中国の為替手形の起源と歴史(5)
元代:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか?
前回の続き。今
回は元代の華北と統一元。
1.華北支配時代のモンゴルと元
金末以来モンゴル支配開始時期にかけて、漢人世侯、投下領主(汗直轄領と宗室・異姓の諸王・大臣などの領主)が各々紙幣を発行し、各領内
で流通させた。領
土間決済は、銀絹絲で行われ、これらは紙幣の兌換準備金でもあったと考えられる。1252年モンケは宝鈔を小額発行し、クビライも
1253年、交鈔を分地
内で、官吏の俸給、賜与、軍事物資買い付け用に発行したが、この時期に至っても、遠隔地貿易では領外へ出るときは銀や絹などに換金した。
この事実から、こ
の時期、変額為替手形は無かったものと思われる。また、銅銭は殆ど流通せず、各地領主発行のローカル紙幣が小銭をカバーしていたようであ
る。
1260年(中統元年)、中統元宝交鈔(略して中統鈔)発行。交鈔の準備金は絲、銀50両=鈔1000両とし、中統鈔については、金銀を
準備金とし、。
10,20,30,40,50,100,200,300,500文、1貫、2貫が発行され、中統鈔1貫=交鈔2貫、中統鈔2貫=銀1両と
されたとされる
(100文以下を零鈔または少鈔といった)。銀金を準備金とする点については、元史125巻、布魚牙伝(布魯海牙)。
に、「中統鈔法行,以金銀為本,本至,乃降新鈔。時莊聖太后已命取真定金銀,由是真定無本,鈔不可得」とあり、続いて、布魯海牙の幕僚王
文統が、「昔奉太
后旨,金銀悉送至上京,真定南北要衝之地,居民商賈甚多,今舊鈔既罷,新鈔不降,何以為政。且以金銀為本,豈若以民為本」と言った
、とある。ま王文統は更に元史206巻、王文統伝に
て初行中統交鈔,自十文至二貫文,凡十等,不限年月」と述べており、このことから界(年限)は無く(本件は出土の実物の印刷版からも知れ
る)、政府の兌換
と回収、随時新券への交換が、紙幣に信用を与える仕組みだったと考えられる。王文統以外にも、劉粛、商挺、劉秉など漢人官僚が紙幣発行に
携わり、劉粛は金
朝の遺臣だったとされる。中統元年に、各領主の紙幣と中統元宝交鈔の交換を行い、全面的に中統元宝交鈔に切り替えた。中統2年(1261
年)から納税に用
いるようになり、平準庫にて金銀と鈔を交換した。同時に民間での金銀使用を停止した。中統5年、物価も鈔で表示するようになった。至元
14年(1277
年)銅銭の利用禁止。至元17年、民間の銅器・銅銭・銅材を回収した。なお、南宋領土の征服伸展により、至元13年、会子と中統鈔を交換
比率50:1で交
換することとした。フビライ死後、実質中統鈔は不換紙幣になった。
というわけで、中程度の高額から小銭まで、紙幣で行うことに
なったわけだが、金末の貨幣混乱時に並立した、銀・紙幣・銅銭・絹・絲などから、何故紙幣が選ばれたのか、という疑問が出てくる。絹は汚
れて価値減価率が
高く、絲は嵩張るので、準備金に向いてはいても、流通貨幣向きではない。しかし、安定流通期間が短く、末期に混乱を極めた紙幣、寧ろ銀が
主軸になりつつ
あった状況で何故紙幣を導入したのであろうか。
そこで高橋弘臣氏は「元朝貨幣政策成立過程の研究」において、次の検討を行っている。
1)準備金以上の軍費調達
北にアリクブケ、南では対南宋戦争にあって、銀・銅銭では賄いきれない資金を必要とした。
2)漢人世侯・投下領主の領内紙幣の統一
既に各地領邦で個別紙幣が流通しており、この流通量も、銀・銅では賄いきれない量に達していた。
3)元朝社会経済以外に莫大な銀の需要があった
華北からの銀の歳入は、塩、酒、醋の専売で最大事220万両、包銀は1戸当り4両を徴収し480万両、合計700万両があったとされ、
斡脱(オルトク:元朝におけるイスラーム特権御用商人))によって西アジアに流出した
4)皇族、功臣への下賜
皇族、功臣は金銀への嗜好が強い為、賜与には金銀を多く用いた。その額は6万錠(=300万両=歳入の半分近く)に上った
5)農民層への銀の浸透度
オゴタイ時代(1235-8年)、税を銀納としたところ、農民が高利貸し(斡脱)から借金し、田畑売却に追い込まれるなど、弊害が出
た。農村に銀は浸透しておらず、かつ高額であるため、不適当だった
6)銀の価値
そもそも銀は価値が高すぎて、低額通貨とならない。しかも銅貨は不足していた。
7)民間における銀の市場形成
歴代中国王朝にとって、通貨は納税を通じた財政的物流・経済・価格統制の手段である為、通貨価値は公式には政府が決定してきた。銀は民間
蓄蔵が多く、当時
の政府には市場統制が困難だと思われた。価値は政府の信用が決める前提である為、銀銅2本位制は、政府信用による価値の保持を難しくする
(これは、現代で
も、金本位が廃止になり、金価格が市場価格で決まってしまうことと同じ理屈であり、中国では結構早い段階で複位制の課題を認識していたと
いえる。元代後期
以降清代まで安定運用に至るまで長い時間を費やした)。
上記各種見解の中で、俄かに納得し難いのが3と4である。
まず3)の、西アジアへの流出について確認してみましょう。
湯浅赳男著「文明の血液」は、
金銀が交易等によって各文明圏の間を行きつ戻りつする様を古代オリエントから現代まで壮大かつ斬新な視点で描いた書籍である。それによる
と、10世紀の東
イスラーム圏では、サーマーン朝の銀貨が北欧との交易で流出し、ガズニー朝のインド遠征により、インドに銀貨が流出し、更に各地の分離独
立、イラク南部の
荒廃により財政窮乏に陥ったアッバース朝から安いトルコ人傭兵を中央アジアから購入ことで更に銀貨が流出し、更に西欧での金銀比価が
1:12であり、イス
ラーム圏が1:14であったことから、西欧にも流出し、宋代中国の経済繁栄により北宋にも流出した。こうして、
「十世紀の中頃まで豊富
に打刻されていた銀貨は、十一世紀に入るとイスラーム世界の中心部では殆ど造幣されなくなった(中略)、以前はレヴァントと章小アジアの
十二以上の都市で
行われていた銀貨の打刻は970年頃から稀になり、1027-8年以後は完全に行われなくなる。(中略)ファティア朝エジプトのディルハ
ム銀貨は初め良質
をもって知られていたが、漸次悪化して、十世紀末の銀分86%から十一世紀末の34%に落ち(中略)、この頃にはファティマ朝テュニジア
からも事実上、銀
貨が消滅する。スペインやマグリブでも、だんだんと銀が消えてゆく。ウマイヤ朝初期には銀分99%だったディルハム銀貨は十一世紀初期に
は73%、中頃に
は37%に落ちる。アルモラヴィド朝(1056-1147)、アルモハド朝(1146-1225)初期には若干回復するが、1164年以
降は全く姿を消し
て、イスラーム世界の銀払底は最高潮に達し、大西洋からインドのガズニー朝までイスラーム君主は全く銀貨を造幣しなくなってしまった」
(p237)
というワトソン、グリアスン、チポラなる学者の説を紹介し、ついで、13世紀におけるイスラーム圏の銀の復活の記載が続く
(p240)。
・1174-5年、アイユーブ朝がダマスクスで銀貨打刻を再開した。エジプトでも再開したが、粗悪だった
・次いでハマとアレッポでも再開された。
・1240年代にはシリアにおけるアイユーブ朝の貨幣の主流は金貨から銀貨に変わり、
・13世紀には小アジアでも銀貨打刻が再開し、
・1229-30年よりマグリブとイベリア半島のアルモハド朝
・1233/4年バグダード、
・1256-57年頃、エジプトで良質な銀貨が復活
・1271/2年にタブリーズ
・1281/2年にブハラ
・1283/4年にサマルカンド
・1284/5年にタシュケント
・1298と1300年の間にバスラ
そしてこれらイスラーム圏での銀貨復活の一要因として元朝による1260年頃からの銀の西方流出が寄与している。(それ以前の銀貨打刻再
開は、西欧の交易
隆盛により西欧へ流出していた銀が戻ってきた、というアトマン氏の論を引いている(p245-246)。これだけ読んでいると、確かに地
中海沿岸が先に銀
貨復活し、イル汗国が成立した後にイランや中央アジアで銀貨が復活している為、元朝銀の西アジア流出は正しいのかも知れない、と思ってし
まうのだが、湯浅
氏の著作は、「こんな論文もある、あんな論文もある」という感じで、論者の根拠や数量データについて述べていないことから、説としては面
白いものの、今回
この時期のイスラーム圏の銀貨まで調べ始めると終わらなくなってしまうので、いづれ調べてみることとし、とり合えずの判断は保留としたい
と思います。元朝
が西方との貿易において主に銀で決済したらしいが、この場合、銀貨は元朝にも流入しているのであって、西方貿易用の銀貨を確保したのは事
実だったとして
も、インパクトは低かったのではないか、と個人的に感じてます。
これに対して、元朝領土内には、他の汗国の臣下である投下領主の封土があり、こ
こに賜与された物資は市場で金銀に換金されて、本国に送金されていたらしい。郝経「陵川文集」巻3「河東罪言」に「(山西省の)平陽一道
隷抜都*1大
王。・・・・王賦皆使貢金」とあるとのこと(岩村忍「モンゴル社会経済史の研究」p502。しかし、これも、下記に記載する現物下賜の量を見れば、それ程多いとは言えなさそうである。
*1 キプチャク汗国の建国者バトゥのこと
一方、4)皇族、功臣への下賜について、「元史」巻4から17の世祖本紀を見てると、ほぼ毎年12月に、皇族や臣下へ下賜していること
がわかる。下記に毎年の賜与の記載を全部抜き出した(錠、両、銭、分は、銀の重量単位。元代は1錠=50両=500銭=5000分。
中統元年(1260年)
「賜親王穆哥銀二千五百兩;諸王按只帶、忽剌忽兒、合丹、忽剌出、勝納合兒銀各五千兩,文綺帛各三百匹,金素半之;諸王塔察、阿術魯鈔各
五十九錠有奇,綿
五千九十八斤,絹五千九十八匹,文綺三百匹,金素半之;海都銀八百三十三兩,文綺五十匹,金素半之;睹兒赤、也不幹銀八百五十兩;兀魯忽
帶銀五千兩,文綺
三百匹,金素半之;只必帖木兒銀八百三十三兩;爪都、伯木兒銀五千兩,文綺三百匹,金素半之;都魯、牙忽銀八百三十三兩,特賜綿五十斤;
阿只吉銀五千兩,
文綺三百,金素半之;先朝皇後怗古倫銀二千五百兩,羅絨等折寶鈔二十三錠有奇;皇後斡者思銀二千五百兩;兀魯忽乃妃子銀五千兩。自是歲以
為常」
「鈔各五十九錠」など、「鈔」とついているものは紙幣だと考えられるので、これを抜いた、明らかに銀だと思われる額は、総額で33349
両にしかならず、
300万両には程通い値となる。そして最後に、「自是歲以為常」とあり、次年以降は、下記のように、「如歲例(例年の如く)」とある。
2年 賜諸王金銀幣帛如歲例
3年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
4年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
至元元年(1264年) 賜諸王金、銀、幣帛如歲例
2年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例(この文の前に、是歲,戶一百五十九萬七千六百一,絲九十八萬六千二百八十八斤,包銀鈔五萬七千六百八
十二錠」 とあるが、この最後の「包銀」は歳入だと思われる)。
3年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
4年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
5年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
6年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
7年 賜先朝後妃及諸王金、銀、幣、帛如歲例
8年 賜先朝後妃及諸王金、銀、幣、帛如歲例
9年 賜先朝後妃及諸王金、銀、幣、帛如歲例
10年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
11年 記載なし
12年 記載なし
13年 賜諸王金、銀、幣、帛如歲例
14
年 賜諸王金、銀、幣、帛等物如歲例。賜諸王也不幹、燕帖木兒等五百二十九人羊馬價,鈔八千四百五十二錠。賞拜答兒等千三百五十五人戰
功,金百兩、銀萬五
千一百兩、鈔百三十錠及納失失、金素幣帛、貂鼠豹裘、衣帽有差。是歲,賑東平、濟南等郡饑民,米二萬一千六百十七石、粟二萬八千六百十三
石、鈔萬一百十二
錠
15年 賜諸王等金、銀、幣、帛如歲例
16年 賜右丞張惠銀五千四百兩
17年 記載なし
18年 記載なし
20
年 賜諸王渾都帖木兒衣物,忽都兒所部軍銀鈔幣帛。甲申,賜別速帶所部軍衣服幣帛七千、馬二千。賞西番軍官愛納八斯等戰功。辛卯,以茶忽
所管軍六千人備征
日本。壬辰,給諸王阿只吉牛價。以中書參議溫迪罕禿魯花廉貧,不阿附權勢,賜鈔百錠。罷女直出產金銀禁。甲午,給鈔四萬錠和糴於上都。給
司閽衛士貧者,人
鈔二十錠。辛醜,賜諸王昔烈門等銀。以海道運糧招討使朱清為中萬戶,賜虎符;張瑄子文虎為千戶,賜金符。(11月に賜皇太子鈔千錠)。
21年 年末歲賜記載なし。ただし6月に「賜皇子愛牙赤怯薛帶孛折等及兀剌海所部民戶鈔二萬一千六百四十三錠,皇子南木合怯薛帶、怯憐口
一萬二百四十六錠。以馬一萬一百九十五、羊一萬六十,賜朵魯朵海紥剌伊兒所部貧軍」とある。
22
年 賜皇子脫歡,諸王阿魯灰、只吉不花,公主囊家真等,鈔計七千七百三十二錠、馬六百二十九匹、衣段百匹、弓千、矢二萬發。賜諸王阿只
吉、合兒魯、忙兀
帶、宋忽兒、阿沙、合丹、別合剌等及官戶散居河西者,羊馬價鈔三萬七千七百五十七錠、布四千匹、絹二千匹。以伯八剌等貧乏,給鈔七萬六千
五百二錠。賞諸王
阿只吉、小廝、汪總帥、別速帶、也先等所部及征緬、占城等軍,鈔五萬三千五百四十一錠、馬八千一百九十七匹、羊一萬六千六百三十四、牛十
一、米二萬二千一
百石、絹帛八萬一千匹、綿五百三十斤、木綿二萬七千二百七十九匹、甲千被、弓千張、衣百七十九襲
23年 賜皇子奧魯赤、脫歡、諸王術伯、也不幹等羊馬鈔一十五萬一千九百二十三錠,馬七千二百九十匹,羊三萬六千二百六十九口,幣帛、毳
段、木綿三千二百八十八匹,貂裘十四。又賜皇子脫歡所部憐牙思不花等及欠州諸局工匠鈔五萬六千一百三十九錠一十二
25年 賜按答兒禿等金千二百五十兩、銀十二萬五千兩、賜諸王愛牙合赤等金千兩、銀一萬八千三百六十兩
24年 分賜皇子、諸王、駙馬、怯薛帶等羊馬鈔,總二十五萬三千五百餘錠,又賜諸王、怯薛帶等軍人,馬一萬二千二百、羊二萬二千六百、駝
百餘。賑貧乏者合剌忽答等鈔四萬八千二百五十錠。
26年 賜諸王、公主、駙馬如歲例,為金二千兩、銀二十五萬二千六百三十兩
27年 是歲,賜諸王、公主、駙馬金、銀、鈔、幣如歲例
28年 賜親王、公主、駙馬金、銀、鈔、幣如歲例
29年 是歲,賜皇子、皇孫、諸王、藩戚、禁衛、邊庭將士等,鈔四十六萬六千七百十三錠。
30年 賜皇後、親王、公主如歲例。賜諸臣羊馬價,鈔四十三萬四千五百錠、幣五萬五千四百一十錠。
至30年にクビライは死去するのでこの年で終わるのですが、この中で目につくのは、至元25年(1289年)の「金千二百五十兩、銀十二
萬五千兩、賜諸王
愛牙合赤等金千兩、銀一萬八千三百六十兩」と、26年の「金二千兩、銀二十五萬二千六百三十兩」でしょうか。当時の金銀比価が1:10
だったとのことなの
で、金2000両は銀2万両にしかならず、仮に西洋並みに比価が1:15くらいだとしても銀3万両、やはり300万両とは大きな開きがあ
ることになる。
装身具や日常用具、宗教道具・施設など社会の多様な部分で銅が使われることになった以上、新規に大量に採掘可能な鉱山を開発できない限
り、銅銭の流通は難
しいと言える。南宋時代は10-14万貫。金代大定29年14万貫という数字からすると、全土でも20-30万貫程度で、とても北宋時代
の年間300万貫
には届かず、南宋・金代の社会経済を賄いきれないし、長く続いたわけでもない元代の状況が急激に南宋・金代と変わるとも思えないので、銅
銭の状況は、実施
したとしても年間20-30万貫程度にしかならなかったと推測される(実際、銅銭に復帰した明代初期の鋳造額は20万貫だった)。
ところで、冒頭部分で、紙幣化となった理由について高橋弘臣氏の記載しているポイントを7つ記載したが、高橋本の最後の方で1272年
(至元9年)に、胡祗遹(1227
年—1295年)という役人が行った上奏文が紹介されてる(この上奏文は、四庫全書にも収められている「紫山大全集」の22巻「宝鈔法」
に掲載されているとのこと)。高橋本では8点要点が紹介されているが、私の理解では以下の3点に集約される。
1.銅は不足しているので、銅銭を発行しようとすると、鉱山開発が必要である。
2.鈔は遠隔地、決済手段に優れている。銅銭は大金の運搬に費用・時間がかかり緊急時の使用に耐えない
3.鈔と銅銭の複本位の場合、レートの維持・管理が困難である。高額・遠隔地決済で鈔を用い、日常の取引では銅銭を用いようとしても、
レートの安定には困難がつきまとう。
3番目の論点は、現代では、一見小銭と紙幣は安定しているように思えるが、高額取引で金を使うケースを考えると、現代においても異な
る物質のレートの安定は非常に大きな問題だと言え、この点で胡祗遹議論は非常に先進的に思えるが、高橋氏は、このような考えは、南宋の「銭会中判制」(前々回紹介したもの)で
既に議論されているものであり、更にさかのぼると、戦国時代の「国語」周語下景王の大銭鋳造に関する記載に、2種類の貨幣のうち、銭を
母、紙幣を子と、母
を基準にレートを決定し、均衡を保つことで、単一貨幣増鋳によるインフレを防ぐという、貨幣数量学説の原型ともいえる「子母相権制」とい
う論議が伝統的に
存在したとのことである(西欧で明確な貨幣数量説が唱えられたのは16世紀フランスのジャン・ボーダンで
ある)。
またしても、統一前の華北だけでずいぶんな長文となってしまいましたが、この時期の貨幣が紙幣に統一されたのは、銀・銅では追いつかない
莫大な軍費捻出、
及び銀の額が大きすぎて、都市の小銭取引や農村の納税に使えなかったことが、銀が通貨にならなかったもっとも大きな理由なのだと言えそう
です。
2.統一時代の元
南宋が征服されると、南宋出身官僚から、銅銭の流通量を増やし、紙幣と一定の額での交換を維持することで、紙幣の安定を図るよう、銭鈔中
判制の案が提議さ
れた可能性があり、1285年至元通宝が*2、1295年元貞通宝、1297年大德通宝が発行されたが、いづれも短期で停止された。
1287年(至元24
年)、至元鈔が発行され、中統鈔より小額の5文鈔が発行され、中統鈔と至元鈔の交換レートは5:1となった(つまり、中統鈔の20文以下
は、至元鈔の5文
以下の価値しかなかった)。1309年(至大2年)には至大銀鈔を発行、至大銀鈔1貫=至元鈔5貫に相当し、次第に下落の度合いを強め
た。このように紙幣
の下落が顕著になってきた為、再度銭鈔中判制が建議され、至大3年(1310)に至大通宝、翌年大元通宝が鋳造されたが、至大通宝一文あ
たり、至大銀鈔一
釐(=銭1貫=鈔1両)、大元通宝一文あたり至大通宝十文とされたが、直ぐに停止された。そこでついに1311年(至大4年)銀の利用が
公式に解禁される
とになった。仁宗即位(1312年)、至大銀鈔は停止され、中統鈔と至元鈔のみが流通することになった。
*2
この時の建議は元金国領の大名府(現邯鄲市大名県)出身の盧世榮によってなされたものだが、その内容は、中統鈔の下落を銅銭で保証する、という、銭鈔中判
制だった(「元史」巻205)。
このように、元代の貨幣は結果的に紙幣一元の時代が続いたけれども、政府は銅銭流通を何度も図っている。特に南宋征服後銅銭が提議されて
いるのは、鈔が軍
費調達の為の一時的措置だったのか、あるいは南宋で採用されていた銭会中判制の影響なのか、どちらとも言えかねるが、子母相権思想はこの
時代ではコント
ロールが難しく(現代でも同じかも知れないが)、胡祗遹の見解の方が、結果として妥当だったと言えるようにも思える。宮沢知之氏は「宋代
中国の国家と経済
―財政・市場・貨幣」p512にて、1260年から1340年頃の間のインフレ率は20倍、年平均を算出すると4%程度とのことであ
る*3。混乱時のイン
フレは、上下が激しく、漸次同じペースで上昇してゆくとは限らないものの、必ずしも暴落=大混乱だったとは言えないかも知れない。
1310年前後の通貨政
策の短期的変更が続いた後、至正10年(1350年)至正交鈔が発行され、翌年至正通宝が発行され(千文あたり中統交鈔一貫)るまであま
り新規通貨が発行
されなかったことも、比較的安定的状況にあったことを意味しているのかも知れない。
*3 このデータの出典元は、前田直典著「元朝史の研究」所収「元朝時代における紙幣の価格変動」に、価格変動年表として数種の取引物資について詳細な分析がなさrている。一
部引用すると、
茶(p120)
1276年 4銭2分8毫
1342年 12両5銭(125銭=30倍)
華中華南の米(p127)
1282年 3両
1302年 6.3両
1312年 25両
1346 32-40両程度
1355年 50両(16.7倍)
塩(p119)
1230年 銀10両
1277年 鈔9両(以下単位は鈔)
1284年 14両
1288年 30-50両
1296年 61両
1309年 100両
1314年から1340年 150両(約15倍)
とあり、急激な上下よりも、モデレートな上昇が続いたように見える。
ところで、高橋弘臣氏によると、元代の南宋では長江周辺のみ中統鈔が流通し、福建、広東などでは銅銭が流通していた。これは元朝支配が、
華南の末端まで貫
徹していなかった可能性があると指摘している。その華南も、元末には一般に銅銭が流通し、高額取引は金・銀が流通。ただし銅銭が少ないこ
とから、竹牌、酒
牌、茶帖、面帖(面=麪=麵)が貨幣の代わりに用いられ、或いは物々交換として用いられた。
まとめ:
貨幣の話
ばかりで結局為替の話はでずにここまできてしまったが、統一前は銀が漢人世侯や投下領主間決済・及び西域との決済に利用されており、統一
後は、紙幣が高額
決済に利用されていたことは、胡祗遹の指摘から明らかといえる。しかし元末に至り、紙幣が暴落し、高額決済は金銀が主に利用されるように
なった。なお、岩
村忍氏の論文では、東トルキスタンに至元17年(1280年)に畏吾兒境内交鈔提挙司、至元20年に吾畏兒交鈔庫が設置され、トゥルファ
ン、カラホトから
多くの中統鈔、至元鈔が出土しており、イル汗国のタブリースでは類似の紙幣čāuが発行されたとされている*4。イル汗国と元朝は友好関
係にあったため、
一部、或いは政府取引での交鈔利用はありえたかも知れないが、一般交易の決済で交鈔が一般的だとまでは言えなさそうである。西アジアとの
決済は銀が主流
だったと思われる。
小額から高額まで、幅広く紙幣の全面的運用に至った点は非常に優れた結果をもたらしたが、その間にも、子母相権(銭
会中判制=複本位制度)や単一本位制度に関する議論は続き、結果として単一通貨が成立したに過ぎないと言えそうである。このように、確信
を持って確立・運
用されたわけではないことから、明清代に至っても、政府主導である限り、同じ問題に悩まされ続けることになったと言えそうである。
とはいえ、中国史上での紙幣成立は単純に「紙幣登場」という意味で他地域よりも先んじたものなのだと思っていたが、政府による信用保証
方法と本位制の論議と試行錯誤もこの段階でなされていたことは知らなかったので収穫だった。
*4 岩村忍氏は前掲本p480で鈔がイル汗国で流通していた、と記載しているが、典拠の記載は無い。
また、čāu(チャーウ)は1294年から主要都市のčāu-khānahで発行された。建議したのはPulad
Čingsangというモンゴル人大臣でČingsang は丞相の訳との見解を指摘している。実際に施行したのは、ガイカト・ハーンの寵臣Shadr-
i-Jahānと財政長官であった'Izzuddin Muzaffarであるとしている。
次回:「明代の為替手形」に続 く。