃、今のトルクメン共和国のカスピ海東岸あたりにいたとされるイラン系民族サカ人(スキタ イ)に属 する 部族で、トミュリスは ペルシャ王キロスが攻めた当時の女王でした。 キュロスがイラン人本国を越えてマッサゲタイの地へ侵攻するに 及んで、トミュリスは キュロスの野望を揶揄する口上を送っている。キュロスはトミュリスの息子を 罠にかけて捕縛し、その息子は自害して果てた。復讐に燃 えるマッサゲタイ軍と ペルシャ軍の戦闘は激戦となり、キュロスの陣没となって終わった。トミュリスはキュロスの遺骸を前に「私は生き永らえ戦いには勝った が、所詮わが子を謀 略にかけたそなたの勝ちであった。さあ約束通りそなたを血に飽かせてやろう」と語ったとされる(ヘロドトス、松 平千秋訳岩波文庫)。 

2.サカイ族女王サリナ

     メディア時代のサカ族の居住する西トルキスタンの女王。ディオドロスに出てくる「邦訳「ディオドロス神 代地誌」 p172)。それによると、底辺の一辺が3スタディオン(540m)、高さ1スタディオン(180m)のピラミッド状の墓を作り、天 辺に黄金の巨像を置いたとのこと。

3.月氏女王

 紀元前128年頃 漢の張騫が使者として 今のバクトリアあたりに移住していた月氏に赴いた時、当時の王は女王だった、という記 述をどこ かで読みました。史記か漢書を参照すればよいのですが、ちょっと現時点では未確認です。
2005/06/24 出典は「漢書」との情報をいただきました。

『漢書』巻六十一張騫伝
「大月氏王已に胡の為に殺す所となり、 其の夫人を立てて王と為す。」
『史記』大宛伝には太子を立てて王としたとのみの記載です。

4.サヴィル女王ボアリクス
 6世紀前半、フン族瓦解後、南ロシアに勢力をもった民族サヴィルというのがいたそうです。ボラズ王の未亡人でボアリクスという女王 が夫王死後、権力を 握っ ていたそうで、サヴィルはビザンツと同盟を結んでいたが、527年、ササン朝と同盟を結ぼうしたフンの族長を自ら切り殺したそうで す。

5.ブハラ女王

 ウマイヤ朝のホラサン総督サイド・イブン・オスマンが、現ウズベキスタンのブハラに進行したとき、同市を治めていた女王。女王は 賠償金と 人質を差し出し、 戦闘を回避したが、人質達(青年)がサイドを殺したとのことです。ウマイヤ朝については史書が残っているので、調べれば、も、ちょっ と情報が出てきそうで すが。。。



(5)イラン ササン朝、ケルマーン・カラキタイ朝

1. ボーラーン(在629-30年)
  ホスロー2世の娘。ホスロー2世暗殺後の党派争いの混乱の中で短期間即位した。混乱は収まらず退位した。退位後も勢力を持ち、ササン 朝最後の王ヤズダギルトの擁立にも関与したようである。イラ ク映画「カーディシーヤ」に登場している。


2.アーザルミードゥクト(在631-32年)
  ホスロー2世の娘。ホスロー2世暗殺後の党派争いの混乱の中で短期間即位した後暗殺された。 ホスロー2世の娘が短期間即位し、殺されたエピソードは『旧新唐書第198巻西戎伝』にも記載がある。イラ ク映画「カーディシーヤ」に登場している。

3.クトルグ・テルケン(在1271-82年)
 第三代クトブッディーンの妻。

4.パーディシャー・ハトゥン (在1292年頃-1303年頃)
 第三代クトブッディーンの子。イル汗国ガイハトゥの后妃。彼女が登場するイラン映画(「緑の火」) がある。


 
(6)インド

1.ラズィーヤ(在1236-40年)
 中世インドのイスラーム王朝である奴隷王朝(1206-90年)の第五代スルタン。第三代スルタンの父親の指名により即位した。この人はWikipediaにも多くの情報が記載されているので省略しますが、興味深いのは、ほぼ同じ時代にエジプトにも奴隷王朝(マムルーク朝/1250-1517年)が勃興し、ほぼ同じ時代にエジプトでも女性君主(上述のシャジャル・アッドゥル)が即位している点です。双方、アッバース朝の解体期・奴隷出身の政権・モンゴルや十字軍の脅威、など共通点があります。単なる偶然ではなく、危機にあっては奴隷であろうと女性であろうと、能力のある者が君主に就いた、ということのように思えます(ラズィーヤの前例が、エジプトにも伝わっていて女性君主出現を後押ししたのではないか?という可能性も疑っています。このあたりはいづれ調べてみたいと思っています)。

2.ルドラマ・デーヴィー(在1263-89年頃)
 南インドのカーカティーヤ朝(1000年頃-1323年・現在のテルグ語使用者の領域に相当)の女王。1240年、チャールキア王朝の分家の出のヴィラバドラと政略結婚した。ヴィラバドラが統治に関与していた証拠はないとされる。二人の娘をもうけた。父王ガナパティ・デーヴァの晩年、共同統治をしたと考えられている(1261-62年)。治世当初は義兄弟達の反乱があり、首都ワランガル市民が蜂起して鎮圧した、との説がある。貴族ではなく、能力のある一般人を兵士に登用し、彼らに徴税権を与える等改革を行った。これは後のヴィジャナナガル時代に継承された。しかし東部インドの諸王朝やデカン高原西部のヤーダヴァ朝等の攻撃を受け、1270年代にはゴーダーヴァリ川以北の領土を失い領土は縮小した。一方ヤーダヴァ朝は撃退した。晩年国内ではカヤシュタ族のアーマデーヴァが西南アーンドラ地方で反乱を起こした。王位は娘の子のプラターパルドラ(在1289年頃-1323年)が継いだ。2015年にインドで映画化された。

3.レヒンディ・ハディージャ (在1347-63、64-74、76-80年)
 モルディブ諸島の女性スルターン。スルタン夫の暗殺、再婚を繰り返して第20、22、24代目のスルタンに即位。

4.ラダファティ (在1380年)
 レヒンディ・ハディージャの異母妹。第25代スルタンに即位。

※以下のインドの女性支配者は、地方君主や摂政。備忘録的に掲載

5-1.アッバッカ・チョータ(在1525-70年代)
 カルナータカ地方のトゥル・ナードゥ地方(トゥル語圏)のウラール(Ullal)のチョータ王国の女王。トゥル語圏は12世紀頃から地元政権が成立していた。女王のチョータ国は1544年に成立したらしい。叔父Tirumala Rayaから位を譲られた母系相続だった模様。都はウーラル。ゴアを拠点としたポルトガルが南方に手を伸ばし、1557年には王宮を占領されたこともあったが、女王は脱出して再占領した。女王は40年間ポルトガルの攻撃を退け、Abhaya Rani (The fearless queen./.恐れを知らない女王)と呼ばれた。しかしポルトガルと同盟した元夫の近隣国に最終的に敗退し、捕らえられ虜囚となり、没した。その後18世紀にチョータ王国はマイソール王国のハイダル・アーリーとティプー・スルターンに侵略され縮小し、その後英国の支配下に入った。 

5-2. ラーニー・ドゥルガヴァティー(1524-1564年/在1550年頃-1564年)
  チャンデーラ朝の王女。1542年にゴンドワナ(ドラヴィダ系のゴーンディー語圏)の王サングラム・シャー(1500-42年)の長男 Dalpat Shahの元に嫁ぎ、1545年息子を出産、1550年の夫死去後、宰相達の支援を得て摂政として統治した。1562年からムガル帝国のアクバルの侵攻を受け、1564年戦場で負傷し、自害した。

5-3. チャンド・ビービー(1550-99/ビジャープル摂政在1580-90年、アフマドナガル摂政1596-99))
  ビジャープル王国とアフマドナガル王国の摂政。アフマドナガルの、フサイン・ニザーム・シャー一世( Hussain Nizam Shah I)の娘でアフマドナガルのスルタン、ブルハン・ウル・ムルクの姉妹。当初ビジャープルのアリー・アディール・シャー一世と結婚し、1580年王の死後摂政となったが、その治世は将軍たちの内紛と内戦に終始し、1591年Ikhlas Khanが実権を握り安定すると、チャンド・ビービーはアフマドナガルに帰還した。1591年にムガル帝国のアクバルのデカン侵攻が始まったが、アフマドナガルでは内紛となった。1595年最終的に Miyan ManjuがIkhlas Khanを破って実権を握り、チャンド・ビービーを摂政に据えた。ムガル侵攻の防衛に尽力したが、内紛もありうまくゆかず、ムガルと条約を締結しようとしているとの噂が広まり、激怒した配下の兵士達に殺された。死後44日目にアフマドナガル王国はムガル帝国の軍門に下った。

5-4.ケラディ・チェンナンマ(在1672-97年)
 カルナータカ地方のケラディ王国の商人Siddappa Settiの娘。1667年にヴィジャヤナガル王国の封建太守(ナーヤカ)ケラディ・ナーヤカ朝の王ソーマシェカラ王と結婚、1677年王死去後、実権を握り、ムガル朝のアウラングゼーブの軍を撃退した。ポルトガルと胡椒と米についての条約を結び、ポルトガルから”胡椒女王”と呼ばれた。

5-5.オナケー・オーバーワ
 この人は君主とかではありません。 カルナータカのチトラドゥルガ朝の城砦監視兵の妻。マイソール王国のハイダル・アーリーが攻めてきたときに、アーリーは、洞窟から城砦に進入しようとした兵士達を差し向けた。オーバーワの夫が昼休みに自宅に戻ってきた時、妻は水を汲みにゆきくだんの兵士達に出くわした。そこで妻は、食器(オナケー)で兵士達を刺し殺したというもの。夫がやってきた時には殺された兵士達の間に立ち尽くした血だらけの妻を見つけたという。妻はショックでなくなったとされる。伝説の女傑として現在でも彼女を主人公とした映画が作られ続けているとのこと。カルナータカ映画界ではポピュラーな題材のようです。この事件があったとされる洞窟は、オナケー・オーバーワといわれ、観光地となっている(映像はこちら

5-6.キットゥール・チェンナマ(1778-1829年/在1824年頃-29年) 
 カルナータカ地方のキットゥールの君主。15歳の時にRaja Mallasarjaと結婚し、1824年息子の死去に伴い養子を迎えたが、これが東インド会社の改易法違反となり、1824年東インド会社への反乱を起こしたが捕らえられ数年後獄死した。
 
5-7.アヒリヤー・バーイー・ホールカル (1725-95年/在1767-95年)
 ムガル帝国後期にマールワー及びラージャスターン地方を支配したホールカル家当主(夫との共同統治)。

5-8.ラクシュミー・バーイー(1835-58年)
  元王妃で反乱軍のリーダー。マラータ同盟の貴族の出身で、1824年シャーンシー王国王に嫁ぎ、1853年王が没すると54年に王国は英国に接収された。その後シャーンシーを拠点とした民衆反乱の指導者となり、1857年にセポイの反乱に呼応して反乱、1858年に敗れて不グワーリヤル城に移り抗戦を続けたが同年戦死した。

6.エティオピア

 『プリニウス博物誌(1986年版)第1巻』6-185,136節に、メロエの南70マイルにタドス島があり、カンダケという代々の女 王の称号を持つ女性君主により統治されていると記載されている。「昔は25万の兵士と3000の職人(異本では象)を供給したと報告され ている」、と記載されている。


 
 
(8)ビザンツ世界

1.グルジア王タマラ

 グルジア最盛期はギオルギ3世(在1128-1156)とその娘タマラ(1160-在1184-1213年)の時代とのことです。 タマラの 時代、グルジアは政治、経済、軍事とも に発展し、Shamkor (1195) と Basiani (1203)の戦いで西北イランと小アジアの知事の軍隊を破り、1204には十字軍に首都を占領されたビザンツ帝国の地方 政権であるトレビゾントの建設に助力しました。彼女はグルジアを文化の中心とし、科学、詩人、芸術化を保護しました。グルジア正教会 は彼女を聖人に 列したそうです。タマタの娘のルスダン(在1223-45年)も女王となった。

2.トレビゾンド帝国の女帝達
 
 1204年にビザンツ帝国が第4回十字軍兵士とヴェネチアにより滅ぼされ、ビザンツ貴族達による地方王国が旧ビザンツ領のあちこち に出来ました。トレビ ゾント帝国はその一つで、現在のトルコの東方、黒海沿岸の町、トラブゾンを中心とした小さな帝国として コムネノス家によって開かれ ました。コムネノス家 は アレクシオス1世(在1081-1118)を出し、1204年まで帝国を統治した王朝です。 トレビゾンド帝国は小さいながら も、1461年まで、本 家のビザンツ帝国滅亡後まで約260年命脈を保ちました。 南を山脈に囲まれ、トルコ族が容易には進入できなかったこと、またトルコ 族のトルコマン族の王 朝である白羊朝や、後のイランでサファビー朝を建国するサファビー家と婚姻政策をとっていたことも特徴の一つです。

 トラブゾン帝国には3人の女帝が誕生しています。

1.テオドラ(1284-87) コムネノス家の皇帝娘。
2.イレーネ(1340-41)  バシレイオス1世の未亡人で、夫の死後皇帝になったパラエオロゴス家出身の女帝。
3.アンナ Anachoutlou  (1341-42)  アレクシオス2世の娘。

 以下はトラブゾンの支配者達の一覧のURLです。

http://www.e-grammes.gr/rulers_en.htm

http://mehmeteti.150m.com/seljuqsofrum/trebizond.htm

http://www.users.globalnet.co.uk/~plk/History/KingListsEurope/GreeceByzantium.htm
 

 最初の女帝テオドラ(在位1284-7)は3番目の一覧には出てきていません。ずっとヨハネス2世(1280-97 年)が統治 したことになってます。テオドラもヨハンもコムネノス家のきょうだいな(マヌエル1世(1238-63)子)ので、お家騒動の気配が あります。

 イレーネとアンナの場合もヨハン2世とバシレオスの両兄弟から別れた王統をめぐる闘争というかんじがしますね。どちら も皇后の 即位なので、バシレオスの 息子のアレクシオス3世に王位を継がせるためだと推測してもることも可能ですね。  イレーネとアンナと並行してミカエルの在位が見られるのは、こうした背景がありつつ、1340年にセルジュークトルコがトレブゾン 市に侵攻し、町を焼き 払ったそうですから、その時の混乱もあるのではないかと思います。  イレーネもアンナも即位の年に教会を建設しているようですね。

 ところで、他の1204のビザンツ帝国解体に即して誕生した関連諸国には、上記URLを見ている限り、女帝はいないよ うです。
 


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