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古代地中海世界はローマ帝国に統一されていましたが、言 語的にはラテン語が公用語である西方地域と、ギリシャ語が公用語である東方地域に分かれていました。西方地域には5世紀にゲルマン人が進出し国家を形成し、東方地域は ギリシャ人を中心に構成される国家(ビザンツ帝 国といわれる)へと分裂しました。宗教的には ゲルマン人が支配する地域はローマ教皇の影響下に置かれ、その宗派は「カトリック」と呼ばれるようになりました。ビザンツ帝国が支配する地域はコンスタンティノープ ル総主教の影響下に置かれ、その宗派は「正教派(オーソドックス)」と呼ばれ るようになりました。また東方地域の北方に6世紀にスラブ人が進入し、彼らの 多くは正教に改宗しました。 |
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ま
た、西方地域のカトリックも古ローマ領土内と外でやがて異なった展開を見せる様になります。それがプ
ロテスタントです。15世紀にドイツのルターという人物が宗教改革を開始し、カトリックからプロテスタントと総称される改革派が分
裂しました。このプロテスタントの地域は 古代ローマの領土であったことはなく、住民はほぼゲルマン人だけから構成されていることに特徴があります。 こ
れに対しカトリックの地域の国々の住民は ローマ人の子孫が圧倒的な地域です。 5世紀にゲルマン人がローマの西方領土に侵入したとき、各ゲルマン民族と
も10万程度から数十万人程度であり、当時のローマ西方領土だけでも恐らく2000万人以上はいたと考えられます。この結果西方領土ではラテン語の方言が
使いつづけられ、それぞれ進化してフランス語、イタリア語、スペイン語などに発展しました。これらを総称してロマンス語(ローマの言葉)と言います。聖書はラテン語で書かれてたので、これらの地域ではま
だ学習し易かったのですが、純粋なゲルマン語を話す地域では ゲルマン語(ドイツ語)に翻訳した聖書が求められるようになりました。聖書の各国語訳の制作
も宗教改革の一因となりました。
結果的に主にロマンス語を話す地域(フランス、イタリア、スペインはカトリック)、ゲルマン語を話す地域 (英国、ドイツ、北欧など)はプロテスタントとなりました。 言語的にはドイツ語地域ですが、ドイツ南部はカトリック地域です。この地域はかつての古代 ローマの領土内にあります。これはつまり、ドイツ南部は、現ドイツ領ではあっても、古代ローマ人の子孫が多い地域なのではないでしょうか。中世において は、この地域は、意外とラテン語の聖書や、神父のラテン語説教が、理解されていた、ということなのではないでしょうか。 |
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現代世界におけるスラブ人地域はほぼ東欧諸国とイコール
です。このスラブ人地域の大半がキリスト教正教会に属しています。ロシア、ウクライナ、ブルガリア、セルビアなどです。一部の東欧諸国はカトリックに属し
ていてポーランド、チェコ、スロヴェニア、スロヴァキア、クロアチア、ハンガリーなどです。このうちハンガリーはスラブ人ではありません。 東欧というと
旧共産主義諸国であり、共産主義陣営という感覚もありますが、ポーランド、チェコはどは中欧という意識を持ち、どちらかというと専制的なロシアの支配であ
る共産主義を嫌っていました。専制的は共産主義はロシアがもたらしたもの、という意識が ポーランドやチェコではあります。このロシアの専制主義の源泉は
一般に13世紀のモンゴル支配に求められますが、実はギリシャ正教とそれをもたらしたビザンツ帝国に求められると考えることも出来るのです。
ビザンツ帝国とは古代ローマ帝国の末裔ですが、実態はギリシア人によって構成されたギリシャ人国家です。 思想的には古代ギリシャとキリスト教 の融合といえます。 ビザンツ帝国が専制的となったのは、一般にディオクレティアヌス以降の後期ローマ帝国が専制的 だったことを引き継いでいるという見方が一般的です。もっとも下地はヘレニズム時代からあったとも言えます。アレキサンダー王はペルシャを征服した結果著 しくペルシャに影響され 専制的になりました。アレキサンダーを引き継いだ部下の将軍達の国家 所謂ヘレニズム諸国(マケドニア、シリア、エジプト)は専 制的とは言わないまでも従来のギリシャのポリス社会と比べると専制的色彩が強まっていました。 こうした専制的要素が全面に出たビザンツ帝国の影響を強く受けて発展した国家がブルガリアであり、セルビ アであり、ロシアなのです。 ロシアは1453年のビザンツ帝国滅亡後、その後継国家を自認し、「第3のローマ」を名乗りました。 ロシアの専制支配は 後のソ連共産党による専制に引き継がれ、 またその源流の一つはビザンツにあり、ビ ザンツ専制の源流の一つがヘレニズムにあるとすると 旧共産主義的東欧社会と 西欧社会の対立 の源泉は 中世カトリックと正教の対立、 更に元を辿れば ラテンとギリシャの対立が スラブとゲルマンの対立に焼きなおされて現代に現れたものといえるのかもしれません。 |
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イスラームはアラブ民族がもたらしたものですが、イス ラーム世界を発展・成熟させたのはペルシャ人です。ウマイヤ朝イスラム帝国(661年-750年)は首都がダマスクスにあるアラブ帝国でしたが、アッバー ス朝になり首都をバグダードに移しました。ダマスクスが地中海沿岸近くにあり、地中海重視の帝国であったのにくらべ、バグダードを首都としたアッバース朝 はその重心を西アジアに移しました。これは中央アジアへの進出だけが理由ではなく、ペルシャの影響を受けた国家体制に移行したという側面があります。 イ スラーム中世の古典世界はイランとアラブの混合でしたが、やがてトルコ人が進出することでイスラームは新たな展開を見せることになりました。 |
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中国社会も古代から中世への移行期に異民族の侵入によって 変質しています。漢民族は4世紀の北方民族の侵入により少なからず影響を受けています。言語、生活習慣など(例えば椅子に座る生活、炒め物料理の多い食生 活など)で多くの変化が見られ、隋・唐帝国は北方民族の国家であるといえます。 |