古代イラン人自身が書き残した文献は、ほとんど伝わっていません。しかし、ササン
朝については、若干残されており、そこからある程度推測することができます。 6世紀最盛期の王ホスロー1世の世界観をうかがい知ることができる中世パフラヴィー語文献『カワードの子、フスラウ の教訓』が残されています。伊藤義教氏が邦訳を残していますので、以下に引用してみました。3頁ほどの短い文献です。次項の「ホ スロー二世の弁明」と比べると、建前的な内容であり、民衆側の心情を忖度した理想的君主・統治像が印象づけられる内容となってい ます。ホスロー二世の世界観をうかがい知ることができる「ホスロー二世の弁明」というべき内容がタバリーの『諸預言者と諸王の歴 史』の「シールーヤ」の項目に掲載されています。ホスロー 2世の国家や統治に対する見解が直截的に述べられている点で異色の内容であり、民衆より支配者側の論理と都合のみを語っている点 で、ホスロー1世の理想化された君主像と比べると、遥かに現実的で傲岸な帝王像が垣間見られる点で貴重です。両者を比較してみる と、その特徴がよくわかります。 ----------------------------カワードの子フスラウの教訓 ------------------------------------ このように言い伝えられている−カワード(一世)の子、英霊王フスラウ(一世)は、臨終にさいし、生命が肉体から分離するに先 立ち、世の人々に教訓を垂れて言った「この生命が余の肉体からはなれたら、余のこの王冠は脱がせて墓にもってゆき墓に置けよ。そ して世の人々の心に呼びかけよ『人々よ、罪業を犯すことをつつしみ善行をなすことに努めよ。そして現世の財貨を取るに足らぬもの とみよ、というのは、昨日はこの肉体の無かったこの者に(今日は)この肉体があるからである。ここなる人々は、所と時を問わず、 天則に三歩、より近づくこと(が必要)である。(余の)現世の財貨は山をなすとも、今日、手を(死せる余の)上におく者はだれ も、不浄が付着するために、バルシュヌーム(の祓浄法)によって洗藻する必要があり、あるいは、神のまつりや、善き人々との対話 を許されないのである。また、昨日王者の威光を笠にきて人に(助けの)手をさしのべなかった者は、今日は、不浄が付着するため に、だれも手をおいてはくれないのである。 世の人々よ、平安であれ。政治は正しい心と抱擁することによって行わるべきである。努めによの人々は努力精進せよ。作法と節度を 実践せよ。そして実践と判断は寛大にして公正、かつ公正なる人々と一致するものであれよ。教訓を与えてくれる人々の賢明な教訓は 傾聴して行動と節度への指針とせよ。 おのが持分に満足し他人の持分を盗んではならぬ。貧しい人々への施しには猶予遅滞せずにこういうことを考えてみよ、すなわち、巳 むなきときは財産の所有権は去りゆき、大きな、大切な財貨も不幸と貧困に転じるということを。 ここでの寿命はわずかで、かしこへの道は遠く、また、おそるべき告発者と公正な法官は負債(となっている悪行)のなかに善行を見 いだしてはくれぬ。巧言と賄賂を用いてはならぬし、身体と霊のためには(それを)受取ってはならぬ。善行のほうが多くなされたの でなければ、チンワド橋を渡(って天国ガロードマーンにはい)ることはできない。かしこ(橋頭)には(神)ミフルやラシュヌのご とき公正な法官が(いて死者の霊をさばくのである)。 ガロードマン行きとなるためには善き人となれよ。至福者となるためには嘲笑をしてはならぬ、なんとなれば、(他人の)美点をみと めることは、あらゆる所とあらゆる人にとって、なくてはならぬことだからである。 現世を宿と思え、そして身体を、平安で健全に保つように働かせよ。 罪は努めて棄てて天国的なるものをおのがものとせよ。 また、こうも言われている、人々はみな、私はどこから来たのか、また私はここでいかなるものであり、また私はどこに帰っていかね ばならぬのか、また私にいかなることが求められているのかを知らねばならない。それについて、余はこういうことを知っている、余 は、主オフルマズドの前から来たということ、そしてドルズ(大魔)を敗亡させるために余はここにあるということ、また主オフルマ ズドの前に帰っていかねばならぬこと、そして余には天則(と合致すること)が求められているということ、を。』」 賢者たちの義務は智慧のことばを教えることと品性を陶冶することである。この教訓(アンダルズ)をつくりこの命令を下し給う た、カワードの子・諸王の王フスラウが英霊者にてましまさんことを。このようにましまさんことを。 安息と歓喜をもって(これを書き)終えた。 ----------------------------------------------------------------------------------------- (伊藤義教『古代ペルシア』岩波書店(p202-205より引用) |