2003/12 created 2018/Aug/ last updated

(1)ローマ帝国の言語状況

   多様な地域、民族を含んでいたローマ帝国では、多様な言葉が用いられていました。 一般に各地方では、地方民の日 常生活語にはその民族の言葉 が用いられ、支配階級の言語は、地中海世界の西半分ではラテン語、東半分ではギリシャ語が公用語だったようです。なので、ブリアニ ア、イベリア、ガリアで は日常語にはケルト語が利用されていました。ところが4、5世紀になると地方民の日常生活語にもラテン語が浸透し、それにともない地中海世界も  「ローマニア」とい う名称で認識されるようになっていったそうです。しかし5世紀末にゲルマン人支配下のローマニアで話される言葉はもはやラテン語ではないと明 確に認識されることに なり、その言葉はローマンス語(lingua romanica ローマ風の言葉)と呼ばれるようになったとされています。ローマンス語は、それぞれ地域毎にフランス語、イタリア語、スペイン語などに 変化していきました。ローマ帝国時代帝国で話されていた諸言語、及びラテン語 からフランス語への進 化については詳細に解説したサ イトが あります。

 ラテン語は 原始ラテン語、古代ラテン語、古典ラテン語、俗ラテン語、教会ラテン語、ロマンス語、などに分類できるようです。

 1)原始ラテン語

 印欧語から分化、ラテン語の特徴をもちはじめた時期のラテン語を示す。実際には文献が不足しているため解明さ れているわけではなく、印欧語と古典ラテン語の中間にあると想定される言葉。現存する言葉は前600年頃のギリシャ文字で書かれた留 金とのこと。
 2)古代ラテン語
前240年-前81年までのラテン語。ローマ最初の詩人、リーヴィウス・アンドロニークスなど
 3)古典ラテン語
   前81-後200年頃のラテン語。前後2期にわかれ、前期を黄金期(前81-後14)、後期を白銀期(後14-200)と呼ぶ。
古典ラテン語とは キケロとカエサルの著作で利用されたラテン語であると考えてよい。
 4)俗ラテン語
 キケロやカエサルが著作において利用した古典ラテン語とは文語体であり、当時日常会話で利用されていたラテン 語とは発音が異 なっている。キケロやカエサルも日常会話ではこちらの言葉を利用していた。ようは文章はNHKの標準語で書くが、会話は大阪弁、とい うことを考えるとイ メージしやすいと思います。ポンペイの遺跡などにある落書きや木版にかかれた手紙などから解明されているようです。
 5)教会ラテン語
 200年-5世紀頃。ヒエロニムスやアウグスティヌスなど、キリスト教教会関係者の著作がこの時期から出現 し、それらの著作で利用されたラテン語で、俗ラテン語の要素がかなり浸透しているものらしい。  
 6)ロマンス語
 ローマ人の俗ラテン語からロマンス語への変化は数世紀かかったとされています。イベリア半島においては6,7 世紀にかけてロマンス語が成立したとされているようです。母音体系が変化したのはローマ時代最後の200年、子音体系はローマ崩壊後 になってからのようです。


 ラテン語が消滅した時期とは一般民衆が俗ラテン語さえ理解できなくなった時を指標としているようです。 それは813年のトゥール 公会議 のこととされています。教会が、民衆の理解できる言葉、lingua romana rustica「田舎のローマ風言語」で話すように指示した事件です。この時までにラテン語は学習しなければわからなくなっていたと考えられます。する と大体6,7世紀にかけてロマンス語は成立し、反面ラテン語は消滅していったと考えられます。各地の俗ラテン語で残された文章を比べ てみても、5世紀くら いまではまだ共通の要素が多く見られていたようです。しかし、7世紀以降は後の各ロマンス諸語(古フランス語、古イベリア諸語、古イタリア語等)を特徴づ ける要素が文献にあらわれてく るそうです。これらの ことから、およそ600年頃までラテン語はだいたい共通していたようで、それ以後、地域ごとに分化して互いに意思疎通ができなくなっ たと思われます。日常 会話としてのラテン語は消滅しましたが、文語としてのラテン語は カール大帝下のカロリング-ルネッサンスにて復興され、中世ラテン 語標準語として整備・ 確立されたそうです。

 それでは帝国の東方 ギリシャ語圏ではどのようになっていったのでしょうか?

 コンスタンティノープル市民や宮廷の標準語の変化についてはまだ調べてはいないのですが、コンスタンティヌス帝がビザンティウム に遷都して以来、宮廷人や元老院議員などが移住し、コンスタンティノープルの行政公用語はラテン語となりました。これが最終的に明確 にギリシャ語に変わった線 を引くと すれば、ヘラクリウスの時代に置く事になると思います。この皇帝の時代に 皇帝の称号にギリシャ語のバシレウスが利用されるようにな りました。 なお、碑文から知られるところでは、シチリア島ではギリシア語が属州会議の公用語だった可能性があるそうです(大清水裕『ディオクレティアヌス時代のロー マ帝国』2012年、p94-95)。
 
 なお、公用語としてのラテン語の帝国各地への浸透度については、出土しているラテン語碑文の分布が参考になりそうです。ローマ帝国 各地のラテン語碑文の密度分布について、こちらの記事(古代ローマ・ラテン 語碑文の分布と年代別増減グラフ)にまとめてみました。ユスティニアヌス時代は支配層の公用語はラテン語で、ユスティニ アヌス法典の法律の中には、タイトルがラテン語・本文はギリシア語で発布されている章があります。これは帝国のギリシア語圏へ向けた 条文と考えられるそうです。公用語のラテン語・ギリシア語の使用圏は以下の地図のものだと、出土碑文などから推定されているそうです (以下の地図は、翻訳サイト”Verbix Verb Conjugator”のこちらのページか らの引用です。現在のブルガリアの北西部がラテン語圏であることがわかります。イタリア半島南端とシチリア島の大半がギリシア語圏で ある点も重要です。



 なお、西方のラテン語公用語圏は、現在のロマンス諸語の研究(現在の学問的に文法を分類すると)か ら、東ロマニア系(東ロマンス系)語と、西ロマニア系(西ロマンス系)語にわかれていると推測されているようです(以下の画像は、英 語版Wikipediaのロマンス諸 語の記事から引用したものです)。東西ロマンス語は、北イタリアの都市リミニ・ラ・スペツィア間を結ぶラ・ スペツィア=リミニ線を境に分かれています。

 


(2)各地域の言葉

 ローマ帝国が支配した領域ではもともと以下のような言葉が話されていました。これらの言語はローマの支配化において次第にラテン 語やギリシア語にとって変わられるものもあれば、現代に至るまで残る実際に社会でどのように用いられていたのか についてまとめてみました。

1.バルカン半島南部、小アジア、シチリア島 ギリシャ語
2.小アジア
3.シリア     シリア語
4.パレスチナ  ヘブライ語
5.アラビア   アラム語
6. エジプト  .デモーティック(民衆語。前7世紀-後4世紀)と.コプト語(前4世紀-後14世紀)が使われていた。コプト語 は14世紀から現在までコプト正教会語(ギリシャ文字を改造した文字を使う)として残っている。 
7.北アフリカ  ベルベル語
8.イベリア     ケルト-イベリア語
9.ガリア    ケルト系ガリア語

 ガリアでは 一般民衆の日常語はケルト系のガリア語がそのまま利用されていたらしい。ラテン語が日常語として 浸透をはじ めるのは実は5世紀になってからのことで、シドニウス=アポリナリスなどのキリスト教司教達の布教活動に依存するところが大きいら しい。
10.アルプス地方 レティア語
11.北イタリア   リグリア語
12.イタリア半島
          エトルリア語
          ウンブリア語
          ラテン語
          オスク語
          メッサビア語
          シケル語
13.北東イタリア ヴェネト語
14.ダルマティア イリリア語
15.トラキア    トラキア語
16.ダキア     ダキア語


属州における地方言語と公用語が日常生活における利用状況については、以下の論考が有用です。いずれも、豊田浩志編『神は細部に宿り給う −上智大学西洋古代史の20年-』(南窓社/2008年)所収。

第4章 ラ・グローフザンクの陶工文書―ラテン語とガリア語の接触について 志内一興
第5章 テプテュニスのグラフェイオン―属州エジプト農村部における文書行政の一断面 高橋亮介

前者では、ガリア語の碑文はギリシア文字やラテン文字で表記された断片的なものが多数残されていると記載されているが、具体的な数には言 及がない。ラテン語と混在されたラテン文字で表記された断片的なガリア語から、当時基本的に文字を利用する者はラテン語であり、ラテン語 の文章中にガリア語の単語が挟まれる(現代日本語のポップ音楽に英語が挿入されるようなもの)、非支配層の一般人の日常生活用語は基本的 にガリア語であるが、一方ローマ帝国側も、組織的にラテン語化政策を進めていたわけではない点が論証されている。3世紀の法律家ウルピア ヌスは、以下のように証言しているとのこと(『ラ・グローフザンクの陶工文書』p66)。

 「信託寄贈は、いかなる言語によっても行なうことができる。ラテン語やギリシア語のみならず、ポエニ(カルタゴ)語やガリア語、また他 のどんな民のことばであっても」

しかしながら当時の非支配層の言語の碑文やパピルス文書などの現存数は、ラテン語・ギリシア語の残存数に比べると微量といえる程少ない。 出土刻文に記載されたガリア語の最後のものは4世紀のもので、それ以降(5-6世紀)は文献史料に「ガリア語が利用されている」との証言 からガリア語が日常語としてラテン語とは区別されて残っていたことが知られるとのこと。7−8世紀にはガリア社会全体でロマンス語化が浸 透し、813年に田舎のローマ風言語と形容され、842年の文書で史料として古フランス語が登場する、ということのようです(5−8世紀 の約500年間ガリアでの出土文字史料が無いため、この期間のガリア語から古フランス風ロマンス語への変化の具体的様相は不明ということ らしい)

後者の論説では、エジプトの公証人(現代でいう司法書士兼代書人)の業務の出土パピルス文書の分析で、ほぼ全部ギリシア語で一部のみエジ プト現地語で書かれていることが判明する。当時の一般人は日常語で契約書等を作ることは殆どなく、筆記文字=ギリシア語であった様子が見 て取れる。

□参考文献
ロマンス語入門1982/12、レベッカ・ポズナー著、 風間 喜代三訳、大修館書店
スペインの言語,1996/8、 伊藤 太吾著、同朋舎出版
豊田浩志編『神は細部に宿り給 う −上智大学西洋古代史の20年-』(南窓社/2008年)

更新履歴 2016/Sep/ updated シリチアのギリシア語利用状況について
更新履歴 2016/Oct/ lupdated  ガリア語とエジプトにおける日常語と公用語関連追加
更新履歴 2018/Aug last updated 参考文献追加

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