【1】Wikipedia記載のビザンツ・オスマン帝国の歳
入額一覧の数字の出典
Wikipediaのビザ ンティン経済の項目に、以下のような、年間財政収入一覧表があります。一方、オ スマン帝国経済史の項目にも、以下のような年間財政収入一覧表があります。それぞれもっともらしい数字が並んで いますが、この数字は、どのような史料に基づいているのでしょうか。興味が出てきたので調べてみました。注釈の出典を見る と、18個の数字中13個までがビザンツ史家WarrenTreadgoldの 著作『A History of the Byzantine State and Society(1997年)』から引用となってい て、残り5つのうち4つ(533,555,775,850年)は、貨幣学者Kenneth W. HarlのHPのFinances under Justinianと、MILITARY FORCES OF MIDDLE BYZANTINE STATE c. 850 A.D.のページから引用 されていることがわかりました(残り一つ1303年の値は出典が記載されていません)。Treadgoldの著作もUSアマ ゾンで1044頁もの大著が中古が12ドルと、安いので、購入して出典を調べてみました。一方、オスマン帝国の財政収入は、 数値のすべてが、Albert Howe Lybyerの著作 『The Government of the Ottoman Empire in the Time of Suleiman the Magnificent(1913年)』から引用されています。こちらは、100年も前の書籍ですが、 近年にも度々リプリント版が安く出版されていて、いまだにポピュラーなようです。著作権が切れているので、Interenet Archiveでpdf版が公開されています。p178−p182の「Suleiman's Income」の章の本文に数字が記載されていて、それぞれの数値の出典が注釈に記載されています。更に、出典資料の簡単な解説がp309-322に出て います。似たような一覧表ですが、両者の性質がまった く異なっていることに驚きました。なお、トレッドゴールドの著作はアマゾンで安く出ていますが、pdfで全文がネットで公開されているから(こ ちらです)、書籍版が安価となっているものと思われます。
【2】結論の要約 1.ビザンツ側の値は、ひとつとして史料に記載された数値はなく、すべて軍隊の規模から
軍隊人口を算出し、当時の財政はほぼ全部軍人を養う予算だったことから、予算規模を推計しているもの。
2.表にあるオスマン帝国の値は、全てヴェネツィアの報告書にある値。オスマン側史料の値ではない。しかし中にはオスマン 側史料に近い値もある。オスマン側資料(アクチェを単位)と、ヴェネツィア側資料(ドゥカート)の数値の遠近は、両貨幣の換 算率の変動が影響しているのかも知れない。 【3】ビザンツ帝国財政収入の記載 Treadgoldの著作を参照してみて、まずわかったことは、Wikipediaに出
典が記載されている17個の数値のうち、15個は、歳入ではな く、支出の数値だということです。トレドゴー
ルドが著書『A History of the Byzantine State and
Society(1997年)』で掲載している値を表にまとめてみました。こちらをご参照ください。この表は、表計算ソフトの互
換性のあるHtml形式で保存してありますので、表計算ソフトで開いて編集することも可能ですし、表計算ソフトに表の内容を
C&Pすることも可能です。
【5】オスマン側の史料の財政収入額と同時期のスペイン・ハプスブルク朝の財政収入額トレッドゴールドの表の横列は、Soldiers Salary Officer Total となっていますが、Soldiersは兵士の数、Salaryはノミスマでの年俸、Officer(将校)の給与は兵士よりもいいので、兵士 の給料に対して一定の倍率(1.33など)を乗じて算出しています。これらの値を積算して、その行項目の合計年俸を算出し、 最後に列を縦に合算して合 計年間歳出額(緑の列)を算出しています。 533,555,775,850年の値は、貨幣学者Kenneth W. HarlのHPのFinances under Justinianと、MILITARY FORCES OF MIDDLE BYZANTINE STATE c. 850 A.D.に掲載されていま す。だいたいトレッドゴールドと似たような形式でまとめられ、計算されています。850年頃のテオドラ摂政時代の財政歳入・ 歳出表は、日本語書籍では井上浩一著『ビザンツとスラブ』(中央公論社、1998年)のp68に掲載されている表があります が、これは、井上氏の1986年の論考「財政からみたビザンツ国家−9〜11世紀−」(『新しい歴史学のために』 (1986 年11月185号)が出典で、その論考によれば、トレッドゴールドの1982年の著『The Byzantine State Finances in the Eighth and Ninth Centuries』を元に井上氏が一部数値を補正して作成したものとのことです。実は、トレッド ゴールドの『A History of the Byzantine State and Society(1997年)』には殆ど出典が記載されておらず、(将校の兵士に対する給与倍率)などは、あくまでトレッドゴールドの仮 定であって、肝心の兵士給与や兵士数の出典史料の記載がありません。恐らく、『The Byzantine State Finances in the Eighth and Ninth Centuries(1982年)』の方に掲載されているのかも知れませんが、この書籍は国会図書館にも大学図書館にもなく、USアマゾンには出ているも のの、若干価格も高いので、「もしかしたら出典は書いてないかも知れない」という可能性のある書籍を購入する気にはなれませ ん。しかし、若干参考になる史料を井上氏が、上の論考で記載しているので、その内容をここでご紹介したいと思います。 ・867年にミカエル三世は、兵士給与支払いのために2万ポンドの金を溶かして金貨を鋳造しようとした(「続テオファネス年 代記」1838年Bonn Bekker版p173)、との記載から、2万ポンド=144万ノミスマに相当することから、この額がトレッドゴールドの表の842年の列のpay of field soldiersとpay of oarsmenの合計値1441752に近いとし、兵士の給与規模の数値としては妥当だとする(金1ポンド=72ノミスマ)。 ・バシレイオス1世の即位後、ミカエル三世時代(867-886の20年間)に国家から不正贈与が行なわれ、その総額の半分 総計216万ノミスマを国庫に返還させた(「続テオファネス年代記」p255-6)。即ち年間平均20万ノミスマが贈与とし て支出された計算となる。 ・842年テオドラが摂政についた時、国庫の備蓄は9万3千ポンドの金、856年には19万ポンド金の備蓄があり、差額9万 7千ポンドを14で割って1年あたり6928ポンド=約49万ノミスマが年間平均譲与だったと考える(数値の出典は「続テオ ファネス年代記」p171)。 ・中央政府の役人の給与は官職表などの資料から細かく把握できるようなので(どの史料かまでは上記井上論説には記載がな い)、その積算合計が凡そ45万ノミスマとされる 以上を合計すると、258万ノミスマ となる。このあたりまでが史料的に裏づけのある値といえるかも知れません。しかし、こ のような検算のようなことを井上氏が試みている、ということは、実は『The Byzantine State Finances in the Eighth and Ninth Centuries(1982年)』にも出典が記載されていないのではないか、と疑わせるものがあります。 以下、トレッドゴールドは、842年の歳出として、兵士の武器と制服費に24万、馬の飼料代に10万、戦争費用に20万を (恐らく)仮定し、合計約308万(井上論説では補正して330万)の歳入があった、としています。 取り合えず、史料的に大枠受け入れられそうな値として258万ノミスマという値があり、それはトレッドゴールドや井上氏が結 論づけている308とか330万ノミスマと、桁違いに違うわけでは無いので、ビザンツ帝国の財政規模という観点では、一応の 目安となりそうです。 ※参考値 ミカエル・プセルロスが挙げている数字として、バシレイオス二世時代、1440万ノミスマの国家備蓄があったとの こと(プセルロス E.Renauld版『年代記』p19) 【4】オスマン帝国財政収入の記載
Wikipediaの表に掲載されている数値は、全てLybyerの著作に掲載されています。場所は、180-181頁の注釈です。 @1433年 2,500,000 5−1 オスマン朝地域別収入
*1
1527/8年の数値の出典は「オスマン帝国の時代(山川出版社:林佳世子)」p44に引用されているL.BARKANの研
究 *2
1582/3年の数値の出典は、「オスマン朝の財務記録」(清水保尚)『記録と表象 史料が語るイスラーム世界』2005年)(端数は四捨五入)
5−2 ハプスブルク朝
スペインの 政府収入と借入金 同じ時期のスペイ
ンの財政収入額と比べると、ヴェネツィアの伝える値は、概ね400万ドゥカート前後の値と、7-800万ドゥカートの二
つにわかれていて、オスマン朝側の史料の値は、低い方の値に近く、高い方の値は、同時期のスペインの財政収入に匹敵する
値となっている点に興味が惹かれます。もしかしたら、ヴェネツィアの報告書が伝えるオスマン朝の財政は、対オスマン軍事
同盟諸国の軍備強化=財政拡張を煽るために、少し多めに報告した数値なのではないか、という疑問も出てきてしまう値と
なっています。しかしまた一方、ドゥカートとアクチェの換算率は、銀の下落に敏感なヴェネツィアにおける換算率であるこ
とから、銀の価格が一時的に上昇した時もあったかも知れず、そうした時に一時的に、例えば仮にドゥカートとアクチェの換
算率が1:40くらいの時にオスマン財政を計算すれば、400万ドゥカートと評価されていたオスマン朝歳入が、800万
ドゥカートに評価されることになります。
※スペインは1557、1560、1596、1607、 1627、 1647、1653年に破産している。 出典:Introduction
to the Sources of European Economic History: Vol.1:
Western Europe, 1500-1800 p49
【6】ビザンツ財政規模とオスマン財政規模の比較
飯島英夫『トルコ・イスラム建築』
のp195に、スレイマニエ・ジャーミー建築時の人足の給与の記載があります。それによるとスレイマニエ・ジャーミー複合施
設のひとつスレイマニエ・キュッリエの建設作業の1553年12月9日から1559年4月26日の間の会計簿が残り、以下の
内容が紹介されています。「労働者の日当の平均は8−10アクチェ、石工、壁工、大工などの親方で10−12アクチェ、徒弟
では4−10アクチェ」。更に購買力の記載もあり、「1アクチェで小麦粉1kg、パン2.5kg、羊肉1kg、卵10個、
チーズ500g、牛乳2kgのいづれかが購入できた」「靴は10−15アクチェ、なめし皮のブーツ32アクチェ、ガウン
20−50アクチェ、馬一頭400アクチェ、非イスラム教徒から徴収した人頭税は60アクチェ/人・年であった」
イスラム教徒は金曜日休日なので年間労働日数を312日、病欠・祝日を入れてざっと300日とすると熟練労働者日当10ア クチェ*300=3000アクチェとなります。食費小麦粉1kg、パン2.5kgで家族四人の一日分の最低食料となり、羊 肉、卵、チーズ、牛乳を加えて1日6アクチェ、衣類家賃などは残りから捻出するとすると、たいだいこの給料で核家族であれば 養えそうです。そこでこの給与額をビザンツと比較する為に、これを年収360万という日本円単位に相当すると仮定します(一 人で自活できる年間 生活費を120万とし、核家族を養える額は360万とする)。すると1582/3年の歳入3億1374万アクチェは、熟練労 働者104580人分の年収相当となり、3764億8800万円ということになります。当時の総人口が 1500万人、こちらで算出した古代ローマの計算値は人口5000万で1 兆2800億円ですから、ざっくり人口を同じ数としてオスマン歳入を計算すると、人口5000万の場合単純計算で6274億 8千万円となり、 古代ローマの1/2程になります。スレイマン時代のオスマン帝国の領土は、古代ローマの1/2程度ですから、オスマンと古代ローマの領土当たりの財政規模 は、かなり近いといえそうです(人口は1500万人程度、古代ローマの1/4で、古代ローマの1/2の領土で、財政収入が代 ローマの1/4程度。つまり人口あたりの財政規模は同じで、領域あたりの人口は古代ローマと比べると、オスマン朝では1/2 に減少していたことになる)、スレイマン大帝の時代は、各地を征服し、略奪品により財政が潤っていたので、税金もあま り高くなかったので、比較的財政額は低めに留まったということなのかも知れません。この点から推測すると、国家が傾き、無理やりリカバリをけしかけていた 19世 紀の(人口あたりの)国家財政は、16世紀と比べると膨れ上がっていたと推測できるのですが、実際の値を調べてみたいところです。 念のため、上記熟練労働者の日当を1人分の給与(120万円相当)とした場合も計算してみます。すると、3000アク チェ=120万円ですから、オスマン財政は1255億円程度にしかなりません。1アクチェで購入できる内容からすると、日当 10アクチェという金額は、核家族を養える金額であると考えた方が良さそうです。 一方のビザンツはどうでしょうか。850年の値として330万ノミスマで、米国のビザンツ史家トレッドゴールドの財政分析 を論じた井上浩一氏は論説「財政からみたビザンツ国家−9〜11世紀−」(『新しい歴史学のために』(1986年11月 185号)で、一家族の平均年間生活費は17−18ノミスマ(p3)としています。一般兵士の給与が9ノミスマなのでまった く不足しているのですが、核家族を養える金額の半分である9ノミスマを180万円とします。1ノミスマ20万円です。する と、ビザンツ帝国の歳入は6600億円という額となり、この時期のビザンツ帝国にはエジプトやシリアが領土外 となっているにも関わらず、オスマン朝の倍の額となってしまいました(トレッド ゴールド『ビザンティン国家と社会の歴史(1997年)』には兵士の給与9ノミスマの根拠の記載はありません(もしかしたら、トレッドゴールドの著書全 1044頁のどこか、わかりにくいところに書いてあるのかも知れません)。 ビザンツの財政収入額は、一見異常に多く見えますが、労働者・兵士の年収を金貨に換算すると、もう少し事情がわかります。 オスマン朝の労働者の 年収3000アクチェは、ドゥカート金貨に換算すると年収35.71ドゥカートとなり、これで核家族全員を養えるわけですか ら、半分の18ドゥカートが、9ノミスマに相当していると見ることができます。つまり、ノミスマとドゥカートの金貨としての 価値は、1:2となり、ドゥカートの価値はノミスマの半分になる、というわけです。この換算率を取り合えず無視して、仮にノ ミスマとドゥ カートの値を1:1として、家族を養う年間費用を同じ額だとすると、ビザンツの歳入は3300億円相当となり、オスマン朝の 財政金額に近づきます。もしかしたら、アクチェとドゥカートの換算率に問題があるのかも知れません。16世紀中盤は、新大陸 の銀貨が欧州・地中海世界に大量流入し、銀貨と金貨の価値が激変していた時期なので、アクチェとドゥカートの換算率を変えて 検討してみることにも意味はあるかも知れません。 そこで、1580年代のオスマン財政が、ドゥカート換算で400前後ではなく、800万前後あったとすると、単純計算で 倍になるわけですから、3764.88*2=7529億7600万円ということになり、850年のビザンツ財政に近づくこと になります。ただし、850年当時のビザンツ領土は、1580年のオスマン朝領土の1/3程度しかありません。更に、トレッ ドゴールドの研究では、1025年は590万ノミスマとなっていて、この頃の必要年間生活費も17−18ノミスマと変わらな いとすれば、円換算で1兆1800億円となり、1582/3年のオスマン朝の3倍の規模となっています。1025年ころのビ ザンツ帝国も、スレイマン時代のオスマン帝国も、人口はともに1500万程度と 推定されていますから、結局のところ、最盛期のオスマン朝や古代ローマは、ビザンツ帝国と比べて財政的に小さな政府であった、ということになるのかも知れ ません。 ※参考 上記ケ
ネス・ホールのサイトにある中世欧州・中近東の人口史データでは、1000年ころのビザンツ帝国の人口は
1300万人程度としています。
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