キプチャク汗国(ジョチ・ウルス/金帳汗国)の都サライの遺跡


  モンゴル帝国構成国の一つ、キプチャク汗国の都サライをCGで再現したロシアのドキュメンタリー番組の映像を見つけました。サライって、 天幕の集まりを柵で囲っているだけの町かと思っていたら、ちゃんとした町だったんですね。遺跡の映像も見れて嬉しい限り。下はア フトゥバ川沿い巨大な土手となった遺跡の廃墟。





 左下は日干しレンガらしき遺構が映っています。テロップによると、右下の左側が、現在のアストラハン州ハラバリンスキー地区にあるセリテルノエ村。右側右下がサライ遺跡で、総面積 2061.5ヘクタールなので大凡5キロ四方の広さと字幕が出ています。が、Google Mapで調べたら、セリテルニノエ村は47.175216 N ,47.454879 Eの場所にあり、左上の字幕の付近は畑で、右下の字幕付近がセリテルニノエ村だと判明。しかも、画像の右側が北ということも判明。Google Mapでは村の付近は縮尺50m表示までの解像度で拡大できる程詳細な画像なのに、遺跡の場所はわからずじまい。残念です。




  サライの遺跡の写真や平面プラン、発掘状況などが掲載されている書籍を見たことが無いので、こんなにちゃんとした遺構が残ってい るとは驚きです。ドキュメ ンタリー番組では水道管の遺物も映っていました。この遺跡を訪問した日本人っているのでしょうか。観光ツアーに入っても良さそう な感じ(かまどのような形 の遺跡は新サライの遺跡のようです。何故なら、旧サライの周辺には民家は無く、上右のかまどのある遺跡を新サライと紹介している サイトもあるからです。そ のうち調査する予定)。

 これがドキュメンタリー番組に登場した旧サライの再現CG。少し立派過ぎる感じがしますが。。。

 装飾や、色彩タイルの壁面は、以下のような遺物が出土していることに因んでいるようです。

  手元のイブン・バトゥータの旅行記の抄訳前嶋信次訳「三大陸周遊記」では、サライの記載は少なく、あまり大都市という感じはしな いので、図書館へいって東 洋文庫の全訳(家島彦一訳)の「大旅行記」の記載を確認してきました。「大旅行記」第四巻のp82に、旧サライの記載があり、以 下の文章となっています。

「サ ラーの町は最も壮麗な町の一つで、平原のただ中に位置して際立って規模が大きい。町は多くの住民で雑踏を極め、幾つもの立派な市 場があり、街路は広々とし ている。われわれは、ある日、町の有力者の一人と一緒に馬に乗ったが、われわれの目的はその町を回って、その大きさを調べること にあった。われわれの宿泊 場所は町の一方の端にあって、そこから早朝に出発したが、正午過ぎになってやっともう一方の端に着き、午後の祈りをすませて食事 をした。そして、われわれ は日没の祈りの時間の頃になってやっと[出発点である]宿泊場所に戻って来た。また、ある日、われわれは往復半日かけて町の横幅 を歩いたが、そこには荒廃 したところとか農園はなく、人家がびっしりと建ち並んでいた」

とあり、相当賑わっていた都市のようです。更にp448の解説には、ウマリーという人物の同時代証言史料の引用があります。

「サ ラーはバラカ・カーン(Barakah Qān)がトゥーラーン(ヴォルガ)の河畔に建設したもので、市壁もない沼沢地にある。そこの王居は大規模な城館で、その天辺にはエジプトの重量単位でニ キンタールの黄金の新月[の飾り]が付いている。城館の周囲には、望楼付きの城壁が巡らされ、アミールたちのための住居となって いる。この城館には、彼ら の冬営の場所がある。この川は、ナイル川の三倍、もしくはそれ以上の規模があって、そこを大型の船が往来し、ルースやサカーリバ まで航行する。この川の水 源もまたサカーリバ*1地方にある。曰く。そのところ、すなわちサラーは幾つもの市場、公衆浴場や諸物産集合の場所のある大都市 で、町の中央にはひとつの 貯水池があって、池の水はこの川から引き込み、その水は労力用に使われる。住民の飲料水については彼らのために粘土の水壺に入れ て河水から汲み取り、荷車 を連ねて、町まで牽かれて運ばれ、それらは売られる。その町の後、フラーリズムまでは一ヶ月半ほどの隔たりである。そことサラー との間には、ワフクの町、 クトルー・カントの町[など]がある。」)Al-`Umarī B3/94-95)

*スラブ

との記載が掲載されています。ドキュメンタリー番組に登場している以下の、現在の観光客の映像に、市街の再現CGを合成した映像 にも、市壁は描かれておらず、ウマリーの記載通りの再現映像のようです。

  現在の、周囲に何も無い遺跡の様子からは想像もつきません。とはいえ、彼の他の都市に関する描写と比べてみないことには、いまい ちわかりません。そこで 「大旅行記」4巻166頁tp192頁にテルメズ、188頁にサマルカンド、193頁にバルフ、208頁にトゥース216頁に ニーシャープールと、ホラ サーン地方の大都市の描写が出てくるので読んでみたのですが、あまり変わらない感じ。「大旅行記」では、バグダードの描写は飛び 抜けているので、少なくと もバグダードと比べると、サライは、サマルカンドやバルフとあまり変わらないくらいな町だったようです。サマルカンドやバルフ は、都市の輪郭がわかる遺跡 が残っていますから、サライもそこそこの大都市だったようです。そこでやはり驚いてしまうのですが、サマルカンド、バルフ、テル メズ、ニーシャープールな どは、全て廃墟の近郊に今も同名の大都市がありますが、サライの周囲には、映像から見ると、1km程彼方に小さな村(多分セリテ ルニノエ村)があるだけ。 まさにうたからの夢というか砂上の楼閣というか、とにかくかつて人々で賑わったことなど信じられないのでした。この孤立したロ ケーションに、古代から自然 発生的に成立したサマルカンドなどと異なり、サライが、如何に人為的に設置された都市であるのか、ということが感じられるのでし た。

 遺跡の全体像についてはこちらの映像(考 古学者が観光案内をしているらしい)も参考になります。最初の7分間は考古学者が遺跡で延々と説明しているだけの退屈な映像です が、8分以降、遺跡の全体 象が登場する映像が出てきて非常に参考になりました。アフトゥバ川が半分干上がっている(水が少ない季節なのでしょうか)のと、 大平原なので風が非常に強 い(なので考古学者の説明も風の音でよく聞こえない)など、映像ならではの情報がよく伝わってきます。

 
 更に、東洋文庫版「大 旅行記」第4巻では、注釈にサライの都の遺跡発掘情報の解説があり(注259(p143-44)、注260)、それによると、南 北4km、東西2.5km で、10平方kmとのこと(ドキュメンタリー番組では2061ヘクタール(5km四方相当)となっていた)。

 ところで、新サライ(Сарай-Берке)との仮説のある場所も調べてみました。英語Wikiのサ ライの項目では、ヴォルゴグラード州レニンスク地区コロボフカ村(旧ツァーレフ村)となっていますが、村が分裂したの か、現在ではツァーレフ村(Царев) とコロボフカ村(Колобовка)は隣り合った別の村となっています(Google Mapの48° 41' 00.66" N 45° 22' 50.12" E。二村の間は距離にして7,8kmくらい))。新サライと旧サライは約300km程。下地図の左上の赤丸がヴォルゴグラード市で、その隣の赤点が新サラ イの仮説のあるツァーレフ村。右下の赤点が旧サライのセリテルニノエ村。右下の赤丸がアストラハン市街。

  新サライはヴォルゴグラード州の東南端、旧サライはアストラハン州の中部という位置関係です。これら遺跡が、新旧サライだとの比 定が学会でどのように展開 されたか、との記載も、「大旅行記」の注259(143-44頁)や、「解説(445-450頁)」に記載されており、東洋文庫 の「大旅行記」は、全8冊 もあり、値段も高いし、巻を分けすぎじゃないの、と思っていたのですが、単なる翻訳ではなく、詳細な注と解説があり、翻訳文は半 分、訳者による論説部分 (注釈と巻末の解説)が半分、という感じで、半分は研究書という書籍となっています。

 なお、映画のセットのサライの都の映像はこちら写真はこちらこちらに多数あります。恐らく現在は観光地となっているのだと思われます。


  勢いでハザール汗国の都、サルケルとイティルの遺跡の映像や画像についても調べてみました。最近はあまり聞かなくなりましたが、 ハザールは、1990年代 に日本でもブームになっていたように思えます。今思えば、1990年に「ユダヤ人とは誰か―第十三支族・カザール王国の謎」が出 版され、 92年にはハザールの首都遺跡が発見されたと日本の新聞でも報道され、93年には奇書「ハザール事典」、96年には「ハザール謎の帝国」が出版され、98年頃には世界でも稀なハザール帝国のサイト「ハザール王国の謎」が できたりと、結構知名度高かった気がします。そんなこともあり、遺跡の写真や動画、発掘報告や平面プランの情報などがたくさん ネットにあがっているかも、 と思って調べてみたら全く期待外れで残念。奇書「ハザール事典」さえ、文庫とか出ているかと思ったら、日本では一度出版されたき り絶版だったとは思いませ んでした。ユダヤ陰謀云々はともかく、純粋にロマンを誘う国だと思うので、真面目な歴史書や遺跡本などが地道に細々出続けて欲し いと思います。

 サルケルはWiki掲載の1930年代のモノクロ写真一枚だけ、イティルの遺跡はこちらこちらに一枚づつ写真があるだけ。キエフが滅ぼしたハザールの遺跡には投資も熱意 も注がれず、ロシアを傷めつけたモンゴル帝国の都サライについては観光までされているようなのが不思議です。とはいえ、英語版 Wiki掲載のこちらのハザール年代記を 見ると、622年以降1048年まで殆ど1年刻みでハザール情報が記載されているような感じで、意外に情報があるのかも、とも思 いました(でも1048年 の行を見ると、イティルがサクシンと改称された、とありますが、Wikiの記事はロシア語も英語もサクシンとイティルは別の場所 として記事が立っているの でした。まあWiki情報だからこんなものなのかも知れませんが。。。)、

 などと思っているうちに、ヴォルガ・ブルガール国の遺跡はどうなんだろうとか、ガザン汗国の遺跡はどうなんだろうとか調べたく なってきてしまいましたが、きりが無いので取り敢えずこの辺で切り上げたいと思います。

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