中国の為替手形の起源と歴史(2)
北宋・南宋時代の四川:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか?
前回の続き。中国の為替史について、下記の探索を行っています。
1.為替が定額化・紙幣化した後、清代の再登場迄の間、高額決済はどうやったのか。為替手形は使われなかったのか?
2.もともと為替は高額決済・送金の為に登場したものなので、それが全面紙幣化した場合、小額取引はどうしていたのか。
今回は宋代から。宋代の金融と貨幣については、日野開三郎氏の「日野開三郎東洋史学論集〈第6巻〉宋代の貨幣と金融(上)」と「日野開三郎東洋史学論集〈第7巻〉宋代の貨幣と金融(下)」に非常に詳細な分析が論じられているのですが、あまりに膨大過ぎてちょっと全部読むのは時間的・体力的に厳しいので、日野氏の論文を結構引用している高橋弘臣氏の「「元朝貨幣政策成立過程の研究」と、宮沢知之著「宋代中国の国家と経済―財政・市場・貨幣」、ネット上の文献「宋代的貨幣」、百度百科「会子」を主な参照文献としています。
北宋、南宋、金代の為替と小銭問題は、北宋初期、四川、北辺、華中、華南と、手形・貨幣流通圏毎に4つの地域に分けて記載することにしました。これは地域
の資源や地政学的な理由にあります。なお、前回の記事では、銅貨1枚を1「銭」と呼んでいましたが、本記事では鉄銭・銅銭とも1枚は文と記載しています。
「銭」は唐代までの呼称で、宋代以降、「文」と呼ぶようになった為です、「銭」は金銀の重量単位となってゆきます。また緡という単位も登場しますが、これ
は貫と同じ意味で1緡=1貫=1000文=1000銭(額面公定レート)です。
なお、最近体調の悪い事が多く、的確な短文にまとめることができず、冗長な記載となってしまいました。そこで、結論を先に記載することにします。ネット上でもあまり出回っていない情報を記載している(つもり)なので、ご興味のある方は、詳細部分もご覧ください。
1.為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか?
宋・南宋・金代では、手形や貨幣圏が主に上記4地域に分かれており、地域間でのレートにも変動があった事から、地域間決済時手段が必要とされたが、それは
金銀秤量貨幣や、「東南会子」という特定の紙幣が全国流通とされることで実現された。なお、北宋代に手形が紙幣化したのは四川に留まり、他地域では手形に
留まった。
2.もともと為替は高額決済・送金の為に登場したものなので、それが全面紙幣化した場合、小額取引はどうしていたのか。
極度の銅銭不足は価格の高騰を招き、銅器に改鋳して売却した方が儲かるという小銭問題が発生したが、南宋初期から小額紙幣も発行され、銅銭の発行数を遥か
に圧倒していたと考えられ、ほぼ全面的な紙幣化が進んだと考えられる為、小銭問題は深刻では無かったと思われる。ただし、南宋後期には、自然発生的な小額
通貨である紙帖子や竹木牌というものが額面50、100文程度の小銭として流通し、景定年間(1260-64)には、秤量貨幣と思われる100文程度の鑞
牌、銅牌、鉛牌が流通し、末期には政府が額面100文の見銭関子を発行するなど、小銭問題特有の現象が発生した。た(金国については次々回)。
以下、詳細です。
1.北宋初期
唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ
る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引
を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。開封の京師発行手形は京師手形とも呼ばれ、額面は5-10貫で、京師の交引鋪
は手形割引を行ったので、即時換金ができた。また、民間でも、「私下便換」、「私下便銭」と呼ばれ流通していたが、997年に政府によって禁止された。北
宋時代の各地域の手形・及び手形の紙幣化は下記に記載するが、地域は不明ながら、北宋末、崇寧から大観年間(1102-10)に少鈔という定額紙幣を発行
したとされる(蔡京が行った)。
2.四川
前回の記事で五代時代の四川の為替状況に簡単に触れましたが、より詳細な経緯はWikiの交子の項目に詳述してあるので、ここではその補足を記載します。
五代以来、四川では、民間の寄附鋪が交子、交引を発行した。手形名称から、業者名が寄附鋪から交子鋪、交引鋪へと変化した。四川では、交子発行額を増し、
界(流通期限)も延長し、一方で鉄銭鋳造を減少させる政策をとった(太平興国(976-983年)年間に50万貫、皇佑年間(1049-53年)に27万
貫、熙寧(1066-76年)に23万6千貫、元豊3年(1080年)には14万貫に減少)。額面の大きい10銭の鉄銭も発行されたが
(1005-1073年)、もともと鉄銭が重い為に手形が流行したことでもあり、10銭鉄銭は更に重くなった為、私鋳の増加を招いた(そもそも鉄銭1銭の
鋳造コストは2銭かかった)。結局高額鉄銭は定着せずに終わったとのこと。
一方、交子の方は、真宗(997-1021年)代の初めに中
央政府が、発行業者を成都の寄附鋪16戸に制限した。初期の交子は額面が決まっておらず小切手に相当しており、額面1貫が実質7、800文とされることが
多かった。この16戸は、流通期限(界)を決めていた。流通期限は、当時の紙の耐用年数(最大でも5年程度)と、発行元が限度を決めて回収することで、信
用を与える為である。現代において、銀行や金券ショップが受け取ってくれない紙幣・商品券・金券類の価値が無くなるのと同じである。やがて過剰投資から取
り付け騒ぎにが起こったことから、1023年交子の発行を停止し、益州交子務を設置し、発行済交子を回収したのち、官営交子(四川交子とも言う)の発行を
行った(1023年)。この時の界は3年(実質2年だが、3年に跨っても良い、という意味)で125万貫(緡)を1界の発行限度額とし、兌換準備金として
鉄銭36万貫(緡)を準備した。当初1界3年の発行額125万貫だったので、年平均41万貫(準備金36万貫にも近い値となる)。額面は1-10貫とされ
た。これには五代時代に四川で発達した印刷技術の寄与も関連している。期限(界)を決めての政府の回収は、金属貨幣と異なり、物理的な価値を持たない紙幣
の信用維持に、少なくとも紙幣が定着するまでは必要な、重要な措置だったと言える。また、当然ながら兌換準備金を超過しないように、流通量を制限する目的
もあった。これを以って交子は紙幣となったとされている。
その後1039)に、額面が五貫(2割)、十貫(8割)に変更されたが、実際
の商業現状に合わなかった為、熙寧元年(1068年)に一貫(6割)と五百文(4割)に変更された。1072年に、前界の交子の回収前に次の交子を発行す
ることになり、125万貫が並存することで、事実上250貫が流通することになった。交子は度々河東(現山西、河北省)や陝西地方にも流出し、度々禁令が
出されたがとめることはできず、1094年に許可されることになったが、1界15万貫が増加され(即ち140万貫)、1098年には1界188万貫となっ
た。1102年から1106年の間には、少ない時で界200万貫、多い時で1100万、この間合計2400余万貫発行され、兌換も停止されたことで暴落
し、額面1貫の交子の実勢レートは十数文に下落した。同時に、崇寧三年(1104年)には、京西地区(現陝西南部漢中地方と湖北省)でも流通することに
なった。鉄銭の総流通額の資料は確認できていないが、紙幣と鉄銭が半々の流通で公式レートである交子一貫=鉄銭770文が維持されたのだと仮定すると、こ
れが十数文にまで下落するには、計算上では銭引と鉄銭の比率が15倍程度となる必要がある。政府は意図的に鉄銭の減少を図っていたわけだから、実際に流通
していた鉄銭は1300/15=約87万貫程度と考えることもできるかも知れない。この場合、紙幣の比率は93%に達する。紙幣としては大きく下落したも
のの、この状況で高額紙幣を発行すれば、下落した既存銭引は小額紙幣として定着し、ほぼ完全な紙幣化が達成できたかも知れないが、政府は結局立て直してし
まったのだった。
価値下落対策として、1107年に交子の名称を銭引に改称し、第44界の発行額を元の125万貫に制限、政和元年
(1111)の45界は発行せず、41界から43界の数千万の銭引を新銭引と交換しないこととし、流通地区を四川、陜西、河東に制限、準備金を500万貫
とし、3貫以上の取引には銭引を使うよう定めた。45界を発行しなかったことは行き過ぎだったらしく、44界を増刷した。その結果、宣和年間
(1119-1125年)中に安定流通に至った。とはいえ、1123年には銭引の額面を1貫と500文とし、約35%下落、1207年頃には500文以下
と推測される「小会子」が発行され、元々は高額決済・送金用だった筈の手形紙幣の小額貨幣化が進んでいった。物価は「交子」で表示する習慣は残った(正式
名称は銭引)とのこと。その後、発行額は増大し、少ない界で60万、多い時で1100万貫が発行されたが、これは経済発展の需要に見合った増加だったらし
く、慶元時(1195年)にはレートはほぼ1貫700文以上で安定していた。この時代にほぼ100年近く異なる物質のレートが安定するとは大変なことでは
ないだろうか。とはいえ、嘉定元年(1208)と嘉定三年の90界、91界の銭引は2500余万貫に達し、1貫400文以下に下落した(恐らく
1206-08年に行われた対金戦争が関係していると思われる)。宝佑4年(1256)四川交子を「四川会子」と改めた。
ところで四川では鉄銭と銭引が流通していたが、他地域では銅銭と異なった名称の手形紙幣(後述)が流通しており、他地域の銅銭と鉄銭の為替レート(南宋時)は下記の理屈で決まっていた。
銭引(四川の紙幣)一貫=鉄銭770文。
東南会子(南宋時の全国紙幣)一貫=銅銭770文。
銅銭:鉄銭の為替レートは2:1
よって、銭引と東南会子のレートは1:2の比率。
ところが実勢レートは宝佑年間(1253-59)には銭引:東南会子のレートは1:150-160まで暴落してしまった。この為、四川にて銭引を盗んだと
き、額面通り(=公定レート通り)に銅銭に換算してしまうと、あまりに高額となってしまい、中央の法律の規定では死刑となる金額になってしまうこともあっ
た。当然社会矛盾として認識されていたとのこと。
なお、南宋初1137年に、銀本位紙幣である「銀会子」が四川で登場したとのこと。軍将である吳玠が四川宣撫副使にあった時に駐地河池(現甘粛甘徽県)で
発行した一種の軍票だったようである。額面は1銭、半銭の2種類、一券(一枚)を一紙と称し、一銭紙四枚または半銭紙8枚を四川銭の一貫相当とし、一銭紙
を14万紙、半銭紙を10万紙発行し、当時「銀紙」とも呼ばれたとのこと(銀会子も銀紙も後世の名称の可能性もある)。現甘粛から現陜西省、現四川省北部
などで流通し、吳玠が率いる右護軍が発行していたが、紹興10年に吳玠が死去すると、四川の地方官府が発行し、紹興17年には大安軍(現陜西省勉県)にて
印刷発行された。乾道4年に銀券3万紙を増加し、寧宗初年(1194年)には,2年毎に61万余紙を印刷し、銭引と共用させた。銀会子の発行は宋代の白銀
貨幣の浸透の反映と言えるかも知れないが、白銀は基本的には皇帝が官吏や兵士に褒賞として賜るか、官吏・兵士の給与の一部であった。商業上の高額決済とし
ても利用されたが、金や、真珠などと併用され、貨幣として認識されていたかどうかまでは言えそうにない。銀会子の流通地域も限定されており、白銀の貨幣上
のキャパシティは強くは無かったと思われる。
なお、「一銭紙四枚または半銭紙8枚を四川銭の一貫」とあることから、1枚鉄銭の250文にしか過ぎず、交子よりも定額貨幣となることになる。
四川だけの話をだらだらと書いてきてしまいましたが、中国のような広大な地域を、特に各地が発展を始めた宋代以降、ひとつの中央政府があったからといっ
て、簡単に政策が貫徹したわけではなく、また自然発生的な民間の経済発展も、各地一斉に進展したわけではない、という点が重要であることを強調したいわけ
なのです。
さて、漸く為替の話になるわけですが、このように四川が独自通貨を持つ経済圏であり、紙幣の額面も小額化してきてしまった結
果、高額決済や他地域との交易時の決済はどのように行ったのか?為替市場があったのか?それとも、紙幣化した為替の代わりに、本来の意味での為替を流通さ
せたのか?という疑問が出てくるわけです。上述したように、銭引と東南会子の公定レートと実勢レートに大きな開きがあったことから、地域間為替市場が成立
する可能性もあったものと思うのですが、そこは統一政府を持つ中国、全国紙幣であった東南会子を四川にも流通させる方法を選ぶことになりました。1238
年頃には東南会子が四川でも流通していたとのことです。
まとめ:
・四川では、鉄銭と紙幣の、小銭と高額決済用の棲み分けが長く安定して進んでいたが、北宋末頃から紙幣の小額化が進んでおり、極端な小額化は避ける政策が取られた。
・他地域との決済には、全国紙幣である東南会子が導入された。これは状況証拠に過ぎないが、地域間決済で全国紙幣が導入されたことから、高額決済について
も、本来の意味での変額為替手形が残ったわけではなく、実勢レートが銭引をはるかに上回る東南会子が利用されたと考えられる。つまり、北宋・南宋を通じ
て、四川には、少なくとも歴史に残るような大規模な変額為替手形の利用は無かったと推測される。