この記事の発端は、かつて近所にあったインド料理屋サムラートと、昨年読んだ『シラッパディ
ハーラム』に登場していた「南インド」の用語の探求がきっかけです。 古代インドには、インド全体を統治する称号や、地理認識がなかった、とされています。しかし、少し調べると、皇帝に相当するよ うな称号がいくつもでてきます。 【1】皇帝の称号 ・マハーラージャ(大王)(ヴェーダ文献に登場する称号) ・ラージャディラージャ(ペルシア帝国の称号シャーハンシャー(諸王の王)の影響とされる) ・転輪聖王(古代仏教・ジャイナ教文献に登場する称号) ・サムラート(ヴェーダ文献に登場する称号) ということらしいのですが、どのように使い分けられていたのか、出典史料等について調べてみました。 マウリヤ朝は、帝国認識を持っておらず、マガダ国/マガダ王が諸国を統治している、という認識であって、アショカ王碑文には、 ラージャディラージャ(rājādhirāja)や、マハーラージャ(mahārājā)という用語は使われていないそうです (中村元著作集5古代ンド上p464)。アショカ王はマガタ王(rājan Māgadha)とのみ名乗っていたそうです。中村元の古代インド上下は、グプタ朝より以前を対象としていますが、rājādhirāja(諸王の王)と いう称号が登場しているのは、上記1箇所だけ、rājātirājaが登場しているのは下巻の104,167,186の三箇所で す。マハーラージャは、下巻では9箇所登場していて、実際に用いられている事例が多数判明しますが、上巻(マウリヤ朝まで)で登 場しているのは3箇所だけで、実在の人物で用いられている事例はありません(ヴェーダ文献に登場している事例だけ)。 1−1.マハーラージャ(大王) インド在来の称号ですが、とりあえず参考にしている中村元古代インド史で実例として確認できるのは、タキシラーやマトゥラーを 統治したギリシア人王の事例が初見です。そのギリシア系の「大王」は、アケメネス朝の大王が由来であるため、もともとインドに あったマハーラージャが、実際にインドで用いられるようになったのは、マウリヤ朝後という可能性もありそうです。 1−2.ラージャディラージャ(諸王の王) 中村本下巻p104では、ジャイナ教の伝説『カーラカ師物語』(成立年については言及なし)に、ジャイナ教のカーラカ師の妹が ウッジャイニー王に誘拐されたため、カーラカ師がインダス川西岸のサカ族の岸(Sagakǔla)の藩侯(sāhi)のもとに赴 き(この諸侯は諸王の王(sāhāṇusāhi)に服していた)、彼らをそそのかして軍勢をヒンドゥーの地 (Hindugadeśa)に攻め込ませて、諸侯の一人を諸王の王(rājātirāja)とした、というものです。 西方からアレクサンドロス大王、セレウコス朝とその後継王朝(バクトリア王国)、サカ族、パルティア人などが、インドに侵入し てきた史実を反映しているようです。碑文や貨幣の銘文から確認されるところでは、サカ族の侵入とともに、アケメネス朝とセレウコ ス朝の皇帝称号が mahārājasa rājarājasa (諸王の王・大王)としてサカ族の諸王に取り入れられていったとのこと(同書p107)。更にサカ族の王では、アケメネス朝やセレウコス朝の地方太守の称 号サトラップがクシャトラパ(Kṣatrapa)に訛って、西インドにおいて国王の称号になっていく様子が見て取れます。 クシャン朝の初代クジュラ・カドフィセスは、ラージャディラージャ(rājātirāja)や、マハーラージャ (mahārājā)、天子(devaputra)を貨幣や碑文に刻んでいるそうです(同p167)。devaputraは、中 国の天子が移入されたと考えられています。やがてこの称号は、グプタ朝で、マハーラージャー ディラージャmahārājādhirāja(諸王の大王)となりました。 このように見てくると、マハーラージャや、ラージャディラージャは、外国から移入された称号が定着したきっかけであって、 あまり純インドという感じがしません。 1−3.転輪聖王 仏教・ジャイナ教文献に転輪聖王(チャクラヴァルティン)という称号が あり、これは古代中国における儒教の「上帝」に相当するものだといえますが、実際に、転輪聖王を称号として用いた王はほとんど確認されておらず、マウリヤ朝から独立した後のカリンガ国 (アショカ王に併合されていた)三代目の王カーラヴェーラ王が、Kalingachakvati(カリンガ国の転輪聖王)という称号を用いたそうです(同書p28)。カー ラヴェーラ王が四方を征服し、西はサータバーハナ、南なパーンディヤ朝、北西はマトゥラーに都を置くギリシア人 国家と領域を接するまでに拡大していたため、中村元氏は、 chakvatiの意味は、帝王の意味である、としています。ただし、カーラヴェーラ王は、多数の称号を名乗っているため、 一般的な意味で「皇帝」の称号とすることはできなさそうです。 1−4.サムラート(統王) ヴェーダ文献に登場するサムラートは、明確に王(raja)を越える統王(samrāj)であり、意味的にも、中国における「天子」に相当しそうです。しかし、ヴェーダ文献以外の、碑 文や貨幣銘文に登場する実在の王でこれを名乗っている古代の王はほとんど存在していないようです(少なくとも上記中村元『古 代インド史』には登場していません)。 ヴァー カータカ朝(250年頃−500年頃)の第二代王プラヴァラ セーナ1世(270年頃−330年頃)やグプタ朝の王が名 乗ったらしいのですが、出典史料が不明です(碑文名が不明。そのうち確認する予定)。 1−5.アシュヴァメーダ(馬祀祭)を開催した王 中国における封 禅の儀に相当する祭祀のような気がしていたのですが、Wikipediaのアシュヴァメーダ 開催王一覧表を見ると、4−7世紀の王に集中しており、その中核はグプタ朝です。 2.帝国と地域名称 2−1.バーラタ・ヴァルシャとアーリヤー・ヴァルタ ヴェーダ文献によれば、世界全体を「ジャムブドヴィーバ(閻浮提)」と 呼び、その最南端のインド亜大陸部分をバーラタ・ヴァルシャと呼んだとのこと(このバーラタが現在のインド連 邦共和国の正式名称)。その後のマヌ法典(前2−後2世紀)では、バーラタ・ヴァルシャという用語は登場せず、代わりにアーリア 人の居住圏として、アー リ ヤー・ヴァルタという地理概念(ヒマラヤとヴィンディヤ山脈の間、東と西の大洋の間)が登場するとのことで す (『世界史の世界史』p56土田龍太郎「古代インド人の歴史観と世界観」)。さらにその中心部分(ヒマラ ヤと ヴィンディヤ山脈の間)を、マディヤデーシャ(中原、中国、ヤムナー川とガンジス川中流流域)と呼び、その東方がマガダ(隣接し ているのかは不明)、その西方はブラフマーヴァルタと呼ぶ(サラスヴァティー川とドリシャドヴァティー川の間の地域。おおむねパ ンジャーブ地方東端に該当すると思われる)。マディヤデーシャはブラフマルシデーシャとほぼ同じ領域を示す。アーリヤー・ヴァル タ以外の土地をムレッチャ(夷狄)の国土と呼んだとのこと。 なお、バーラタジャルシャは、カリンガ国王カーラヴェーラのハーチグンパー碑文の第十年目に、「王はバーラタヴァルシャに向 かって出発した」と出てくるそうです(中村元古代インド下p33)。この用法からすると、バーラタヴァルシャは、カリンガ国から 見て外部にあり、アーリヤー・ヴァルシャとほぼ同義であるように見えます。 2−2.北道と南道 マヌ法典が成立したのはマウリヤ朝崩壊後であって、マウリヤ朝の版図が後世の地理認識に反映している可能性もあります。マウリ ヤ朝の版図の影響を受けて成立した地理認識に、北道と南道という地理認識があった可能性があるとのことです。原始仏教聖典には、 北道(uttarApatha/ ウッタルパタ)と南道(dakkhiNApatha/ ダクシナーパタ/漢訳仏典では「達睹那国」)という用語が登場しているそうです(こちらの『原始仏教聖典に記されたルート@-- 南道と北道---、ヴィンディヤ山脈以南、現在のデカン高原』(森章司、金子芳夫著)(中央学術研究所『原始仏教聖典資料による 釈尊伝の研究』の「中央学 術研究所紀要モノグラフ篇 No.20【論文26】原始仏教時代の通商・遊行ルート」の第六編(pdf はこちら)で、原典史料の当該文52点ほどを列挙して詳細に分析されています。 この論文によると、本来インド中心部から北西に向かう幹線道路(タキシラー方面)と南に向かう幹線道路を意味していた言葉が、 仏教における「中国(majjhimajanapada)」に対する「北の地方」・「南の地方」を示す概念となったと考えられ る、とのことです。南といっても、インド半島全部ではなく、地名として登場している場所が、マウリヤ朝の領域内の地域から、マウ リヤ朝の版図内の北部と南部を示している、と考えられるそうです。 以上は原始仏教文献に登場する用語とのことですが、「南道(dakkhiNApath)」の概念は、やがて仏教を越えた地域名 称として用いられ、最終的に現在の「デカン」用語になったそうです。 マウリヤ朝崩壊後成立したサータヴァーハナ朝が「南の王」という称号を碑文に残しているそうです。この碑文は、サータヴァーハ ナ朝のナーナーガート碑 文(ボンベイの東165kmの西ガーツ山脈山中)で、英語版Wikipediaの記事に英文の全訳と原文のラテン字 翻字があり、邦訳は、中村元古代インド史下のp371-375)に全訳があります。ラテン翻字は dakhināpaṭhapatino、英訳では、「デカン」(デカン公と、「公」が補字されている)と訳されていて、邦訳では 「南国の主」と訳されています(石川寛『古代デカンの政治地理―チャールキヤ朝の行政区分』 (『ドラヴィダの世界』(東京大学出版会/1994 年)所収)では、「ダクシナーパタ・パティ<南の道の王>」と訳されています)。 また、グプタ朝のサムドラグプタのア ラハバード碑文には、南道の全ての王との記載を捕虜とした後解放した、とあります。 北道については、転輪聖王を名乗ったカリンガ王カーラヴェーラ王の碑文に、北道の諸王を恐れさせた、として登場しているそうで す(カーラヴェーラ王のハー チグンパー碑文第十二年)。 南道の用語は、現在のデカンとして残っているそうですが、北道と現在のウッタラ・プラデーシュ州(北の州)や、中国 (majjhimajanapada)と現在のマディーヤ・プラデーシュ州(中央の州)は、恐らく直接の関係はないものと思うの ですが、北方や中央という地理概念が、現在の州にも適用されているのは興味深いものがあります。 2−3.ジャンブド ヴィーパ(閻浮提) ジャイナ教徒の地理概念で、「ジャンブ樹のある大陸」を意味していて、アショカ王の碑文でも採用されているそうです(中村元 『古代インド史』上p5)。現在のタイ・マレーシア・ジャワ・バリ島などで現在でもインドを示す用語として用いられているそうで す。しかし王朝の領土と関係する認識にはならなかったようです。 3.ヴェーダ系・仏教系・ペルシア系の地理認識・皇帝称号の統合 グプタ朝サムドラグプタのア ラハバード碑文において、ヴェーダ系の地理認識であるアーリヤー・ ヴァルタ(21行目)と、仏教系(マウリヤ朝系)の地理認識である、ダクシナーパタ(19-20 行目)の諸王を従えていた、との記述が見えていて、サムドラグプタ自身は、自分と父親のチャンドラグプタを、 Mahārājādhirāja (諸王の大王(統王と訳されることが多い))(28-30行目)と称しています。グプタ朝においてはじめてペルシ ア系の諸王の王と大王が融合した「諸王の王の大王」=「皇帝」の称号が登場し、ヴェーダ系の地理認識であるアーリヤー・ヴァルタ を統治する王、マウリヤ時代の「南道」の諸王を従える王、という認識となったようです。 皇帝理念や一般の王を越える大王という用語や概念は従来のインドにもあったものの、古代ローマ・ペルシア・中国の皇帝と同等の 「皇帝」は、ペルシア・サカ・ギリシア人からインドに入り、グプタ朝において成立した、ということのようです。後世の王朝にどの ように引き継がれていったのか、そのうち調べてみたいと思います。例えば、インドのイスラム諸王朝はシャー/シャーヒ、ムガル皇 帝はパディシャーなのですが、それ以前のハルシャヴァルダナやラーシュトラークタ朝・プラティハーラ朝や、イスラム時代の南方ヒ ンドゥー王朝であるヴィジャナナガル王国の称号がわかりません。更にいえば、ドラヴィダ系の古代王朝の称号も思い浮かびません。 更に、地理概念、特にガンジス川流域の北部インドの名称がどのように変わっていったのかについても興味がでてきました。マガダ やアーリヤー・ヴァルシャという用語がどこで消失していったのか、グプタの名称が北インドの名称とならなかったのは何故か、など 疑問は尽きません(「南道」は、「デカン」という地域名となり、更に当該地域は、7世紀のチャールキヤ朝のアイホレ碑文と玄奘の 大唐西域記に「マハーラーシュトラ」「摩訶剌侘国(マハラッタ)」として登場しており、現在のマハーラーシュトラ州に継承されて いるとのことです/石川寛『古代デカンの政治地理』)。 □参考資料 中村元選集第五巻『古代インド史』上、第六巻『古代インド史』下、1966年・春秋社 『ドラヴィダの世界』東京大学出版会、1994年所収『石川寛『古代デカンの政治地理―チャールキヤ朝の行政区分』 『原始仏教聖典に記されたルート@--南道と北道---、ヴィンディヤ山脈以南、現在のデカン高原』(森章司、金子芳夫著) (中央学術研究所『原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究』の「中央学 術研究所紀要モノグラフ篇 No.20【論文26】原始仏教時代の通商・遊行ルート」の第六編) □参考記事 アー リヤ・ヴァルタ ア ラハバード碑文 インド の名前 ウッタラ・パタ ジャンブドヴィー バ ダクシナー パタ ハー チグンパー碑文 |