2013/Jul/31 created
2020/Sep/17 last updated


874年唐の都長安で死去したサーサーン貴族スーレーン家の末裔の墓誌


 古代イランの歴史を調べ始めた頃、サーサーン朝ペルシアの有力家系であるスーレーン家の末裔が 874年以降に唐で死去したとの記載に遭遇し、以来出典を知りたいと思っていました。漸く知ることができました。

 その記載は「The Cambridge history of Iran Vol3(1)」 のサーサーン朝の通史の章末尾、p176の最後の方に

 It records the death of a princess of the Suren family from the year 872 or 874, evidence of the late persistence of Sasanian families in exile.

  とあるものです。この行の註には、典拠であるドイツ語の論文名が記載されているだけで、史料の記載はありません。出典は恐らく 「旧唐書」か「新唐書」のど こかなのかも、と思っていたのですが、西安出土の碑文とのこと。この碑文を論じた論文が、大阪大学外国語学部外国語学科ペルシア 語専攻発行の論説集「イラ ン研究」第4号(2008年)に掲載されていました。ハサン・レザーイーバーグビーディー(Rezai Baghbidi Hassan)氏の 「中国西安出土漢語パフラヴィー語二言語碑文再考(p336-357)」 というタイトルのもので、二言語とは中世ペルシア語と漢語のことだそうです。本論説は、日本の雑誌なのに全文ペルシア語で掲載さ れていて(英語サマリもな し)、論説の内容はまったくわからなかったのですが、p339に碑文の漢語原文が掲載されていました。以下の内容です。


       左神策軍散兵
       馬使蘇諒妻馬
       氏己已生年廿六
       於咸通十五年甲
       午歳二月辛卯建
       廿八日丁己申時身
       亡故記


 神策軍とは唐代中後期の首都長安の禁軍(近衛兵)の名称。散兵馬使が禁軍の中の役 職名称で、「散」とは散位(実務を伴わない名目上の官位)のこと。蘇諒は兵馬使の役職にあった人名で、唐代の中古音では、su ljangH = Suren =スーレーン となり(蘇の中古音はこちらから諒の中古音はこちらから)、 パルティア・サーサーン朝時代の名門貴族スーレーン家を意味すると思われます。その蘇諒の妻である己已*年生まれの26歳になる 馬氏が、咸通十五年 (874年)甲午*の年の二月・辛卯の月(旧暦で辛卯*の月は二月のこと)の28日丁巳*の日に歿した旨記す、と読める気がしま す。

* いづれも干支。ただし干支の己已と甲午の間は22年なので26歳にはならない筈なので、この訳は間違いかも知れません。

  更に、蘇諒はサーサーン人の末裔であったとしても、その妻馬氏もペルシア人であるかどうかは定かではなく、漢人や、ウイグル人、 テュルク系など、様々な可 能性があるものと思いますが、”スーレーン家の姫”であることは確かであり、サーサーン人の末裔が唐末でもなおパフラヴィー語や (ヤズダギルド暦の利用に 見られるように)ゾロアスター教を保持しつつ中国に住んでいたことは確かなようです(限りなく低いとはいえ、馬氏が日本人や新羅 人・ベトナム系・チベット 系・タイ系とかである可能性もあります)。


 p341の中世ペルシア語のローマ字表記は以下の内容となっています。

  ēn ašpwar ī anoš-ruwān Māhwaš ī duxt ī anoš-ruwān
  Farroxzād ī Dādweh ī az Sūrēn sāl 242 ī anoš-ruwān
  Yazdgird sāl 260 ī Tāzīgān sāl 15 ī hamē-pērōzgar
  xwadāy baypuhr ī Xēm-Tōn māh Spabdarmad ud rōz Spandarmad
  didomēn māh pad 28 widerān būd u-š gāh abāg Ohrmazd
  ud amahrāspandān rōšn garōdmān ud pāhlom axwān bawād drōd

  「パフラヴィー語 : その文学と文法(ジャーレ・アームーズガール, アフマド・タファッゾリー著 ; 山内和也訳シルクロード研究所, 1997.4)」に掲載されている簡単なパフレヴィー語の辞書やネット上の辞書を参考に翻訳してみました(意味のわからない3つの単語はそのまま残してい ます)。

 【スーレーン家の不死なる魂を持つファロッフザード・ダーデェフの妻で不死なる魂を持つマーワシュのこのašpwarは、不死 なる魂を持つヤズダギルドの紀元242年(=西暦874年)、アラブ紀元260年(=西暦874年)の、*天子・常なる勝利者の 咸通15年のスパンダルマ ド月のスパンダルマド didomēnの日・28の月にこの世を去った。オフルマズドとamahrāspandānの光輝なる天 国とともにあれ。最高なる 世界が平安であれ】
 
*唐の天子のこと

 保管機関や碑文写真などの情報も欲しいところですが、とりあえず10年来の疑問がひとつ解消して嬉しい限り。

 なお、唐に亡命したサーサーン朝最後の王ヤズダギルドの息子ペーローズの石像が、唐高宗(在649-683年)の陵墓である乾 陵前の陵園に残されているようです。こちらの記事「六十一蕃臣头像到底是咋回事」 によると、この石造は、唐王朝に服属していた周辺民族の王の石像とのことで、当初61体だったものが、現在は倒壊し、現存は36 体、うち石像から名前が読 み取れるものは6体に過ぎないそうですが、古文献によると36体は名前が判明しているようで、その中にペーローズだと思われる “右骁卫大将军兼波斯都督波 斯王卑路斯”と、もう一名“波斯大首领南昧”の名が記載されているとのこと。この2名は名前の読み取れる6体の石像ではなく、古 文献の方に掲載されている ので、どの石像に該当するのか特定されているのかどうかまではわかりませんし、石像が本人を前にして製作されたのかどうかもわか りませんが(製作者が想像 で作成した可能性もある)、いつか見学に行きたいと思っています。


 ところで、古代日本にもサーサーン朝の王族や貴族の末裔が渡来していたとの説は、伊藤義教氏が「ペルシア文化渡来考(1980年)」にて「日本書記」に記載された人物名を元に 論じており、 この説を展開した、戦国時代の子孫を描いた「波斯の末裔(ペルシャのすえ) 」(西沢裕子著:1999年)という小説や、奈 良時代に渡来したペルシア人を描いた清原なつの著「光の回廊」(1988年)と いう光明子皇后の生涯を扱った歴史漫画があり、シーリーンという名のサーサーン王家の姫が奈良の都に登場し、イランのターゲ・ボ スターン遺跡のレリーフの 狩猟図や、ターゲ・ボスターン遺跡そのもの絵が背景に登場しています。日本におけるサーサーン朝ペルシア人の末裔を扱った作品 は、探してみれば更にいろい ろあるのかも知れません(その他古代日本に渡来したペルシア人に関するサイトや著作を末尾に記載しました)。

 東方世界での古代イランの 遺物や人の移動の痕跡は結構資料があるようなのですが、その一方で、西方(主にヨーロッパ)でのパルティア・サーサーン朝からの 伝来遺物や末裔などの情報 は聞いたことがありません。最近西方におけるパルティア・サーサーン朝の遺物は無いものかと興味が出てきています。中国やインド ではサーサーン朝の貨幣が 結構発掘されていて、既に珍しくもないようですが、西方の遺物の話は聞いたことがなく、そのうち調べてみたいと思っています。

 それにし ても、何故ゾロアスター暦はヤズダギルド3世の即位年(632年)を紀元としているのでしょうか。ゾロアスター教で規定している 1000年期の節目が関係 しているのだと思いますが、サーサーン朝の滅亡時ではなく、ヤズダギルド3世の即位時となっている理由を知りたいところです。


□古代日本に渡来したペルシア人に関する関連サイトや書籍
 末尾三冊の書籍は未読なので現時点では内容についてのコメントは出来ないのですが、読みたいと思ってるものです。

 奈良のペルシア人(サイト「空の旅」->日本編->ペルシアと奈良->古代の日本に印さ れたペルシアの痕跡を探して->奈良のペルシア人)
 「天平の客、ペルシア人の謎 李密翳と景教碑 」李家 正文著、東方書店、1986年
 「天平のペルシア人」杉山 二郎著、青土社、1994年
 「火の路(1975年)」松本清張著、文藝春秋
 「眩人」(1980年)松本清張


※2013/09/24追記
そ の後、研究誌『西南アジア研究』13号(1964年)に伊藤義教氏の論考「西安出土漢蕃合壁墓誌蕃文解読記」(p17-34)が あることを知りました。同 年夏に中国科学考古学研究所夏鼎博士から京大助教授を通じてパフラヴィー語部分の翻訳を依頼され、その成果をまとめたものです。 そのローマ字転写は、


  'ēn vašpuhr anōšarvān Māsī š i 'duxt i anōšarvān
  fratomasp i Sizinsay i 'hač Sūrēn ’sāl 200 ut 40 i anošarvān
  Yazdgird ut 'sāl 260 i tāīkān 'sāl 15 i hamē-pērōžkar
  xvatāy varčāvand San-Tōn ut 'māh Spandarmat ut 'rōč Spandarmat
  ĵab-ma-ēn*1 'māh pat 26 vitīrān 'būt 'ut-aš gāh 'apāk Ōhrmazd
  ut Amãsraspandān ['andar] garōδmān i pahlom axvān 'but 'drōt

*1 ĵab-ma-ēnのĵは、čと同じく、「v」がjの上につく文字なのですが、PCでの入力が出来なかったので、ĵで代用しました。

となっています。この記事で記載しているハサン・レザーイーバーグビーディー氏の読みとほぼ同じ内容ですが、大きな相違点が一つ ありました。

  それは、sāl 260 i tāīkān を「唐朝の260年」としている点です。ヒジュラ暦を採用するとすると、「Tāčīkān(大食の)」と読まなければならいが、伊藤氏は、 パフラヴィー語碑文の写真を見て、tāīkānのtとīkānの間にāčの二文字を入れるスペースが無く、čらしき文字をčと解 釈すると、āを入れるス ペースが全く無くなることから、唐朝の260年とすると、878年となってしまい、ヤズダギルド暦240年(874年)と4年の 開きが出てしまうけれど も、どうしても「Tāčīkān(大食の)」とは読みがたい、とのこと。

 また、私が辞書等で見つけることの出来なかった三つの単語、 didomēn、ašpwar、amahrāspandānは、ĵab-ma-ēn、vašpuhr、 Amãsraspandānとの解釈で、それぞれ建 卯、、王族、アマスラスパンド諸神であるとしています。更に、漢文で「蘇諒妻馬」と「妻」と記載されているのに対し、パフラ ヴィー語文では「スーレーンの 娘」と異なって書かれている点を重視し、「妻=娘」であるのは、ゾロアスター教の近親婚によるものと解釈している点は非常に納得 できました。伊藤氏の論考 には碑文の写真も掲載されていて、本件の情報があまり無いことから信憑性も低そうに感じていたのですが、伊藤氏はパフラヴィー語 の文法による年代検討も行 なっており、史料の捏造(現地人が外国人学者をだましたとか)の可能性はまず無いこともわかりました。

 今回、推理小説の解決編を読むような面白さがありました。  

※※2020/Sep/17追記

京都大学のイラン系言語研究者吉田豊氏の論文『9世紀東アジアの中世イラン語碑文2件 --西安出土のパフラビー語・漢文墓誌とカラバルガスン碑文の翻訳と研究』(2020年3月)が公開されています(こ ちら)。ここにも日本語訳が掲載されています。

BACK