深圳の歴史③宋元代(作成中)
(1)宋代
屯門鎮後に屯門寨と固戍角寨(現在の宝安区固戍村)を置き(ともに元代は巡検司に降格)、その他香港側の杯渡山上に捕盗廨を、海中の溽州に望舶巡検司を置いて唐代に比べると遥かに多角的な防衛システムを構築した。望舶巡検司は珠江に入る船舶が出入りする船舶が最初・最後に停泊する場所となった。また官富塩場は元代には官富巡検司(役所は香港の九龍半島原官富塩場にあり、明初に深圳福田赤尾村に移った)に改められた。官富巡検司は宋代の防衛施設である杯渡山上の捕盗廨の代替ともなった)。
この次期の深圳の主要な産業は塩生産業。嶺南に13の塩場がおかれた。塩場は大きく、塩柵と塩務は小さかった。これらの塩場柵は、宋初に毎年1320トンの塩を生産し、1023年には13の塩場で2万7225トンの塩を生産した。宋北宋後期には塩場は26に増えた。ただし、南宋初期には生産が落ち始めた。これは、過酷な労働に、作業員が反抗したこと、逃亡、生産資源の枯渇などにあった。
宋初に、現深圳市内には、東莞場塩場(漢代の番禺塩場)と帰徳柵(現福田、羅湖)と黄田柵(現宝安区の沙井鎮)があった。宋代中期以降需要が増加し、帰徳塩場と黄田塩場、香港島の官富塩場となった。宋末には叠福塩場(大鵬半島や塩田鎮)、も追加された。元初、官富塩場は黄田塩場に編入され、衙署は巡検司となった。 塩の価格は、宋初キロあたり買い上げ価格3.6銭が、神宗時代5銭となり、孝宗時には47銭と高騰した。 塩場は圧制でもあり、南宋初年と慶元3(1197)年には、黄田塩場所属の作業民が反乱を起こし、特に1197年には広州にまで反乱軍が侵攻する事態となった。元初には恵州の塩場とともに蜂起している。
宋代の採塩場(深圳博物館の展示パネルより)
984年に結局太宗の命で真珠採取が再開されることになり、1114年徽宗は広南市舶司に、毎年真珠や犀角、象牙を送るように下命した。1155年、南宋の高宗は、採取停止を下命している。
宋代深圳の経済発展は非常に緩慢だったが、商業と貿易は発展した。10以上の銅銭の鋳造所跡が発掘されていて、大鵬鎮水頭沙村からは13.5キロの銅銭が発見され、葵涌鎮屯洋村からは74.5キロの銅銭が発掘されている(ただし、後漢代の五銖銭も含んでいる)。宝安区福永鎮橋頭村では120キロの銅銭が見つかっている。最大のものは、1995年宝安県松崗鎮沙埔村の2000キロ。他にも数十キロのものはあちこちで発見されえている。このように、商業と貿易が発展したが、銅銭の海外流出が、国内の銅銭不足をもたらしたので、宋初に、貨幣禁輸令が出されたが、王安石の新法で解禁され、流出が続いた。
南宋末年には、景炎、祥興の2帝が深圳、香港近海で過ごし、地元民の支援を受けている。1277年2月、叠福塩場に沿海に停泊し、短時間上陸したとのこと。その後叠福塩場に南西海上の島梅蔚山に行宮を構え、続いて香港島の東南にある官富塩場に行宮を構えた。このとき文天祥が来ている(1279年1月8日にも官富に来ている)。深圳博物館には、この時、地元民が、あり合わせの食料を大皿に盛り合わせて皇帝を接待した時の模様を描いた原寸大の人形パノラマが展示されており、大皿を■盆と呼び、この地域の名物となったとのこと(下記が博物館にあるパノラマ)。
9月11月元人が来航したため、香港島の南に、更に香山沙涌(現中山県旗鼓郷)にうつり、更に12月秀山(現東莞市虎門鎮)に移った。その後更に現中山市へ移り、1278年3月大奚山(現香港空港のある大(山与)山にて死去した。群臣は8歳新帝を擁立し、崖山にうつり、1279年2月の戦闘で滅亡した。下記は2帝の逃亡行路(深圳博物館の展示パネル)。
敗れ散った軍の面々は、地元の地域に散って、当初は姓を隠して過ごした。事実上この地域への移住となった。この時深圳に移住してきた家族には、陳氏、文氏、候氏、黄氏、梁氏、莫氏など現在に子孫の残る多くの氏族がいた。
帰徳塩場の近くには仏教文化の遺物(石塔など)が残っており、仏教寺院も増加した(海光寺、雲渓寺など)。天后(■マソ)の廟堂もこのころ建設され始めた。
宋から元にかけて、前後5回にわたる客家の移動が始まる。
第1次:河南省から、安徽省、江西省北部に移動。
第2次:安徽省、河南省南部から、江西省および広東省北部へ移動
第3次:江西南部から広東省北部へ移動
(2) 元代
深圳は東莞県の所属となり、深圳独自の行政機構は置かれなかった。蒙古人のが達魯花赤(県長の意味)漢人の県尹(県長)が赴任した。ただし、軍事機構である屯門寨と固戍角寨(現在の宝安区新安鎮固戍村)は屯門巡検司、固戍巡検司として残った。)各150名の兵士が常駐した。官富塩場は大徳年間(1297-1307年)以降廃止され、官富巡検司が置かれた。巡検司は、現在の香港・深圳あたりの行政・治安・軍事双方を担った。 1295年には巡検司が深圳地区の真珠採取に関して朝廷に報告を上げ、1297年からは真珠の採取も再開された。それは3年に1度採取する、というもので、2年間休息させて真珠の回復を図るものだった。その後何度か採取再開と停止を繰り返しながら1340年、最終的に真珠採取は停止したまま元朝は滅亡した。この時、4万人が真珠採取に従事していたとされる。
元朝も、宋朝以来の広東の17の、うち深圳の4つの塩場を継承、1279年広東の塩税は62トン、1286年には1172トン、最盛時は5055トンとなり、広東の14の塩場の生産量は、1900トン官富と黄田塩場の塩税は52トン程度、東莞・帰徳も同じ程度と、あまり振るわなくなっていた。労働も過酷で、10人中3,4が逃亡する有様、日本侵攻チャンパー侵攻などの軍役・造船への徴発が重なり1283年万を越す反乱となった。反乱は鎮圧されたが、これに懲りた政府は「塩法」を一部改定し、負担の緩和を図ったが、反乱こそ無かったが民衆の生活はあまり変わりなく逃亡は続いた。元末の反乱ではそれぞれの塩場を、反乱軍の首領が各々占領する事態となった(1354年頃)。その中で、そのうち王成と陳仲玉の両派に糾合されてゆき、何真は、淡水塩場の下級官吏だったが、王成とは広州府師に賄賂を贈り、何真を逮捕させようとした。何真は逃亡し坭崗に隠れた(現深圳市羅湖区坭崗村)、村民組織を作り、陳仲玉を殺し、帰徳塩場の反乱首領を帰順させた。坭崗で義軍を組織し、当時反乱軍に占拠され、騒乱にあった恵州から逃亡してきた人々が加わり、恵州へと移動し、そこを根拠地とすることにした。恵州を支配していた叛徒の王仲剛を殺た。元朝は、恵州回復の功により、何真を恵州府通判官を授け、更に恵陽路の同知、兼広東都元帥とした。その後、南海県民邵宗愚が反乱し、広州を占拠した。何真はこれを討伐し、広東分省参政、広東行中書省右丞とした。その後広東、福建、江西省が合併され、何真は資徳大夫、江西福建行中書省左丞となった。1365年邵宗愚が再び広州を攻め、何真は恵州へと退去したが、その後、1366年王成を攻め滅ぼし、1367年には広州を回復した。1368年には、朱元璋は何真に使者を派遣し、帰順するように説得。4月、東莞で使者と会い、明朝への帰順を伝え、その後朝廷に出頭し、朱元璋に会い、中奉大夫、江西などの行中書省参知政事となり、その後には山東省参政、四川省布政使となった。しかし、東莞の塩場の武装勢力はなかなか収まらず、朝廷は1371、1383、1384年の3度何真を派遣して調査させた。これら武装勢力には何真の一族や、元の部下も混じっていた。結局何真は東莞伯に封じられた。彼の一族の住居は深圳中部の現存最大の圍屋で、笋崗老圍と呼ばれている。
第4次:広東省東、および福健省との省境から広西省北部、四川省へ。
第5次:広州付近から、広東省西、広西省へ。
客家5大家族(除廖、文、鄧、彭、侯)氏。文氏の祖は文天祥とされる。この頃、新安県の60%が客家。
参考資料