ビザンツ建築・芸術について


 ビザンツ帝国と古代ローマの境目をどこに置くかという点については、「こ のページについて」で既述したことですが、建築面に関しては、シリル・マンゴー氏が 999年日本でも翻訳出版された「ビザンティン建築」(本の友社)で行っている主張を取り上げ たいと思います。 この著作の没頭には以下の 内容が主張されています。

 「4世紀から5,6世紀までの初期の時代には変遷過程にあったとはいえ質的にはまだ古代の 建築であると」 言え、
「従って7世紀のどこかに一線を引き、それ以前を初期キリスト教(又は末期ローマ建築)、それ以降 をビザンティン建築と呼ぶことにはかなりの理由があり、 更にまたこの一線はビザティン帝 国の歴史において断絶線とはいわないまでも本当の分割線に相当する と言えよう」 「しかしこの都合の良い分割線をとると私達はビザンティン建築から第1黄金 時代、すなわちユスティ ニアヌス帝時代を除去することになるが、アヤ・ソフィア大聖堂の無い ビザンティン建築は 頭の無い人体のようなもの」であり、「しかしユスティニアヌス時代をビザンティ ンにとりこむとすれば、コンスタンティヌスの開設からユスティニアヌスが帝位についた 527 年までの命運には劇的な切れ目は無いので東ローマ帝国の起点を必然的に4世紀始めまで遡らせ ることになる」

という主張です。 ポイントは「ユスティニアヌス時代は外せない」 しかしこれを入れると  「4世紀まで遡らずを得ない」 ということだと思います。 これは建築面に限らず ビザン ツ帝国の基本的な時代区分の議論そのものであると思います。 
しかしこの観点は、「国家宗教としてのキリスト教」と「コンスタンティノープル」に重点を置きすぎ ている様に思えます。
 古代ローマの歴史が都市ローマの歴史であった様に、 ビザンツ帝国の歴史はコンスタンティノープ ルの歴史である、という認識が根底にある様に思えます。 この根底には更に西洋古典古代は ローマとともにあり、西洋中世はコンスタンティノープルとともにあ る、という認識があるものと思います。
 ルネッサンスの開幕あたりでコンスタンティノープルが都合よく非キリスト教圏の勢力に征服された おかげで、 中世はコンスタンティノープルとほぼ歩みを同じくしているという認識に合致 し、この認識がますます ビザンツ帝国=コンスタンティノープルという認識を強めてしまったのだろうし、 帝国最後 の100年は殆どコンスタンティノープルだけの国家であった為、ビザンツ帝国を語るために は 「コンスタンティノープル全史」 を入れないと 不充分ということになってしまう様に 思える感覚は理解できます。

 しかしここでは「中世」という歴史学の要請から成立した概念を取りあえず置いておいて、周 囲の状況も含め社会・経済・生活形態・風俗が古代地中海世界と 明らかに分断されている境 界をどこに置くのかと言えば、やはり7世紀といことになると考えます。  ビザンツの要素 としてもっとも重要なものの一つであるソフィア大聖堂の建設が6世紀のことであ り、それを除外してしまうと「ビザンツ建築」という主題では 内容の乏しいものとなってし まうにしても、「ビザンツ世界」という主題では、ビザンツ世界の景観の 重要要素としてソフィア大聖堂は含まれるので、 「ビザンツ世界」の時代区分では、ユス ティニアヌス時代はあっさり切り捨ててかまわないと思いま す。
 また別の見地からすれば、 ソフィア大聖堂を外してしまうと 内容のとぼしいものとなってしまう こと自体、そのような偉大な構築物を生み出すことの 出来たユスティニアヌス時代とは 別 の社会、つまりは古代に属しているものだと思うのです。 
 要するに「ビザンツ世界」とは巨大建築物を生み出せる世界では もはやなく、帝国の領域同様古代 世界に比べるとこじんまりした世界であったと思うのです。
 
 同じシリーズの「ローマ建築」には「 アヤ・ソフィア大聖堂も、この様な建築の構想そのものが、 建築体験の総体に対してローマの建築家達が 果たしてくれた貢献なしには不可能なもので あった。アヤ・ソフィアをローマ帝政期の建築的伝統の最 後を飾る偉大なモニュメントと記すことは 決して人を惑わせるものではない」との主張も出 てきています。

 
 というものの、7世紀以降の建築に関する資料は、4-6世紀の資料と比べやはり乏しいということ 以前に、ここで全面的に参考にしている前掲書 シリル・マンゴー「ビザンティン建築」が4 世紀から説き起こしているので、ここでもビザンティン建 築の概要を4世紀から含めて概略だけ提示することにします。

(研究の難しさと現在の進捗度)

・古代には機能(浴場・図書館・広場・寺院)毎に建築法も異なっていたが、古代末期から段々 と遺構だけでは何の施設かは断定し難くなってゆく
・おまけに文献資料も「キリスト教の本性には大いに語るが日常生活の事実には殆ど触れていない」 為、「10世紀のビザンティンに措ける地方都市の性格は どういうものであったか」よくわ からない。 従って、公共建築物の様子はますますわからない状態。
・世俗建築を概説出来るようになるには住居・浴場・貯水槽・要塞・橋梁などの遺構が中期と晩期のも のは殆ど残っていない
 従って「ビザンティン建築」では表題は「ビザンチン建築」でありながら、実態は極めて不均衡な内 容となっているが、現段階では仕方が無い 今後、造られた建物と造られなかった建物の種類 と規模や材料と技術と形態の地域的研究が、 それ ぞれの地域で出そろうのでない限り ビザンティン建築は歴史・社会・地理・経済的実情にコ ミットした存在として分析されえない。

(建築材料)

・モルタル(石灰と砂を混ぜたもの)と破砕レンガや小砂利を混ぜたものを利用していた。 イ タリアでは火山性の土壌が粘着質のある モルタルの生成を可能にし、モルタルだけで天井を 支える様な建築も可能だったが、東方ではイタリア に比べ粘着質のある土壌が無く、 切石の石組のみの建築法が長く残ったが、東方特有の日干 しレンガとモルタルを組み合わせる方法がと り入れられ、東方にもモルタル建築が普及した。
・モルタルとレンガの厚さは4世紀には1:1だったが、やがて1.5:1と、モルタルの方が厚く なっていった。
・大理石には以下の産地が有名だったが、6-7世紀には終わりを迎えた。大理石を用いた建築物は古 代のものと考えてよさそうである。
 エジプト - 赤色斑岩
 ラコニア - 緑大理石
 テッサリア - 緑色縞大理石
 チュニジア - 濃黄色大理石
 ヒエラポリス(フリギア) - 象牙色縞大理石
 プロコネソエス(マルマラ海) - ほぼ白で青色粒子が混じる
 エウボイア・カリストス - 緑 
・木材はキプロスの松が有名だったらしい。 木造建築も無かったわけではなく、シナイ半島のアギ ア・アエカテリ修道院に6世紀のこの辺りでは最古の木造小屋が残っているらしい。

(要員と賃金)

メヒャニコス (メヒャニホイオス) 数学者  今で言う建築家に相当したらしい。 ユス ティニアヌス時代にはまだプロの優れたメヒャニコスがいたらしいが、
                           段々主教などが図面を書いたりする様に なってきて、棟梁など関係者の経験で構築をしてゆく様になっていったらしい。
アルヒテクトン           棟梁     今で言う現場監督。工事をまとめるのが仕事。
熟練職人

301年のイコニウム(現コンヤ)での教会建設の例 
 人物画職人 150デナリウス/日
 塗職人    75
 モザイク職人60
 石工・大工  50

380年の例では1ソリドゥスで30人分は高いという認識。4-6世紀に石工の平均年収は5 -7ソリドゥスとのこと。ラヴェンナのサン=ヴィターレ寺院の工費は26000ソリドゥスとか。「ヨシュアの年代記」では、495年の記述部分に 
 「この年エデッサでは、小麦30モディウスと大麦50モディウスが1デーナーラーで販売されてい た。」という記載がある。 また、500年の記述部分には、
 「4月(niisaan)になると直ちに、作物および全てのものの不足が生じはじめた。4モディ ウス(約4.52リットル)の小麦を1デーナーラーで売っていた。」との記載があるとのことである。

72ノミスマ=1リトラ、
 

(フレスコ画)

職人個々の創造性を発揮するものではなく、定型構図を再生産するだけの存在で、作品と個人名 はイコールではなかったが、12世紀頃から段々と創造性を 発揮し始め、個人の署名を残す 画家も出現したらしい。 この頃はビザンツ、ブルガリア、セルビアで フレスコ画の発達が見られ、 その鮮やかな画風を見ると、13,4世紀のイタリアへ繋がっ ていることが納得できる。