2021/Oct/31 created

 19世紀のローマ史家ベロッホ/20世紀中盤の歴史人口史家ラッセル/20世紀後半 の歴史人口史家マッケベディー/20世紀末のローマ史家フライの
帝政期ローマ時代のシリアの人口統計の内容


古代ローマ時代のシリアの人口研究について調べてみました。

(1)19世紀のローマ史家ベロッホの帝政期ローマ時代のシリアの人口統計の内容
(2)20世紀 中盤の人口史家ラッセルの帝 政期ローマ時代のシリアの人口統計の内容
(3)20 世紀末のローマ史家フライの帝政期ローマ時代のシリアの人口統計の 内容 
(4)20世紀後半の歴史人口史家マッケベディー帝政期ローマ時代のシリアの人口統計の内容
(5)サマリ

(1)19世紀のローマ史家ベロッホの帝政期ローマ時代のシリアの人口統計の内容


イタリアで活躍したドイツ人ローマ史家Karl Julius Beloch(1854-1929年)の古代ギリシア・ローマ人口推計本『Die Bevölkerung der griechisch-römischen Welt』(1886年)のシリ アの章(p242からp250)を読みました。この本は英訳が出ていないため、ドイツ語版をgoogle翻訳にかけて読みま した。ベロッホという人は、当時のドイツにおけるローマ研究の主流派であるモムゼンと折り合いが悪くイタリアに渡った人で す。1889年にエドアルド・マイヤーが辞職したポーランドのブロツワフ大学の後任になることを拒否され、後任の椅子はモム ゼンの弟子ウルリヒ・ウィックマンに与えられドイツ東北部のグライフスヴァルトでは同じくモムゼンの弟子オットー・ゼークに 職を取られたそうです。結果的にイタリアにドイツで確立した近代歴史学の一部を伝えたことになったそうです。 Wikipediaの記事も、英語版にはあまり情報がなく、イ タリア語の記事が参考になります。

以下は概要です。

@p242-3まず、シリア諸地方の砂漠以外の部分の面積を収集
Ap244-5 続いて古代の数値を列挙
Bp245-248フラヴィウス・ヨセフスの記録を元にパレスチナの人口密度と人口を算出
Cヨセフスの出典
Dp248 パレスチナの全体平均人口密度をシリア全体に適用する
Ep249-50 最後にプルタルコスのポンペイウスの記事でキプロス島などシリア周辺部を検討


ベロッホの方法は、パレスチナの人口と人口密度を算出し、それをシリア全域に適用する、という方法です。よって冒 頭部でシリア各地の面積を整理するところから開始しています。

@p242-3まず、シリア諸地方の砂漠以外の部分の面積を収集

 1)シリア全t内
  上シリアとコマンゲネ地方   5万9500平方キロ
  コイレシリアとフェニキア地方 2万100平方キロ
  パレスチナとバタナエア    2万9600平方キロ
  合計             10万9200平方キロ

上のシリア全体のうち、パレスチナとバタナエア(シリア南部)を更に細分化したのが下の2)の諸地方。(バタナエアはペ ラエアに含まれると思われるが著者の説明はない) 

 2)34度線(ベイルート付近)より南部(南レバノン、イスラエル、ヨルダン)
 ガリラヤ(現イスラエル北部)     3200平方キロ
 サマリア(パレスチナ自治政府領)   1800平方キロ
 ユダヤ(現イスラエル南部)      9600平方キロ
 ペラエア(死海北東、ヨルダン首都周辺)15000平方キロ
 合計                 2万9600平方キロ 

         

A続いて古代の数値を列挙
 ダビデが130万の兵士を動員したとか、シャルマネセル二世(ベロッホの時代は2世で現在は3世)は854年に4万の シリア連合軍を破ったとか、サルゴンが722年に27280人の捕虜を連れ帰った、センナケリブは703年に20万人の アラム人を捕虜とした、701年にはユダヤから20万人を連れ帰った。これらの数値を見ると、シリアには数百万人いたこ とが想定される、とする。セレウコス朝時代のアンティオキアには30万人いたと思われ、紀元6/7年のアパメア地域には 11万7000人が住んでいて、ヘレニズム時代、シリアは小アジアよりも多くの奴隷を西方に輸出し、ユダヤ人はキプロス やキュレネ、エジプトに多数移民した。このように、人口を外部に輸出するほど人口の多い地域だった、とベロッホはいいた いようである。

Bフラヴィウス・ヨセフスの記録を元にパレスチナの人口密度と人口を算出

 ヨセフスの記録がもっとも有用だとして、以下主にヨセフスの記録に現れる数値を検討してゆく(一部ディオドロスなどの 史料の数値も登場する)。

 ヨセフスはネロ帝の時代にエル サレムの過越祭で256,500匹の犠牲に捧げられ、一匹あたり10-20人の人が儀式に携わった、として います。平均を取って一匹あたり15人とすると、384万7500人が過越祭 に参加したことになる。最低の一匹あたり10人としても250万人となる。更にヨセフスは、ガリラヤでのネロに対す る反乱に10万人が参加したとし、男性の半分は農耕をしなくてはならず、武装可能な人の全員が反乱に参加したわけで はないとし、ここからベロッホは、40万という数字を出しています。ここにはちゃんとした記載はありませんが、反乱 参加10万で、半分が参加したとすると男性20万、女性も含めた全人口は倍の40万となる、という理屈だと思われま す。結果1平方キロ あたり125人いて、(ガリラヤは3200平方キロなので)、40万人の人口があった、ガリラヤは、パレスチナでもっと も人口密度が高い肥沃な地方なので、このような高い数値もありえる、としています。

 つまり、反乱 兵が人口の1/4だと仮定し、40万人としているの ではないかと推測されます。しかし次のサマリアでは、武器を使える人の1/3が反乱に参加したと仮定しているため、ガリラ ヤでの反乱も同様に1/3だとすると、10万*3*4=120万人となり、80万人の差が出てしまい、更にこれを基 準にバタナエアの人口を算出しているので他の数値にも影響することになります。なお、ガリラヤの事例では、武装可能 な人々=全男性とし、次のサマリアの事例では、武器を使える全ての人々=農耕者を除く男性=全 男性の1/2 と、武装云々という似た用語なのに、実態が異なっている(としか思えない)ため、注意が 必要です(私の読解力が低いのかも知れませんが、ベロッホの文章自体が明瞭ではないことも確かです)。

 
バタナエア地方 はこれよりも地力が劣るため、東ヨルダン(ペラエアのあたりのことだと思われる)の人口は50万人以下 としています(ベロッホは記載していないが、バタナエアの面積がガリラヤの約4.68倍、人口密度はガ リラヤの1/4と仮定(根拠不明)、として50万以下、としていると思われる)。 ネロとウェスパシア ヌスに対する大反乱では、サマリアの反乱兵は11,600人以下であり、それが武器を使える すべての人々(とりあえず成人男性のうちの半分は農耕をするとして、成人男性の1/2だと考える)の3分の 1だと仮定し、(記載がないが、更に全人口が成人男性の人口の4倍だと仮定す る と)、(11600*3*4=139 200人となり)人口は約14万人、1平方キロメートルで約80人となる、としている(サマリアの反 乱兵が武器を使える人 (成人男性の1/3)とする根拠は示されていないし成人男性 (武器を使える人々)が全人口の1/4となる。という部分の記載がなければ理由も示されて いない(上 記ガリラヤの例に準じると、武器を使える人々は男性の1/2、残りは農耕となっているため、ここでもそれに 準拠していると思われるが)。
 サマリアとユダヤが同じ人口密度だと仮定すると、サマリアや1800平方キロ、ユダヤは 9600平方キロで5.33倍なので、768000人になる、としています(検算すると、サマリアの14万 人*5.33=74万6666となり、76万8000とはならない。が近い数値なので取り合えずOKとす る)。なお、タキトゥスもエルサレム包囲戦で60万人がいたとし、ヨセフスはその倍だとしているそのこと。

 最後に、エルサレム市管轄地域についての人口が検討される。エルサレムの面積は112ヘクタール(約10 q四方)、アブデラのヘカタイオスによると(ヨセフス『アピオーンへの反論』1-22)プトレマイオス時代 に12万、ティトゥスの征服で97000人が捕虜となったとし、ハドリアヌス帝時代の蜂起では58万人が亡 くなったとし(ディオ・カッシウス 69-14)、ネロ帝治下のパレスチナ人口は最大でも200万を越えな いだろう、としています。

 ベロッホが全体のサマリを記載していないので、以下に表にまとめると、

 ガリラヤ(現イス ラエル北部)     3200平方キロ / 40万人
 サマリア(パレスチナ自治政府領)   1800平方キロ / 14万人
 ユダヤ(現イスラエル南部)      9600平方キロ / 74万人
 ペラエア(死海北東、ヨルダン首都周辺)15000平方キロ / 50万人
 合計                 2万9600平方キロ /188万人 / 一平方キロあたり 63.5人(ベロッホは67人と記載している)。

ということになります。ちなみに、ガリラヤの人口算定基準をサマリアに合わせると、ガリラヤ人口は120 万、ユダヤは74*3=222万人となり、

 ガリラヤ 120、サマリア14、ユダヤ222、ペラエア100万 ⇒合計456万人となり、このパレス チナの人口は、過越祭の犠牲獣一匹あたり18人が参加した場合の4617000人に近い値となります。こう なると、サマリアの反乱参加者11600人は、男性の半数が参加したとして、サマリア人口は、 11600*2*2=46400人とした方が定義に一貫性があります。その場合サマリアの人口密度は 25/1キロ平方キロとなり、パレスチナの他地域より大幅に低くなってしまうので、人口密度を基準に人口を 検討しているベロッホとしては、採用しがたい、ということなのかも知れません。しかし、ありえそうな 人口密度を前提に、「男性人口のN分の一が反乱に参加していた」というような論法は、結局は恣 意的としか言いようがない気がします。

Cヨセフスの出典は以下の通り
 ユダヤ戦記 3-9-1,6-9-3,2-20-6&8, 3-3-3&4,4-8-2,3-7-32,自伝45
 タキトゥス 5-13(Osos(誰) 7-9にもあるらしい,ディオドロス 19-94、
 

Dパレスチナの全体平均人口密度をシリア全体に適用する

  全シリアの面積は10万9200平方キロ、パレスチナは2万9600平方キロな ので、3.689倍、188万人*3.689= 693.5万人となり、ネロ帝時代のシリア人口は約700万、としています。ここまでがベロッホの結論です。これに、私の方でベロッホが前提としている仮 定を変更した場合の数値も出してみますと、パレスチナ人口を456万人とした場合は、 456*3.689=1682万人が全シリア人口となり、明らかに過大です。過越祭での犠牲獣一匹あたり15人 で算出した場合の385万人という数値の場合、385*3.689=1420万人となります。犠牲獣一匹あたり 10人とすると、256万5000人、シリア全体では256.5*3.689=946万人となります。

E最後にプリニウスが挙げるポンペイウスの顕彰碑の記事でキプロス島などシリア周辺部を検討

この節では、シリア人口700万としているのにも関わらず、p507のサマリ表ではなぜか600万人となってい ます。この600万人という数値が後続研究に引用されていきます。


(2)20世 紀中盤の人口史家ラッセルの帝 政期ローマ時代のシリアの人口統計の内容

ベロッホに 次いで歴史人口学でよく登場するのが Josiah Cox
Russell(1900-1996) (著 作一覧はこちら)の1958年の著作『Late Ancient and Medieval Population』 です。タイトルの通り、古代末期から中世の西欧、および一時期のビザンツ とイスラム帝国の人口推計を行っていてよく引用されている本です。一部し か読んでませんが、その範囲でも大した推計をしているわけではありませ ん。こういう本がいつまでも引用され続けるのはまずいのではないかと思い ます。今回シリアの部分を参照しましたが、やはりイマイチです。シリアは p48末尾から49冒頭とp82-3頁の約3/4頁記載がありますが、内 容がほとんどありません。冒頭、シリアの主要11都市の推定人口と市域面 積一覧表(出典論文付き:史料出典は無し)が掲載されていますが、この表 とシリア人口の推計には何の関連もありません(この表の数値自体は参考に なる)。

@p48-9 紀元6/7年のアパメアの117000人について1934年のF.Cumontの論文「The population of Syria」JRS24-187-190を引いて、これは男女子供を含むとし、想定されるイタリアで想定される人口600万の4/5を下回る、この数値の 1/3というのもありえない、としています。なんでイタリアの4/5なの か不明です。

Ap82-3 しかし、この600万という数字がp82に登場し、属州州都アンティオキア9万人という数値は600万の中心であるべきだった、との記載が登場しています (こちらの600万人はベロッホが出典だと思われる)。その次の行では、 キリキアとイサウリアも含めて440万という数値がいきなり登場し(イタ リア半島600万の4/5なら480万。それ以下なので440としたもの か?とにかく説明不足)、アパメアが規模的にシリアの第二の都市だとする と430万の人口は第二の都市にふさわしい、としています(恐らくアパメ アの11万7000人を440万から差し引いて430万としているのだと 思われるのですが、そういう説明はありません)。その後リバニウス(15 万)、クュリュソストモス(20万)、アウソニウス(コンスタンティノー プルやカルタゴ以下でアレキサンドリアやTrevesよりも上)などを挙 げて、「やっぱりアンティオキアは9万人程度」、として終わっています。 ラッセル本は、シリアの人口についてはほとんど何もわからない、というこ とがわかりました。

(3)20世 紀末のローマ史家フライの帝政期ローマ時代のシリアの人口 統計の内容 

ローマ帝国の人口推計ではよく登場するブ ルース・フライ(Bruce W Frier/1943-)の論説が『The Cambridge ancient history. The High Empire 70-192』(2000年)p812(A.D.14年)(430万)とp814(A.D.164年)(480万)に登場しています。この論説は、古代 ローマの人口学の各種アプローチ方法(寿命とか年金表とか)についての解説に重心があり、属州各地の推計を行っているわけで はありません。過去の研究に若干修正を加えている程度です。14年と164年の属州人口表は、コリン・マッケベディーの研究 (1978年)が出典であり、シリアとアナトリア、エジプト、イタリアについては若マッケベディーよりも高めの数値を採用し ている、との注記がある程度です。彼自身はローマ法の研究者なので人口推計の根拠となる史料解析に興味はあっても、推計自体 には関心は低いようです。

(4)20世紀後半の歴史人口史家マッケベディー帝政期ローマ時代のシリアの 人口統計の内容

というわけでコリン・マッケベディーの『Atlas of wprld population History』を参照することになるわけですが、この本は、以前参照して記事を書いているのですが、当時フライの400万という数値をそのまま使ってし まっていて、今再度確認したところ、シリアはAD1年で225万、パレスチナは80万人となっていました。つまりシ リア+パレスチナで305万人にしかなりません。フライが上記論説で、「より高い値とした」というのは、マッケベ ディーの305万人を430万人に増やしたことになります。フライは、増加の理由や、数値を125万人とした理由を 書いていません。ベロッホの値700万の数値と比較してもう少し増やそうと考えたのでしょうか?数量経済史は数値の 論理性が命なのだから、出典とロジックをきちんと書かないのはダメでしょう。

 p140によると、6/7年のアパメアの数値を基準としていることがわかります。アパメア地区が11.7万人で、 シリアが35-40地区に分割されていたため、シリア全体では、4-500万人となる。しかしアパメアは第二の都市 を含む人口稠密な地域なので、400万以下だろう、として、305万人という値となったようです。なぜそのような値 となったのかの説明はありません。「ラッセルは高い方の数値を採用し、我々は低い方の数値を採用した」とあり、ここ でマッケベディーがいっているラッセルの高い方の値というのは、ラッセルのシリアのパートで登場した440万人とい う数字ではないかと思われます。この数値がフライにも採用された可能性があります。

マッケベディーが低い数値を採用した根拠は、プリニウスに登場するポンペイウスの東方征服の顕彰碑の内容からシリア はパレスチナ含んで3-400万となる、という点にあるとのことです。

以下、アパメアとプリニウスの史料出典です。以前記載した記事「古代ローマ帝国の人口推計値の算定根拠(5) エジプト・シリア」(2014/Jun/07作成)は以下に移行しました。

---------------------------------------------------------------------------------
【1】 シリア・アナトリア(小アジア)

  コリン・マックエベディー(Colin McEvedy/1930-2005年)とリチャード・ジョーンズ(Richard Jones)の著作『Atlas of World Population History(1978年)』は、世界各国毎に、それぞれ 2-3頁で人口推計 をまとめた書籍です。それぞれの国の2−3頁のうち、だいたい2/3くらいが人口通史で、1/3くらいで史料と資料について記載 しています。この書籍は、それ程詳細に人口推計の史料とロジックについて記載されていないわりには、その後の各種研 究や書籍によ く引用されている書籍です。本書のシリア共和国の欄(p140)の「一次史料」の節に、古代のシリアの人口推計の根拠が2つ記載 されています。


1.アパメア地区の人口に関する碑文

 1934年に出版されたラテン碑文集成 CIL,iii 6687, Journal of Roman studies 24(CIL=The Corpus Inscriptionum Latinarum) = ILS(Inscriptiones Latinae Selectae) 2683) のp187ページに、紀元6年 のアパメア (セレウコス朝の四大都市,現ホムスの北西55kmに遺跡が残る)地区の人口が11万7000人とされていて、当時のシリアは、 35−40の地区(この値の根拠は不明)に分かれていたため、400万から500万人という値が求められ、当時アパ メアは最大級 の都市であったことを考慮すると、概ね400万人程度と考えられる。

2.ミネルヴァ神殿のポンペイウス業績顕彰碑文

 プリニウスの博物誌に掲載されている、ローマのミネルヴァ神殿の碑文に記載された、ポンペイウスが東方で征服した 人口から、 現シリアとパレスチナ・ヨルダン・レバノンには3,400万人がいたと推定される(詳細はp136参照)。

1.のアパメアの碑文は、こちらのpdf(Dating the two Censuses of P.Sulpicius Quirinius)にラテン語と 英訳の全文 (p4)が掲載されています。

【Q[uintus] Aemilius Secundus s[on] of Q[uintus],of the tribe Palatina, who served in the camps of the divine Aug[ustus] under P.Sulpicius Quirinius, legate of Caesar in Syria , decorated with honorary distinctions , prefect of the 1st cohort Aug[usta], prefect of the cohort II Classica. Besides, by order of Quirinius I made the census in Apamea of citizens male 117 thousand .

 Besides, sent on mission by Quirinius, against the Itureans, on Mount Lebanon I took their citadel.  And prior military service, (I was) Prefect of the workers, detached by two co[nsul]s at the‘aerarium [The State Treasury]’. And in the colony, quaestor ,aedile twice, duumvir twice, pontiff.

 Here were deposited Q[uintus] Aemilius Secundus s[on]o fQ[uintus],of the tribe Pal[atina], (my) s[on] and Aemilia Chia(my)freed.This m[onument]  is excluded from the inh[eritance]】

 面倒なので邦訳は記載しませんが、人口に言及している箇所

 Apamea of citizens male 117 thousand

のラテン語は、Apamenae ciuitatis milium homin cIumum cxvii となっています。これまでの議論でも何度もでてきた話ですが、hominを peopleと訳すか、man と訳すかで、男性だけの人口なの か、女性も含むのか、という点の議論もありそうな気がします※が、取り合えず11万7千人の根拠はわかりました。 35−40の地区 があった、との根拠もそのうち探す予定です。なお、プトレマイオス『地理学』では、シリアを20地区、パレスチナを7地区、メソ ポタミア(エデッサなどを含む上流部分はローマ領土)を13区画としていて、合計40区画となる。メソポタミアの区 画の一部はパ ルティア領なので、それを差し引くと、35-40区画という数字に符合する。プリニウスとストラボンの記載もそのうち確認する予 定ですが、もしかしたら、35-40区画の根拠はプトレマイオス『地理学』かも知れません(ストラボンは、ざっと確 認したところ では、(見逃している部分に記載があるのかも知れませんが)通番749/750(下巻480)の、「テトラポリスの組織に応じて セレウキス地方が四総督州に分けられ、コイレ・シュリ ア地方もこれと同数の州に、メソポタミア地方は一州となった」(合計9の州となる)との記載以外、シリアの区画分けに関する記載 は見つけられませんでした。プリニウスでも全体的な区画分けに関する情報はないので、35-40区画という情報は、 プトレマイオ スか、或いはシリアのキリスト教作家などの情報かも知れません)。

※ラッセル本のp48註20で1934年のF.Cumont の論文「The population of Syria」JRS24-187-190にて女性と子供も含む、とされているそうです(が、こういうものもよく確認しておかないと、仮定で書いているとこ ろが結論として引用されていたりするので、正直真偽は定かではあ りませんが取り合えずここに記載しておきます)。

2.のプリニウス『博物誌』の記載は、プリニウス『博物誌』第七巻97節の、ポンペイウスが征服した東方領土の人口 に言及した箇 所とのことです。この97節は、古典原文サイトで有名なペルセウスサイトには、60節までしか掲載されておらず(こ こが60節の部分)、LOEB CLASSICAL LIBRARY の『博物誌』第二巻 のp568−569 頁にラテン語と英訳の記載がありました。以下は97-98節の英訳の引用です(LOEBの画面は読みに くいので、当 該部分だけ抜き出したサイトがこ ちらにあります(このサイトでは七巻26節からの引用となっていますが、誤りだと思われます)。

97)Subsequently he was dispatched to the whole of the seas and then to the far East, and he brought back titles without limit for his country, after the manner of those who conquer in the sacred contests―for these are not crowned with wreaths themselves but crown their native land. Consequently he bestowed these honors on the city in the shrine of Minerva that he was dedicating out of the proceeds of the spoils of war:

Gnaeus Pompeius Magnus, commander-in-chief, having completed a thirty years' war, routed, scattered, slain, or received the surrender of 12,183,000 people, sunk or taken 846 ships, received the capitulation of 1,538 towns and forts, subdued the lands from the Maeotians to the Red Sea, duly dedicates this offering vowed to Minerva.

98)This is his summary of his exploits in the East. But the announcement of the triumphal procession that he led on September 28 in the consulship of Marcus Piso and Marcus Messala was as follows:

After having rescued the seacoast from pirates and restored to the Roman people the command of the sea, he celebrated a triumph over Asia, Pontus, Armenia, Paphlagonia, Cappadocia, Cilicia, Syria, the Scythians, Jews and Albanians, Iberia, the Island of Crete, the Bastarnians, and, in addition to these, over King Mithridates and Tigranes.


 97節の斜体時の部分で、プリニウスは、ポンペイウスがローマのミネルヴァ神殿(恐らく前50年にポンペイウスが 建設した神 殿、現 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会)に業績を奉納した碑文の内容を紹介しています。この碑文で、 ポンペイウス は、30年間の東方戦勝を終了させ、マエオーティス人(Maeotians)の土地(アゾフ海北部沿岸地帯)から紅海までの地域 の1218万人を降伏させた、とあります。この地域が具体的にどこなのかをプリニウスが引用しているのが、98節の 斜体字部分 で、ここでは、ポンペイウス派のマルクス・ピーソー(Marcus Piso)と、マルクス・メッサラ(Marcus Messala)がコンスルに就任していた年(前61年)の9月28日のポンペイウスの勝利を市民に布 告する為の宣 伝文とのことで、ここで、ポンペイウスが征服した土地が列挙されています。曰く、アジア、ポントゥス、アルメニア、パフラゴニ ア、カッパドキア、キリキア、シリア、スキティア、ユダヤ、アルバニア、イベリア、クレタ、バスタリアン、及びミト ラダテスと ティグラネス王の支配下の領域、となっています(ポ ンペイウスが征服した領域の地図はこちらにあります)。

 コリン・マックエベディーは、シリアの項目で、プリニウス『博物誌』の上げる数値について、実のところ、細かい議 論はしておら ず、シリアが3−400万と推定される根拠は特に提示していません。彼が記載しているのは、トルコ共和国の欄で(p136)で、 アナトリアの人口は、プリニウス記載の1200万うち、7,800万を越ことはありそうになく、実際のところ100 万程度だったのではない か、というコメントだけです。

 一方、これまで何度も引用しているウォルター・シャイデル氏の
Roman population size: the logic of the debate(2007年7 月)」のp9に は、以下の一文があります。

 Kron defended the claim that Pompeius had conquered 12,183,000 people on the grounds that this figure resembled Ottoman census tallies of 12,045,791 for Asia Minor, Armenia and Syria down to Sinai in the 1870s.

 1870年代のオスマン帝国の人口において、ポンペイウスの征服した領土に相当する部分に、約1200万人が住ん でいる、とい う人口調査結果の話です。一応確認のため、ネットで全文が掲載されている、

TURKISH  AND OTTOMAN STUDIES - OTTOMAN POPULATION 1830-1914  -
 - Demographic and Social Characteristics by KEMAL H.KARPAT ,THE UNIVERSITY OF WISCONSIN PRESS 1985


という書籍(pdf)を参照したところ、1844−56年の数字としてp66に以下の表がありました。

Asiatic Turkey
Asia Minor               10,700,000
Syria, Mesopotamia, and Kurdistan     4,450,000
Arabia (Mecca, Medina, Ethiopia)         900.000
Total                   16,050,000

 紀元14年のローマ帝国の人口を約4500万と見積もったBruce Frier のアナトリアとシリアの推計値は、こ ちらの一覧表によると、以下の値となっていますから、アパメアとプリニウスと19世紀の値から、ローマ 時代の人口推 計を行なった可能性が高そうです。

Anatolia           820万人    
Greater Syria        430万人

 ここから推測されるローマ時代のアナトリアとシリアの人口推計の根拠とは、19世紀のオスマン帝国と、プリ ニウス記載の ポンペイウスの碑文の数値がだいたい近く、シリアの値は、アパメア碑文から推定される数値とほぼ19世紀の値がほぼ同じなの で、19世紀オスマン朝の人口割合に従って、プリニウス記載の数値をアナトリアとシリアに配分した、と いうも のです。

 フィールド調査の値とはまったく関係の無いところでシリアとアナトリアの人口が推定されてきたのではないか、と強 く推測されま す。

 もっとも、プリニウスの7巻97節ではマエオーティスから紅海まで、現在のクリミア半島から現トルコ共和国西部の 領域とシリア とユダヤ(現トルコ共和国東部とコーカサス、シリア、パレスチナ)を示してい るのに対して、98節はポンペ イウスが退治した海賊の領域についても言及し、小アジアを含めています。どうやら、1218万の数字に、小アジア半島を含めるかど うか、という議論の余地がありそうなのにも関わらず、ポンペイウス平定地を、98節に掲載されている地域名に従っ て、現トルコ共 和国全土の数字に適用してしまっている印象があります。コリン・マックエベディーがp136で記載している、「アナトリアの人口 は、プリニウス記載の1200万うち、7,800万を越ことはありそうになく、実際のところは100万程度だったの ではない か」というような意味の部分の「アナトリア」とは、現トルコ西部の地域だけを示し、残り6,700万を、小アジアとすると、Bruce Frier やシャイデルの提示している数字と一致します。マックエベディーはアナトリアがどこかを部分明確に記載していないのですが、本文(p133)で、アナトリ アの人口は600万、アルメニア高地100万と記載していますから、彼の考えは、プリニウスの記載するポンペイウス 征服地 1218万 - シリアの人口 (アパメア史料から算出した400万) =800万(現トルコ共和国領域内人口) = (アナトリア600万+アルメニア100万、ク リミア・コーカサスその他100万) という意味なのではないかと推測されます(ただし、クリミア・コーカサスにつ いてもマック エベディーは根拠を記載しておらず、ローマ時代は35万人と数値だけ記載しています)。

 ところで、フラウィウス・ヨセフスのどの著作かまでは確認していませんが、第一次ユダヤ戦争時のエルサレム包囲戦 (70年) で、110万人が死に9万7千人が捕虜・奴隷となった、との記載があるそうです(9万7千の数字はローマ帝国の奴隷人口の推計 の記事でご紹介したシャイデルの「The Roman slave supply(2007年5月)」にも登場しています)。110万という数字 を、エルサレ ム包囲戦に限らず、第一次ユダヤ戦争での総死者数と見なせば、コリン・マックエベディーが推計値としている、19世紀のパレスチ ナ・ヨルダンの値に近くなりますが、コリン・マックエベディーの著作ではヨセフスの数値には言及されていません。



 なお、プリニウス記載の数値は、実は一桁低いのではないか、と指摘している学者もいました。Mary Beard氏は、『Roman Triumph(2007年)』のp39(Google Bookでこのページは読めます)でRobert Nisbetという学者の1961年の著作のp172-180の記載に基づいて、「プルターク自身は計算していないが、プルタークの挙げている数字を合計 すると、12万1千人となる」とし、プリニウス記載の数値は、一桁多い誤りではないか、との指摘をしています。この 可能性がある とすると、ローマ時代のアナトリアとシリアの推定値は一気に確度が低くなってしまうのですが、手元の岩波文庫版のプルターク英雄 伝のポンペイウスの章でざっと東方征服に出てくる数値を拾ってみたところ、12万1000人にならなかったので、 Nisbet氏 と引いたMary Beard氏の指摘も、いまいちという気がしました。以下が東方征服の記述に出てくる数値です。

p160 32節 「歩兵密集部隊三万と騎兵二千を率いながら戦う気のないミトリダテース」
p164 34節 「四万人に達するアルバニアー人」、「これを攻撃して潰走させ、大多数を殺した」
p164 「イベリアー人は数もそれに劣らず一層勇敢で」、p165「9千人を殺し1万人以上を捕虜にした」
p165 再度アルバニアー人の討伐に向かい、「アバース河の辺に陣をしいている六万の歩兵と1万2千の騎兵を見掛 けた」

 これらの数値を合計すると、16万3千人となり、この時点で12万1千を越えてしまいます(ざっと見ただけなの で、更に他の数 値も記載されているかも知れません)。p160に登場するミトリダテースの兵士の数値と、その後のアルマニアー人・イベリアー人 の数値を重複するものと考えることもできますが、アルバニアー人は、ミトリダテースの後背地の討伐なので、ポントゥ ス王国のミト リダテースの軍隊は、アルバニア・イベリアとは別にいたと考えた方が自然です。更にポントゥス以外にポンペイウスの主敵はアルメ ニア王で、アルメニアの軍隊もいます。これらの人びとは、最終的にポンペイウスに征服された筈なので、 Mary/Nisbet氏 の、12万1千という指摘もいまいちという気がします。

(その後結局、図書館で邦訳を参照しました。以下雄山閣『プリニウスの博物誌』第一巻(1986年)所収の博物誌第 七巻97節の 引用です)

 「彼は、彼が戦利品の収益を捧げようとしていたミネルヴァの神殿において、これら栄誉をローマに捧げた。
  司令官グナエウス・ポンペイウス・マグヌスは、30年間の戦を終えて、1,218万3,000人の人間を敗走さ せ、蹴散ら し、殺害し、降伏を受け入れた。846隻の船を沈めまたは捕獲した。1,538の都市、要塞の降伏を受け入れ、マイオティア人 <アゾフ海>から紅海までの国々を征服し、いままさに誓った捧げものをミネルウァに奉る」(p315)


(5)サマリ

おおむね以下のことがわかりました。

ベロッホ(1886年)はヨセフスの史料を主に用いて、主に反乱軍の兵士数からパレスチナの人口を推計。面積と人口 から人口密度を算出し、この人口密度をシリア全体の面積に適応し、700万という数値を出しています(p507の表 では600万となっている)。

ラッセルは特に根拠なく440万としている。フライもこれを継承している。マッケベディーは、アパメア碑文の数値と ポンペイウス顕彰碑文の内容から3-400万の人口を推定するが、アパメアは人口稠密地帯であり、ここを他の区域の 標準とすることはできないため、数値を引き下 げ305万人としている。

主要史料は、ヨセフス「ユダヤ戦記」、アパメア碑文、プリニウス博物誌 の三種類であることがわかりました。が、結 局のところ、19世紀オスマン朝の近代センサスの結果が、彼ら研究者の数値に一番影響しているように見えました。つ まり、彼らの推計は、ある程度のオーダーまでは絞り込めても、実際のところ+ー50%程度かそれ以上の幅ができるわ けで(ベロッホの推計も仮定で決め打ちした変数をすこしいじれば600-1682万まで大きく幅がでる。マッケベ ディーの推計も、アパメア碑文の文言を人と解すか市民権を持つ成人男性と解すかで変わって来る)、適当な数値に減ら すために理屈をひねり出している(ただしそれ自体は意味のないことではない)、という印象を受けました。

とはいえ異なったいくつかの方向から、400万程度、という共通する値がでてくれば、そのあたりが妥当そうだといえ なくもないので、シリアは3-400万くらいの可能性が高そうだ、ということになるのではないかと思います。

ビザンツ歴史映画一覧に戻る