古代・中世の農業の生産性はどの程度だったのでしょうか。これまで断
片的に、古代バビロニアについてはヘドロトスが300倍と書いているとか、西欧中世は4倍程度で古代ローマよりも生産性
が低かった、それを考えると、300倍とかは非現実的とか、インドでは古代から二毛作が行なわれていたため、西洋と比べ
ると倍の生産力があった、といったような情報に接してきましたが、これら各数値を体系的・総合的に論じた書籍はないもの
だろうか、と常々思っていました。少し探してみたところでは、どんぴしゃという書籍を見つけることができなかったため、
個別に論じている論文などを読んで見ました。その結果、個別には、各々詳細な論述があることがわかり、しかもあまりネッ
トなどで取り上げられていないようなので、ここでまとめて紹介してみることにしました。
結論としては、各時代・各文明圏で、とんでもない幅があるわけではなく、意外に整合性の取れる結果となりました。地味 が良く、耕作技術が進んでいた土地では10倍という数値が得られ、更に特に地味のよい土地で先進的な耕作技術を用いれ ば、狭い地域であれば、20倍という数字もありえ、逆に、気候的・地味的に恵まれていない土地で、技術も遅れていると3 倍という数字となり、地味の悪い土地と良い土地を合わせて広域全体を平均化すれば、前近代においては5倍程度に収ま る、ということがだいたい理解できました。収穫倍率の検討で重要なことは、技術力と投入コストと地味の関係です。現代の科学分析の結果、麦の生産にもっと も適してい る地域が、古代中世において低収穫率だったりするのは、その収穫率を引き出す技術が当時は採用されていなかったからで す。逆に、現代において全体的に地味の悪い地域が、古代において高収穫率を達成している事例があるのは、現代と古代で は、養う人口規模が大きく違うため、といったことが考えられます。人口規模が少なければ、一部の地味のよい地域だけで当 時の人口を養うことができたと考えられ、一方、その周辺の地味の悪い低収穫率の地域は、古代において開墾地ではなかった と考えられるわけです。また、収穫率が低いかわりに、投入コスト(労働量・家畜の利用・肥料等)が少ない(中世初期西 欧)、逆に高収穫率ではあっても高コスト(シュメル)ということもあります。世界史上における各地域の収穫率の比較にお いては、こうした多くの要因を検討する必要があるわけで すが、どうにも、多数の要因を捨象し、一部の要素だけで比較する議論が横行しているような印象があり、このまとめ記事 は、それらを整理することも目的のひとつとしています。 この記事では、以下の地域・時代を取り上げてみました。古代エジプトの数字は、ローマ時代のものは得られましたが、古王 国から末期王国時代の生産性の数字を見つけることができなかったのは残念です。 1. 古代シュメールの農業生産性 2. 古代ローマの農業生産性 3. 西欧中世の農業生産性 4. 古代インドの農業生産性 5. 古代中国の農業生産性 6. 古代日本の農業生産性 7. 中世エジプトの農業生産性(付中世イラクの農業生産性) 8.まとめ .9.付録 唐代前期の農業生産性 1.古代シュメールの農業生産性 古代シュメールの農業生産性については、以下論文に詳しく掲載されています。 □古代シュメールにおける農業生産−ラガシュ都市を中心として− 前川和也 『オリエント』Vol9 2-3 1966 (PDF) テオフラストスやヘロドトス、ストラボンといった古代ギリシア人の著作家は、古代バビロニアの収穫倍率は50-100、 200-300倍と書いています。実際はどうだったのだろうか、と粘土板史料から生産性を算出したのが、この論文です。 (1)前24世紀都市国家ラガシュのLugalanda王治
世
RTC71とDP574には、大麦だけではなく、エンマー麦や小麦の生産量や耕地面積のデータも記載されていて、本論文 p22-23の表には、大麦以外の穀物データも記載されているのですが、以下の表にある九つの耕地全てのデータが揃っているのは 大麦だけなので、大麦のデータについて以下に抽出しました。 表1.都市国家時代末ラガシュ直営地生産性(大麦) Lugalanda王治世第四年
の粘土板文書RTC71とDP574から
表2.Lugalanda王治世5年と6年の泥章Nik39,Fö99,Fö16,Nik45に記載された1ヘクタール当り の穀物収穫量
(Gibil0tur耕地とNigín耕地は、表1の第四年の表にも登場している。前二者が治世5年、後二者が治世6年のも の) 直営地以外の小作地のデータとしては、1haあたり、1030.9ℓ、
1718.2ℓ、2,061.8、2405.5ℓ、3,436.4ℓ(平均2130.56ℓ)となるため、国家直営地だ
けが特別に肥えた土地のデータであるわけではない、とのことです(p21)。また、表1のルーガルアンダ王治世4年目だ
けが特別な収穫量だったわけではなく、表2にあるように、治世5年目と6年目の平均収穫量(1993.65ℓ)は、治世
4年目の平均収穫量(2,179.1ℓ)と大きくは変わらない値となっています(p24-5)。
(2)アッカド時代の都市ラガシュ
アッカド時代になると、直営地の収穫量は、ラガシュ末期時代と変わらないも
のの、小作地の収穫量が激減しています。前川氏は、これについては、データが少ないため保留としています。
表3.資料番号RTC182
表4.資料番号ITT IV 7333
(3)アッカド王朝崩壊後の混乱期のラガシュ アッカド王朝崩壊後の混乱期(前22世紀)では、アッカド時代の小作人地並の収穫量へ
と減少していることがわかります(p25)
(4)ウル第三王朝時代のラガシュ ウル第三王朝の時代になると、前代の混乱期よりは回復しますが、平均収穫量は半分く
らいに減少しています。以下の表は、本論文のpp28-33にある表5、6,7,8,を合わせたもので、合計の行は私の
方で算出したものです。
一方、ラガシュ時代の播種量は、1ヘクタールあたり、28.6ℓ、ウル第三王朝時代の1ヘクタールあたり播種量は59.7ℓ と、倍増しているとのこと(p37)。これをもとに播種率を計算すると、それぞれ、2179/28.6=76.2倍、 1183.55/59.7=18.82倍なので、播種率は、ラガシュ時代と比べると約1/4に減少していることになります。上記粘土 板や泥章資料から算出されたラガシュ時代の小麦の割合が17%であるのに対して、ウル第三王朝時代は2%であり、小麦は土壌の塩 化に弱く、塩化が進むと耕地は大麦に転用されることから、土壌の塩化が進み、ラガシュ時代からウル第三王朝にかけて土壌の塩化が 進み、生産性が減少したのだとの説が出てきた、とのこと(p36)。 (5)高生産性の要因
本論文の後半で、前川氏は、高生産性の原因を論じています。世界最初の文明を発生さ
せた程の地味の良さ、ということの他に、犂を用いた牛耕、野放図に播
くのではなく、畝を作って土地を効率的に利用し、更に条播器を開発して、必要最小限の種を、効率のよい間隔で播いた、集
団労働、収穫を最大化する灌漑の回数の把握、などを史料を用いて論じています。
本論文では、シュメール全域ではなく、ラガシュだけを扱っているため、これを古代メソポタミア全体に適用してもいの か、という論点があるものの、古代シュメール文明という人類の文明史上特別な、突出した時代・地域でありかつ、都市国家 とその周辺領域だけで、あまり広い地域の話ではない(メソポタミア全土の農地の生産性ではない)ということを考えると、 76倍という数字は、実際にありえたのだろう、という印象を受けました。 古代ローマの農業生産性については、以下の論説に詳しく掲載されています。 □「ローマ農業の生産性 馬場典明 財団法人古代学協会『古代文化』 Vol49(1997年2月(上)・3月(下)」 この論説の上編p19に、表1として、古代ローマの文献に登場する農業生産性の数値と出典についてまとめられています。
馬場氏は、それぞれの文献を検討し、ウァルローとプリニウスの記載している、科学的にもありえない値について検討しています。 ウァルローの「100:1」という記載は、「という人びとの話である(dicunt)」としており、収穫量の地域 差の関して付け加えられた噂を収録しただけのことである」としています。プリニウスの記述は、その文章の前後を検討すると、「『1 粒(の小麦)から』殆ど信じがたいことだが『300本を下らない芽』が出ると報じ」られた、と伝聞を伝えるに留まっ ており、他の箇所でも、「1粒から『360本の茎』が得られたことが報告された」との伝聞に続けて、シチリア・ (スペインの)バエディカ、エジプトでの100倍の生産について言及していることを指摘し、そもそも1粒から360本もの発芽が あることはありえないのだから、それに続くシチリア・エジプト・スペインの100-150倍の記載も信憑性を欠く、としていま す。 更に、エジプトについては、「エジプトのマルマリカ(Marmarica)に残された徴税簿(A.D.190/191)によれ ばこの地域では小麦が<4.5:1>〜<10:1>、大麦は<7:1>〜<12:1>の数量関係が前提とされていた」とし、小麦10:1、 大麦12:1が最高値である、としています。この研究の出典は、Johnson,A.Ch., Roman Egypt to the Reign of Diocletiaon. Econ. Surv(ed. by T. FRANK)II(Baltimore,1936)p59とのことです。 このように、馬場氏は、まずはありえそうもない100、150倍という値を退けた後、4:1、15:1という値について、イタ リアの18世紀や19世紀の数値などと比較し、地味のよい地方であれば、10:1、地味の悪い地方であれば、4:1はありえる、 また同じ土地でっても年ごとの変動幅が大きい、と例をあげて説明しています。あげられている例は、例えば以下の数値などです。 ・メーヤーソンの研究(18世紀のパレスチナのネゲブ地方の統計資料) 小麦=6.7-7.2:1、大麦=8.0-8.7:1 ・スパーの研究 18世紀末フィレンツェ近郊 5-15:1、ラティウム(19世紀初) 4-10:1、 ラティウム地方 一級地10:1、良質地7:1、中程度地5:1、痩地4:1 イタリア南部バジリカータ地方 8:1(1909年)、4:1)1910年)、6.5:1(1911年) ・ヤングの旅行記(1794年) トルカナ地方の肥沃地 8:1、著しい肥沃地12:1,15:1,20:1 結論としては、地味、年によっては、4:1から10:1程度の播種収穫率はありえた、という話となっています。そうして、 10:1という収穫率が、ローマ帝国各地で適用された十分の一税の根拠の一つだったのではないかとの指摘もされています。 古代ローマ時代の農業景観については、『古代ギリシャ・ローマの飢饉と食糧供給』(ピーター ガーンジィ著)も非常に役に 立ちました。 西欧中世の農業生産性については、森本芳樹氏の「収穫率についての覚 書」に詳しく論じられています。p35に、以下のような、西欧中世 から近世にかけての各地の平均的な収穫率のグラフが掲載されています。これによれば、英国・アイルランド・ベルギー・蘭仏伊西な どは1500年頃には6-7倍の収穫倍率である一方、独スイス・北欧・東欧は3倍程度と低い点、及び英仏伊西でも、10世紀頃は 3倍、14世紀頃に4倍となっています。これを見ると、一見、西欧中世は、古代ローマの半分程度の生産性であるような印象を受け ます。 しかしながら、続くp36では、「13世紀のリル近辺で12、14世紀のアルトワで13という収穫率の例があり、集約農 業で有名となるフランドル農法においては20から30という収穫率が実現されている」との記載があり ます。つまり、 中世西欧においても、平均的には4倍程度だったものの、地味がよく、先進的な農法をとっていた地方では10倍以上の収穫率があっ た、という点では、古代ローマとあまり変わるところはなかったといえるわけです。古代ローマとの違いは、西欧や東欧と比べ ると、気候のよく土地の肥ていた地中海地方は、全体をならせば4-10倍という値となる一方、地中海地方と比べると気候・土 地柄的に劣る西欧・東欧では、一部10倍以上の収穫率が得られる地方があるものの、全体をならせば4倍程度にしかならない、 ということであるといえそうです。西欧・東欧と地中海地方では、気候も生産性に影響を与え、一般に小麦は西洋海岸性気候の方が栽 培に適しているとされていますが、古代ガリアでは、地中海方式の農法(二圃制)と 犂が用い られていたそうです。地中海式の犂は、「乾燥した表土を粉砕することに よって土中の水分の蒸散を防ぐことが目的だったため、地表を浅くひっかく程度の軽量の犂が用いられていた」(堀越宏一『中世ヨーロッパの農村世界』(山川出版社世界史リブレットp17) とのことで、このタイプの犂は、アルプス以北の湿潤な農地を深く耕すのに は向いていなかったようです。アルプス以北の、いわゆる西洋海岸性気候に向いた農法は、三年輪作制とその後継である三圃制に よって発達したようです。 本論説では、他にも、「収穫率」の定義にも言及しています。即ち、以下の三者は厳密に区別しなければならない、という指摘で す。 @.一定の区画(土地面積)における単純収穫量 (播種量が多すぎたり少なすぎたりすると、収穫率低下を招く) A.播種量に対する収穫率 (土地の区画・面積を決めずに適当にばら撒いて播いた場合と、畝を作り一定間隔で、最高の収穫率となるような密度で播いた場 合との違いは考慮しない。とにかく、播いた種の量に対する、収穫量が問題となる指標) B.一定の区画(土地面積)における一定の播種量(播種率)に対する収穫率 西欧中世初期のように、未開拓地があまっている時代・地方では、Aのような方法で管理することになるので、肥えた土地の場合 や、農法を工夫したり、農地を開拓して収穫率を上げる、ということが可能です。ただし、人口が増大し、土地が足りなくなり、一定 の区画内で耕作を行なわなくてはならない時代(中世後期)となると、Bの指標での収穫率の評価に移行する。また、史料によって は、@の意識で収穫率を記録している資料もあり、この史料をAやBのような解釈で利用すると、収穫倍率が大きく変わってきてしま うので注意が必要である。 この区別は、現代の労働生産性を評価する場合と共通しているようにも思えます。 @ 社員数もコストも度外視し、「工期遵守と成果物だけ」を生産性の指標とする A 工数やコスト、機材を度外視し、とにかく「投入した社員の頭数に対する成果物」を指標とする B 「一定の労働時間、コスト、機材、投入した社員数に対する成果物」を生産性の指標とする 企業や国・プロジェクトの労働生産性比較を評価する場合、具体的にどのような要素から構成されているのかにより、生産性数値の 評価が変わるように、収穫倍率の評価においても、土地や労働量の制限や相違などを考慮して比較する必要がある、という話です。 西欧中世においては、当初は、@やAのみで収穫率を記録していたのが、13-14世紀のイングランドにおいて、Bへと移行し、 播種量や収穫倍率・労働量生産性含めた収穫率の数値評価が重要になっていった点を森本氏は指摘しています。この話は、クロスビー が著書『数量化革命』 において指摘した西欧における数字認識の変化と一致しており、大変興味深い指摘だと思います。 ちなみに、中世においても、古代と同様、60倍とか100倍という数値が寓意的に語られていたとのことです。 古代インドの農業生産性に関しては、数値的なものを見つけることはできませんでした。しかし、古代インドの農業に関して記載し た有用な論説は幾つか見つけることができました。ここではそれらを紹介したいと思います。 @.「古代インドの農業」 岩本裕 学生社「古代史講座 第8 (古代の土地制度) 」所収 1966年 A.「古代インドの農書『クリシ・パラーシャラ』について」 岩本裕 『古代文化』Vol17-1 1966年 B.「前六−後三世紀ガンジス川中流域の稲作法−インド古代農法の歴史的位置−」三田昌彦 名古屋大学東洋史研究 報告16号 1992年 C.「世界農業史上における古代パンジャープ」 早地農業の位置について 飯沼二郎 『人文学報』 20号 京都大学人文科学研 究所 1964年 @の「古代インドの農業」は、たったの10頁しかありませんが、古代インドの農業に関して記載した基本的な文献史料には何がある か(リグ・ヴェーダ、「実利論」など)、そこにはどのようなことが書かれ、どのような作物や器具があり、どのような農法で農業が 行なわれえていたかが記載されています。 Aの「古代インドの農書『クリシ・パラーシャラ』について」 も8頁の小品で すが、古代末期(6世紀以降8世紀以前)に成立した、古代インド唯一の農書というべき貴重な書籍(書物というよりも祈祷文集のよ うなもの)を紹介していて貴重です。「クリシ・パラーシャラ(Kṛṣi-parāśara)」は、仙人パラーシャラに仮託された 243の詩文と若干の散文からできていて、降雨時期や犂の部品の紹介と説明があり、本論説で は、犂の復元図が掲載 されています。続いて農法に関する記述が紹介され、何月にどのような作業をする(雑草駆除とか田植えの時期、 排水と灌漑の時期)かが記載されている旨が紹 介されています。 B「前六−後三世紀ガンジス川中流域の稲作法−インド古代農法の歴史的位置−」は、30頁あり、今回もっとも役に立った論考で す。 直播稲作と移植水稲作、犂農耕と鍬 農耕と、乾田地散播法と湛水散播法という稲の栽培方法、ガンジス川流域農業における灌漑田と天水田、移植法、施肥、除草、灌漑の回数、犂入れの回数などを文学も含めた様々な資料から検討し、ガ ンジス川の北と南とでは農法が異なっていたこと、古代から中世にかけて土地生産性の上昇があったことを論じています。古 代の農業生産性に関する記載は、数値はないものの記載されています。古代インドでは、紀元前において二毛作、三毛作が行 なわれていた、とされている古代史家の出典を確認している部分です(p18)。 ディオドロス 2巻36章4節 「この地では、二度の雨季があるので、冬の(雨季)間に他の(国々)と同様小麦作の播種がなされ、他方夏至の頃(から 始まる)二度目の(雨季)の間は稲及びbosporos、更に豆、雑穀の播種の適期となる。そしてインドの人々はほとん どの年において両期の作柄ともに成功し、また(そうでない場合でも)両作のどちらかが成熟するので、すべてを失うことは ないのである」 実利論 2巻24章 12-15節 「śāli・vrīhi稲・ゴードラヴァ・胡麻・ウダーラカ・ヴァラカは第一(の時期)に種子を蒔くものである。ムドガ・マー シャ・シャインピヤ(いづれも豆類)は第二(の時期)に種子を蒔くものである。クスンバ・レンズ豆・クラッタ・大麦・小麦・アタ シー・芥子は最後に種子を蒔くものである。あるいは、季節に応じて種子を蒔く」 「その作業によって得られる水の量に応じて、雨季の作物・冬の作物・夏の作物のいづれかを定めるべきである」 三田氏は、ディオドロスの記述は、1年に二度の作期があることを示しているだけであって、二毛作のことを記載しているわけでは なく、「両方のどちらかが成熟するので、すべてを失うことはない」という記載は、二毛作による土地生産性の高さではなく、二度の 作期によるリスク分散について述べている、と指摘しています。『実利論』においても同様で、「ある一定区画の耕地に供給される灌 漑水及び天水に応じて、三期の作物のいづれかが選択されているのであり、同一耕地に複数の作物が継期的に作付けられる多毛作とは 異なる」(p18)「インドが当時の地中海世界に比較して高度な農業技術を有していたことを物語るものではなく、二度の作期と豊 饒性というインドの恵まれた自然条件を指摘する以上のものではないと考えるべきであろう」、としています。 漢王朝の生産性については、前漢時代の農書『氾勝之書』(石 声漢編:邦訳社団法人農山漁村文化協会)が残されて います。この 40-42頁に、黍と粟の生産率の記載があり、以下のように記載されています(p41-42)。 普通の農地の場合は、「経験によれば、よい畑からは1畝につき19石得られる。中位の畑からは13石、そして劣った畑からは10 石」となっていて、『氾勝之書』が提案する農法を採用した場合、「上農夫(最良の土地)の場合には(中略 堆肥や播き方の記載が ある)、1上あたり2升の種で充分である。秋には一区あたり3升 で、1畝あたり100斛の粟がとれる」「中農夫(=中位の土地のこと。1年間毎に休耕する土地)にとっては(中略)1畝に一升の種を播かねばならない。収 量は51石と な る」「下農夫(1年耕作する毎に2年間休耕が必要な土地)では(中略)、1畝あたり6升の種を播かねばならない収量は28石となる」と記載されています。 これらを収穫倍率で表示すると、上農地の場合、2升の種で、100石ですから、5000倍の播種率、中農地の場合、1升の種で 51石ですから、5100倍の播種率、下農地の場合、6升の種で28石の収穫ですから、466.7倍 の播種率です。いづれも現実的な値ではありません。 そこで、最初の行に記載されている、普通の畑、上農地19石、中農地13石、下農地10石、に、上記の播種量を適用してみると どうなるでしょうか(中農地の種1升は、上(2升)、下(6升)からすると、4升の誤りではないかと思われます。そこで以下では 中農地には4升を用います)。 2升で19石=950倍、4升で325倍、6升で166.67倍 となります。いづれも非現実的な数字です。『漢書』などの史 書から山田勝芳氏が算出した1畝あたりの収量三石(「秦漢財政収入の研究」 p88-89)で計算すると(1畝あたり6升播き、3 石収穫する) 、50倍となり、ようやく現実的な値の範囲に入って来ます。『漢書』の数値では、農法改善により、1畝あたりの収量が1石から 1.5石に増加したことなどが記載されていることから、1石から3石あたりが妥当な収穫量で、播種量も、6升くらいの数字が妥当 だったのではないでしょうか。収穫量が1石なら、16.67倍と、充分現実的な値になります。 『氾勝之書』は、堆肥と条播きや畝の間隔の配慮、堆肥利用などきめ細かい作業をすると、大きな収穫が望めるという一種の誇大広 告であって、数字 を真面目にはとれないものだと思われます。検算をしてみると、おかしなところは他にもあって、例えば、1畝に3700の穴を掘 り、1つの穴に20粒の粟を埋めるとありますが、これが2升と同等とされています。しかし、3700*20=74000粒の粟 が、2升(333ml)に収まるとはとても思えません。中農の場合は、1027の穴ごとに200粒の粟を播くので、 1027*200=20万5400粒。これが1升(『氾勝之書』p76の度量衡一覧では167ml、『中国経済史』 piiでは199.7ml))とされて いるのだから、ありえなさそうに思えます。 ところが、こちらの「中国古代容量 計量」というサイトでは、「一銖是144粒粟的重量」とされていて、1銖は1両(16.14g)の1/24ですか ら、粟一粒は0.00467gとなり、これを74000倍すると、345.58gとなって、2升に近い値になり、『氾勝之書』と 整 合性が取れてしまいます。中農の場合では、959gです。 現代の粟1粒の情報が見つからないので、現代の小麦と米1粒の値の情報を調べてみました。小麦1粒0.0648、米一粒 0.02gとのことです。上記古代の粟の重さ0.00467gは、米・麦と比べると軽すぎなので、実は、一桁違って 0.0467gなのではなかとの疑問が出てきたので、粟を購入してきて、自分で数えてみました。使ったのは、普通にスーパーで 売っているもち粟です。数えたのは、10ml分です。計量カップで量った10mlの粟を、瓶の蓋に少しづついれ、マイナスドライ バーを用いて一粒一粒数えました。結果は10mlで2932粒ありました。200mlで58640粒、『氾勝之書』の記載値2升 (333ml)だと97,635.6粒で、記載値から算出した74000粒と近い値となっています。この部分に関しては、 『氾勝之書』の記載は正確なようです。ただし、中農地の20万5400粒は、700mlとなり、記載値の1升(167ml)の4倍(668ml)となるの で、やはり中農地の播種量は4升で正解なようです。ちなみに、黍についても計ってみました。粟と同じくスーパーで購入してきたも ち黍です。10mlで1611個、『氾勝之書』の記載値1升(167ml)で26903個、『中国経済史』掲載の値1升 200mlでは32220個となりました。こちらの「お米1合は何グラム?何カロ リー?何粒?その他各種情報一覧」というサイトによると、米の場合は187mlで6482粒だそうです。粟と比べる と10倍くらい大きいことがわかります。 収穫量の記載が、誤って10倍と記されていると仮定した値を含めて、収穫倍率を表にまとめてみました。上農地の 播種量は2升、中農地は4升、下農地は6升とします。ある程度現実的な値といえそうなのは、右下のグレイの部分です。
下農地(2年休閑して1年耕す)であれば、普通に成人男女が耕す範囲(27.6畝)を耕すのと、『氾勝之書』の農法を用いて手 間をかけて10畝しか耕せないものの、生産性があがるのと、結果的には同じ収穫量しか得られない、という考えは、ありそうな気が しま す。更に言えば、13.8畝とは、『漢書』記載の全可耕耕地を人口で割った一人当たりの平均農地であって、実際には子供や老人人 口を除けば、成人男女(夫婦)の農地面積は50畝〜70畝くらいになり、これだと、手間をかけて上農地で10畝耕すのと、普通の 農法で50畝耕すのとほぼ同じ収穫量になります。 このように、生産高に注目すると、『氾勝之書』の数値は異常な数値ですが、倍率に注目すれば、ありえそうな値となり、『氾勝之 書』の主張したい点は、まさにこの点にあったのではないでしょうか。 さて、『氾勝之書』記載の1升あたりの穀粒の数は現実通りの値であったことから、播種量については正確な値といえ、この点を勘 案すれば、 『漢書』記載の数値から算出される1畝あたりの収穫高1〜3石が妥当な収穫量なのではないでしょうか。しかも、1畝あたり3石と いう値は、豊作・不作時の平均ではなく、寧ろ豊作時の最大値だと考えれば、2石程度が妥当だと考えることもできます。 最後に小麦について。『氾勝之書』の粟黍の次の項目は小麦となっていて、2升で100石(5000倍)となっており、播種量の 記載はありま せん。この数値は誤植か誇大表現かいづれかだと思われます。 古代日本の農業生産性については、澤田吾一著『奈良朝時代民政経済の 数的研究』(1927年)に 記載があります。それによる と、種稲20束で、上田(生産性の高い土地)の収穫量500束、中田400束、下田300束と記載されています (p463-4)。出典は、個別資料と全体資料の二種類に分けられるようです。個別資料は、各々異なった資料に記載のある数値を 計算して算出された値。全体資料とは、そのものズバリの数値が記載されている資料です。 (1)個別(ミクロ)資料(奈良時代の史料) 天平9年但馬国正税帳(古文2巻62頁)にある、二町あたり、日別2束8把の収穫とあり、これを計算すると、 2.8*365/2=511となり、約500束となる。中田、下田については「天平勝宝八歳越前国使解(古文4巻111頁)に、 田の賃貸料が、十二町各々80束、20町各々60束とあり、これを当時の地代20%に相当するとすると、前者の収穫量は400 束、後者は300束となる、という理屈です。種稲20束は、天平2年大倭国正税帳が出典とのことです。これらの数値から、収穫倍 率は、上田25倍、中田20倍、下田15倍という数字が得られます。 (2)全体(マクロ)資料(平安時代の史料) 延喜主税式(巻二十六)に「凡公田獲稲上田五百束、中田四百束、下田三百束、下々田一百五中束、地子各依田品令輸五分之一」と あるとのこと(前傾書p464-5)。地子とは地代のことで、先の20%の根拠ともなっています。 上田25倍、中田20倍、下田15倍、下々田4倍という数字であることがわかります。 岩波書 店の、日本史の数量経済史シリーズである「日本経済史」の第一巻が、江戸時代から始まっているので、それ以前の日本史の数量経済 史はないのだろうかと思っていたので、本書は非常に役立ちました。 ネットで読める古代日本の生産高を扱ったPDFとしては、高島正憲著『日 本古代における農業生産性と経済成長:耕地面積,土地. 生産性,農業生産量の数量的分析』(2012年) という、非常に有用な論説があります。古代日本の人口、田地・畑地の総面積・田地・畑地あたりの収穫高、全国総生 産高などを、奈良時代、平安時代前期、平安時代後期について算出し、それぞれを比較して、成長・衰退などを論じていますが、収穫倍率の記載がないので、澤 田吾一著『奈良朝時代民政経済の数的研究』は非常に役立ちました。 佐藤次高著『中世イス ラム国家とアラブ社会 -イクター制の研究−』(山川出版社、1986年)のp312−313に、アイ ユーブ朝の宰相イブン・マンマーティ作成の12世紀エジプトの農作物の収穫倍率(及び地租や播種時期など)の一覧表があります。 小麦、大麦、ソ ラ豆、ヒヨコ豆、エンドウ豆、レンズ豆、麻布、ネギ、ニラ、砂糖キビ、ゴマ、ダイコン、キャベツ、メドンなど、全部で29種類の 作物に関する一覧表です。ここでは、そのうち、小麦と大麦の播種量と収穫量の部分を引用します。
最低では、播種量1イルダブにつき収穫2イルダブで、収穫倍率2倍、最大は播種量2/3イルダブにつき収穫20イルダ ブで、30倍。平均的値の記載はありませんが、だいたい播種量2/3から1イルダブにつき収穫量10イルダブで、 10−15倍というところではないでしょうか。一方、著者の佐藤氏は、p371の注147では、15世紀の歴史家マク リーズィーからの引用として、「「マラーキヤ地方では、小麦1粒をまくと、100穂、少なくとも90穂成長し、稲も同様 である」と述べているが、恐らく穂は粒の誤りであろう」と記載しています。100倍という値は、古代シュメール地方の 一部の農地で記録されている値です。 この2−20アルデブという範囲は、アイユーブ朝の宰相イブン・マンマーティ及び彼に依拠したマクリーズィーの記載で あって、これらの数値を更に絞り込むべく研究した論説が、「イスラム世界」Vol60 (2003年3月)の「8世紀サ ワード*1における小麦の収穫率を算定する試み(棚橋博之)」にあります。この論説は数式が多数登場し、私には追い切れ ない ので結果だけ記載すると、当時の小作料の割合、借地料、種子量、投入家畜数、投入労働力などの史料に現れる数値を計算す ると、収穫率は 63/13<r(収穫倍率)<12(だいたい5−12倍の間)となるとのこ とです。 *1サワードとは、バグダード以南の古代メソポタミアに相当する地域。古代はバビロニアと呼ばれ、イスラーム時代にサ ワードと呼ばれるようになった。 8.まとめ
農業生産性を評価する場合、@播種量に対する収穫量(収穫率)や、A一定の区画における収穫量(土地生産性)、B一定 の区画における、一定の播種量に対する収穫率、 の3種の用語が明確にならずに利用されていることが多く、更に、C土地 の優良度合いを捨象するケース、例えば、フランス全土の平均収穫率と、世界の中でも稀な肥沃地域であるメソポタミアの中 の、半径十 キロメートルの程度の都市国家の収穫率の数字を単純比較する、というケースが多いことから、近代以前に、18世紀の西欧 でも実現できていなかった20倍以上の収穫率が実現されていたことが疑問視されてきたように思えます。しかし、それぞれ の条件を整理すれば、一等地で手間をかければ、10倍から2-30倍といった収穫倍率は、古代中世においてもありえたの ではないかと思えます。 唐代の農業生産性を数値的に分析した論説を見付けることができなかったので、見つかり次第追記することにして、土地生 産性に関する参考値を記載します。 渡辺信一郎『中 国古代の財政と国家』(汲古書院)のp470では、農地一畝につき0.5石として、全国総生産高を計算 している箇所があります。なぜ0.5石なのかの理由は不明です。唐代の一石は約60リットルで、漢代の一石(34リット ル)の1.76倍です。漢代一畝2石(68リットル)とすれば、唐代の0.5石は57%ですし、漢代一畝一石の生産だっ たとしても、88%となり、漢代よりも土地生産性は若干低いことになります。播種量は不明ですので収穫倍率は不明です が、漢代と同じ播種量だとすると、収穫倍率は若干落ちていることになります。更に漢代の一畝は約460uですが、唐代の 一畝は約580uで、漢代の一畝は唐代の79.3%となり、収穫高と土地の広さ双方を掛け合わせると、盛唐期の土地生産 性は69.52%にまで落ちてしまいます。これは、全国墾田面積にも反映していて、漢代の墾田総面積は8億2700万畝 であるのに対し、盛唐期の墾田総面積は約14億4000万畝で、漢代の倍近い面積を必要としています。土地生産性の低下 を、墾田開拓で補って いる、という光景です。唐代は畝数で漢代の1.73倍、u換算で、2.18倍を必要としていました。墾田総面積が 2.18倍で、土地生産性が0.69倍ですから、収穫倍率が同じで、漢代一畝一石(34リットル)、唐代一畝0.5石 (30リットル)の生産高だったとすると、唐代は、漢代より全体として1.5倍の総生産高がある、ということになりま す。 漢代が一畝二石の収穫高であれば、盛唐時の総生産高は漢代の76.6%となります。 唐代後期になると、二年三作が行なわれるようになり、土地生産性は劇的に上昇し、宋代に至る一大変革期となったとのこ とです。唐代の何時ごろの数値か不明ですが、『中国経済通史 宋代経済 巻(上)』(漆侠著)のp154には陳宣公奏議所収として、唐代の畝あたりの最高収穫量を現在中国の2石 (200リットル)=唐代の石換算で約3石)としている文言がありますが、陳宣公が誰だか不明ですし、それ以上の説明は ありません。また、この書籍は、他に先秦時代の巻が出ているのですが、唐代の巻はないようです。ちなみにこの書籍の当該 部分では、宋代の様々な記録を渉猟し(全部で35例)、その中の畝あたりの最高収穫量が5石であることに注目し、「も し、宋代の最高収穫量が5石、即ち現在の460kgあったとするならば、これは、1畝で一人を養うことが出来る計算とな り、戦国時代には20-30畝で一人を養っていたのに対し4倍の生産性、唐代の最高収量2石と比べると約2倍余の生産性 向上となる」としています。戦国時代の20-30畝で一人を養う、というのは、『漢書』食貨志に記載された、戦国魏国の 李悝の述べた「一人を養うのに月一石半」=年間18石=一畝一石の生産量とすると約20畝、という数値にちなむ値ではな いかと思われます。 しかし、宋代の事例35例中、一畝あたり5石というものは2つしかなく、1、2石(宋代の1石は66リット ル)という数字が殆どなので、全体としてはあまり唐代と変わらないのでは?という印象を受けてしまうものでもあります。 |