深圳の歴史②隋唐五代(作成中)
(1)隋唐
589年、広州総管府が置かれ、590年東莞郡が廃止され、宝安県は広州総管府に所属した。601年広州を番州に改めたが。607年、南海郡が再度設置される。宝安県の名称は変わらなかった。深圳は隋末の騒乱は免れたようである。均田制と租庸調制、科挙も嶺南には実施されなかった。少数民族の割合が多かった為、3,4年毎に5品以上の官吏を選抜し、六品以下は地元で直接採用した。玄宗初年に高まる対外貿易に対応する為に広州に市舶司を置いた。736年、現南山の清代砲台遺跡一帯の地区を屯門鎮として、通常の政府の管轄から切り離した。2000名からなる兵士は南頭城に詰め、沿岸一帯(現香港と、西は宝安区から東は大鵬半島まで)の治安を担うこととなった。
右下の赤点が唐代の屯門鎮(深圳博物館の展示パネルより)
この時代の南頭は、城壁の西南が直ぐ海となっていた(この状況は清代ま続いた)。2000人という規模は、当時の嶺南では大きい方で、嶺南経略使の管轄する現広東広西、貴州、雲南、北部ベトナムの総兵力が15400名、うち南海郡が5400名。次の清海軍2000人と並ぶ規模である。司令官は屯門鎮使(中唐以降は鎮将と呼ぶようになった)で、嶺南節度使に直属していた。743年海賊呉令光が永嘉(現温州)、台州(現臨海県)、明州(現寧波)を荒らした時、南海太守劉巨鱗が屯門鎮兵を率いて、他の太守などと協力して討伐した。 宝安県は、唐初から741年まで廃止され、東莞県に含まれていたが、742年から757年の間復活した。その具再び東莞県に編入した。貞元年間(785-805年)に再度復活した。その後はずっと東莞県所属となったと思われる。 879年に黄巣が広州を攻め落とした時、分隊が東莞に達した(黄巣は6月から10月広州に滞在した)黄巣の戦乱から逃れて深圳に移民があり、中でも深圳笋崗の何氏と深圳は福田の廖氏、深圳墟の洪氏、深圳坪山の劉氏、羅田の頼氏、深圳沙井の曽氏が有名。
唐代の深圳は塩の産地でも有名で、嶺南地区の三大産地のひとつだった(他の2つは潮州海陽県と振州寧遠県)。しかし政府は、嶺南に塩場はおかなかった(全国には14の塩場があった)。 また真珠の産地としても有名で、唐代以前の真珠の産地といえば、廉州の合浦(現広西省)だけが知られていたが、唐代に入り、東莞大歩海(香港の東北、深圳の大鵬湾と大亜湾一帯)も真珠の産地であることを発見した。廉州の真珠は合浦珠、大歩海の真珠は南海珠と言うようになったとのこと。716年に玄宗は役人を派遣し、真珠を探させた。この時の調査結果は、非常に稀少な為、採取は激減を招くとのことで、玄宗も採取は取りやめた。
唐代の遺構としては、煉瓦の窑跡や墓が残っている。
広州都督府 東莞県 到涌 742年、南海郡に名称変更。757年東莞郡に。同時に治所は現東莞の到涌(現莞城市)。宝安県も東莞県に改称。758年、広州都督府に戻る。
(2)五代
917年、自称大越国、史称南漢が成立。南漢初代劉岩は奢侈を極め、宮殿内に真珠を浸した「珍珠渠(真珠渠)」と呼ばれる水路を作っていたとのこと。963年には南漢の納税世帯17万戸、これが養える軍人20万人のうち、5000名を真珠採取に従事させ、うち3000名が合浦、2000名が大歩海で過酷な作業を行い、媚川都と呼ばれる非公式の組織を作って真珠の加工を行ったとのこと。なお、屯門鎮は南漢時代も存続したが、これは、唐代に交易を保護する為の任務を負っていたのと異なり、南漢劉氏の奢侈の為の半ば海賊行為に近い強制徴税の為に置かれたとのこと。豪奢で固められた宮殿は、宋軍が焼き払い、媚川都は971年に廃止された。
参考資料