「華陽国志」巻3「蜀 志」冒頭に描かれた古代蜀

 

 作者である璩(西晋~五胡十六 国時代の蜀国の役人)と「華陽国志」の概要 は、こちらのサイト (「中国的こころ」と、日本語版翻訳者である中林史朗氏『華 陽国志』に関する諸問題に詳しく掲載されています。翻 訳は明徳出版社から出ています。中林氏の翻訳は、全訳ではなく部分訳とのことですが、古代蜀に関する部分は、内容も短いので、全 部翻訳されているものと思います。しかし古代蜀に関する日本語で読める情報がネット上に多くは無い為、今回訳出してみました。素人の翻訳なの で、あくまでイメージを掴むための参考以上のものにならなりえません。確実なところは、中林氏の翻訳をご参照ください。今年3月に、こちらの 書籍(「中国古代第一伝世”巫”書 華陽国志 古巴、蜀、氐、羌、臾、濮、哀牢国記 (重慶出版集団」という書籍が出版されました。ここに原文と現代中国口語訳の全文が掲載されているのですが、本書の特徴は、その地 図の多さにあると思います。巴、蜀、漢中、南中など、各巻の冒頭部分に詳細な地域の地図が掲載されていて、関連する写真や図版が多数 収録されています。都江堰や古代成都平面図、金牛道地図など、カラーでは無いのですが、それなりに楽しめる構成となっています。値段 も58元(日本円で3000円の感覚)と少々高めなのですが、お奨め書籍と言えます。同じシリーズで「水経注」 も出ており、地図も豊富に掲載され、解説も多数掲載されているのですが、その地図は絵地図というような古地図なので、なんとはなしに、清朝時 代の出版物のようなイメージを受けてしまい、いまひとつ有用な印象がありません。現代地図との比較があると、「水経注」の記述の正確さなどが わかって面白いと思うのですが。。。

 「華陽国志」は、現四川省あたりだけを扱っているもの と思い込んでいましたが、量は少ないものの、一応巴(現重慶)、夜郎(現貴州)、漢中(現漢中)あたりの、漢征服以前の歴史も含んで いることを知りました。考えてみれば、劉備の蜀国は現雲南や貴州省を含んでいるので、4世紀前半に生きた常璩 の時代の蜀人の地理認識としては、これが標準だったのかも知れません

 内容は、殆ど「蜀 王本紀」と同じですが、細かい所では異同があります。中でも、三星堆遺跡で目の飛び出た顔の青銅器が発見されてから、その姿が、縦目と記 載される蚕叢を強く想起させるため、初期の3人の王、「蚕叢、柏灌、魚鳧」は、夏晩期~商後期の三星堆文化の時代に位置づけられ、更に、それ ぞれは、個別 の王朝を構成した部族を示すと解釈されるようになってきています。

 しかし、「華陽国志」の蜀志では、この3人の王は、明らかに周の衰退 以後の存在となっています。つまり、周の東遷以後に、初代の蚕叢が王を名乗ったことになっており、3人の後を次いだ杜宇という王の後、叢帝が 立ち、続い て、盧帝、保子帝、尚などと開明氏は12代続き、蚕叢から、最後の開明王まで都合16代となっています。

 蜀滅亡が前316年ですから、周の東遷後、454年間で16人、一人あたり在位約28.4年間となるので、かなり現実的な数字となります (開明朝の開始を前666としているサイトもありました。根拠は無く、だいたい350年間、という定義かと思います)。
 
 とはいえ、このように整合性があるのは、伝説を合理化した結果であって、「蜀王本紀」では、蚕叢から開明まで三万四千年との記載もある為、 こちらの方が古い伝承であり、古い史実を反映しているのかも知れません。

 上記白話版「華陽国志」の現代中国語訳文は、単なる訳文ではなく、その他 の史書や考古学資料から得られた知見を加えてある為、情報量も多くて面白いのですが、下記は、巻末に掲載されている原文の方を利用し ています。下記はその、巻3「蜀志」の冒頭2行目と、12行目くらい以降の翻訳です。それ以外の冒頭の 部分は、明らかに神話に属する五帝からの系譜や、風土文物の記載となっている為、割愛しています。蜀の史書なのに、何故「華陽」というのか、 これまで知らなかったのですが、冒頭にさらりと記載されています。

 

□2行目

 武王の紂王討伐 時、蜀は参加した。その地の東は巴に接し、南は越に、北は秦と接し、西は峨眉山に至る。その地は天府と称されている。原名は華陽という。

□12行目以下

 周の世では、秦と 巴の間には距離があることもあって、蜀は周王を奉っていたが、春秋の会盟には参加できなかった。彼らの制度と文字も、中原とは異なっていたか らである。周王が衰退すると、蜀がまず王を称した。蜀の侯に蚕叢という人がいて、彼の目は縦で、初めに王を称した。彼が死ぬと、石棺と石椁を 作った。蜀の人も、この習俗に従うようになり、これ以降、人々は、石棺と石椁の墳墓を縦目人塚というようになった。次の王は柏灌、次の王は魚 鳧といい、魚鳧は湔山で狩をしている時に、仙人への道に入り、蜀の人はそこに祠を建立した。

 後に、杜宇という 王がおり、農業を発展させるように人々を教え導き、人々は彼を尊敬し、杜主とした。朱提(現雲南昭通)にある。朱利という梁氏の女性が,江源 (現成都南)へと流されてきた。杜宇はこれを喜び、妃とした。杜宇は都を郫という邑、または瞿上という場所に移した。7国が王を称している時 代、杜宇は帝を称し、その称号は望帝といった。更に名を、蒲卑と変えた。杜宇は、自分自身が諸王よりも徳が高いと考え、褒谷*1と斜谷を国の 前門、熊耳、霊関を国の後門とした。玉亝(下が「二」ではなく、「土」)、峨眉山を城郭とし、岷江、嘉陵江、涪江、沱江を魚や米を取る地域と して整備し、汶山を牧畜の地とし、南中を国の公園とした。水害が発生した時、宰相である開明は玉亝山(下が「二」ではなく、「土」)を開鑿 し、水害を沈めた。望帝は政務を開明に任せることにし、尭舜の禅譲の故事に因み、遂に開明に位を譲った。帝の死後、その霊魂は西山に隠居する ことになった。毎年2月、ホトトギスが鳴くとき、蜀の人は皆、これは杜宇の魂が鳴いているのだというようになった。巴国もまた、杜宇の教えを 受け入れて農業生産に励み、今日に至るまで、巴蜀の人々は、種まきの前に、杜主君を祭るようなった。

*1 褒谷は、後述 の蜀滅亡期にも登場する場所。漢中あたりにあった地名で、褒国という国も周代にあった。

 開明帝が立って、 叢帝と称した。叢帝は、卢帝(盧帝)を生み、蘆帝は秦を攻めた。雍にいたときに、保子帝を産んだ。保子帝は、青衣(羌族)を攻撃し、僚と(棘 人)*2の2つの部族に武勇を見せ付けた。開明9代目の時、宗廟を建設し、酒を醴と名づけ、音楽を荊と名づけた*9。これらの人は赤を好ん だ。帝号をやめ、王号に戻した。

*2 (棘人)で1 字。

*9 韻楽の類とのこと。ラップのような曲だろうか。中原とは違う音楽だった模様。

 当時蜀には、5人 の力士がいて、山を動かす力を持ち、万釣を持ち上げることができた。王が死去する度に、三丈の長さの石を立て、その重さは千釣であり、それを 墓誌とした。今日でもこの石筍を見ることができる。これを筍里と称されるようになり、その表面には何も書かれていなかったが、5つ色が塗って あった。このことから、国王の陵墓は青帝、赤帝、黒帝、黄帝、白帝と呼ばれるようになった。伝説では、蜀王尚夢は、国都が一地方にあることか ら、成都に都を移した。 

 周35代顕王*3 の時代、蜀王は褒と漢中の地を領有しており、谷で狩猟の最中に秦恵王(恵文王)とあった。恵王はひと篭の金を蜀王に与えた。王は、珍奇なもの を返礼に送ったが、それは土と化してしまった。恵王は怒りった。群臣の賀は言った。「天が我々に授けたのです。王は、まさに蜀の土地を得ま す」 恵王は喜び、5頭の石牛を作り、朝、金を注いで、その後で言った。「牛が金の便を出した」100人が世話をした。蜀の人はこれを喜び、 使者を遣わして石牛を請わせた。恵王はこれを許した。五人の力士が派遣され石牛を迎えた。既に金の便は出なかったので、(蜀王は)怒ってこれ を戻しに遣った。蜀の人は、秦人を嘲笑って、「東方では牛の子を放牧している」と言い、秦の人はこれを笑って、「我々は放牧しているが、いづ れ蜀の地は得られるだろう」と言った。

*3 生年不詳 - 紀元前321年。在位前368- 321年。

 武都に一人の女性 となった男がいた。絶世美であり、山々の精霊といわれた。蜀王はこれを妃に迎えたが、風土に合わず出て行きたがった。蜀王はこれを留め、「東 平の歌」を作って奏でた。幾ばくもなく死去した。蜀王はこれを悲しみ、五人の力士を派遣して武都の土を運んできて妃のために塚を作った。大よ そその地は数十平米あり、高さは約17メートル*4あり、上部に石の鏡が載っていた。現成都の北の角にある、武担の地がこれにあたる。王は悲 嘆にくれ、「臾邪歌」、「隴帰の曲」を作った。王は自分自身で埋葬し、塚を作り、人は皆で、四角い石を立てて、墓碑とした。成都県内には、ひ とつの長い石があり、腰周り145cm*5、長さは7メートル以上あった。城の北60里*6のところに、(田比)橋と呼ばれる場所があり、こ こにまたひとつの長い石があり、同じようなものだった。五人の力士が運んだ土を採取した場所だと言われている。公孫述の時代に、武担の石が折 れ、治中从事*7の仁文はこのことを知り、嘆じて言った、「ああ、西方の智者が死んだ。私もそうなるに違いない」 その年に死去した。

*4 7丈  *5 6尺  *6 約26キロメートル 1里は434.16m

*7 蜀漢国の役人の名前。州長官の補佐

 周の顕王32年 (前346年)に、蜀侯は、秦に使者を送り、秦恵王は多数の美女を進呈し、蜀王はいたく感激した。よって、答礼の使者が派遣された。恵王は、 蜀王が色を好むことを知り、五人の女性を蜀に嫁がせた。蜀は五人の力士を迎えに遣った。梓潼に至る前に、一匹の大蛇が穴の中に入っていくのを 見た。一人がそのその尻尾を掴んで引っ張ったが、引きずり出すことができず、五人が一緒に大声を出して蛇を引っ張ったところ、山が崩れた。五 人と秦の五人の女は、次々とは押しつぶされて死んでしまった。そして山は五嶺に別れ、その頂上には平石があった。蜀王は痛く傷つき、これに登 り、「五婦塚山」と言うように命じた。平石の上に望婦楼を作り、これを「思妻台」と名づけた。

 蜀王は弟の葭 萌*8を漢中に封じた。号して苴侯と言った。その城邑を葭萌と名づけるよう命じさせた。苴侯と巴王は好を通じたが、巴国と蜀国は敵同士だった ため、蜀王は激怒し、苴侯を討伐することになった。苴侯は巴国に逃亡し、秦に助けを求めた。秦の恵王は、楚国を攻めようと謀をしており、群臣 達もこれについて議論した。曰く、「蜀は西方辺境の国であり、戎狄の長に過ぎない。楚を討伐するのとは違います」 司馬錯と中尉の田真黄は、 「蜀は、桀王、紂王の騒乱の時からあり、その国は富んでいて、布帛や金銀を得ることができ、軍備に用いるには十分な量を産します。 水路は楚 に通じていて、巴には、大船舶を浮かべて、東の楚に向かえば、楚の地を得ることが可能です。蜀を得ることは、すなわち楚を得ることになりま す。楚の滅亡は、すなわち天下の併合となります。恵王は言った、「よし」。

*8 蜀王の弟。内 乱を起こし、秦の介入の原因となった。

 周慎王5年(前 316年)秋、秦大夫張議、司馬錯、都尉墨待が、石牛道から蜀討伐に向かった。蜀王自ら軍を率いて葭萌と戦うも、破られ、敗走した。王は、武 陽に至り、秦軍により殺された。宰相、太傳、太子は逢郷まで落ち延び、白鹿山で自害した。開明氏は遂に滅亡した。全部で蜀王は12代だった。 冬10月、蜀は平定され、司馬錯は苴と巴も滅ぼした」

 

                        □  参考ー 三星堆遺跡・金沙遺跡の遺 物の紹介はこちら

 

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