古代インド千年の都 パータリプトラの景観
パータリプトラは、前5-4世紀頃に建設され、古代インドのマガ タ国の都として約千年間栄えた都です。1000年間も都として栄えた古代都市というと、永 遠の都と称されるローマがあります。また、中国には、日本の京都の別称となり、”上洛”というポピュラーな日本語にまでなっ ていて、「洛陽伽藍記」という 書籍まで編まれてしまう程繁栄を誇り、断続的とはいえ1500年間近く都であり続けた洛陽があります。ローマや洛陽と比べる と、パータリプトラは知名度が 低いだけでなく、文学的な賞賛の文章も読んだ覚えがありません。古代インドの中心都市のひとつとして、千年も栄えたのだか ら、どこかに都の賛歌や遺跡が残ってい るのではなかろうか、と思い調べてみました。 パータリプトラは、紀元前5世紀マガタ国のア ジャタシャトル王によって建設されたとされ、次のウ ダーイン王の時に都となり、7世紀に玄奘が訪れた時には殆ど廃墟となっていたものの、千年以上にわたり、北イン ドの中心都市のひとつとして繁栄した。現在遺跡は殆ど残っていないが、遺跡、発掘記録、現地調査資料、古代文献史料、 Google Mapによる地形観察により、おおよその輪郭と景観がつかめるようになりました。 1. 古代文献(メガステネス、ストラボン、アッリアノス)に登場する古代インド半島の地形 |
1.古代文献(メガステネス、ストラボン、アッリアノス)に 登場する古代インド半島の地形
古代文献に記載されたパー タリプトラの平面プランの文献数値の信頼度を測る為、古代文献(ギリシア・ローマの文献)に記載された古代インド半島の地形 を確認してみました。古代インド半島の地形やサイズがある程度、実測値に近いのであれば、古代文献に書かれたパータリプトラ の町の形状やサイズの記載も、史実度が高いのではないか、との考えからです。 |
メ ガステネス(セレウコス朝からマウリヤ朝に派遣された使節。「インド誌」を記す)。 引用元は、古代ギリシア文献の翻訳サイト「バルバロ イ!」のメガステネスを引用したディ オドロス(前1世紀ギリシア人文人)の第2章35節 「インディケー全域の大きさは、一般には、日の出の方角から日没の方角までが28000スタディオーン、熊座の 方角から南中の方角までが32000スタディ オーンといわれている。大きさがこれほどであるので、何よりも先ず、世界の夏至地帯〔夏至から秋・春分までに太陽が 真上を通る地帯。緯度が23度27分ま での熱帯地方〕を含んでいると思われており、インディケーの〔南端の〕岬地帯では、多くの場所で、日時計の影が消え、夜は、熊座 が見えなくなるのを眼にす ることができる。また〔南の〕最果ての地では、北極星そのものさえ姿を見せることがない。話によると、この地帯になると、影も南 中の方角に落ちるという」 |
1スタディオーンは180mなので、メガステネスの記録によると、東西28000スタディオ ン=5040km、南北32000スタディオン=5760kmとなる。現在のインド共和国は、東西2500km、南北 3000km程。パキスタンを含めると東西3000km程。メガステネスの時代は、現在のアッサム州に相当する、バングラデ シュ以東は認識されていなかったかも知れない。恐らく、メガステネスの考えるインドは、現在のパキスタンからバングラディッ シュ西部あたりまでなのではないかと思われる。その場合のインドは東西2500km程となる。メガステネス記載の値 5040kmと5760kmの東西:南北比率は1:1.43。現在の同じ地域の実際の値は2500km:3000kmで、 1:1..2となるので、メガステネスの記載した距離は、縮尺においては、実際の値のほぼ倍となるが、地形の 認識はほぼ正確と言えそうです。 |
前一世紀のギリシア人学者ストラボン15巻一章の11-12節に引用されたメガステネス (引用元は、古代ギリシア文献の翻訳サイト「バルバロ イ!」のメガステネスの項目から)
西側辺についてはカウカソス山脈から南方の海へ向かってその長さ13000スタディ
オーンといい、この辺はインドス河源からその河口までにあたる。した
がって、東側の沿岸はこの河と向かい合い、岬の長さ3000スタディオーンを加算すると16000スタ
ディオーンとなる。以上がこの地方の幅のうち一番狭
いところと一番広いところである。 さらに、再びこの距離に、岬が東向きにさらに出ている分だけの長さを加算するから、この長さ
3000スタディオーンを加えると、長辺のなかの一番長い部
分になろう。この数字はインドス河口からそれに引きつづいての海岸に沿い上述の岬と岬の東端に至る間の距離で、岬地域には
「コニアコイ族」が住む。 |
下記は、Wiki のエラトステネスの英語版記事に掲載されている世界地図である。左が世界全体で、左画像の右下がインド半島の部 分。右画像は、インド半島を拡大したもの。ストラボンの記載によると、西辺の南北は13000スタディオン (2340km)、東辺は、16000スタディオン(2800km)、西辺からパータリプトラ(パリポトラ)まで10000 スタディオン(1800km)、パータリプトラから東辺まで6000スタディオン(1080km)、東西の距離合計 16000スタディオン(2880kmと)なる。パータリプトラは、インド半島の北部にあるので、ほぼ北辺が2880kmと なる。南辺の東西の距離は、更に3000スタディオン長く、19000スタディオンとのことなので、19000スタディオ ン=3420kmとなる。 つまり、西辺2340km、北辺2880km、東辺2880km、南辺3240kmとなる。現在のパキスタンから東イン ド国境に至る東西2500km南北3000kmと概ね一致する。方角については、現実のインド半島を左に傾けた形となってい るが、距離、形状ともにほぼ現状に近いことがわかる。 |
なお、メガステネスを引用した古代文献には、インドの大きさについて、異説も記載されている。大きなサイズの 記載は、ディオドロス引用の説に近い。
ストラボン2巻1章の7節に引用されたメガステネス (引用元は、古代ギリシア文献の翻訳サイト「バルバロ イ!」のメガステネスの項目から) ヒッパルコスは『注釈書』第2巻のなかで主張する、エラトステネース本人が、インド地方の北側辺の長さについてパトロク レースとメガステネースと一致し ていないとして、前者の証拠を非難して、メガステネースは16000スタディオーンと説明するのに、パトロクレースによると これより1000スタディオー ン少ないという。 ストラボン2巻2章の4節に引用されたメガステネス (引用元は、古代ギリシア文献の翻訳サイト「バルバロ イ!」のメガステネスの項目から) デーイマコスとメガステネースとの二人が彼〔パトロクレース〕に反対証言している、すなわち彼らは、南方の海から(北端 へ)の間が、所によっては 20000スタディオーンあるいは30000スタディオーンになる部分もあると述べていると 〔ヒッパルコスは〕いう。 2世紀のギリシア人文人アッリアノスの「インド誌」3章7節に引用された メガステネス (引用元は、古代ギリシア文献の翻訳サイト「バルバロ イ!」のメガステネスの項目から)
ところでメガステネースの場合は東から西へ、他の記録者たちが「長さ」としているところを、インドの土地の「幅」と見てい るが、このメガステネースはそ の幅の最も短いところを16000スタディオーンと伝えている。北から南へというのが彼の場合、「長さ」とな るわけだがその延長は、その最も狭まったとこ ろで22300スタディオーンにも及ぶのである。 |
2.古代文献(メガステネス、ストラボン、アッリアノス)に 登場するパータリプトラの地形
これは、北インドの地図。右下のPatna(パ トナ)の町が、かつてのパータリプトラです。ネパールに近く、北インドにあることがわかります。ガンジス川とヤ ムナー川の合流点から、少し東にあります。現在の地図で見ても主要都市(2011年168万人)であることがわかります。 |
下は、Google Mapからの現在のパトナ(パータリプトラ)の町付近の映像。中央中洲の南側が現パトナの町。だいたいこの画像の横が20kmに相当する。ビハール州の州 都。西から東に流れているのがガンジス河。北から二本の河がガンジスと合流しているように見えるが、西の川はガンジス川の分 流。20km程西で分岐し、この地点で合流している。北から合流している東側の川がガンダク川。2世紀 の文人アリアノスは、この川を「エランノボアス川」*1と呼び、インド第三の川と記しているが、恐らく現在のインドの川では ベスト10にも入らない。右手では、川が南北に分かれているように見えるが、これはガンジス川の分流である。30km東で合 流している。画像では、東西を走るガンジス川と3本の支流があるように見えるが、実際には、ガンジス川とガンダク川の2本が 映っている。 *1 「エランノボアス川」は、現在のソン河である可能性もある。現在のソン河は、パトナ市西 20km地点でガンジス河に合流しているが、古代には、現パトナで合流していた可能性がある。現在のパトナ市南に、旧ソン河 河床が見られている(旧ソン河河床付近に、現在も河が流れているが、これは、遡ってもソン河に合流しない)。 |
さて、古代文献(ストラボン(に引用されたメガステネス)とアッリアノスでは、パータリプトラの形状は、以下 のように記載されています。
ストラボン15巻1章の36節に引用されたメガステネス (引用元は、古代ギリシア文献の翻訳サイト「バルバロ イ!」のメガステネスの項目から) この(ガンゲス河)ともうひとつの河が落ち合うところに(scil. メガステネースの主張では)パリボトラが築いてあり、市域は長さ80スタディオーン、幅15スタディオーンで平行四辺 形をなし、木造の周壁があって壁に穴 をあけ、それらの穴を通して矢を射るようにしてある。壁の前方に壕もあって、防御用であると同時に市から出る 排水をも受けている。
アッリアノス「インド誌」巻10章に引用されたメガステネス (引用元は、古代ギリシア文献の翻訳サイト「バルバロ イ!」のメガステネスの項目から) インドの町の数はその数あまりにも多いために、正確にかぞえ上げることができない。町のうちでも川のほとワとか海岸沿い
にある町は、いずれも木で建てられ
ている。[3]煉瓦造りだと雨のため、それに川水がよく岸の土手を越もえて、平地を一面水浸しにするため、長年にわたって保
たないからだ。[4]これに反
して平地を見下ろす高台の、〔川筋から〕離れたところに建てられた町はどれも、煉瓦や粘土でできているのである。 |
町は平行四辺形で、長い方が80スタディオン(14400m)、短い方が15スタディオン(2700m)、木造城壁の周囲に は濠が巡らせてあった、とされています。Google Mapの地図に、現在も残されている濠や運河、川を探してみました。この画像は、「画像だけを表示」を選択すると、1280*851ピクセルのサイズ(こ の画像の約1.5倍)に拡大できます。
西側の●のラインは、運河では無く、 運河跡でもありませんが、広い直線道路と南北に長い公園地帯(大学などがある)が走っており、ここも以前は濠があった可能性 がありそうです。●のラインは、痕跡は何も残っていませんが、●●●を繋いだ線です。更に西側緑色の○は、 城壁と濠の一部が発掘された遺跡です。これらを合わせると、東西に長い長方形に近い都城跡が浮かび上がります。中心部に、宮 殿遺跡(クムラハール村にあるクムラハル遺跡)があることになります。なお、画像下の緑点は、各点の間が1kmを示し、都城 東南部に蛇行する河川が見えているが、これもかつてはソン河につながっていた可能性もある(現在はソン河と並行して走ってい るだけで、合流はしていない)。 |
●の部分は、現在も残る濠、お呼び画像でも明確にわかる濠の跡のうち、都城城 壁に沿った濠の名残と思われる箇所です。東北部は、一見ガンジス河の中洲により形成された支流のように見えますが、拡大して みると、濠のようにも見え、支流なのか、濠なのか、判別し難いところです(幅は100m以上あり、「180m」とのメガステ ネスの記載に近い)。南東角の南辺は、「古ソン河河床」とされる部分で、画像を拡大すると、東南角から東に向けて古河床が続 いているのが、画像から見て取れます。 また、南側と西側にも、直線に走る運河があります。西側は、実際 には川なのですが、直線・直角に整備されていて、以前は濠だった可能性がありそうです。 ●の 部分は、運河です。古代から存在していたものか、近年整備されたものかの判別はつかないのですが、ポイントは3つあります。 ①東北の東西に走る●部 分は、正確には運河ではなく、●線の北と南側に断続的に池があります。元運河だったのか、都城の中の 公園だったのか判別できませんが、西側に伸びる②の運河に連結できるラインを描いているので、①の池の繋がりが運河だった可 能性があります(この池も、一部南北幅200m程のものもあり、濠の幅180mとのメガステネスの記載に近い。 ②西北地点で東西に走る●は運河です。 ③中央南北に走る●、 中央南で東西に別れ、その先で南に直角に折れる●は、近年に整 地された可能性もありますが、中央■で表示されている宮殿遺跡の側を 直線的に通過していることから、宮殿区画の内城の濠だった可能性もありそうです。 |
Google Mapから見て取れる区画は、南辺約13km、東辺約3km、北辺約14-15km、西辺4kmとなります。メガステネスの記録、東西の長い方が 14400m、幅2700mという記載とほぼ一致することがわかります。周囲は約35km、これは漢長安城の周25km、 275年に完成したアウレリアヌス帝のローマ城壁19kmより大きい。同時代のバビロン城は内城周約7km、外城周囲約 10km(Wiki の平面プラン)、古代ペルシアの都、スーサ城(Wiki の平面プラン)の2km四方よりも圧倒的に大きい。アッリアノスは「メムノンのスーサがいかに豪奢な栄耀を誇ろ うとも、またエクバタナの壮大をもってしても(そして思うにあのペルシア人のみがかかる比較を致させるのであるが)決して匹 敵できない」と(丸山次雄p89)あるが、都城の規模だについては、前3世紀の初頭にあっては、世界最大の都 市だったと思われる。現在の市域の東半分が古代パータリプトラの西半分と重なり、街の規模全体としては、古代と現在はあまり 変わらない感じ。 |
3-1.発掘 の歴史
① 19世紀、Cuningham(カニンガム)とJ.D.Beglar(ベグラー)は、法賢、玄奘に記載されたパータリプトラを数次に渡って探したものの、 成果はあがらなかった。一時は都城はガンジス河に流されてしまったものと思われたが、1892-98年に、L. A. WADDELL(ウォデル)の数次に渡る発掘により、ギリシア式円柱や、木柵が発掘された。1897-8 年には、P.C.Mukherjiがチャンドラグプタ二世のコインと円柱の破片を発掘した。 ② Bankipurの発掘 ウォデルの発掘レポートによると、古代パータリプトラの西側は、Bankipurと呼ばれる場所まで広がっていたとあ り、そのBankipurとは、英領インド時代にBankipur Jail(バンキプール刑務所)があった場所かと思われる。現在Bankipur Jailと呼ばれている場所は、Google Mapによると、上画像西側の○の 地点にある。ウォデルが発掘を行ったのは、1892年のことで、彼の報 告書(こちら)は1903年に出版されている。その報告書に、1876年の発掘報告の引用がある。その引用で は、Bankipurから300m程南東部でのパータリプトラ駅での発掘で、12-15フィート(4-5メートル)掘り下げ たところに南北に走るレンガの城壁があり、それは100ヤード(90m)以上続いていた、更に、8-9フィート(3m程)の 木の柱が見つかり、城壁跡に並行して濠が走っていた、とある。発掘者ウォデルは、北側は濠は無く、そのままガンジス川に面し ていた、としている(上画像中、北側の●線を濠と考えると、北城壁の西 部はガンジス河に面していたことになる)。1876年に行われた発掘は、正式な調査ではなく、パータリプトラ駅を造成してい てたまたま発見されたようである。古代から放棄されず、人が住み続けたようなので、英国が発掘を始めた頃には既に古代の市街 の上に住居が多数建設されてしまっていて、全面的な発掘がなされないまま、現在に至ってしまっているのではないかと思われ る。 ③ クムラハルの発掘 1912-13年にインドの英国発掘局(British Archaeological Survey of India:現在のArchaeological Survey of India(ASI))に所属する唯一の米国人考古学者David Brainerd Spooner( -1925年:スプーナー)がタタ財団の援助を得てクムラハールを再度発掘し、グプタ時代、或いは8世紀のものと思われる仏教寺院のレ ンガ壁を発掘した。 -グプタ時代のレンガ 建築の図面は、こちらの古代イラン総合サイトCAISに掲載されている。 -グプタ時代のレンガ 建設の遺構(発掘時と思われる写真1)はこちら。同 写真2はこちら。 彼は、更にその下の約30cmの破砕した石柱破片の層と木炭と灰の層の下に、4.57m間隔で、10列x8行で配列され た円柱の破片を発見した(発 掘時の破片円柱の写真はこちら(同サイト))。ここが、クムラハール遺跡公園として公開されている場所である (80本以上の可能性もある)。図 面は古代イラン総合サイトCAISに写真が掲載されており、一部の柱は木で支えられていた。この木造基壇は、 1950年代A. S. Altekar(アルテカール)とV. Mishra(ミシュラ)の調査で、広間に直接つながっている船着場(ガンジス河かソン河のどちらへの運 河かは不明。運河は幅13mで深さ3m))だと判明したとのこと。現在は、破片が円柱基壇跡に置いてあるだけで、石造の円柱 基壇跡そのものがある訳ではなく、木造の基壇遺構は埋もれているとのこと。 -木造基壇は、80列柱宮殿遺跡図 面の下部(古代イラン総合サイトCAIS)に描かれている。 -更に、木 造基壇の拡大図はこちら(この画像の左上に木造基壇の断面図が記載されている(同サイト) 80列柱宮殿がシュンガ朝時代(前180頃-前68年頃)頃に火災となった後、列柱の頭部まで灰で埋もれた段階で、石柱 片などで地ならしされ、その上にレンガ建築が建設された、と考えられる。列柱が現存していないことに対して、スプーナーは沈 降説を唱えた。柱がグプタ時代のレンガ建築物の重量で沈み、その後の火災の灰が、柱が沈下してできた穴に埋まったを唱えた が、1950年代の調査で、沈んだ柱は発見されず、盗掘された可能性が高いことが判明した。盗掘された後、灰や石柱の破片が 穴に埋まったものと考えられている。また、円柱の木造基壇に穴が開いていないことも、その下に沈降した柱は存在し得ない証明 となった。いづれの説にしても、列柱宮殿は、法顕や玄奘が来る前に消失していた。 当初スプーナーは、アケメネス朝ペルシア人工人の指導のもとにパータリプトラ宮殿が建設されたと想定していたが、ペルセ ポリスへ見学に行き、マウリヤ人自身がペルシア人だったとの構想を抱くに至ったようである。1915年、彼は発掘レポートと ともに、「インド史上のゾロアスター時代」という論文を提出した。彼は死ぬまでペルシア理論をとっていて、その強いペルシア 信奉は、ブッダが出たシャカ族、マウリヤ朝の起源、仏教起源をペルシア人に求めたとのこと。クムラハルの発掘は、西南方面へ と向けて続けられ、壁が発見されたが、そこから先はイスラーム教徒の共同墓地となっていて、それ以上の発掘は断念させられた (後の1950年代の調査で、周囲にマウリヤ時代の遺構は無いことが確認された。宮殿に周壁は無く、木造の床も無かった)。 80柱の間の船着場木造遺構の写真は、現在のものは一切見つからない為、その後埋め戻された可能性がある(Google Mapで見ても何も見つからない)。以下左がペルセポリス百柱の間(ペルセポリスは百柱の間以外の多数の建築物が似たような 列柱構造である。Wikipediaから)。右がクムラハル遺跡(CAIS のこちらの頁から。ちなみにこの記事には、スプーナーが東京大学で学び・教え、高 楠順次郎(辻直四郎の先生)に師事したとあり、スペイン語、フランス語、日本語、中国語を読むことができた、と ある)。 |
同CAISの頁によると、1950年代の調査以前は、スプーナーのペルシア説は、反ペルシア、 インド・ナショナリズム的見地から黙殺されていたようだが、1950年代の調査で、周囲にマウリヤ朝時代の建築物が見られな いことから、80列柱宮殿は孤立した建築物であることから、インド人建築家によって建設されたものとされたとのこと。個人的 には、マウリヤ朝がペルシア人王朝という説は無く、80列柱宮殿が、インド人技術者によって建設されたものだとしても、ペル セポリスの建築の影響が全くないとは言えないと思います。ペルシア人ではなく、ギリシア人かも知れない。
④ ブーランディバグの発掘 1903年、クムラハルの北西部、Bulandi Bagh(Bulandibagh/ブーランディバグ)で(恐らく距離に して数百メートル以内)、ウォデルがアーカンサス模様のある石柱断片を発見した。1913年スプーナーは、モンスーンで水浸 しとなったクムラハルの発掘を断念し、ブーランディバグを発掘し、450フィートに渡る木柵を発見した。1926-27年に はJ.A.Page(ペイジ)とM.Goshが発掘領域を拡大し、137mの木柵の構造とレンガ構造物を発掘した。その時の 木柵遺構の写真が下の写真(この写真は、「世 界の歴史―ビジュアル版〈4〉悠久のインド 」p75から)。 |
二本の大木が並行に走り、その間に枕木が置かれ、更に垂直に枕木が立ち上がっていたとのこと。 1935年にはブーランディバグの東で800mの同型の構造物がGosainkhandaという場所で発見され、ここでは、 垂直枕木が、蓋を閉めるように上部に枕木があったとのこと。「木柵は幅が広く中央部に通路と思われる中空の部分があったこ と、木柵はある高さまで覆土で覆われていたこと、端末には門址(原文は誤植で手偏となっている)らしい開放部があったらしい こと、木柵は一定の間隔、恐らく幅(14'6")と等間隔に堅牢な枕木で底部と頂部が補強されていたこと(丸山次雄 「パー タリプトラの都市形態」「都市形態の研究:インドにおける文化変化と都市のかたち SD 臨時増刊p85)」 なお、スプーナーのクムラハールとブーランディバグの発掘では、貨幣や、笑う少年や踊り子を 象ったテラコッタ製の人形、石とガラス製のビーンズ、封泥、マウリヤと刻印の入ったガラス製の印章、木製の車輪のスポークな どが見つかっているとのこと。スプーナー以外でも、1920年代の発掘では、多くのテラコッタや陶器が発見され、時代も、マ ウリヤから、シュンガ、クシャン、グプタ朝に渡っている。 -参照資料 ①、Google Booksの「An Encyclopaedia of Indian Archaeology」のPatnaの項目(p334-35) ② 古 代イラン総合サイトCAISの「The Achaemenids Persepolitan Legacy In India」 ③ 丸山次雄 「パータリプトラの都市形態」 (「都市形態の研究:インドにおけ る文化変化と都市のかたち SD 臨時増刊 鹿島出版所出版会 1969年」所収p82-91)
3-2.パトナの遺跡一覧 パトナ市のサイトの「The Explorations and Excavations at Patna」頁から引用。 ① The Pancha-Pahadi mounds クムラハル村の東南 3/4t(単位不明、上記サイトに本当に「3/4t」と書いてある)、アガムカーン(後述)の南へ同距離地点にある、 3000フィートx600フィート(1kmx200m四方)の墳丘。 現地ではPanch-Pahadi または ‘5つの丘’として知られている場所(時代に関する説明が無いのが残念。墳丘なので、先史時代のものだろうか?).
a. The Badi Pahadi :- もっとも標高の高い墳丘で2つの墳丘からな る。Badi Pahadi (より大きな丘、の意味)と呼ばれ、麓に同名のむらがある。 b. The Chhota Pahadi :- 上記Badi Pahadi の北に位置し、北側に小さい集落がある。 c. The other mounds :- 上記ChhotaとBadi Pahadiの間にあり、他より小さく低い墳丘。 d. The Bhikhna Pahari :- 市街にあり、パトナ大学の一キロ南にある。高さ20フィート(6m程)
② Kumhrar Site :- Google Mapの座標は 25.600156,85.184813 です。上記Bhikhn Pahadiの丘の東南2kmにあり、ガンジス川から1km地点にある。.
こちら のサイトからクムラハール遺跡公園の案内板を引用。この看板の方角表示は誤りで、左側が北、上が東です。インド クオリティなのかも。右の同公園をGoogle Mapで見たところ。看板に合わせて、北を左にしています。 |
クムラハールには以下の4箇所の遺構がある。市サイトの説明とWikiのクムラハル遺跡の遺構の記載とは若干異なっている。
Wiki のクムラハル遺跡の記載
クムラハール遺跡の 写真については、古代インド研究者上杉彰紀「南 アジアへの招待」様のサイトに詳細情報がありますので参考にしてください(TOP->考古遺跡-> 北インド・初期歴史時代の遺跡)。 ③ Bulandibagh :- クムラハールの西北そば。1892年にウォデルにより発掘された。ムハンマドの子孫の墓に関係しているらしい。. ④ Sandalpur :- Bulandbaghの北側そばにある集落遺跡。 ⑤ Rampur :- Bulandibagh の西側にある集落遺跡 ⑥ Bahadurpur :- Bulandibagh南西、Rampurの南にある集落。
⑦ Daudbigha(Nayatola and Laskari Bibi) :- Bulandibagh の南か東南にあり(the south or south-eastと書いてあるのもインドクオリティかも)、Mukherjiによって1897年に発掘された。
⑧ Prithwipur :- RampurとBahadurpurの西にある集落跡。
⑨ Lohanipur :- Bulandibagh.の西1.5km。
⑩ Kadamkuam,Bakerganj nearBhikhna Pahadi,Muradpur,Golakpur etc. in the main city area :- Lohanipurの北に Kadamkuanがあり、そのもう少し北にBakerganjがある。
⑪ Jamuna Dhih :- 現パトナジャンクションの西、現 Bankiporeにある。
⑫ Maharaja
Khanda :- パトナ市東部にある、Tulsi
Mandi、Murtizaganj Sewai、Manglesなどの池群
⑬ Agamkuan, Khaaunia & Stone Trough :- アガムカンは”底なし井戸”の意味。Gulzarbagh鉄道駅の東南そば、 Panch-Pahadiへ向かう途上にあり、この井戸の水は崇められていて、飲めない。地元の人々は井戸は底なしで地 獄かパタラ(インド宇宙論での地下世界)に通じていると信じられており、 大洋で無くなった木片が、この井戸で見つかった、とされる。アガムカンの南半マイルには、Kharauniaと呼ばれる古い場所がある。.
以下3箇所は説明なし。ここまでの英語も内容もかなり怪し げだが、中途半端に終わっているところが、市の公共サイトにしてはインドクオリティかも。
⑭ Moulds & Sites on the southern outskirts of the city :- a.Nauratanpur b.Bewa
⑮ Sites along the river Ganges :-
⑯ Some Othe sites :- a.The river bed b.Didarganj c.Quila House of Jalan クムラハールの遺跡写真はKumhrar または Kumrahar、Anand Biha、Arogya Viharなどでgoogle 画像検索をすると、いくつか出てきます。 因みにWikiのヒンディー語のパータリプトラの項目は記載が2行しか無いので、インドの一般庶民は あまりパータリプトラ遺跡に興味は無いのかも(ネット上にヒンディー語の映画があふれていることから、一般庶民がネットを使 えない程の低所得とは思えない)。一応パトナ市のパータリ プトラ遺跡紹介サイト(英語)はあります。これによると毎日100人の人が訪問しているようです。 |
1.遊 女の足蹴(500年頃の作) 収められている4つの物語のうち、第二話「極道と通人の対話」と第三話「逢い引 き」の舞台がパータリプトラ。「極道と通人の対話」では、 ここ花の都(クスマプラ)は、ただ「都(ナガラ)」と言っただけで通用するように、他の町と は比べ物にならない素晴らしさだ。立派な建物が立ち並んでいます。人々で賑わい、品物が溢れていて、その繁華の有り様には びっくりしてしまう(略)。寛仁の大人が多く、技芸が尊重され、婦人たちはそつなく愛嬌をふりまく。富者はおごらず、無学な 人々も嫉みの心を持たず、人はみな会話の作法を身につけ、恩義に篤くお互いの長所を認めあう。ああ、パータリプトラの都!天 の神さえ天上を去りて、この都に幸福を求め降臨さるべし。 とあり、以下市井の雰囲気の伝わる描写が豊富にあります。「逢い引き」では、 おお、花の都(クスマプラ)の大路のなんと素敵なことでしょう!ここでは路々は、水を撒か れ、きれいに掃かれ、さまざまな花の束で飾られて、よその屋敷の中にある内房のように整えられています。いろいろな商品を売 買する人たちで、奥の市場の正面はたいへん賑やかです。ヴェーダの詠唱、音曲の響き、弓弦の音など聞こえて、並み合う屋敷は お互いにおしゃべりしているようです。ちょうど、十面のラーヴァナの顔のように。そしてまた、貴顕たちは、立派な馬や象や車 に乗って、あちこち行き来されて、華やかなもんです。走り使いの若い女たちも、身に飾りをきちんと付けて、若い男の眼と心を 奪い取るべく、いたずらっぽく走り回り、天の都の美女たちすらをも嘲り笑い飛ばすばかりです。すべての男たちの眼という蜂で その蓮の顔容を吸われている美しい半玉さんたちは、大通りに祝福を与えてやるように、足取り軽く、さんざめき歩き回っていま す。 衆人、恐れなく、顔、顔も朗らかに、祝福に明け暮れ 吉祥の宝玉にて身を飾り立て、香、花環、美服をまとい、 遊興のふけりつつ、世に名高きさまざまな美徳を身につける。 かかる衆々の方々のお陰にて、パータリプトラなる華飾を額に頂きたる、 この大地は、今まさに天国とぞ見ゆるかな! という感じで、街の雰囲気が非常によく伝わってくる描写が続きます。
2.遊 女の手引き(8世紀の作) 本書は枠物語で、枠の中に2つの話が登場する。最初の挿話の舞台にパータリプトラが登場す る。以下パータリプトラの描写の冒頭の詩節を引用。 「大地の[前額の]粧点であり、サラスヴァティー女神の高貴な家であり、城塞の破壊者(インド ラ)の住居にもまさる、パータリプトラという大きな町がありました。 〔その町は〕、あたかもヴィシュヴァカルマン(造一切神)が、ヴィリンチャ(ブラフマー神)の 質問に答えて、三界の大城を完成する腕前を持っている、自分の技術を示すために作られたようなものです。 (その町は)悲運によって挫けることもなく、屈辱の痛手に屈することもなく、不幸に支配される こともなく、末世の汚辱に舐められることもないのです。 〔またその町は〕逸楽(蛇)によって〔蛇の棲む〕地獄の底に〔比せられ〕、さまざまの宝石の堆 積によって大海に、賢者たちによって神の住居に、富の集積によって富の神クベーラの都(アラカー)に〔比せられ、〕 という具合に、176節から192節(上記引用は176から179節)まで続く。パータリプト ラがいかに賞賛に値する都かを賛美する内容となっているので、一応パータリプトラがこの詩文学の中で特別な都市であったこと はわかるが、具体的な市街の描写は登場していない。登場人物達の言動によって、市井の雰囲気は伝わってくる。挿話の後半は、 アルブダ山麓の遊里が登場する。アルブダ山は、現在アブー(アーブ)山と呼ばれ、ジャイナ教の聖地となっている(詳しくは、 「神谷武夫とインドの建築」 の「アーブ 山のデルワーラ寺院群」を参照)。物語では、アルブダ山の遊里とパータリプトラの遊里がインドの二大遊里とされ ていて、アルブダ山の遊里の描写は詳細とは言えないが、まあまあ登場している。アルブダ山の遊里の描写から、パータリプトラ の遊里の描写を想定しても、それ程無理は無いと思われる。
3.宰 相ラークシャサの印章(紀元400年頃の作) 舞台は前4世紀末のパータリプトラだが、市街の描写は殆どない。宝石商人長者が 登場することで、豪商がいることがわかり、宮殿の中に、スガーンダ宮殿という、恐らく三階以上の高い宮殿があり、そこから市 街を見渡せるような建築物であること、パータリプトラがクスマプラと呼ばれていること、ラークシャサの奸計で、王チャンドラ グプタがパータリプトラの王宮に入城する時に、ラークシャサの間諜が東城門が崩れるように仕掛けをする描写が出てくる程度で ある。
4.パ ンチャタントラ(紀元200年頃成立) 全訳を参照したわけではないが、枠物語がパータリプトラで語られているというだけ で、特にパータリプトラの様子がわかる描写は無い(が、記憶が曖昧なので、いづれ再度確認する予定)。 5.3世紀初のギリシア人文人アエ リアノスが引用するメガステネス(出典バルバロイ!) 「宮殿には巨大な池があり、皇子のみが釣を許された。孔雀、山鳩、鸚鵡が飼育され、内外の樹 木が鬱屈と茂っていた」(現クムラハル村の東に多数の池が現在も残っている)
5.大 唐西域記(7世紀) 波吒厘子城(パータリは音訳で、子城は=プトラ(サンスクリット語や古代ペルシア語での” 子”の意味)だと思われる)、古くは巴連弗邑もいう、と記載されている。Wikisource に原文(巻8摩揭陁國(上)(マガタ国))が記載されているが、町の描写といえるのは以下の行だけ。あとは、 パータリプトラとその近郊の仏教ゆかりの史跡巡りが延々と続く。万難を排して2年もかけてインドに辿り着いたのに、パータリ プトラの世俗描写はこれだけなのが残念。 殑伽河南有故城,周七十餘裏,荒蕪雖久,基址尚在。昔者人壽無量歲時,號拘蘇摩補羅城,(唐 言香花宮城。)王宮多花,故以名焉。逮乎人壽數千歲,更名波吒厘子城。(舊曰巴連弗邑,訛也。)
6.法 顕「仏国記」(5世紀) 彼もパータリプトラの市井の描写は皆無(Wikisource の原文はこちら)。パータリプトラ訪問の下りは、以下の感じで、「パータリプトラに行きました。そこはアショカ 王の居城で、これこれの宗教彫刻や宗教施設があります。という文章が続く。 度河南下一由延到摩竭提國巴連弗邑。巴連弗邑是阿育王所治城。城中王宮殿皆使鬼神作累石墻闕。雕文刻鏤非世所造。中国語では、華氏城、華子城という訳語もあるが、これは、パータリプトラの語源が、 Pātala(tは下に・が付く)(樹の花)という花で有名なの土地なので、「華の子」と意訳して「華子城」となった模様。 なお、Patalという花は実際に存在するようで(これ)、こちらのサイ ト(古 代インド文学に登場する花)によると、パータルの花はクスマプラ(Kusumapura)とも呼ばれた為、パー タリプトラは別名クスマプラとも呼ばれたとのこと。 なお、インドのテレビドラマに登場しているパータリプトラの映像は、こちらで紹介しています。 |
① Google Map ② 前304年から292年までインドに滞在したギリシア人メ ガステネスのインドとパータリプトラの記事(引用元サイト「バルバロ イ!」)、 ③ パータリプトラの発掘者の一人、L. A. WADDELL(ウォデル:1854-1938年)の発掘レポート「Report on the excavations at Pātaliputra (Patna); the Palibothra of the Greeks」 1903年出版。リンク先にGoogle社によってデ ジタル保存された報告書が一応全文掲載されているが、残念ながら図版が掲載されていないし、スキャン画像の画質 があまりよくないので読みにくい。こちらにテ キスト版があるが、OCRスキャニング時の文字化けが酷く、これも読みにくい。 ④ パータリプトラの発掘報告書「Report on Kumrahar excavations, 1951-1955(by A.S. Altekar and Vijayakanta Mishra (Historical research series, vol. 3)K.P. Jayaswal Research Institute, 1959」の概要解説(報告書そのものは、日本では国会図書館には無く(東大・京大にあ る)、ネットでも(有用無料含めて)公開されていないようなので、参照できず) ⑥ 丸山次雄 「パータリプトラの都市形態」 (「都市形態の研究:インドにおけ る文化変化と都市のかたち SD 臨時増刊 鹿島出版所出版会 1969年」所収) 過去に行われたパータリプトラの発掘について解説、パータリプトラの各遺跡や、遺構の写真が10枚程掲載されており、日本語 のパータリプトラ遺跡の解説としてはもっとも有用だと思われる。しかし、掲載されている遺跡付近地図は小さい上に簡略で、現 在Googleで検索して出てくる地名が使われておらず、あまり役にたたない。例えば、標高165フィートの等高線が部分 は、濠と思われる部分とされ、重要な筈だが、図面には、175、185、190フィートの等高線しか描かれていない。推測す るに、165フィートの等高線は、線路とほぼ同一だから記載されていないのかも知れない。文中カタカナ地名のローマ字表記が まちまちで、遺跡発掘地の地名のローマ字が小さな地図に、単語の途中で改行されて記載されていたりして、非常にわかりにく い。他の古代遺跡の図面が7箇所登場していて、末尾には、10箇所の遺跡情報一覧表が登場しているが、図面が登場している コーシャンビー(カウシャンピー)遺跡が一覧から抜けている、など読んでいて非常にもどかしい部分が多くストレスフルな論考 である。「端末」(遺跡の端末って?)「今の述べた3層の石柱」(どこに述べてあるの?)など意味のわからない文脈が多い。 特にクムラハール遺跡のスプーナー説の説明はわかりにくい。日本語で書かれているのにさっぱり意味がわからない。書いている 本人もおかしいと思いながら書いたか、編集者がレビューしなかったとしか思えない。次の⑦の英文資料を読んだ方がわかりやす い。 ⑦、Google Booksの「An Encyclopaedia of Indian Archaeology」のPatnaの項目(p334-35) ⑧ 古 代イラン総合サイトCAISの「The Achaemenids Persepolitan Legacy In India」 ⑨ パトナ市のサイトの「The Explorations and Excavations at Patna」 ⑩ 文学作品 -遊女の足蹴 -遊女の手引 -宰相ラークシャの印章
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