中国の為替手形の起源と歴史(6)

明代:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか? 

 

 

   前回の続き。

 同じ事を考えている人はやはりいるもので、こちら、劉秋根氏と謝秀麗氏が《中国銭幣》2006年第1期に掲載した
明清民間商業信用票据化的初歩発展と いう論考では、「自从这些商业信用票据在宋代成为不兑现的纸币以后,宋、元及明初民间的汇兑之事如何?(商業信用手形が宋代に不換紙幣となって以後、宋、 元、明初の民間に為替はどうだったのか?」という疑問から始まっています。この期間は、不詳としながらも、16世紀以降、会票という送金手形の発生につい て記載しています。これが結構参考になりました。

 今回は、15世紀までの明初、明中期の貨幣についてはネット上に情報が結構あるので、要点を記載します。

1)銅銭不足

 14世紀初、寧波を出向し、沈没した新安沈船から800万枚の銅銭が引き上げられた(
上田信「海と帝国」p49)。 800万枚は8000貫となるので、南宋や明初の鋳造額10-20万貫からすると大した額ではないが、仮に毎年10隻が8000貫を運搬していたとするな ら、8万貫、朝鮮やベトナムなどにも流出していたことを考えると、結構な額が流出していたことになります。年間鋳造数と歴代銭含めた民間の総流通枚数は大 きく異なるようですが、北宋の推定では平均200万貫、北宋代合計3億貫の鋳造に対して、宋初から末期までの年間流通量は3000万貫との推定もある(宮 沢知之「宋代中国の国家と経済―財政・市場・貨幣」 p505)ことから、年間8万貫と仮定した流出が50年続けば400万貫。倍の16万貫が流出とすると800万貫。明初の流通量の統計が無い以上、なんと もいえませんが、元代は小銭も紙幣化したため、不要になった銅銭が大量に流出し、明初の銅不足を招いたとの説があるようです。恐らく、銅銭そのものの流出 と、民間での銅製品の需要増大による、銅製品への改鋳の両方により、宋末期より一層の不足を招いていたのではないでしょうか。とはいえ、明初には、宋代銭 も流通していたそうです。

2)統一前後

 元末戦乱記は、各勢力とも銅銭を発行していたようで、金国滅亡度の華北の漢人世 侯のように、領国内紙幣を発行していたわけではなさそうです。理由は、元末の紙幣乱発による暴落、とのことですが、金末でも乱発暴落を招いているし、金よ り元の方が長く紙幣が安定流通していたことを考えれば、単純に元末の乱発は理由にならないように思えます。また、五代でも手形が流通していたことを思え ば、戦乱時に銅銭の方が信用があった、とも言えないように思えます。
 というわけで、元末戦乱時に、何故各国が銅銭を発行したかの理由は不明ですが、追求しているとまた終わらなくなるので、先に行きます。

  朱元璋が最初の銅銭を発行したのは1361年「大中通宝銭」、この時点の支配領域は現在の安徽南部、江西、湖北東部、湖南東部、浙江西部と福建北部程度。 過去の王朝発行銅銭とともに流通したとのことですから、本格的に熟慮した通貨政策とは言えないのではないかと思います。
 洪武通宝を発行した 1368年には、領土は全湖北、湖南、安徽、山東省を含み、洪武帝代の最大領域の1/3くらいとなり、1、2、3、5、10文銭を発行しています。8月に は大都を陥落させているので、かなり本格的な通貨政策だと思うのですが、1372年には銅不足から、大中、洪武通宝を改鋳し、小銭のみに変更し、2年後に は紙幣・大明宝鈔(一貫、500文、400文、300文、200文、100文。一貫は1000文=銀一両=米一石。4貫で金1両)を発行し、更に1376 年には銭使用停止し、倒鈔法にて交鈔と宝鈔を交換させ、元代同様紙幣一本化政策に変わったとのこと。が、早くも翌年に銅銭を再開し、100以下の取引には 銭、商税は銭鈔併用(銭3:鈔7)、100文以上の取引でも銭3、鈔7の割合とするなど、なかなか通貨政策が安定しなかったようです。


3)紙幣下落

1385年には禄米鈔二貫500文=一石へ下落(1374年時の半分以下)。
1389 年には10-50文の小額紙幣を出し、全面的な紙幣化に向かったのですが、1393年には一貫が160文になるなど、激しい下落を招きました。南宋で50 年以上かかった下落幅をたった15年で達成(しかも南宋ではその前に30年間程安定していた)したのですから、政策に欠陥があったことは明らかです。主に 下記の点が指摘されているとのこと。

・金銀で宝鈔を購入できたが、宝鈔で金銀を購入できない(準備金制度の欠陥)
・両税法以来の現物納税を採用した為、宝鈔の政府回収力が不足(政府信用供与の欠陥)

 市古尚三氏「
明代貨幣史考」p9によると、1393年の銅銭鋳造量は約18万9千貫。概ね南宋時代より少し多いという程度。同署p75では物価の下落率一覧表が掲載されており、

・1376年 米一石=鈔1貫
・1385年      =鈔2貫500文
・1407年      =鈔30貫(市古本では記載が無いが推測銭換算1貫=33文)ただしこの時は、公定レートを切り下げして、それ以上の下落を防ぐ意図があった、とのこと。
・1426年      =鈔40-70貫(50貫として推定1貫20文)
・1444年      =鈔80貫(推定1貫12.5文)
・1448年 鈔1貫=銅銭2文
(主な出典は、「続文献通考」巻10、「明史食貨史」)

と いう具合で、宋代から銀貨幣化の圧力があったところに、紙幣政策の失敗が重なってしまっては、銀の貨幣化は必然だと思うのですが、唐代から元代までかなり の水準の金融政策の知見を積み重ねてきた割には、どうにも明初の通貨政策の駄目ぶりには納得し難いところがあります。。。。

 鈔の下落を受けて、官吏も給与の銀支給を望むようになり、政府に銀を集める為、1436年に銀の納税化実施。銭は小取引のみとなり、1480年代頃より銀で物価表示が行われるようになったとのことです。

4)銅銭の状況

  官製の銅銭(制銭という)は、主に銅不足が原因で、鋳造のコスト高を招いた為、宣徳帝(1426-35年)以降は弘治帝(1488-1505年)まで50 年間鋳造されなかったが、民間の小額貨幣としての需要があったため、私鋳が増大したとのことです。なお、建文帝の貨幣は、文献には残っていないものの、
現物が出土していて、その真偽が論議されているようですが、 永楽帝の簒奪による記録抹消の一貫として、全面的に改鋳された可能性はありそうな話です。また洪熙帝(1425年)は在位が短かったことから発行されな かった可能性があり、それ以外で銅銭を発行していなかった時代は正徳帝(1505-21年)だけで、基本的に明代は、15世紀中期の50年間以外は、量は 少なくとも銅銭を発行し続けており、空白の50年間も私鋳銭(永楽通宝が多かったらしい)が流通していた為、小額取引における銅銭の流通は続き、完全な銀 の貨幣化には至らなかったようです。ただし、銅銭の数量が決定的に不足していたので、銀の需要が高まり、16世紀に入ってから、日本やメキシコ銀の大量輸 入を招く結果となりました。なお銅銭は、前代のものも同時流通しており(この現象は古代から一般的な現象。漢の五銖銭は唐代初期まで流通していた)、嘉靖 年間には嘉靖銭7文=洪武銭10文=前代銭30文=当銀1分と定められりしており、両替商が常に介在する余地があった。

 政府が銅銭の鋳 造に熱心でなかったのは銅不足によるコスト高と、鉱山開発のコスト高にあった可能性があり、この点が、明朝と清朝の貨幣政策の最大の相違点のひとつと言え そうです。というのも、清朝では、大幅な採算割れでありながら、日本から銅を輸入したり、鉱山開発を行っているからです。上田裕之「
清朝支配と貨幣政策」 は、このあたりの事情が詳述されており、p118には康熙43年(1704年)から乾隆38年(1773年)の間の鋳造差損額のグラフが出ていて、康熙か ら雍正年間は1串(1貫)0.5から0.8両(つまり、1000文鋳造するのに、1500から1800文の鋳造経費)、雍正末年から乾隆年間は0.1両以 下(1000文鋳造するのに1100文以下)と、採算割れであるにも関わらず、銀・銅銭・穀物のレートを安定させる為に多大な努力をしているからです。明 代と異なり、軍事費用があまりかからなかった点は重要視されるべきかも知れません。明代は、まず初期の永楽帝が散財(外征・鄭和艦隊派遣・大宮殿造営) し、エセンやアルタン汗、倭寇、秀吉の朝鮮侵攻内憂外患続きで軍費が嵩んでおり、この点、無駄な遠征をせず侵攻を受けなかった点、費用に関しては、康熙・ 雍正時代には余裕があったと言えるかも知れません。とはいえ、上田氏はじめ、山本進氏や黒田明伸氏の著作などを読んでいると、清朝一代、相当貨幣政策に努 力している様子が伺え、今回、明代についても同じ程度深く考察している書籍を読めなかったのが残念です(前傾、市古尚三氏「明代貨幣史考」は、山根幸夫氏 「中国史研究入門」では、「資料不足」と批判され、「中国歴史研究入門」の*豊富な文献リスト*に掲載されていない状況。。。。。)。
 
  とはいえ、明代は、皇帝も臣下も蓄財に熱心で、役人腐敗の伝統は同じながら、比較的有能・熱心で真面目な皇帝が続いた清朝との統治姿勢の相違が顕れている 気もします。。。。何か、明朝の貨幣政策は(貨幣政策に限らないけれど)放置・受動的な印象が強く残ったんですよね。。。。


5)銀錠の状況

  銀錠は形状により、元宝(日本でいう馬蹄銀)、小元宝(中錠または(金へんに果)子)、小錠、砕銀、金花銀などの区別があった。元宝や金花銀は 50,10,5,3,2,1両があり、50両は1865グラム、金花銀は納税用で、金花銀という薬能植物に色が似ているのでその名がついたとのこと。形も 馬蹄銀と異なり、
こんな形

 こんな重さなので、やはり遠距離運搬には不向きだと思うのですが、為替手形が少なくとも文献上に登場するまで100年近くかかっています。

6)明代為替

 確認できる痕跡としての明代最古のものは、一応明代中期の名臣として有名な
徐階(1494年-1574年)が、地元の松江(現上海市松江区)で経営していた官肆(官営店)で発行していた会票(手形)で、冒頭で紹介したサイトに、明代範濂の編纂した「雲間据目鈔」卷三,《記祥異》に登場しているエピソードとなるようです。概要は、

  松江の華亭の蘇克温という人が、京師(北京)からの客人から、同郷の馬という人が大金を持って京師に行くこといなっている、との話を聞いた。蘇克温は、馬 氏に、「京に帰るというが、数千里を一人で行くのは危険です。どうでしょう、徐氏の官肆で会票に代え、帰郷後、徐人(恐らく徐家の人)に換金してもらって はいかがでしょう。必ず換金してくれますよ。

 と提案したという話。この話に出てくる“徐氏官肆”とは、為替経営の事で、会票も知られていたことを意味し、京師と松江の間の資金運搬に為替が利用されていたけれども、徐氏官肆が一般的な商業形態だったかどうかは断定しがたい、とのこと。徐階の官肆の話は、清代編纂の「
皇朝経世文編」にも出ているとのことです(出典はこちらのサイト)。

  もうひとつの例は、天啓6年(1625年),蘇州の周順昌が逮捕され京師に来たとき、以前周家の恩を受けた蘇州の朱祖文が、周氏の入京前に蘇州の在京官吏 に連絡し、周氏を救う為に百計を案じ、銀500両の会票を用立て、北京に行った話(ちょっと訳に自信がありませんが)。そこで、「500金の無記名会票を 持っています。換金できる所などがあれば、教えてください」といい、その後、徐公、厳叟顧公など、会票を扱っている高官に託そうとしたがうまくゆかず、朱 尽吾という官吏に相談することになった。朱尽吾は朱祖文を呼び出し、「銀建てで未払いの手形がある。500金は徐公、厳叟顧公でも動かすことはできない が、50金にばらすことはできるが、受け取り証明書を必ず書かなければならない」、と言い、約1週間後、「為替差損を避ける為に交換したことの注意書きを しなくてはならない」 このようにして、蘇州より北京へ会票を持ち運び、北京の某家で銀を用立てることができた(
朱祖文(1627年没)「北行日譜」

 というもので、論考の著者は下記4点がこの話のポイントだとしています。

1.北京と蘇州の間の資金の往来に既に為替が用いられていた。
2.会票に記載されている銀両は、ばらすことができた。ただし、他にサインした手形を保存する必要があった。
3.為替の保証と不履行を避ける為、注意事項を記載した。これは正式な裏書ではなかったものの、裏書の萌芽と考えられる。
4.為替は既に流動的で、譲渡する性質を持っていた。最後に為替に署名した人が引受人となり、持参人は誰でも銀に交換することができた。

 このように、既に為替手形の要件が見られ、異地間送金手形は、明末及び明清交代後にも継続して発展したと言える。明崇祯帝治下では、商人に官府の銀銭為替を奨励し、地方官府が要望によって、銀との交換を奨励していた(「
崇禎長編」卷一,崇禎十六年十月戍辰諭户部)、とのこと。

  更に明末清初の陸世儀も「最近の多くの人は、京師にいくのに、財貨が重く道路が不便である為、京師の富商に銭貨を預け、手形を受け取っている。これを会票 と言う。即ち、飛銭である」と言っているとのことです(「皇朝経世文編》卷五十二,陸世儀《論銭幣》」。なお、こちらの「
徽商会票制度及其歴史意義」という論考では、陸世儀の話を徽商商人の話だとしています。

 

 というわけで、納税が契機となり、農民が貨幣を必要となった(唐代後期では銅銭、明代中期では銀銭)という点と、その重量から運搬がネックとなり、手形が誕生した、という経緯はは唐代と同じ展開を迎えている感じです。ところで、「
「銭荘」の発展と衰退 1――「中国式銀行」の衰退要因に関する試論――陳 玉雄(麗澤大学経済学部助教)」 という論考でも、明代の為替に触れていて、2頁目の註には、「明朝中期には、浙江省寧波と紹興には既に「匯劃銭荘」(為替業務を行う銭荘。「匯」は「為 替」、「劃」は振替の意)が存在していた(王恭敏1990、2~3 頁)。「匯劃」業務は、後の「山西票号」と「上海銭荘」の最も重要な業務となった」という文章が見え、8頁目では、明代に既に、「、「銭荘」という名称が 使われ近代「銭荘」の構造がほぼ完成されていた。「銭舗」、「銭肆」あるいは「銭荘」と呼ばれる金融業者が従来の両替業務の他、関係者への貸付を積極化 し、「荘票」(手形)の発行業務も行っていた」と述べておられます。今回の私の記事では対象外なので触れていませんが、この論考では、漢代から元代までの 両替商についても触れていて、非常に参考になります。

 もうひとつ、
百度百科の銭荘の記事で は、明末,銭庄は一種独立経営の金融組織となり、金銭の兑换だけではなく、貸付を行い、「签发帖子」(小切手)を発行し、他地間為替手形の会票を扱い、鈔 票の性質を持った信用流通工具を扱っており、更に若干の小規模の兑銭鋪(両替商)、銭米鋪など、農村でも活発に活動していた、とあります。為替を扱う前段 階の銭荘として、嘉靖年間(1521-1566年)に、大規模な鋳造を行い、為に、銭の種類が増え、含有金属率により数十種にもなったため、私鋳が横行 し、更にこれら私鋳含む多種の銭を両替する金融組織が出現し、それらを銭店,銭鋪、銭庄、兌店、銭肆、钱桌、銭攤などと呼んだとのことです。嘉靖八年 (1592)に私鋳は猖獗を極め,朝廷は銅銭販売禁止令を出したとのこと。また明万暦五年(1577)には,龐尚鹏が銭鋪の設立を上奏し、これで銭鋪が法 律的に公認されることになったとのことです。

 それにしても、前掲の両替商の名称だけではなく、為替に関する中国語の用語は古語も含め、沢山ありますね。

汇 票(為替手形)、汇兑(為替) 票据(領収書)、会票、会書、会券、票据、期票(約束手形)、兑票、粮帖(食糧の書き付け)、銭帖、支票(小切手)、本票 (小切手)、荘票(為替)、票庄、匯劃銭荘(匯=汇)などなど 。これらはどうやら地方や、些細な業態・形式の相違で異なった名称となっていたようです。前掲の陳 玉雄先生の論考では、清代の金融業者について、地域別・業務別の呼び名を一覧にまとめている箇所があります(p3)が、多様な用語が登場し、今回調べるの も大変でした。。。。

7)清代

 清代は、明代に引き続き為替業務が発展したので、特に記載することは無いのですが、黒田明伸氏「
中華帝国の構造と世界経済」p102によると、清朝では、官金の送金に為替の利用が認められたのは1862年のことで、商人に委託することも禁じられていて、それ以前の税金などの送金は官吏自らの銀の現送だったとのことです。

 
 というわけで、やっと終わりました。最初の中世欧州の為替誕生から始めて2ヶ月以上。。。。疲れました。特に中国の記事がここまで長くなるとは予想もしてなかったのですが、この理由は、

1. デ・ローヴァーの著書のように、為替を主題とした著作が中国史(の日本語書籍では)無い。中国史の場合、貨幣・財政政策史の隙間に為替の話が埋もれている ので、多数の著作・ネット情報に当たる必要があった。また、「無い」ことを証明するのに、多くの状況証拠の収集が必要となった。
2.中国の金融史 を扱った日本語書籍が無い。中国書籍で、ズバリ上下2巻本で、上巻がアヘン戦争以前の中国金融史を扱った書籍を見つけたのですが(といいつつ正確な題名を 忘れてしまいましたが)、為替がどの程度扱われているかわからない書籍を輸入購入する気にはならなかったのでした。
3.中国人の金融や財政に対する膨大な努力と英知に圧倒されました。当初、甘く見ていたので、感動したことを色々書きたくなった次第です。

 それにしても、何故中国史は金融史の日本語書籍が無いんでしょうね。中国の場合、財政が強く、金融がほぼ財政に組み込まれているから、財政史になってしまうからかも知れませんが。。。。。

  最後に、漢代以降民代までの財政史・通貨政策史について、今回参考にした書籍の中で、「これで通観できるなぁ」と思った書籍を並べて終わりにしたいと思い ます。時代を下るほど、史料がそろうからなのか、或いは、財政から経済が分離してゆくからなのか、そんな感じの書籍の並びとなりました。

1.渡辺信一郎著「
中國古代の財政と國家」 漢代から唐末の財政政策を扱って便利です。漢代は多少詳しいつもりでしたが、かなりイメージが変わりました。
2. 高橋 弘臣 著「
元朝貨幣政策成立過程の研究」 題名は元朝ですが、3/4は唐代末から宋・金の話
3.前田 直典著「
元朝史の研究
4.市古 尚三著「
明代貨幣史考」 明代は他に本が見つからなかったので。。。
5.上田裕之著「
清朝支配と貨幣政策」 清初から乾隆帝時代まで
6.黒田明伸著「
中華帝国の構造と世界経済」 雍正帝時代から民代まで


 

 

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