中国の為替手形の起源と歴史(4)

北宋と金代の華北:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか? 

 

 

  前回の続き。今回は華北(沿辺三路と河南)地域

1.北宋代の沿辺三路(河北、河東、陝西(現在の河北、山西、陝西省のあたり)

  沿辺三路は西夏・遼と接していたことから、大量の軍需物資を必要としたが、辺境地帯であることから、自給が出来ず、また輸出品を持たなかった。この為、軍 需物資を運搬した商人(北商と呼ぶ)は、物資を運んだ後、現地で物資の買い付けが出来ず、銅銭を受け取って持ち帰ることになったが、その運搬負担は大き かった。陝西府から甘粛の泰州まで1万貫の運送費が2690貫(26.9%)にも上ったとされる(岩村忍 「
モンゴル社会経済史の研究」 p479)。そこで沿辺手形と総称される手形が登場した。まず、送金手形として見銭交引が登場した。商人は京師に戻り、京師榷貨務にて現金化した。他に便 糴糧交引(軍糧の運搬代金)、入中糧交引(銅銭ではなく、金銀茶絹、塩鈔(後述)で支払われた)など、目的別、支払い金種別での手形が流通した。これらは 雍熙年間(984-987年)より発行され、第三者譲渡が可能なものだった。沿辺手形の年間行用額300万貫(天禧年間(1017-1021年)*1)と なったが、それでも唐代後期同様銅銭不足を引き起こした。その理由としては下記のものが考えられる。

*1 唐代飛銭の年間行用額は最大で100万貫

1)唐代以上の商業の発達
2)国外への流出
3)生活向上による銅器使用者階層(商人、首都周辺の富裕層)の増加や仏像の鋳造

 銅銭不足への対応の為、政府は様々な施策を講じた。

1).商人への現金払いに買えて商品引換券の配布

A)塩の引換券(塩鈔)
 a.山西省三門峡付近の塩湖である解池で取れる塩の引換券(解塩鈔という)
 1048年以降は沿辺の現地にて解塩鈔を発行するようになった(範祥の鈔法改革という)。ただし、1100年 解池が水害にあい、解塩鈔が無価値になり、代わって見銭関子を発行するようになったが、最終的に金の征服で終了した。
 b.淮南・両浙で採取される塩(末塩という)の引換券(末塩鈔という)。年間発行額は700万貫に達した。金征服後は南宋地域で流通した。
B)茶の引換券(茶引)
 東南地方で生産される茶の引換券。茶引は茶生産量を上回り、信用が下落したため、1059年に廃止されたとあるが、南宋になっても流通したようである。

これら引換券も第三者譲渡が認められていた。額面は5-10貫だった。

2)短陌(省陌)
 100文に満たない銭を100文と見なす制度。これは南北朝時代から始まっており、(
詳細はWiki参照) 北宋初では77文を100文としたが、実際は70代前半で推移し、南宋時には56文の商品も現れた。公定レートと、都市と農村や商品毎によって決まる実勢 レートは異なった。例えば北宋末開封では都市の官用は七十七文、一般では七十五、魚、肉、菜は七十二、金銀七十四、珠珍、婢妮の雇い賃、、蟲蟻六十八、文 字五十六。南宋末年には都市で七十七、近郊の民間五十文などとなっていた(引用元:宋代的貨幣


3)手形の増発
  神宗代(1067-85年)に見銭交引の発行年額が1000万貫を突破、見銭公據も発行し、沿辺の軍事費に投入した。しかし、基本的に手形は高額・広域決 済用の補助貨幣で、官僚・兵士に俸給として支給され、その他の利用者も商人に限られ、しかも北辺への物資輸送利用が主な目的だった為、紙幣には至らなかっ た。

4)鉄銭の浸透推進
 銅銭を鉄銭に置き換える施策を実施した。具体的には、慶曆元年(1041)河東路にて軍が大鉄銭を、晋 州(現山西臨汾)で小鉄銭を、翌年晋州、澤州(現山西省晋城)にて大鉄銭を、同じ頃、江南の江州(現江西省九江)、池州(現安徽省貴池)、饒州で小鉄銭を 鋳造し、これら全部を陜西路に運んだ。陜西の儀州(現甘粛省華亭)、虢州(現河南省霊宝)も小鉄銭を鋳造した。大鉄銭は小鉄銭10枚に相当した。当初は小 鉄銭と小銅銭のレートは2:1だったが、後3または5:1となり、最終的には陜西、河東では小鉄銭と小銅銭は3:1のレートとなった。
銅銭、鉄銭とも大銭は小銭10枚だったが、民間で改鋳が流行り、大銭の価値が下落した為、大銭を小銭3枚相当に変更したが、改鋳は収まらず、嘉祐四年 (1052)に大銭1枚を小銭2枚とし大銭を当二銭、折二銭、小銭を小平銭と称した。大銭は精巧にできていたので、容易に改鋳できず、銅線と鉄銭の併用流 通は安定した。当時呂惠卿が熙寧十年(1077)至元豐三年(1080)に陜西に在任した時、 銅と鉄の異なる物質の安定流通について言及し、このような鉄銭の安定運用を見て、鉄銭を重視することとし、その後レートは銅銭1貫1000文が鉄銭 1400文となり、元祐八年(1093年)に銅銭を減らすこととした。この為、鉄銭1貫500文が銅銭1貫となり、やがて鉄銭2貫500文=銅銭1貫とな り、陜西路では銅銭の使用は停止された。崇寧四年(1105)には両広(広東、広西)も銅鉄銭兼行地域とした(引用元:
宋代的貨幣)。


2.金代

 金は、華北征服後、傀儡国家斉(1130年—1137年)を作った。斉の年号阜昌に因んだ銅銭、
阜昌重宝阜昌通宝阜昌元宝を 鋳造した(それぞれ3文、2文、1文銭。ただし、10文の阜昌通宝銭も実物が発見されているとのこと)が、大量に鋳造したわけではなく、基本的に北宋銭が 流通しており、斉廃止後40年間銅銭を鋳造することは無かった。しかし、この事は銅銭が安定して流通していたことを意味するわけではなく、金国は深刻な銅 不足に直面した。理由は、民間での銅器利用が拡大したことにある。銅銭を溶かして、銅鏡、神仏像、鐘、磬(ケイ:打楽器)鈸(ハチ:打楽器)鈷(ク:仏具)、腰束帯、魚袋などに普及した(出典:「金史」巻48「食貨三」)。 また、海陵王(1149-61年)の時代、進士が増え、60、70名だったのが、1185年には500名以上になり、政府の行う郊祀も大きな財政支出増加 を招き、貨幣不足の原因となった。また、1161-64年の対南宋戦争の軍費は1000万貫に上ったが、府庫には300万貫しか無かった。

 そこで以下の対策を行った。

1)銅銭鋳造

 大定18年(1178年)鋳造を開始したが、元々銅のコストが上昇していたことから、大定29年(1189年)、年間鋳造14万貫に対して、製造コストが80余万貫であることが政府で討議され、鋳造廃止となった。同時に交鈔の界を撤廃した。

2)手形発行

  交鈔という手形を発行した。貞元年間(1153-55年)から発行し、額面1,2,3,5,10貫を「大鈔」、 100,200、300、500、700 文のものを少鈔といい、界は7年。当初交鈔は、送金用約束手形で、客商が利用した。交鈔の偽造者は死刑、密告者には300貫の賞金を出した。しかし交鈔は 手形であり、紙幣化には長い時間を有した(後述)。なお、宋代に続いて塩引など引換券は引き続き流通していた。

3)銀鋌の流通

 南宋と同様銀鋌が流通していた。承安二年(1197年)に銀1両銭2貫のレートで1両から10両まで、5種類の銀貨に改鋳することを決定し、漢武帝時代以来の法廷銀貨である「承安宝貨」が誕生した(
「金史」巻48「食貨3」)。

4)民間の銅製品買い上げ政策

  大定年間(1161-1189)、禁止されている銅器を政府に納品した者に1斤あたり百文、銅貨(量は不明)150文を付与し、鏡1斤につき314文,金 メッキしてある禦仙花腰帯を17貫671文,五子荔支腰帯を17貫971文,抬鈒羅文束帯8貫560文,魚袋2貫309文,鈸鈷鐃磬を1斤につき1貫 902,鈴杵座銅を2貫769文,鍮石は3貫646文で買い上げた。

 このようにして銅銭を民間から巻き上げようとしたが、銅銭鋳造終了 (1189年)に見るように、うまくゆかなかったようである。そこで、1161-64年の対南宋戦争の軍費は主に臨時税として増税で賄ったと思われる。 1163年前後に制定された新税・増税には下記のものがある。

  a.物力銭 1164-65年に民間の財産調査を実施し、以後10年毎調査実施した、一種の財産税。
  b.塩の専売強化
  c.1180年、商税制定。金銀の取引は1%、諸物資は3%を徴収。
  d.金銀税。民間に金銀採掘を許し5%を徴収した(1164年から)。1204年以降は1%となった
  e.房税 部屋の賃貸税(1190年まで)。
  f.醋(酢)の専売化。1161年から開始。1183年廃止。1204年復活(対金戦争費の為と思われる)


  戦争前後に開始され、その後しばらくすると廃止される臨時税が多いことから、増税・新税はあくまで戦費捻出の臨時税であり、銅銭不足の抜本的対策とはなら なかったようである。この状況を受けて、交鈔の紙幣化が進展したようである。1189年、交鈔の界は撤廃され、銅銭鋳造停止とともに、紙幣化に向けて大き く前進した。

 明昌3年(1192年)、「交鈔が民間で流通しているが、これを制限し、銅銭の流通を促すべし」との上奏がなされたが、明 昌3年(1192年当時、京師経費が世宗時代の3倍になっていたこともあり、翌年納税の半分を交鈔とし、官吏・兵士の俸給にも、銭絹銀と交鈔をそれぞれ半 分づつとし、もし銭銀が少ない時は、全額交鈔で支給することとなった(
「金史」巻48「食貨3」)。 一方退蔵されている銅銭を民間から回収し、流通を促す為に蓄銭制限令(限銭法)を明昌5年(1194)に出したり、承安3年(1198)に交鈔と銅銭の兌 換を部分的に停止するなど、政府は常に銅銭を復活を追及していたが、現実銅銭は回収できず、納税と給与支給に踏み切ったことで、結果的に交鈔の信用が高ま ることになり、銅銭の流通量を上回り、交鈔の流通を加速したと考えられる。

 一方、前述したように、承安二年(1197年)に銀貨が発行 されたものの、成分の規定が固定されておらず、大量の銅や錫を加えた盗鋳を招いた為、1200年に発行を停止した(銀鋌の流通はそのまま続いていた)。銀 貨発行に失敗したことで、今度は1204年に10文銭の泰和重宝と、史書に記載は無いが、発掘されている泰和通宝を発行するなど、銀・銅・鈔の発行割合 や、いづれを基軸通過とするかについて、政府で論議が続いたようである。泰和3年(1203年)頃には交鈔は安定した流通にあったようだが、泰和 4-8(1204-8)年の対宋戦争で交鈔を乱発したため下落を招いた。交鈔は中都、南都(開封)では交鈔庫行っていたが、泰和6年迄には全国展開がなさ れ、地方では官庫、省庫にて銅銭と交換、または新鈔と交換した。しかし、政府は交鈔の下落を阻止する為に泰和6年に下記の施策を行った。

1)民間の交易では、1貫以上の取引では交鈔を必ず利用することで、銅銭を併用することができる
2)契約を結ぶ者は1/5、1/6など、(地域によって異なる)一部で交鈔を利用しなくてはならない
3)商業の旅では、10貫以上の現金(この場合銅銭を意味すると思われる)を携帯してはならない

更に、泰和7年(1207年)には下記施策を実施した。

1)5貫と10貫の大鈔は、小鈔とのみ交換できる
2)銅銭との交換を望む者は、5貫の内1貫、10貫中2貫のみに制限する
3)河南、陝西、山東及び交鈔が流通している諸地域では、納税にあたり、1/3を10貫鈔、1/3を5貫鈔、1/3を銅銭とする。

泰和8年に至っては、

1)東京両路の商業旅行時には1貫以上全面的に交鈔を用いることとし、銅銭の使用を禁止
2)官吏と兵士の俸給は皆交鈔を利用することとし、どうしても銅銭が欲しい者は10貫を制限として、兵士は支給額の3割、官吏は2割を支給する。

このように様々な対策が連年うたれたが、効果が出るか出ないうちに、モンゴル軍の本格的な東北地方への侵攻が開始され(1211年以降)、貞祐2年(1214年)には軍費調達の為 20貫から100貫、200貫から1000貫の大鈔を発行し、ひたすら暴落の道を歩んだ。

  モンゴル軍が中都(現北京)を落とし、金が都を南京開封府に移した貞祐3年(1215年)には、交鈔を「貞祐宝券」と改称し、遂に銅銭を全面禁止した。貞 祐宝券当初は価値が重んぜられたが、河北、陝西では評価は低かった。商人はこれを利用し、黄河以北、陝西で入手し、貞祐宝券を入手し、紙幣価値の高い河南 (首都圏)で金・銀、穀物を購入して儲けた。このように、各地で実勢レートが異なることが問題視され、結局路(当時の州)外での紙幣使用禁止令が出される など、混乱が続き、翌年に「1000銭の券は僅か数銭にしか値しない」と言われるようになり、結局、交鈔下落に歯止めはかからなかった。商人は南宋に行 き、金人であることを隠して銭を入手した(
前回記載し たように南宋では、金への銅銭流出を防ぐ為、長江の北では鉄銭を流通させる政策をとっていた)。貞祐4年、鉄銭の貞祐通宝*2(1,2,5文の3種類)を 発行した。このように、数年の間で通貨政策が変転し、社会全体が混乱した。興定元年(1217年)には、製紙用の桑皮故紙は全て民間に流れ、貞祐宝券や貞 祐通宝は「桑皮故紙錢」と呼ばれるようになっり、貞祐通宝では歳入が不足したので、民間の桑皮故紙を利用して歳入を補ったのだった。モンゴル軍の征服は続 き、1217年には大原府が陥落し、金の領土は華北中南部に限られる状況となった。

*2 貞祐通宝は、実物が出土しているので(
写真はこちら)、 鉄銭だったことは間違い無い筈だが、「金史」巻48「食貨三」では、「一貫當千貫」との記載があり、貞祐宝券1000貫に対して貞祐通宝1貫という解釈も あるようである。なお、印刷原版は発掘されていないようである。宮澤知之氏によると、「現在に伝わる古銭は文献に記載される規格通りであることは殆どな い」(「中国銅銭の世界」p302とのことで、20世紀中ばまでの中国貨幣研究は殆どが文献中心であり、近年の出土通貨は実態の解明に極めて有用とのこと。

 元光2年(1223)には「興定宝泉」紙幣(
現物が残っている。写真はこちら) を発行(前年の興定5年に建議されているので、興定の名称となっている)、これは1貫あたり貞祐通宝400貫とされたが直ぐ下落し、同年貞祐通宝50貫相 当の銅銭である元光重宝が発行され、更に翌年貞祐通宝50貫相当の興定宝泉と、多色刷りの銀重量表示である元光珍貨も発行された。市中では日に日に銀が尊 ばれるようになり,興定宝泉は日に日に下落した。民間では価格を銀で表示するようになった。元光2年興定宝泉は殆ど利用されなくなり、銀一両で興定宝泉 300貫程度となり、銀三両以下の物については銀を用いることを禁じ、以降銀と興定宝泉と元光珍貨、元光重宝が1/3ずつ流通するよう定め、首都と各州に 監督機関、平準務を置いて管理したが、かえって商業不振を招いた。正大年間(1224-31年)となると、民間では銀だけをもって取引するようになった。 天興2年(1233年)「天興寶會」紙幣を発行。額面は銀だったものの、価値は1から4銭と、低価格の4種類だった(この場合の銭は、銀の重量単位なの で、両の1/10ということになります。これが銅銭何文になるのかは、。。。。。ちょっと調べる気にもならないのでした)。
 通貨政策がずたずたになり、最末期には地方軍がそれぞれ独自に領内で通用する紙幣を発行するようになり、これがモンゴル征服後の通貨政策に影響した。



まとめ(1)華北:

 当初の予定では、南宋征服までの元代の華北も扱う予定でしたが、あまりに長くなりすぎたので、金代でやめました。
  宋代は手形の域を出なかった点は華南と同じで、金代になってから紙幣化が進んだ原因が、銅銭不足にあった点も南宋と同じと言える。南宋と大きく異なった点 は、両者開戦時に紙幣を乱発し、価値が不安定となったものの、南宋は安定し、金は12世紀末に一時的に安定流通に至ったものの、13世紀初頭の南宋戦争以 降、モンゴル戦に突入し、戦争が永続化した為、紙幣乱発・暴落を差し止めることができなかった。

 小銭問題は、当初は宋銭があり、銅銭不足が深刻化してからは小銭問題が発生していますが、都市では物々交換までは戻らず、暴落紙幣が小銭として流通したかも知れません(農村は現物貨幣のままだったと思われる)。

 高額取引は、銀、金、絹、絲が利用されたと思われ、紙幣とは別の高額手形は存在しなかったものと思われる。絹は汚れやすく、金は少ないので、銀が主流となった。元代に発行された中統元宝交鈔の準備金が絲だったことから、絲も価値を保持していたとも考えられる。


まとめ(2):宋・金・南宋代全体

  宋代の手形は沿辺への軍需物資輸送が主流で、銀も銅銭に近い量が存在した(ただし流通目的は異なっていた可能性もある)。華北は輸出物資を殆ど持たなかっ た為、金に征服され、華南と分断されると、交易物資が豊富な南宋では交易が栄え、恐らく北宋の銀は華北に多く保持されたこと、生活向上で銅製品の需要が銅 銭不足をもたら明日ことから、紙幣が安定流通した。
 一方交易物資の少なく(最大の輸出品は絹織物)、南宋同様銅製品の需要に由来する銅銭不足にあった金では、南北に戦線を持ち、軍費捻出の為、増税や大量の紙幣を発行しインフレを招き、更に北宋時代蓄積された銀も多く存在したことから、基軸通貨が安定しなかった。
 金と南宋間で貿易が行われたが、南宋から金への輸出超過(これは北宋時代の交易構造と同じ)となり、両国とも銅銭不足に悩まされたことから、恐らく銀で決済し、金から南宋に銀が流出したと思われる。
 異なった通貨圏での決済における手形の利用は、金-南宋間では行われず、南宋国内においては、東南会子が決済紙幣となった。西欧のように、外貨決済の為替手形が発達しなかったのは、複数の通貨圏を抱えていても、統一政権下にあった為だと思われる。

  以上のように、北宋では遠隔地貿易が発達したというよりも、国家財政上の物資流通が主体だったが、南宋代となり、華北が切り離されたことで、遠隔地貿易が 経済発展を促し、先進的な経済発展を遂げたたと言えるかも知れない。従って、元朝・明朝という統一国家において、南北格差がどのような形で展開してゆくの か、次回以降扱う予定です。

次回:「元代では為替手形はどうなったのか?」に続く。


 

 

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