はじめに

 
   こんにちは。 2000年の5月か6月頃に 「星の王子様」 の作者として有名な サンテク ジュペリに因んだ番組がNHKで放映されました。彼の生地の仏リヨンからモロッコの南部の町まで 彼がプロペラ機で飛んだ航路を、 同じようにプロペラ機 で飛びながら、 途中通過する町々を 空中から眺める、というものです。 

 中世の街並みが残る アヴィニヨン、 古代ローマ水道遺跡 ポンデュガール、 スペインの古城、 モロッコの町々・・・・   そこに展開していた眺望は、 「唯のよい眺め」ではなく 普段我々が地上から眺めている世界とは まったく別の世界が展開していました。 
 

   「なんと整然とした、この美しい世界」

  サンテグジュペリはそう形容していたそうです。 この映像を見たとき、直ちに 私は 古 代ローマの地中海を、漢代の中国を、 ビザンツ時代の黒海沿岸を この様に飛べたら、  飛べ無くても映像でもいいから この視点で眺めることが出来たら どんなにか素晴らしいことだろう・・・・ と思いました。 
  過去でなくてもよいから、現代の遺跡をこの様に訪れることが出来たなら・・・・・
  最近のコンピュータグラフィクスの進歩は やがて何十年か後には、こうした映像を もたらして くれるかもしれない、と期待しています。

   今はまだ、それは夢の段階に過ぎませんが、 そうした夢を描きつつ 取りあえず地上か ら 当時の世界 ローマとイランと中国が 古代の一つのピークと安定にあった 時代、 おだやかな夏の日の午後の様な時代、 それともう一つ 強い風がふ ぶく闇夜のようなビザンツ世界  この二つの世界の風景に  少しでも近づく為の材料を収集・提供したい、 ということがこのページ作成の目的の一つで す。

   このページには遺跡訪問記録が幾つかあります。 遺跡訪問の何処に魅力を感じるかは人 それぞれだと想いますが、 私個人としては遺跡そのものにあるのではなく、 多くの場合 遺跡のある場所そのものにあります。

  もっと言うと 遺跡で出会う風なのです。 遺跡で風を感じながら、 当時の人々もこの風 を味わっていたのだろとうか、 と思い、 旅から戻り、  ある日の夕方 ふと街頭で首筋をなでた風に 遺跡で嗅いだ風の香りを想い出したり、  夜、 部屋に窓から吹き入ってきた しっとりとした風に  1000年前の夜に 南ロシアを越えて黒海からコンスタンティノープルの宮殿のバルコニーに吹きつけていた風の肌触りを感じたりする、 
 
 そうして風とともに様々な記憶やイメージが呼び起こされるのです。 風には様々な種類があると思 うのです。  エスキモーには「雪」という言葉が28種あるとかいう話を どこかで聞いたことがあります。  風も同じだと思うのです。 でも残念ながら私はボキャブラリが乏しい為にうまい形容ができなく、   「あ、これはカルタゴの風だ」とか「アランヤにエーゲ海から吹きつけてた風だ」 ということになってしまうのですが、  古代世界やビザンツ世界の風 を、その時代の風景を、 その時代の人々が何を見、考えていたかに 少しでも近づきたいと 考えています。


 ところで、このサイトを最初に作った時は、まだ冷戦後の余韻の残る時期でした。世界が、米ソ対立と第三世界に三分されていた時代の名残が徐々に後退し、 今日では、代わってインターネットの普及が、新たに世界をグローバリゼーションの波が覆うようになってきています。グローバリゼーションは、事実上米国の 世界支配への一極化へ向かうという観測も一時はありましたが、現在では、米ソという強力な覇権国家の影響は後退し、西欧列強という、19世紀帝国主義時代 の名残も後退(旧宗主国システム)し、この時代、世界を動かす流れは、再びもとの、西欧列強支配時代以前の、文明軸へと、戻りつつあるように思えます。最 近では、その文明軸とは、欧米、旧ソ連圏、中東イスラーム世界、インド、中国、アフリカの6勢力圏だと認識するようになりました。

 このサイトでは、ローマ、イラン、中国、ビザンツ世界を対象としていますが、それはすなわ ち、現代世界の欧米、中東イスラーム世界、中国圏、旧ソ連圏に直結しているのではないか、と最近考えるようになりました。第2次世界大戦が終了し、世界は 概ね平和な時代を迎え、これから世界はどこへ向かうのか、を考える参考として、現代に似た、長期的な統一と安定、各世界の交流、安定による生活の余裕を享 受していた時代である古典古代世界の生活や、その展開をより深く知ることで、これからの展開へのヒント(或いは慰めかも知れないけど)になれば、とも思っ ていました。その点で、ビザンツ世界は少し異なっている為、私の中で、ビザンツ世界は、趣味ベースの興味の対象に過ぎないように感じ、置き所に困っている 一面もありました。古典古代世界の枠組みが、現代にも客観的に維持されている、などと考えているわけではありませんが、このサイトで扱っている古典古代世 界とビザンツ世界という枠組みが、現代世界の展開への一つのアプローチとして、あるいは単純に現代世界とのその将来への興味をつなぐ窓口として有効な点が あるのであれば、これからの世界を切り開く材料としても関わって行きたいと思います。

 世界は、どこへ向かうのでしょうか。

 

  以上で前口上は終わりですが、 ページの各コンテンツが、それぞれ一体何を目的として作 られているのか、中身を見るのは面 倒なので概要だけ知りたいという方はこの項をご覧ください。 私の悪い癖で既に退屈なことを 長々と書いてしまっていますが、以下も多くの人にとっては退屈な内 容でしょう。 
 そこで以下1.の「このページの目的」の最初の20行程にだけ目を通していただれば基本的にどう いうページことを目的としたページなのかお分かりいただけると思います。 お時間のある方 は他の項もどうぞ。

  1.このページの目的
  2. 対象地域・時代の地域区分・時代区分について
  3. このページの歴史に対する方法論について
  4. 各ページの構成・編集方針について
  5. 日本のサラリーマンの休暇制度と旅行について
   6. お願い
   7.  このページの作者について

   *このページはNetScape7.1Communicatorを利用して作成してお り ます。IEでも動作確認はしておりますが、  レイアウトはNetScapeに合わせて調整してあります。 IEの場合はフォントを「小」または「最小」(表示->フォント->小)にして御覧になれば大丈夫だと思います。  また解像度1280*1024に合わせています。
 



       
1.このページの目的

概要


 古代オリエント博物館発行情報誌「ORIENTE」第9号の「ローマン遺跡発掘かけ足体験 記」(足立恵子氏記)は、イギリスで行われた ローマ遺跡発掘の短期サマーセミナー参加体験記ですが、その第1日目の他の参加者紹介のところで、ルーマニアから来た考古学者が

 「 「私はルーマニアから列車に乗って、ロンドンまでローマ人が北上した足跡を辿ってきた んだ」とうれしそうに話していた。」

 という記述が出てきます。 一言で言ってしまうと、このページは この感覚に共感を抱く人 を対象とするページだと言えます。
当時の人々が見た景観と視線を少しでも掘り起こしたい、追体験したい、そうしたアプローチをとって いる人にはこのページはお役に立てるかもしれません。

 詳しくは3.のこ のページの歴史に対する方法論について を参照して欲しいのですが、古代地中海世界、パルティア・ササン朝イラン、漢王朝、ビザンツ世界など 当 時の人々の視線や世界意識、彼らを取り巻いていた景観を少しでも味わう為の情報を収集したり、または他の情報リソースへのアクセスの為のポータルとなるこ とを目的としております。 このページの目的は以下の3点に集約されます。
 

. 対象とする時代の人々の視線・世界意識、また周囲の 景観に興味がある方のための 情報のポータル(入り口)サイトとしての機能
2. ポータルサイトとして機能する為の情報収集と交換 - 情 報をおもちの方からの情報提供の勧誘が目的です。
   具体的には映画や小説、遺跡情報、遺跡旅行情報の収集を目 的としています。
3. 実際に遺跡などを訪れてみたい方のための遺跡旅行情報の提 供
 
 

 旅行や遺跡に関する情報や写真が色々と載せてあるのは、当時の著作物や歴史書、小説などを 読む場合のイメージを膨らませる助けとする為であり、かつ 遺跡とアクセス方法の情報交換をしたいからです。 遺跡への行き方、また価値観は人によってさ まざまですが、 大量の遺跡があり全部に行く必要はないので、訪問先を選択するには遺跡の情報が必要です。 また、日本社会で生活しつつ休暇の旅行で効率良くまわるには、 遺跡へのアクセスの仕方の情報は重要です。 

 映画・テレビ番組・小説・音楽についても、当時の世界を復刻したい、当時の人々の目には世 界はどんな風に映っていたのだろうか、 当時の人々はどんな風に実際暮していたのだろうか、何を考えていたのだろうか、 ということを例え擬似的であれ味合わせてくれるものだと思います。   それらの紹介をすると同時に 情報収集をしたいのです。
 
 私がこうしたことを考える切っ掛けとなったのはマルグリット=ユルスナールの  「ハドリアヌス帝の回想」  を読んでからなのですが、 その時思ったことは、  例えばの話、 「アルシャック王ミトラダート(パルティア王ミトラダーテス2世)の夢」 とか 「班超自伝」 とか 当時の人間に一人称で語らせる様なも のが、ないだろうか、 ということでした。

  実際はこれらの小説は存在しませんが、 調べてみると、 「小プリニウス書簡集」 「プ リニウス博物誌」  「ストラボン世界地志」  「ルキアノス著作集」、 後漢 王充 「論衡」など当時の人々の世界観を垣間見せてくれる著作物があることがわかってきました。 
 古代の著作については、新しい写本が発見されたり、 発掘されない限り難しいと思いますが、 小説や映画ならば 各国のものが集められるのではないか、 と考えています。

 実際、 加藤九作氏「中央アジア歴史群像」(岩波書店)にはウズベキスタンで書かれた、 アレクサンダーの侵攻に歯向かったソグドの英雄を扱った、 「スピタメネス」という小説の話が出てきますし、同国にはイブンシーナの青年時代を扱った「若き日の偉人」という映画もあります。
 情報さえ手に入れば入手する機会もあるかもしれません。 入手しさえすれば、大抵の国の言葉の英語への翻訳ソフトはある筈ですので、英語に翻訳し、  更に日本語に翻訳して読むことは可能かもしれません。

 例えば、これは私の空想ですが、 理想は、 スペインで作られたローマ時代の市井の人々の映画を見て、 ギリシャで作られたヴァシレイオス2世の伝記映画を見て、 チュニジアで書かれた若き日のセプティミウス=セウェルスの小説を読む。。。。 
 
 

  対象としている時代は紀元前2世紀から紀元7世紀の地中海・イラン・中華世界とビザンツ 世界です。 

  私は研究者ではないので、このサイトは古代ローマや中国等の一般的な研究目的ではなく、 かなり絞り込んだ内容についての情報収集と交換に役立てればいいと考えています。 
 研究については 他に優れたページが沢山りますし、URL一覧や書籍一覧は他のサイトで充実して いますので、 それらのリンク集を持つサイトを紹介するにとどめます。
 

 我々は今、稀有の時代に生きていると思います。 
 私が高校生の頃までは、米ソ冷戦時代であり、共産主義陣営内の閉鎖性、レバノン内戦、中東戦争、 イラン・イラク戦争、カンボジア内戦などの為、 ユーラシア大陸の遺跡で行けない場所が殆どでした。 私が中学生の頃までは海外旅行も自由化されてはいなかった様に記憶しています。
 私の親の世代の若い頃は戦争後の復興期で、海外旅行などは夢の夢でした。
 今米ソ冷戦が終わり、変わって地域紛争が増えつつありますが、それでも 自由に旅行が出来、行き たいところへゆける様になってきています。
また良し悪しは別として日本の経済力のおかげで先進国以外を旅行する場合のコストは非常に安く済み ます。 日本人に無いのは時間だけです。
 サラリーマンはなかなか難しいものがあります。私は会社を辞める必要がありました。これらの世界 を見るために。 
 しかし学生は違うでしょうし、若いうちなら転職してもキャリアにそう傷はつかない(今後ますます そうなると思います)ことが多いと思います。
 せめて半年時間がとれれば、ユーラシア世界を巡ることが可能だと思います。
 皆さん、(遺跡旅行に限らず) 是非、 いつまで続くか分からない、 この稀有の時代に生きてい る幸運を生かしましょう。
 

 



 

2.対象地域・時代の地域区分・時代区分について

    対象としている時代はTOPページにもあります様に以下の2つの地域・社会です。

      ・紀元前2世紀から紀元7世紀くらいの地中海世界・イラン世界・中華世界
      ・紀元7世紀から14世紀のビザンツ世界

     時代区分のきり方には皆様それぞれ異論があるかと思いますが、長期的におおむね安 定した社会、及び共有する社会観・世界観、時空間的な社会的同質性を軸に、 ここでは以下の観点から対象地域・時代を区切っています。  
 
 

    ( 1 ) 古代地中海世界

  古代地中海世界は遡れば紀元前7,8世紀からギリシャ人フェニキア人の進出で成立したも のと考えますが、明確に地中海世界に「一つの世界」との 認識を与えたのはローマであると考えています。ローマがカルタゴを破り、東方に進出を始めた紀元 前2世紀前半が 地中海世界が社会的に、 また、その世界の住民の空間意識的な統合に入ってゆく時代だと考えます。

  では古代地中海世界の終了をいつに置くかですが、 7世紀に置いた理由は やはり「社会 の変質」です。 古代地中海世界社会の一つの特質は 山や丘の麓にあり、山や丘から水が供給される都市生活にあると思います。 軍隊は都市とは離れた別の 場所に常駐し、 基本的に都市は要塞の役目を持たず、 そこでは浴場・劇場等の公共施設が普及し 古代ギリシャの学芸を「古典」として 議論や話題の種に していた時代です。
  このスタイルが完全に消滅するにあたっては ゲルマンの進出やキリスト教の普及は 一要因では あっても 決定的ではない様に考えます。 ゴート人治下のイタリアやスペインでは ローマの官僚システムにゴート人がついただけだったり、 ローマ人と ゴート人の結婚は ゴート人定住後 百年以上の長期にわたり禁じられていたりし、原住民はローマの法律と言語を用いてそのまま生活していたし、政治的支配 がそのまま社会や 「ローマ世界に住んでいる」という住民の意識や生活スタイルを変えてしまったわけでは無い様に思います。 ゲルマン人支配初期は「二重 支配」の時代であり それまでの地中海社会(もはや古代ローマ社会と言い換えてもよいと思いますが)は存続していたものと考えます。

  これらの観点から、地中海世界西方では ゲルマン人侵入後 除々に「地中海社会」は消滅 していったのであり、その明確な時期を指摘することは困難ですが、少なくとも5世紀ではなく、早くて6世紀以降に段階を経て 「古代地中海社会」 は消滅 に向かっていったものと考えます。 問題は 住んでいる住民の意識の変質や景観にある、とここでは考えるのです。

  では東部についてですが、バルカン半島の「古代地中海社会」の消滅はスラブ人の移住によ りもたらされた様です。 都市は放棄され、 進入したスラブ人はローマ人が放棄した都市には住まず、 近くに集落を作って住んでしまう。 最早住んでいる 住民の意識にも景観にも 「古代地中海社会」は存在していません。 バルカン半島については6世紀中には「古代地中海世界」は消滅したものと思います。

 最後に中近東とアフリカですが、これはイスラムの進出で終わります。 イスラムの進出は7 世紀なので、  これらを総合して古代地中海世界の終わりを7世紀に置いています。    

( 2 ) イラン世 界

   イラン世界の成立をアケメネス朝ペルシャに求めない理由は、アケメネス朝の時代が後世 の古典となった時代ではないと考えるからです。 近代以前のイラン人の主観的歴史観では、アケメネス朝は神話の時代に属し、アレクサンダー以降歴史時代に 入っています。 イラン人にとっての古典世界はササン朝だと思うのですが、実はササン朝に成立したとされる多くのものは、前代のパルティア時代に負ってい る、 あるいはパルティア時代に発生の起源を持っているものが多い様なのです。  ササン朝正当化の為にパルティアを否定することに努めたササン朝の政策 の為に イランの古典世界はササン朝時代に成立したとされる様になってしまいましたが、 実際にはパルティア時代からの社会的発展をササン朝は引き継ぎ、  (ササン朝はアケメネス朝の復興を口にしていた様ですが、実態は) 更に踏み固め、発展させたものだと考えられるのです。

  パルティアはイラン系であるにも関わらず、 最初ヘレニズム文化の担い手としてセレウコ ス朝と同じようにイラン人にはみなされましたが、 やがてイランに同化してゆくのです。  古代のイラン圏と呼べる地域・時代は非常に広範囲で、南ロシア から東トルキスタンの中国国境近くまで、紀元前千年紀前半には広がっていたものと考えられるので、 当ページでは 領域的には大イラン圏 が対象です。 

 時代的には イラン世界の中心であるイランに関しては、パルティアがイランの覇権を握った 紀元前2世紀中からイスラムによりササン朝が滅亡する時代までの、 パルティアとササン朝により おおむね統一され安定している時代・社会を一つの完結し た世界だと考えています。
  イラン以外のイラン圏(南ロシア、東西トルキスタン)は6世紀の突厥の進出以降トルコ人の時 代・地域となる為、終わりは 6世紀〜7世紀に置いています。 上限はパルティア-漢の交流が始まった時代以降でないと資料があまりない、ということもあ りますが、他の地域に準じて紀元前2世紀においています。


 
 ( 3 ) 中華世 界

  上限は漢民族の文物が大成された漢時代です。 「中華世界」が漢民族だけの世界を越えて ユニヴァーサルなものになる武帝以降の時代以降が本当の意味での 中華世界の成立だと思うのですが、一応秦の統一以降を対象とします。 下限をどこに置く のかは明確ではありません。 社会的変質を重視するなら、後漢末期から魏晋にかけての変質があったと思うし、政治的というのであれば、 西晋の滅亡が区切 りがよいと思えます。  また民族的には 五胡の進入による漢民族の変化も重要な要因だと思います。 あまり知識も無いのでそれほど強い根拠ではありませ んが、 取りあえず589年の陳の滅亡を下限と考えることにします。 理由は、政治的には禅譲・或いはクーデターによる王朝・政権交替は国家や社会の連続 性とはあまり関係が無いので、漢の成立から南朝陳までは一つの国家の連続と考えます。 当然地中海世界とイラン世界の時代区分も意識しています。

  また漢民族は4−5世紀の五胡進入後民族的に北方の影響を受けて言語・習俗的に変質して いると考えられ、その意味で南朝がどこまで 漢代社会の漢民族との同質性を保っているかはわかりませんので、ひょっとしたら5世紀くらいを境目においても いいのかも知れませんが、取りあえず陳滅亡までを古代中華世界の存続と考えます。 南朝でおおくの後漢書が書かれたことも「意識」として古代中華世界にコ ミットしていることをうかがわせてくれます。

 中国史の場合、建築遺構が残っていないのと、漢字の性質上あまり音韻の変化が追えない部分 がある様で、古代中華世界を特徴づける要素が地中海世界に比べて少ないのが残念です。 都市のプランニングなどと見ていると北魏洛陽城などは明らかに従来 の設計プランとは異なり、 北朝は既に「別の社会」である一つの検討要素として扱って良いのではないかと思うのですが、これらも含め南朝に関しては今後調 べて行こうと考えています(一番興味があるのは後漢時代なのですが。。。)。 (そもそも漢->魏への単なる政権交替と、前漢->後漢や元- >明の国家の滅亡とが同系列で「後漢の滅亡」、 「元滅亡」 などと扱われていることに納得できない)。

  色々ごちゃごちゃと書いて来ましたが、もう少し広い目で見れば、古代地中海、イラン、中 華世界はゲルマン、スラブ、イスラムとトルコ、北方民族系による復興した中国の時代の訪れで幕を下ろしたことになり、 それはおおむね6世紀から7世紀に かけてのことであった、 というだけのことかも知れません。
        

    ( 4 ) イ ンド世界

  インド世界は扱う予定は今のところありません。 あまり興味もないし。 政治的に分裂し ていることも多分興味を引かない理由かもしれませんが、 住んでいる住民が「インド」という統一した世界を意識している、そうした社会だったことがわかれ ば興味を持つかもしれませんが。。。。 
   むしろベトナムやインドシナの方がまだ興味が惹かれます。もしチャンパー遺跡にこの時代の遺 跡があるのなら、ちょっと行く気になるかも。
 
 

   ( 5 ) ビザ ンツ世界

  社会的に考えると古代地中海世界とビザンツ世界は明らかに断絶がある様に思えます。 政 治的にはローマ帝国の続きであり、 住んでいる住民も「ローマ人」と考えていたとしても、 生活習慣、都市の形態、言語、建築等様様の面で断絶があると考 えるからです。  イスラムの進出により、アナトリアの都市は古代地中海都市であることの停止を強要され、 都市は要塞化し、 或いは平地から背後の山や 丘へ退避し (古代のポリスから中世のカストロンへの移行)、 キリスト教時代になっても続いていた浴場や劇場も見られなくなり、 ギリシャ語が公用語と なり、 皇帝は「バシリウス」というギリシャ語の呼称を持つ様になります。
  バルカン半島はペロポネソス半島にまでスラブ人が進出し、イスラム勢力はアナトリア深く進入 し、 7世紀後半帝国は極度の政治的分裂に直面し、経済的政治的に大きく変換したこの時期を 井上浩一氏は

       「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝 国は滅び、半独立政権のテマが各地に成立した。 そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する」 (新潮社世 界の歴史11「ビザンツとスラブ」 P60)       
 
と言ってます。 ビザンツ世界の終了を15世紀でなく14世紀とTOPページに書いたのはあまり意 味が無く、帝国の滅亡は15世紀だけど、 最早15世紀は「オスマン世界」の時代だと思ったから。 本当はセツジュークと十字軍の到来(12世紀)以降は  「ビザンツ世界」 と呼べるものは薄れ、或いは後退し、ハンガリーや西方のベネチアなどの勢力、トルコの台頭によるあたらしい時代-世界に移行している 様にも思えるのだが、 明確な根拠が見出せないので取りあえず14世紀末までと考えています。
 

   なぜ 漢とローマ(ついでにパルティアも)は同じ時期に出現したのか、 という 偶然 にしては出来すぎのような現象への問いがあります。  同時期に勃興し、「世界」を統一した唐とイスラムにも 同じことが言えるかもしれませんが、   エーゲ文明と商・周までに遡る地中海世界と中華世界の同時的発展の極限の帰結である漢とローマに対する問いの前には、唐とイスラムは 前作を凌駕しえな かった続編に過ぎないとさえ思えるのです。 
 
   
 


 
 
 
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