大秦とセレス
大秦とセレスという言葉を聞いて、それが何を意味して
いるのか すぐわかる方は多いかもしれません。大秦は漢代から晋代くらいまで中国人がローマ帝国を意識して漠然と呼んだ呼称、セレス
は反対にローマ人が中国人をこれまた漠然と呼んだ呼称です。 これらの言葉に対して、ローマニア、 拂菻、 エーラーン・シャヒルと
聞いて なんだかわかる方は少ないかも知れません。 ローマニアとは、 カラカラ帝212年の勅令後、 ローマ世界は単一の領土を持
つ一つの世界との認識が広まった結果 4,5世紀に ローマ世界を示す言葉として定着した言葉。 拂菻 とは魏晋南北朝から唐代にか
けて 中国人がローマと その後継国家であるビザンツを呼んだ呼称です。 また、エーラーン・シャヒル というのはササン朝時代のイ
ランの正式国号です。 これらの言葉は前者に比べて まったく無名であると思われます。 我々は 通常 慣用的に用いられる用語を用
いて歴史上の国家を表現していますが、 実際に 当時その国家、地域、民族は何と自称、他称されていたのか について 実はあまり
はっきりとは知られていないのではないかと思うのです。 そこで 以下に少しまとめてみました。
中華
大漢 | 漢代中国の 自称。現代日本語風に訳せば「漢帝国」に相当する言葉になると思われる。 国内では自国民の自称は 秦人、斉人、楚 人などと言っていたらしく、「中国人」を意味する場合の対外的自称に「漢人」が定着するのは前漢代後半になってから かも知れない。 |
中華 | 中華の語が 使われ出したのは魏晋時代以降らしい。それまでは夏華、諸夏という語と中国という言葉があったらしい。 |
大秦 | 漢-晋代中 国人が西方の大国ローマを最初は漠然と 後には明確に示して用いた言葉。語源に関しては後漢書西域伝に、「その人民 は皆長大平正にして中国に類するあり、ゆえにこれを大秦と謂う」という説明があるとのことである。中国において 「大」を付けるのは単に王国規模を超える大国に冠するものであり、故に「大」がつく。また漢に匹敵する存在を他地 域・歴史上に求めれば前王朝の秦しかなく、故に「秦」と称したとか。(出典「岩波講座世界歴史 5 帝国と支配」 P29) 陳寿三国志にはもと中国人が西行して建国したとある。 |
大夏 | 漢代バクト リア周辺地方を示した言葉。今のアフガニスタン北部からウズベキスタン東南部を示す。 同掲書に 「夏」やはり夏王 朝からとり、領域を越えた大国だったから、との説がある。また 元夏王朝の中心地南陽郡は商業が発展しているので、 そこからとったとの説もあるらしい。バクトリア王国が繁栄していたBC3後半-2前半の情報に基づいて「史記」が書 かれたのだとすると前者の説が有力かと思われるが、張騫の副使は実際にバクトラまで行っており、当時のバクトラは月 氏とパルティア、サカ族の争奪地であり、弱体であったので、この説は難しいと思われるが、もともとバクトリアが強国 であり、秦末のような一時的な崩壊状態であると考えたのかも知れない。 |
大宛 | これも語 源がよくわからないらしい。地域はほぼはっきりしており、現ウズベキスタンのフェルガナ盆地という説が有力。大夏と 同様「宛」の国の人々は商業が上手かったからかも知れない。宛は南陽郡にあり、やはり夏の故地らしい。一体、安息、 身毒、番兜などは音訳なのに 大秦、大夏、大宛は意訳であるのは、やはり「大」に意味があったものと思われ、その理 由を明確に知りたいところである。 |
安息 | 漢代イランを支配してい
たパルティアは「アルシャック」と自称していたが、その音訳。漢代では胡音の音訳ではn/rの置換が起こったので「安
息」となってしまったらしい。次ぎの番
兜/樸桃も同様にn/rの置換がある。 「史記」にもある様に、パミール以西では最大の国とされている(史記の頃にはま
だ大秦は知られていなかった)のに「大」が付かず、国名がそのまま音訳されているのは何故なのか。どうにも不思議。
首都は後漢書に「和櫝(Hedu)*1」と記載され、ヘカトンピュロス、安息国の東の境界にある小 安息の都木鹿はメルブ(Mulu)とされている。條枝(条支)(TiaoZhi)はシリアとされる。因みに、黎轩(黎軒、犁靬、犁鞬、牦靬、骊靬/Lixuan)と烏弋山離(Wuyishanli)は、 「アレキサンドリア」と解することはほぼ定説となっているが、どのアレキサンドリアとするかで諸説がある。史記の 「北有奄 蔡、黎轩。條枝(条支)在安息西数千里」の記事について、読点の場所が筆写される過程で変わってしまい、本来は「北 有奄蔡。黎轩、條枝(条支)在安息西数 千里」だった、との説がある。この説によれば、エジプトのアレキサンドリアが有力となる。従来の読みに従えば、安息 国の北にある、ということで、中央アジアのアレキサンドリアに比定されることになる。烏弋山離はアラコシアとされ、 カンダハール(当時はアレクサンドリア)との説がある。また、「魏略」に登場する安谷城はアンティオキアと考えられ る。 *1「櫝」は日本語では「ひつぎ」と読む |
番兜/樸桃 | パールス (当時のギリシャ語でペルシャ地方。アラビア語ではファールス)の言葉で「パルタウ」のこと。パルタウはギリシャ語 で「パルティア」。つまり古来からの「パルティア」地方を示す言葉であり、当のパルティア人では「パフラウィーク」 といったらしい。この言葉はパールシーク(ペルシャ語)経由で中国に入ったので、「パフラウィーク」では無く、「パ ルタウ」が中国語に訳されて番兜または樸桃となったらしい。これに限らず漢代中国に入った言葉は皆パルティア語(間 際らしいが、これも「パフラウィーク」という)ではなく、パールシーク(ペルシャ語)経由であるらしく、中央アジア には 西北方言の「パフラウィーク」ではなく、 イラン南西部のパールシークが広まっていたらしい。理由としては、 アケメネス朝(南西イランパールスが中心)の滅亡とセレウコス朝の支配により、イラン人がギリシア人支配地の外へ移 住-逃亡したからかも知れない。 |
身毒 | 印度。パー ルシークでも シンド というらしい。ギリシャ語でもインディカ。 |
拂菻 | 魏晋南北朝から唐代のローマ帝国の呼 称。ペルシャ語の「フルム」の音訳。フルムは「ルム」のこと。ギリシャ語のルムは、イラン人には「フルム」という音 として耳に入るらしい。 |
波斯/波刺斯 | 北魏(6世紀)あたりからのササン朝の 呼称。パールスが語源。5世紀はまだ「安息」を使っていたらしい。玄奘の「大 唐西 域記」11巻では、波剌斯の都は蘇 剌薩儻那(苏剌萨傥那)と記載されており、これはサンスクリット語のsurasthāna(神の居所)という単語に相当すると解釈されているとのこと。古代ペルシア語では神 の居所はBagahstāna(Bagastāna)と記載したとのことで、単語の後半部のstanaは、サンス クリットと古代ペルシア語で同音となっている。 |
大食 | イスラムのこと。語源はパールシークで 「タージック」。ササン朝がアラビア半島の民族をこう呼んだらしい。タージックとは、アラビア半島北部のササン朝の 国境付近にいたアラブ系部族。 |
イラン
アシュ カニアン | 現代イラ ンで アルシャックを示す言葉。従ってAshkanian Dynastyとはアルサケス朝パルティアのこと。 |
アルシャック | アルサケ ス朝のこと。本来当のイラン人でさえ用いないパルティアという言葉を用いるべきではなく、アルシャックか、アシュカ ニアンを用いるべきではないだろうか。慣用的にはパルティアが流通しているので仕方が無いのかも知れないが、パル ティアの用語をイラン史において用いつづけることに意味があるとは思えない。 |
パフラウィーク | パルティア語。あるいはパルティア 地方。この言葉のパールシーク(ペルシャ語)が パルタウ。これをギリシャ語で「パルティア」と呼んだ。 因みにパ フラヴィークは北西イラン方言で アケメネス朝の前のメディア王国の言語に近いらしい。だからパフラヴィークは中世 メディア語であるとの説もあるらしい。パールシークは南西方言。 |
アルヤーン | パルティ ア時代のイラン人の自称。語源は「アーリアン」(アーリア人)。地域名はアルヤ。 |
エーラーン・シャフル | ササン朝 の正式国号。エーラーンはアーリアンのこと。パルティア時代のアルヤーンが転化したもの。シャフルとは「国」。エーラーン・シャフルとは「アーリア人の国」の意味。シャ フルの語源はアケメネス朝時代のxšaθra(フシャスラー)で「州」を意味し、ギリシア語ではサトラペス(日本語では一般にサトラップと記載される)と訳された(詳細はエンサイプロペディア・イラニカの”ĒRĀN, ĒRĀNŠAHR”をご参照ください)。 |
パールス | イラン南 西部。アケメネス朝、ササン朝発祥の地。ギリシャ語でペルシャ。アラビア語でファールス。パールシークはパールス語 の意味。(ファールシーはファールス語)。従ってペルシャという言葉も ギリシャローマ史側から呼ぶときは問題はな いが、イラン史で使うのは 本来おかしいものと思う。これも本来の形に戻して、イラン史においては パールスを用い るべきではないだろうか。 |
ハカーマニッシュ | アケメネス 朝のパールシーク表記。これもこっちを用いるのが正式だと思うが、アケメネス朝はギリシャ人も仕えた世界帝国だか ら これでいいのかも。 |
バシレウス バシレオン | アルシャック朝における王号。王の中の王=「大王」を意味 する。これはギリシャ語だが、アルシャック朝はギリシャ語でコインを鋳造しており、そこにこの言葉を用いていたの で、王の称号は「バシレウス バシレオン」も正式なものらしい。 古代においては、称号上の訳はローマ「皇帝」とペ ルシャ「大王」ということで区別されることになるが、後世ビザンツ時代皇帝の称号にバシレウスが採用されたりしたこ とや、実質上の意味からすると「王の中の王」は「皇帝」という意味にもなると思われる。 |
シャーヒーン・シャーフ | 「バシレウ ス バシレオン」のパフラヴィーク。アルシャック朝時代の正式王号。 |
シャーハーン・シャーフ | 中世ペル シャ語(パールシーク)の「大王」。サーサーン朝時代の正式王号。 |
マルカーン・マルカ・イラン・ ワ・アニーラン | これもサー サーン朝時代の正式王号らしい。イランとイラン以外の地の諸王の王という意味らしい。 |
クシャヤシーヤ・クシャヤシーナ ム | アケメネス
朝の王号。「王の中の王」。メディア王朝から受け継いだ言葉とのこと。 ア ルシャック朝のシャーヒン・シャーフ、サーサーン朝のシャーハン・シャーフはこれを受け継いでいる。ダレイオスが用 いた「偉大なる王、諸王の王、諸国の王」は古代ペルシャ語で「xsayathiya vazradka、xsayathiya xsayathinamu、xsayathiya dahyunam」となる。「偉大なる王」はギリシャ語だと「basileos megas」、「諸王の王」はbasileus basileon」 |
ローマ
S.P.Q.R | Senatus Populusque Romanum。(-queは前置詞)ローマの正式名称。 「ローマの元老院と市民」 |
Imperium Romanum | 「ローマの命令権(の及ぶ ところ)」の意味から転じて「ローマの支配地域}=「ローマ帝国」という意味をもつようになってゆくらしい。従って ローマ帝国の成立とはオクタヴィアヌスによる元首政の開始にあるのではなく、Imperium Romanumが地 中海世界に拡大した時になる。それは概ねBC168年からBC64年の間に求められる。 |
ローマニア | 212年カ ラカラ帝がローマ市民権を全帝国民に付与したことから、従来の、ローマ市民とそれ以外の違いが消滅し、都市ローマと 「ローマ帝国」の違いも無くなった。「Inperium Romanum」は単一の領土を持つ国家となり、ギリシア 風に「ローマニア」と呼ぶ呼称が4~5世紀には浸透・定着したらしい。史料上では、373年のアナスタシオスの著作 に現れ、「ローマ人の居住地域」を意味したとのこと。しかし「ローマニア」という言葉・概念が定着した時は 既に西 方ローマが滅びつつある時だった。中国に「フルム」という国名が認識されるのも、この「ローマニア」の定着後のこと かも知れない。ローマ人は「ロマヌス」。 |
セレス/セリカ | ローマ人が 絹の産地である国をセリカと呼び、その国民をセレスと呼んだ。しかしこれは必ずしも中国を直接示していたわけではな く、東トルキスタンの王国を示していた可能性もある。寧ろシナエの方が東方の大国として認識されていたようでもあ る。 |
シナエ | インド経由 で今の中国南部を示した言葉。セリカとシナエは同一の国とは思われては入なかったらしい。しかしいつの時点からかセ リカとシナエは同一と認識されるに至った筈だが、それがいつなのかわからない。4世紀のマルケリヌスの時はまだ同一 とは思われておらず、しかしユスティニアヌスが突厥にゼマルコスを使者として送った頃には理解されていたらしい。 |
皇帝の称号 | インペラ トール、カエサル、アウグストゥスとあり、当時の小説にはカエサルの語がよく使われているようであり(「黄金のロ バ」「サテリコン」ルキアヌス著作、聖書など)、正式称号はアウグストゥスのようであり、カエサルは後に「副帝」の 称号になるらしい。 |
ビ
ザンツ
ローマニア | 史料上では、373年のアナスタシオスの著作に現れ、「ローマ人の居住地域」を意味し たとのこと。中国に「フルム」=拂菻という 国名が認識されるのも、この「ローマニア」の定着後のことかも知れない。ローマ人は「ロマヌス」。 |
ビュザンティオン人 | 「ローマニア」とは別に、首都コンスタンティノープルの住民は、ビュザンティオン人と 呼ばれることもあった。ヘラクレイオス時代にはなお、ビザンティオンと一般には呼ばれていた。これに対して コンスタンティノープルとは正式名称だった。 |
バシレイオス | 629年、ヘラクレイオス帝が、「キリストに忠実なバシレイオス」と変更した。従来 は、「インペラトール、カエサル、アウグストゥス」 |