中国の為替手形の起源と歴史(1)

唐代・五代:為替が紙幣化した後、為替はどうなったのか? 

 

 

  「インド・イスラーム世界の為替手形の歴史」 を書いてから1ヶ月半近くたってしまいました。 唐代に飛銭が登場し、宋代に交子が貨幣化し、元代の中統元宝交鈔に至って金属貨幣を駆逐して全面的流通に至り、いつの間にか為替は登場しなくなり、清代中 期に再度登場する経緯はよく知られているところです。では何故時間がかかったのか、というと、次の2点の情報を探す為です。

1.為替が定額化・紙幣化した後、清代の再登場迄の間、高額決済はどうやったのか。為替手形は使われなかったのか?
2.もともと為替は高額決済・送金の為に登場したものなので、それが全面紙幣化した場合、小額取引はどうしていたのか。

どちらも意外に情報が少なかったものの、2.はまだ比較的簡単に情報が得られましたが、1.のように、「無いこと」を証明することは結構労力が必要です。これが時間がかかった理由のひとつ。

今回かなり多くの文献を参照しましたが、特に役立ったのは以下の2書と1サイトです。

1.高橋弘臣著
「元朝貨幣政策成立過程の研究」
2.上田裕之著
「清朝支配と貨幣政策」
3.
劉秋根 謝秀麗「明清民間商業信用票据化的初步発展 -以汇票、汇兑为中心」 「中国銭幣」2006年第1期

1)小切手・為替の起源

 唐代の飛銭については、
Wikiに 結構詳細な記載があるので補足のみ記載します。Wikiの冒頭では、「唐の後期に入ると、商品経済・貨幣経済が発達して、茶・塩・絹などの遠距離取引が盛 んになった」とあります。歴史書では、論文であってさえも、「商品経済・貨幣経済の発達」という用語が多用されることありますが、この用語には注意が必要 だと思います。「商品経済・貨幣経済の発達」が、純粋に民間なのか、政府の代行業者である遠隔地貿易商なのか、大都市部だけなのか、地方都市、農村も含む のか、富豪だけなのか、中間層、下層民、都市から離れた農村も含むのか、貨幣の浸透は納税が主であって、商品経済の浸透度は低かったのではないか、などな ど、「商品経済・貨幣経済の発達」という論述には必ずその浸透範囲が明示されている必要があるものと思います。

 まず、小切手・約束手形 の起源は、遠隔地貿易が関与している可能性もあるかと思いますが、直接は財産の保管庫にある、と考えられるようです。保管庫は魏晋の「無尽蔵」・「常住 庫」=(寄附と言った)に見られ(もっと以前からあった可能性もある)、ここに銅銭など各種財物を保管したとのこと。当然顧客は都市の富豪だったと推測さ れます。

 続いて唐代になると保管をビジネスとして行う保管業者が誕生し、これを、寄附鋪・櫃坊(語源は保管の入れ物から。木、金属、石 でできていた為)と称したとのこと。彼らは預り証=約束手形を発行。客は自ら小切手を発行し、これら業者は、開元・天宝年間には一般化していたとのこと。 つまり、この段階では必ずしも遠隔地貿易決済が手形出現の原因だとは言い切れないことになります。小切手・約束手形出現と遠隔地決済の連動は不明ですが、 約束手形・小切手が送金に便利であり、貿易商人や旅行者や地方赴任の役人など、現金を携帯した旅行での盗難・携帯時の重量(当時の金銀は秤量貨幣)の負担 を考えれば、その需要から、地方都市へ支店ができたのは必然と言えるでしょう。こうして長安の寄附鋪は地方(華北の諸都市と、華南の大都市のみ)に支店を 持つようになったとのことです。当時寄附鋪は専業ではなく、金銀鋪、貸庫戸、邸店(宿、倉庫)、絹帛鋪、などを兼業しており、金銀鋪、絹帛鋪は両替商もし ていたそうです。また、飛銭は便換、便銭と呼ばれたが、これらの名称は正確には送金手形制度そのものの名称であり、手形そのものは、「券、牒、文牒」など と呼ばれたそうです。

 唐代後期には遠隔地貿易が発達したのは事実ですが、これは主に茶商などが、華南・四川の物産物である工芸品、海産 物、香薬、象牙、犀の角、真珠、絹を華北に輸送したものの、華北には輸出品が無いので商人は華北で現金で売却し、現金を華南・四川に持ち帰る必要があり、 この時の盗難対策・重量負担回避から、手形を利用するようになった、とのこと。ここに至って為替手形の成立を見た、と言えそうです。 なお、最初の政府手 形は他地払いの約束手形だったと思われ、小切手には受取人氏名、支払額、振り出し日、支払い貨幣の種類(金銀銭、絹)が記載されていた。つまり、当初から 第三者への支払いは可能だったことになります。更には、唐代の便銭は全て京師長安で振り出し、地方で支払ったとのこと。


2)政府化と定額化へ

  年代についてまでは調べがつきませんでしたが、寄附鋪は流通上の便宜を図る為に定額制手形を出すようになったとのこと。これは、紙幣化への重大な一歩であ るとともに、額面以上の莫大な送金を行う場合、結局嵩張ることになり、移送に不便を障すのではないか?との疑問が出てきます。ここから、為替が紙幣化した 後での高額決済において為替はどうなったのか?という疑問が出てくるわけです。

 811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。これは銅銭が退蔵され、小額貨幣の流通 に不便を障したことが原因と考えられます。しかし、この禁令は効力が無かったそうです。もともと飛銭は民間から興ったものである上に、唐代後期の事実上の 地方支配者である藩鎮や禁軍が本制度を利用して銅銭の蓄蔵に勤めたことにあるとのことです。

 藩鎮は中央(長安)に進奏院という京師(長安)出先機関)を持ち、ここが手形を発行した。理由は、自己の管轄外への銅銭の流出を阻止する為であったとされる。
 更に、政府の禁軍、特に神策軍(安史の乱後の編成) の司令部は部下を藩鎮へ抜擢、監軍の官吏が、藩鎮治下の地方にて荘園、邸店などを経営しており、その収入を中央へ送金する場合に、銅銭を送りたくなく、便銭を発行したとのことです。  


  便銭は、徳宗年間(780-805年)盛んになったが、811年の制限令で一時衰退した。しかし、文宗の太和年間(827-35年)再び盛んとなり、年額 行額100万貫*1を記録した。最終的に黄巣の乱での長安占領で便銭使用停止になったが、五代に復活することとなったそうです。

*1 行額または行用額。発行額の意味だと思われる。1貫=1000銭(公定レート)


3)五代

 五代では「契券」(手形、小切手)と言われて出回った(額面や、定額制だったかどうかまでは調査しきれず不明)。

  楚国では、鉛・錫銭は、銅銭よりも嵩張る為、手形が浸透したとのこと。四川の前蜀および後蜀では銅の産出量が少なく、需要を満たせなかったので、産出量の 多かった鉄銭を発行した。しかし、銅銭に比べ重く、運搬にも不便であったため、交子鋪という業者が交子を発行した。これが宋代の手形に発展した。


4)小銭問題

 高額額面の為替手形が登場したのにも関わらず、銅銭不足に陥った理由は幾つか考えられます。

1.両税法の為、納税に貨幣が必要となり、それまで現物納税をしていた農民の貨幣需要が発生した。
(玄宗の天宝年間、銭税収200余万貫(1貫1000文(銭))だったものが、両税法施工後は1200万貫となり、5,6倍もの銭納となっている*2 。また、唐代の年間銭発行額は15万貫程度と推定されている*3)
2.藩鎮の軍費に大量の銅銭を必要とした
3.経済が、前時代以上に発達し、それまでの累積貨幣発行数では追いつかなくなった。唐代晩期は、
草市(国家管理の市場ではない、自然発生的な非定期市)の発達が見られ、この市場で貨幣が流通したと考えられるが、農村に貨幣が浸透したのは、全国的物流の中心地帯だった江南周辺に限られた可能性が高い(他の地域では、物々交換がメインだった可能性が高い)
4.国外への流出

  というわけで、この時点では、まだ高額紙幣の流通が一般ではなく、また農民層の商品経済も前代よりは発展したとはいえ、常設市が立つ程発展していたわけで はない為、為替と小銭の間も比較的安定(後の時代と比べれば)していて、小額貨幣問題は宋代~清代程は深刻では無かったと考えて良さそうです。

*2 参照元 渡辺信一郎著「
中国古代の財政と国家」p471,p477。天保年間と両税法施行後の財政収入・歳出一覧があり、便利です。

*3 宮沢知之著「
宋代中国の国家と経済―財政・市場・貨幣」p492。なお、以下の4)、5)でも本書を参照しています。


5)為替手形以外の高額貨幣は無かったのか?

 乾元元年(758年)に
乾元重宝と いう、開元通宝と比べて額面10銭、重量3倍の銭銅貨を、759年には重輪乾元(額面50銭)を発行した。僅か数ヶ月のうちに800名の死刑者を出すほど 私鋳を誘発し(1000枚の乾元重宝から3000枚の開元通宝が作れた)、また、銅の実質価値との大きな差から大インフレを招き、米価が一斗7000銭ま で高騰し、餓死者が出たそのこと(高騰前の通常物価までは調べきれてません。すみません)。この為、上元元年(760年)には重輪乾元の額面を30銭と し、続いて10銭とし、762年には乾元重宝と重輪乾元双方1枚3銭とし、そう取り決めた3日後に両者1枚1銭となり、結局高額銅貨は定着しなかったそう です。
なお、広東周辺では西アジアとの貿易の関係で金銀も流通していた、とされていますが、9/10世紀のアラブの書「
シナ・インド物語」 では、銅銭の流通の描写がある(藤本勝次版p23)。しかし、これは、広東ではなく、唐一般の話かも知れません(同署で、広州をハーンフーと呼ぶのは、広 府=現代発音guang fuに対して、当時のguangが、huangだったのかも知れません。中世発音を調べたわけではありませんので、単なる推測ですが。。。)

  なお、政府の正式な貨幣では無かったものの、唐中期から絹帛に代わって銀も用いられるようになり、商品交易、租税、決済、賞賜、貢納、軍費、布施、官俸、 債務決済などに用いられ、五代には更に流通範囲が拡大したようです。唐代の銀鋌は遺物が出土していて、西安の大明宫遺跡や地方で出土しており、形も金額も 様々だったようです。大明宫遺跡で出土した長方形型や円形の銀鋌は
こちらのサイトこちらのサイトの写真があります。また、船型をしたものもあったようで、 餅、鈑、笏、笋と銭型と、様々な型があったようです。額面は五十両だったり、二十両、12両と、一定していなかったようです。1970年には西安何家村の 唐代窖藏では銀の開元通宝421枚が出土しているものの、銀鋌は2009年時で19枚しか出土していないとのこと。流通量が少なかったのか、後世改鋳され てしまったのか定かではありませんが、法律的に正式に認められたものではなかったことからも、用途は多様であったとしても、特殊な事態で利用されたのでは ないかと推測されます。

まとめ:

 唐代に為替手形が出現し、後に定額化したが、紙幣には至らなかった。また、為替は定額 為替が発行されたが、それに伴い非定額為替手形が無くなったとまでは言い切れなさそうです。また、為替手形と銅銭の間のレート問題も、調べた限りでは、ま だ発生していなかったようです。貨幣経済がまだ農村部に浸透しておらず、規模として大きなものと言えなかったことと、為替手形と貨幣(銅銭)の使用目的が 異なっていたので(為替手形での納税は無かった。殆どの農民にとっての銅銭は、ほぼ納税の為)、両者の間のレート問題は発生しなかった、ということなので はないでしょうか。

 

次回:「北宋・南宋時代の四川」に続く。


 

 

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