中国の為替手形の起源と歴史(3)
北宋・南宋時代の華中・華南:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか?
更に前回の続き。中国の為替史について、下記の探索を行っています。
1.為替が定額化・紙幣化した後、清代の再登場迄の間、高額決済はどうやったのか。為替手形は使われなかったのか?
2.もともと為替は高額決済・送金の為に登場したものなので、それが全面紙幣化した場合、小額取引はどうしていたのか。
今回は宋代の華中・華南地方((江北・淮南(現江蘇、安徽南部)、荊北・京西(現陝西南部漢中地方と湖北)、東南(長江以南)))を扱います。
1)手形の紙幣化
北宋時、江寧府(現南京)、真州(現江蘇省儀徴)、揚州、鎮江、臨安にも寄附鋪ができ、開封便銭務管轄の手形は、主に東南部で流通した。また、上述の茶引・末塩も東南で流通した。これに携わった商人を南商といい、主に茶、米、工芸品、香薬を扱った。
南宋に入ると、行在榷貨務、都茶場が臨安に設置され、北宋に引き続き見銭関子、見銭公據、塩引、茶引等の手形*1を発行した。
*1 これらは、北宋時代の主に華北で利用されていた送金手形。次回で取り扱う予定。
見銭関子は、まず浙西地区に拡大し、紹興6年(1136年)行在交子務を設置し、30万貫を印刷し、江北・淮南で流通させた。四川交子と同様に、関子を紙
幣化し、銅銭と併用する案が出たが、準備金の用意などができず、発行には至らなかった。紹興29年(1159年),金国が攻めてきた時、軍費捻出の為、3
年限の淮西・湖広関子をそれぞれ80万貫、2年限の淮東公據を40万貫発行した。額面は10貫から100貫まで5種類が発行されたが、紙幣化には至らず、
見銭関子が紙幣となったのは、南宋末景定5年(1264)発行の「金銀見銭関子」まで待つ必要があった。
ところが、紹興29年、軍費
用に見銭関子が発行された時、臨安の富豪は、便銭会子を私的に発行した。政府は民間が利益を貪ることを防ぐ為(または民間から利益を奪う為)ことと、恐ら
く対金戦争が迫ったことから資金源である銅不足が懸念され、紙幣の発行に踏み切った。1161年には「行在会子務」を設置し、銅銭で10万貫の発行準備金
を用意した。よってこれを銅銭会子、または官会と言う。額面は、1,2,3貫(1貫=770文)の3種類があった。1163年には500文、300文、
200文を追加した。会子は、楮の樹皮で作られた紙であったため、「楮幣」「楮券」とも称された。しかし、この時の会子には界が設定されておらず、
1161-64年の対金戦争後の乾道2年(1166年)までに、合計2800余万貫を印刷してしまい、同年11月、発行を停止したものの、1560余万貫
が流通し、そのうち民間には980万貫が流出した。準備金の銅銭が不足している為、取り付け騒動に発展し、銀などを放出したり、500万貫の新会子を発行
し、既存発行の会子を回収した。こうして会子の回収につとめたものの、1167年にも以前、490万貫が未收回のまま民間に流通した。
乾道5年(1169年)、3年を1界とし、毎界1000万貫を発行したが、2界からは年限が延び、数界分の会子が流通することになった。このうち、淮南地
方には淮南会子、それ以外の地域には東南会子と称する会子が流通した。なお、東南会子も淮南会子も当初の取り付け騒ぎに懲りて不兌換紙幣として発行される
ことになったが、納税に用いることを可能にすることで政府が回収責任を表明し、信用を与えることに成功したとのこと。更に、四川での銭引乱発から下落を招
いた経験から、収税での会子、銅銭の比率は50%(銭会中判制)とされ淳熙年間(1174-1189)には東南会子の流通は安定し、銅銭とのレートも1貫
600文程度以下にはならず、安定して流通し続けた。嘉泰二年(1202)にも江南や浙江あたりでのレートは1貫750文程度であったようである。物価表
示も会子で表示される事態が出現した。
一方、江北・淮南地方では銅銭の金国への流出を防ぐ為、銅銭を廃止し、鉄銭を導入した。淮南会子
は乾道8年に(1172年)停止し、1192年(紹熙3年)に再開するなど、試行錯誤を繰り返した。額面は鉄銭で200、300、500、1貫の4種類あ
り、両淮会子とも呼ばれた。更に、現陜西省漢中付近から湖北省地方では1184年兌換紙幣である湖広会子(当初は直便会子、後湖北会子とも言われた)を発
行した。額面は1貫と500文の2種類だった*2。
*2 東南会子以外は、現物は発見されていないとのこと。現時点では文献上のみで確認されている存在とのこと。
この様に、江北・淮南(現江蘇、安徽南部)、荊北・京西(湖北)、東南(長江以南)で異なった紙幣が流通し、江北では鉄銭が用いられ、これらの地域を跨っ
た交易・送金・決済に支障をきたすようになった。解決策は四川と同様、東南会子を江北・淮南・荊北・京西で流通させることだった。
というわけで、状況証拠に過ぎないものの、華中・華南でも、四川同様、少なくとも歴史に残るような大規模な変額為替手形の利用は無かったと推測されます。
なお、比較的安定していた会子ですが、四川交子同様、1206-08年の対金戦争を期に、乱発が始まり、レートも下落していきます。会子の発行額(単位は貫)と界は下記の通り。1209年に一気に1億を越え、界も 22年と、額、界とも倍になっているのが目立ちます。
第一界 乾道四年(1168年) 1000万 3年
第二界 乾道五年(1169年) 1000万 3年
第三界 乾道七年(1171年) 1800万 6年
第四界 乾道九年(1173年) 1800万 6年
第五界 淳熙四年(1177年) 1800万 3年
第六界 淳熙六年(1179年) 1800万 6年
第七界 淳熙十一年(1184年) 2323万 9年
第八界 淳熙十三年(1186年) 2400万 9年
第九界 淳熙十五年(1188年) 3000万 3年
第十界 绍熙元年(1190年) 4000万 9年
第十一界 嘉泰元年(1201年) 3633万 9年
第十二界 嘉泰三年(1203年) 4759万 6年
第十三界 開禧元年(1205年) 5548万 9年
第十四界 嘉定二年(1209年) 11263万 22年
第十五界 嘉定四年(1211年) 23000万 20年
第十六界 绍定五年(1232年) 32900万 9年
第十七界 端平元年(1234年) 42000万 30年
第十八界 嘉熙四年(1240年) 50000万
淳祐六年(1246年) 65000万
景定四年(1263年) 毎日15万増刷
これに伴い、1189年には臨安で1貫700余文(銅銭)だったレートが、慶元元年(1195年)に620文となり、嘉定三年(1210年)には400余
文、端平三年(1236年)には300文、宝佑年間(1253-1258年),の18界会子は192文にまで下落してしまいました。理屈の上では、額面
200文の会子があった筈なので、これらも下落したとすれば、数文の会子が出てきそうなものですが、そのようにはならず、銅銭も極度に不足していたことか
ら(銅銭不足の経緯については次回)、1238年頃には紙帖子や竹木牌というものが額面50、100文程度の小銭として利用され、景定年間
(1260-64)には、100文程度の鑞牌、銅牌、鉛牌や額面100文の見銭関子が印刷されていたとのことである。
770文が192
文に下落したとはいえ、年率換算では3%程度の下落率です。かなり強靭な安定度を誇っていた、と考えても良いのではないでしょうか。ただし、これは紙幣と
銅銭の間のレートの話であって、諸物価のインフレ率とは別の話でる点、注意する必要があります(今回は物価の調査が目的では無い為、インフレ率は調べてい
ないのでした。。。。)。
2)高額決済について
銅銭・鉄銭の場合、鋳造されても、2文、3文、5文程
度だった。北宋末蔡京が1103年に5文と10文の銅銭を鋳造したが、民間で私鋳が多発した。これら大銭は、地域で価値が異なり、例えば荊湖(湖北)、江
南、両浙、淮南(安徽省南部)では10文銭が3文で流通し、京師、京畿、京東西、河東、河北、陜西などでは5文で流通した。大観2年(1108年)には鉄
銭利用を全国に拡大した。また、蔡京は鉄に鉛錫を混ぜた「夾錫銭(きょうしゃく)」1銭を銅銭2文として流通させようとした(銅銭より高額であることから
鉄ではなく、銅に鉛と錫を加えた「夾錫銅銭」との説もあるらしい(参照元はこちら)
した。これは北宋の鉄銭を改鋳いて武器にしていた西夏と遼への対策(錫を混ぜて硬度を低くする)とする説もあるとのこと(「文献通孝」巻9「銭幣
考」)。、混乱するだけで、結局政和元年(1111)、公式に10文銭を3文と定め、1113年、銅銭不足を補う為、全国諸路の流通に拡大した。なお、南
宋末には百文大銭も鋳造されたとされる。
銅銭・鉄銭については、最大でも100文銭であり、高額決済向きとはいえなかった。そこで、金銀の登場
となるわけですが、金は高額決済で用いられたことは確かだが、四川の項でも記載したように、真珠などの宝石と同様、決算手段として一般化したわけではな
かった。そういう意味では銀も同様と言えるかも知れないが、政府の歳入や敵対国への貢納金として結構な量が記録されており、商業上の高額決済でも利用され
たらしいので、貨幣としての銀のシェアを調べてみました。
まず、銀は南宋では銀鋌という秤量貨幣として取引された(こちらに宋代の銀鋌の写真があります。
次回記載しますが、金国では承安宝貨という銀貨があった)。銀の政府収入は997年に62万余両、1021年に88万余両、1076年に300万両、北宋
末には1860万両となった。一方遼国への貢納金として1004年に10万両、その後20万両、1044年には西夏への5万両も追加され、合計年額25万
両が貢納金だけで支出された。これを銅銭に換算するといくらになるのか?
これに関する資料はあまり残っていないらしく、こちらの「对古代丝路贸易与北宋白银货币化探析」というサイトで詳しく探索をしているので、そこから紹介しますと、
・同サイト2頁に、様々な資料から、交易品の価格から算出して、白銀一両=銅銭1500文 と算出しています。
・同5頁では、「宋史」183巻「食貨」より、「入銭二千当銀一両」という記載を紹介しています。「宋史」183巻「食貨」原文はこちらで参照可能です。確かに、そのように記載されています。
・同6頁では、「宋史」144巻「兵」五、181巻き「食貨」などに記載された諸物価や給与から銀1両=1500文と算出しています。
1500文も2000文も、大きな相違とはいえません。「宋史」の記載の信憑性も検討する必要があるとは思いますが、ここは銀1両=2000文として、銀の歳入額と銅銭への換算を下記に記載してみます。
・997年 62万余両=124万貫
・1021年 88万余両=176万貫
・1076年 300万両=600万貫
・北宋末期 1860万両=3720万貫*3
・淳熙年間(1174—1189年) 左蔵庫からの禁軍と官吏への俸給中白銀は293万余両=586万貫*3
・1004年遼国への貢納金 10万両=20万貫
*3 北宋末期の1860万両の出典は、「五代と宋の興亡 (講談社学術文庫)」中嶋敏,周藤 吉之著p205、 淳熙年間給与の出典は、ネット上の「中国古代货币制度和货币形态的演变」。それ以外の数値は、両者ともに記載あり。
一方、銅銭の鋳造額は下記の通り(市古尚三「明代貨幣史考」p8)。
・976年 40万貫
・995-7年 80万貫
・1000年 135万貫
・1007年 183万貫
・1021年 105万貫
・1023-31年 100余万貫
・1041-48年 300万貫
・1064-67年 170万貫
・1073年 600万貫(銅銭、鉄銭合算値)
・1080年 506万貫
・1082年 386万貫
・1091年 275万貫
・1102-10年 280-290万貫
・1124年 300万貫(銅銭、鉄銭合算値)
・1131年 8万貫
・1133年 12万貫
・1143年 10万貫
・1155年 14.6万貫
・1160年 10万貫
・1162年 11.35万貫
1860万両という北宋末の極端な数字を別とすれば、北宋時の銀収入と銭収入は、ほぼ拮抗していると考えられます。北宋時代に限ってみれば、手形がいまだ
と紙幣ならず、送金手形として機能していたことを考えると、2貫分の価値を持つ銀鋌はある程度は高額決済用として流通していた可能性はありそうです。な
お、宋代にも銀貨は鋳造されていたそうですが、その目的は殉葬や賞賜、贈答品や、結婚式でのばら撒きなど、貨幣として用いられていたわけではなかったとの
こと。湖南長沙出で銀銭の慶元通宝が出土しており、他に銀製の「太平通宝」があったとされているとのことです。
一方、南宋では、銅銭の発行額が年間10万銭程度なのに対し、最高額3貫の会子が、南宋初期から1000万貫もの額で発行されたことを考えると、1両=2貫程度の銀より、流通量が多くて軽い会子の方が流通にも高額決済にも有利であると考えられます。
まとめ:
・北宋時代は、手形の域を出ず、高額決済に銀が利用された可能性がある。銀と銅銭のレートの変動については、資料が少ない為、安定した関係にあったのかど
うかは不明である。南宋には全国紙幣である東南会子が導入され、他地域間決済に利用された。これは状況証拠に過ぎないが、地域間決済で全国紙幣が導入され
たことから、高額決済についても、本来の意味での変額為替手形が残ったわけではなく、実勢レートが銭引をはるかに上回る東南会子が利用されたと考えられ
る。つまり、北宋時代の高額決済には銀の存在感が高かった可能性があるが、南宋時代には東南会子が主流であった可能性が高い。歴史に残るような大規模な変
額為替手形の利用は無かったと推測される。
・南宋時代は紙幣化が一気に進み、銅銭・鉄銭と紙幣の、小銭と高額決済用紙幣の棲み分けが長く安定して進んでいた。南宋末期には増発が進んだが、それでも年率3%以内の下落率であり、安定度は高かったと言える。
・極度の銅銭不足は価格の高騰を招き、銅器に改鋳して売却した方が儲かるという小銭問題が発生したが、南宋初期から小額紙幣も発行され、銅銭の発行数を遥
かに圧倒していたと考えられ、ほぼ全面的な紙幣化が進んだと考えられる為、小銭問題は深刻では無かったと思われる。しかし、そもそもそも宋代の小銭は農村
において納税目的の獲得と考えられ、農村では基本貨幣((米殻)を用いた実物経済が主流だったと思われる。ただし、南宋後期には、自然発生的の小額通貨で
ある紙帖子や竹木牌というものが額面50、100文程度の小銭として流通し、景定年間(1260-64)には、秤量貨幣と思われる100文程度の鑞牌、銅
牌、鉛牌が流通し、末期には政府が額面100文の見銭関子を発行するなど、小銭問題特有の現象が発生した。