トレビゾンド帝国史概略



 
 

 トラブゾンは紀元1世紀の後半に重要な地位を獲得し、速やかな発展を遂げた。ヴェスパシアヌス帝の頃、上メソポタミアへ至る道路が整備されたことで新たな商業的機会が作られた。トラヤヌスの即位とともにローマの属州となり、ハドリアヌスは支援し、彼の名前を冠した港を作った。戦車競技場、劇場、内壁や水道が作られ、町の様相は変わった。

 258年、ヴァレリアヌス帝(在位253-260)の時代、ゴート人が町を侵略した。市は再建されたけれども、古い美しさを失っていた。キリスト教の拡大とともに、宗教的に重要な土地となり、結果として多くの教会や修道院が次々に建設された。705年来、イスラム教徒の攻撃は長期間トラブゾンに影響を与え続けた。1098年にキリスト教徒のトラブゾンの知事はビザンチウムに対する独立を守ろうと非常に困難な努力を行ったが、成功はしなかった。皇帝ユスティニアヌス1世は新しく要塞を作り、町へ水をもたらした。ビザンツの歴史家ステファノスは彼の著書において、ユスティニアヌスの時代にあらわれた建設活動について言及している。1世紀、トラブゾンは軍事基地であることによって、より重要だった。アナトシアのセルジュークは町を攻撃し、町はスルタン メリクシャー(1107-1116)により征服されたが、知事テオドロス・ガブラスによって戻された。ラテン軍がイスタンブールのアレクシオス・コムネノスを襲った時、アンドロニコス・コムネノス1世の息子は逃亡し、トラブゾンへやってきた。ここで彼は皇帝を宣言し、グルジア女王タマラ(1184‐1212)の援助により、トラブゾンにポントスの国が再度打ちたてられた(1204-1461年)。 皇帝は”大コムネノス”と称した。

 重要な発展がコムネノス治下で見られた。トレビゾンド帝国は当初ラテン帝国と結んでニケーア帝国に対抗した。しかし、ニケーア帝国とラテン帝国が和を結んだことでトレビゾンド帝国はニケーア帝国と戦うことになった。彼はダヴィッド・パラエオロゴス(イズニックの皇帝)との戦いで大半の領土を失った。領土が大きく縮小し、トレビゾンドはシノペを失い、ビザンツ後継国家としての争いの世界から遠のき、東アナトリア、コーカサス、アゼルバイジャン圏の国家となっていった。コムネノス家を覆したアンドロニコス1世はセルジュークトルコからの独立を試みた。彼はシノペへ略奪のために船を出し、セルジュークとの海戦に勝利した。アラディン・ケイクバート1世は海と山の両方からトラブゾンを包囲したが征服するには至らなかった。

 トラブゾンは13世紀後半には、エルズルム-タブリース間と、黒海とペルシャ間の貿易ルート上で重要な港となり、モンゴル人は権力についたが、トルクメン人がその後権力を握った。しかし、トレビゾンドは南の山脈に助けられ、またトルクメン人の国家(白羊朝)やグルジア王国などと婚姻関係を結ぶことで政治的独立を維持し、トラブゾンは商業港として繁栄した。

 最初の深刻なオスマンのトラブゾンに対する征服の試みはカロ・ロマヌス4世(1447-1458)の時代のことだった。スルタンムラト2世は艦隊を送ったが町を略奪は出来なかった。 イスタンブールの征服に続いて、カロ・ロマヌス4世はメフメット2世に信用のための税金を支払ったが 、教皇カリクソス2世とウズン・ハッサンに対しても激を飛ばした。彼はイスタンブールから逃亡してきたビザンツの家族を保護した。メフメトはヒズル・ベイをトラブゾンに送ってきた。トラブゾンは予期しないオスマン海軍に直面し、皇帝は年に1000の黄金片を支払う提案をした。彼は兄を送り、ダビッド・コムネノスはヒズル・ベイに伴われてこの同意を得るためにイスタンブールへ向かった。しかしメフメットは年3000に増額した。帝国はこの脅迫にも屈しなかった。彼は税を払う一方白羊朝のウズン・ハッサンに使者を送り、娘のカテリーナを嫁がせる提案をした。彼はカラマン国のイブラヒム・ベイと同意の道を模索した。カロ・ロマネス死後彼の兄、ダヴィッド・コムネノスが王位を継いだ。彼はウズン・ハサンのもとにカテリーナを送った。彼女はその名前をデスピーナと変え、白羊朝の宮殿で重要な役割を演じた。ダビッドは支払ってきた税金を減らし、コーカサスとブルゴンド・ドゥチの間の土地に住む人々に激をとばした。暴動は戦いとなり、メフメト2世はアマスラ、カスタモヌとシノペを征服しトラブゾンに達した。皇帝にはオスマンによって強制された全ての条件を受け入れる準備があったが、トラブゾンは1462年10月26日にトルコ人に征服された。そうして、トラブゾンは黒海沿岸の中央と東方の重要な中心地になった。セリムはスルタンになる前に知事としてこの市を管理した。