深圳の歴史①六朝以前(作成中)
(1)漢代以前
現在の深圳市内では石器時代の住居跡がいくつも見つかっており、商代以降戦国時代まで30程の墓が見つかっており、青銅器が出土している。深圳市の領域自体が史書に登場するのは、前漢代に入ってからだが、深圳から40キロ程北東の、恵州市の博羅(前漢代も同じ名称)に比定される、呂氏春秋・恃君覧に「縛類」が、「国」といして登場している。この頃は百越、越人と呼ばれる人々が住んでいたとされる。
楚の悼王(前401-380年)の時代に、呉起が嶺南を越えて討伐を行ったとされ、さらに始皇帝が、60万の軍で嶺南を討伐し、現ベトナム北部の文朗国を滅ぼした。現深圳市の領域まで攻め入ったのか、現深圳市の領域に征服すべき町や人々がいたかどうかは不明であるが、戦国時代の墓が発見されているので、人が居住しており、人がいれば、征服したと考えられ、現深圳市は南海郡に所属したと考えられている。しかし、征伐後、50万の軍隊が五嶺山脈を守り、攻め入った60万の軍隊の兵士の少なからずが、現在の福建、広東、広西、ベトナム北部にを守備し、その後現地人の反乱などで滅ぼされたとされるが、実際には全滅したとは考えにくく、一部は現地人(百越)に溶け込んだ可能性がある。唐代の豊昌明は、先祖は秦代に中原の陝中から龍川県(現在も同名、広東省東北部)に移住し、35代目となる、と「越井記」に記しているとのことで、秦代に量は不明としても、中原からの移民があったことは確実であると言える。
現深圳市内の漢代の墓地の遺物を見ると、前漢初期(南越国時代)に、漢本国で流行した陶器が副葬されており、これが中期になると減少し、末期になるとまったく見られなくなるとのこと。しかし、漢の文物は、その後前漢後期も後漢代の墓からも発見されている。範囲は不明だが(恐らく中国国内だけで、ベトナムは含まないと思われる)、南越国の墓は128基(1997年当時)発見されているとのこと。これらの墓葬には、南越土着の遺物だけではなく、漢、匈奴や駱越、楚、秦、巴蜀の遺物を含んでおり、当時の交流の広さがしのばれる。
深圳・香港の漢代墓の場所(深圳博物館の展示パネルより)
前112年、漢武帝が20万の軍勢にて南越国に侵攻、111年に征服した。この時の軍隊が、事実上移民となった可能性がある。現深圳市は西部が南海郡の番禺県に、東部が同じく南海郡博羅県に所属したと思われる。その後、王莽の騒乱や後漢末の乱、後漢初の進駐などが移民をもたらしたと推測される。
武帝時代110年、全国28箇所塩官(塩の徴税を行う官吏)のうちのひとつ番禺塩官が置かれたがそれが現深圳市内となるかどうかは不明である。しかし、その後呉代265年に、現深圳南山区に塩官が置かれたことから、漢代の塩官も現深圳内に置かれた可能性がある。
漢代28箇所の塩官の場所(深圳博物館の展示パネルより)
1955年に香港の新界李鄭屋村(深圳南山区蛇口の対面にあたる)で発見された、長さ7m、幅6mの漢代墓で発見された墓碑に「大吉番禺」と書かれたものがあり、このことから、当時少なくとも現深圳市の西半分は、番禺県に属していたことが明らかとなっている。
(2)六朝時代
226年から数年以内に一時的に、南海郡が分割され、現深圳は東莞郡博羅県に所属し、治所は増城県(現増城県)にあった唐代の通典に記載されているらしい。しかし西晋初には東莞郡は見られない為、数年で廃止されたと推測される。265年に現深圳市南山区南頭に「司盐都尉(司塩都尉)」という名称の塩官が置かれ駐屯地を「司盐都尉坐」(「坐は、正確には、上が「ム」が3つ、下が「土」)と言った。これが、直接史書に深圳が言及される最初である(この所在地は、南朝時代には「蕪城」または「葉城池荒蕪」と称した。しかし全体として塩生産は、六朝になって衰微した。
晋初には再び南海郡となり、現深圳は再び番禺県と博羅県に属することになった。西晋が滅んで華北に騒乱が発生すると、多くの避難民が華南にやってくることになり、東晋政府は行政区分に色々手を加える必要が出てきた。南海郡も331年に東官郡に変更となり、現深圳には宝安県が置かれ、その治所は南頭に置かれた。これが、行政区分として、現深圳が独立した区画として現れる最初となった。よって現深圳市では、市の起源を331年に置いている。南頭周辺では、両晋時代の墓が多数発見され、宋代に記載された「南越志」には、黄舒という、宝安県の儒教道徳上非常に評価された人物に言及しており、さらに考子や烈女の碑文が残るなど、儒教文化がこの地に浸透してきた証しと見られている。
331年に成立した東官郡(深圳博物館の展示パネルより)
東晋末に反乱を起こした盧循は、404年10月、宝安県沿岸を経て番禺県に向かい、広州刺史を殺し、411年まで広州付近を支配した(深圳も盧循の支配下に入った)。盧循一派は討伐された後、付近の島々に隠れ住み、彼らの居住地は「蘆亭」または「蘆余」と呼ばれ、漁民として暮らしたという伝説がある。
劉宋の時代になり、宝安県は宋皇族の封地となった。秦漢代は、1万戸以上の県には県令を、1000戸以上の県には県長を置いたが、劉宋代は、封地であるため、1万戸以上は子国、1000戸以上は男国と称され、宝安県には、男相という役職がおかれた。南斉初年に封国は取りやめとなり、安懷県を懷安県と改め、東官郡の郡治を宝安県から懷安県(現東莞市大朗付近)に移した。深圳は宝安県下にとどまった。梁初には東官郡の郡地は増城県に移り、507年前後に東官郡は東莞郡となった。陳は東莞郡の郡治を政賓県(現清遠県西北中宿県)に移した。 深圳市内の南朝の墓地は30余(六朝全体で50余と記載されている部分もある)発見されていおり、南頭の西と南側に集中している。うち劉宋のものが22、斉以降が1となっている。墓以外の遺物としては青瓷器の窑の遺跡が残っている。
466年宝安県の童禽は、中央の政争に参与し、蜂起して東官郡の太守と宝安県の男相を廃し、劉彧帝を奉じた。467年には東官郡の太守に肖恵徽がつき、義父である権臣広州刺史の羊希が少数民族俚人の討伐に失敗した劉思道を逮捕したところ、反乱を起こされ、468年羊希を殺した。肖恵徽は宝安の文武官1000名余を率いて広州に向かい、朝廷の派遣した陳伯紹とともに劉思道を鎮圧した(肖恵徽は南海太守の座を要求したりして、羊希とともに悪人だと思うのですが、この後朝廷によって中書郎となったとのこと)。
東晋代南海太守の、葛洪の義父(魚偏に包む)玄が道教を奉じていたように、当時の深圳にも道教が浸透していたと考えられている。一方呉の時代に広州に制止寺という仏教寺院ができ、359年には敦煌の高僧単道開先が広州に来て、現恵州の羅浮山で逝去したとされている。元嘉年間(424-453年)には高僧杯渡禅師が宝安に駐留し、その後、香港に渡り、羊坑山(現新界屯門青山、またの名を杯渡山(信徒が禅師の名に改名した))に移住し、そこが仏教の大中心地となったとのこと。深圳最古の寺は、宝安県南門に遺跡のある海光寺で宝安県にある、文献記載のもっとも古い仏教寺院、南漢以前の創建と伝えられている。 深圳のほとんどの住民は、宋元以後の移住であり、特に清の遷海令後の移住だが、極わずかだが、南朝時代にさかのぼる家族がある。例えば深圳布吉、白芒、坪山、観欗(源字はさんずい)などの張氏、羅田、坪山、大鵬の頼氏がこれに該当するとのこと。
参考資料