深圳の歴史④明清代(作成中)

 

(1)明代

 

 

 明初、沿海には海賊、倭寇、番夷などが跋扈していたため、衛と所を作って対応することにした。これらは明朝建設の過程で経験的に形成されてきた制度。一つの衛は前後右左中の1120名から構成される5つの千戸所で構成され、合計5600名の兵員を有している。広東の衛所は7分が防衛、3部が屯田で、給与と自給自足の組み合わせとなっていて、指揮官も兵士も世襲が認められていた。1377年、東莞県城南に南海衛を設置、1381年、東莞、大鵬の千戸所の設置を建議、1394年修築を開始した(両衛とも南海衛の所属)東莞千戸城とは現在の南頭古城である。1120人が駐在した。内訳は、最高指揮官の正千戸1名、副千戸7名、百戸6名、鎮撫1、吏目1、司吏1名。城の修築と同時に周囲にある墩台(砦・起源は漢代の烽火台。烟墩とも言う。)を6個設置した(これらも現在遺跡が残っている)。大鵬千戸城は、正千戸1、副千戸2、百戸10、鎮撫1、幕官吏1、司吏1名、総勢1120名。5個の墩台

を設置した。

 

 世襲が認められていた為、当初は全国各地から赴任してきていたが、だんだんと代々暮らしてゆくうちに地元民と化していった。このため、所城周辺は、軍隊用語が、現地語とは異なる一つの方言として現在までも残ることとなった。しかし生活は苦しく、逃亡する兵が後を断たず、定員2240名のところ、450名程度(しかも老人や病弱者が残っていた)しかいないという事態に陥った。このような状況なので、15世紀くらいまでは盗賊などを撃退してきたが、1570年には大鵬所城が倭寇に占拠され、広州への基地とされるに至ってしまった。1571年には倭寇が再び攻撃してきて攻城兵器をもって40日以上包囲した。この時は、指揮官、副指揮官とも不在で、非正規の指揮官舎人が指揮官となって撃退する程お寒い組織に成り果てていた。付近の農民を強制的に軍籍に入れて屯田が成功したかのように見せかけることもを行った為、軍籍でない徴税対象の農民を見つけることさえ難しくなった。この為明朝政府は1510年に備倭総兵府を東莞守御千戸所の東南部におき、1564年にはこれを一つ格に低い参将とし、備倭総兵府を参将署と改称、1565年には参将署を南頭寨を置き、参将1名陸営把総1、哨官5、兵士330名をおき、その後1621年以降陸営把総5名、兵士1486名に増強、1591年には2008名、1653年には1659名となった。軍船も当初53隻が、1591年には112隻、1629年には48となった。

 

明代の砲台(深圳博物館の展示パネルより)

 

 1493年には西欧人が最初に侵入して戦闘があった。当初これを倭寇と区別する為に番夷と呼んでいた。その後、ポルトガル人は海上で中国商人と取引していたが、屯門海澳(現深圳市後海と香港青山一帯)に上陸し堡塁を築き、永続的な根拠地を構築した(1506年頃)。1521年1月ポルトガル人使者は北京に至ったが、交易は却下された。3月に武宗が死去し、世宗が即位すると外交方針に変更が見られ、8月になると"フランク"人(ポルトガル人)駆逐命令が執行され、戦闘が開かれた。ポルトガルの火砲は命中率も高く、火責めにあって漸く撃退された。9月にポルトガル人はマラッカに退去した(屯門海戦)。1522年に再度侵攻があったが、またも撃退された。結局屯門はあきらめたものの1553年になって澳門を占拠した。

 

赤い点がポルトガル人侵攻地点

 

 唐(757年)に、宝安県廃止に伴い、深圳の県組織は東莞県所属の郷レベルのものとなってしまっていた。大鵬、東莞所城の兵士の逃亡を農民を軍籍に入れることで補ったため、付近の地方社会は衰退した。また納税や労役に為に東莞に行くとしても、大鵬所城からは100キロ、東莞所城(南頭)からは50キロ以上、大鵬と南頭の間も遠く、しかもいづれの間も唐中期以降道路の整備は停止していたため、交通も酷く不便だった。宋元代は海賊は少なかったし、その侵攻時間も短かったが、明朝に入り、大規模かつ長期化するようになった。また一部には日本人も加わり(日本が南北朝時代という分裂期にったので、日本の大陸侵攻ではなく、逃亡者と悪商人が中国の海賊に加わったもの)、明初に日本政府との外交交渉が行われて以降は、減少、増加を繰り返しながら、長期的には増加し続けた(倭寇の7割は中国の逃亡犯や海賊だった。深圳侵攻の初見は1383年、このような経緯もあり、上

述の備倭総兵府が設置された。1558年以降倭寇の侵攻は激しさを増し、1567年には東莞守御千戸所付近を攻め、1570年には広州を攻め、1571年には大鵬守御千戸所城を包囲したが攻め落とせず40日後撤退した。

 

 

 このような治安の乱れから、住民は省城に代表を送り、県級の行政区画の再建を申請した。1561年68年には飢饉が起こり、72年には広東省の役人が現地調査に赴き、県の新設を申請した。新安県の名称は、「革故鼎新、去危成安」から取った。このようにして、7608戸、33971人、里甲制が敷かれ、110戸で1つ里、7つの里で都、3,4個の都が郷となり、3つの郷で県となった。総計56里があった。県城は東莞守御千戸所城に作られた。1573年正式に発足した。しかし平穏に繁栄したとはいいがたく、県発足時の納税人口は3万人程度だったが、1593年には13000人に、1642年には17000に減っている。新安県の領域は、ほぼ今日の香港+深圳の領域である。つまり、香港を英国に割譲して残った新安県が、現深圳と概ね考えてよい)

 

 

 

(2) 清代 

 

 1643年に進士となった張家玉は、清軍が広東に進駐してくると、1643年、新安県城西門外の西郷で反清復明の蜂起をおこした。1647年にも5000人の兵を集め蜂起したが3週間あまりで破られ、その後、もう一人のリーダーである南頭南山村の人、陳文豹と合流して激しく抵抗し東莞県城を攻めたが、6月末2人とも戦死し、深圳地域での抵抗運動は終了した。

 

 1661年には鄭成功への対応として、遷海令が出され、江南、浙江、福建、広東の4省に施行された。福建では30里、広東では50里、海岸沿いから住民は内地へ撤去する内容だった。新安県の2/3の領域に適用され、残り1/3に居住する人口は1661年で6851人、1664年の第2次遷海令の時は2172人となった。新安県は名目上だけの存在に等しくなった為1667年に新安県は廃止され、東莞県に編入された。しかしこの間住民の不満から反乱が発生したりして、新安鎮を置いたりした。1669年新安県が復活したが、漁民が船を出すことはまだ禁止されていた。1684年、鄭成功の孫が投降して後、解禁された。人口も1672年には3972人まで戻った。

 

遷海令の範囲(深圳博物館の展示パネルより)

 

 1731年にも7289名で、人口はなかなか回復しなかった。深圳坪山地区の客家は康熙年間の移住者が多く、移住元は福建寧化が目立つ。1726年に移住促進の為、広東省政府朝廷に提案し、移住者の優遇措置を公示した。この時代には広東省潮州、梅県、福建、江西省などが多い。福建・江西・広東省の境目に客家が多く居住しており、この頃の移住者は、この地域か、または新安県と隣接している地域からの移住が多い。こうして1773年には32194人、1818年には23万9112人まで増加することになった。現在の深圳市の東半分、これと隣接する恵州の南西部分、香港部分の住民の主流はこの時飯重してきた客家民となっている。

 

客家居住地(白色部分。オレンジは残りの新安県部分・深圳博物館の展示パネルより))

 

(3) その後

 

1809年 英国 澳門占領

1839年 英国水兵が深圳の尖沙嘴で村民を殺害する事件発生

1842年 鴉片戦争後の南京条約にて香港島を英国に割譲

1860年 北京条約にて九龍半島南部を英国に割譲

1898年 九龍北部を含む、現香港を租借地として英国99年間の貸与

1941年 12月25日 日本軍、南頭古城占領。

 

 

 

参考資料

  深圳古代简史 作者: 深圳博物馆 / 张一兵 出版社: 文物出版社

 

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