6月に行ってきたマ
ルコポーロ展で展示されていた宋代地図の拓本に興味を持ったので、少し調べてみました。 宋代の地理認識の精度の高さを示す「華夷図」「禹跡図」です。まとまった資料と解説を探していたのですが、「The History of Cartography, Volume 2, Book 2: Cartography in the Traditional East and Southeast Asian Societies」(University Of Chicago Press:1995年)に見つけることが出来ました。 これらの地図は、碑文の拓本は書籍やネットで出回っているものの、碑文の全体像がわかる画像は殆ど見かけないので、例え ば、巨大な壁面の一部に刻まれているのか、或いは正方形の一面に地図が刻まれているのか、などについて知りたいと思っていま した。 @ 「禹跡図(禹迹图)」碑文です(同書p48から引用)。 中国科学院自然科 学史研究所(Institute for the History of Natural Sciences,Academia Sinica,北京)撮影。現在は西安碑林博物館所蔵。1136年製作。80x79cm。以下が正面から撮影したもの(p48)。 現在は失われているが、同じ3つめの地図がかつて山西省稷山県で発見されていたとのこと(同書p47註20)-。 A 「禹跡図」 1142年の拓本 83x79cm 中国科学院自然科学史研究所撮影(同書p49) 上記2つの地図は、まったく同じ地図であることから、同一の原画から複製刻印されたものであることがわかります。碁盤は、横 が71、縦が73、合計 5110個の区画から構成されています。石碑に刻印されている文章によれば、1100年に長安で元の地図から刻印された石碑 を元に、1142年に鎮江で彫 られたもの。 B 九域守令图 1121年製作。130 x 100cm 中国科学院自然科学史研究所撮影。縮尺1:1900000。(同書p46) 「禹跡図」が碁盤の目から構成されているのと異なり、この地図に碁盤目状の区切りはありません。1400以上の行政区画名 が記載されているとのこと。1964年四川省荣县文庙的正殿の後面で発見され、現在は四川省博物館所蔵。宋代官僚の沈括(1030-94年)が1080年に完成した天下州県図は、別名守令图と もいい、この1121年製作の九域守令图の原画だった可能性もありそうです。 C 華夷図(华夷图) 1136年 石碑 79cm x 79cm 中国科学院自然科学史研究所撮影(同書p47)。約45万分の1。この石碑の地図は、上下左右が逆となっていて、複写用の原本だったことがわか る。 上の3つの地図と比べると、線が丸みを帯び、1389年の大明混一図や、1402年朝鮮で製作された混一疆理歴代国都之図に近い、デフォルメされた地図となっています。 上の華夷図の拓本が以下の写真(同書p47)。上の碑文の上下左右をひっくりかえし、北が上、東が右に来るように印刷され ています。 D 「地理図」または「墜理図(坠理图)」 220 x 104cm 原画1190年、現存石碑1247年製作 蘇州市碑刻博物館所蔵。1:2500,000。こちらのサイトに石碑全体の画像があります。画像をクリックすると細部が確認 できる程大きなサイズに拡大することができます。 以上5点を比較してみると、1121年版が最もリアル地形に近く(これは印象だけではなく、百度百科の禹迹图の記事で は5点に渡り、守令图が禹迹图より精度が高い要点が記載されています)、また、冒頭2つの禹跡図以外は各々描線が異なってい て、同じ原画から複製を作成し たものは無いことがわかります。同一のオリジナル石刻からの複写刻印だと思っていたので、この点を知ることができたのは収穫 でした。しかし一方で、墜理図 以外は、どれも80cm四方と、ほぼ同じサイズとなっていて、同一の原画を下敷きに作成した可能性がありそうに思えます。 華夷図と禹跡図は、唐代の役人である賈耽(贾耽(730―805)が17年間かけて作成し、55歳の貞元17年 (801年)に完成した、現存していない海内華夷図(海内华夷图)が底本だと考えられているとのこと。海内華夷図を下 敷きにしているという説の根拠は以下の2点になるようです。 1.唐代の地名の残存 華夷図の地名には唐代のものが多数見えている点。 2.同一の製図法 海内華夷図には、作図法として禹跡図と同じ計里画方(计里画方)が 採用されている点。海内華夷図は唐王朝以外の領域を含む、一辺が10丈あったそうで、一丈を現在の中国の尺度333cm(唐 代では311cm)とすると一 辺が33mの巨大な地図ということになります。一寸(約3cm)は百里(唐代も現代も約500m、100里は50km)だっ たそうなので、10丈だと5万 kmとなってしまい、唐の本土を描写するには一辺5000km程度となる筈なので、5万kmは少し大きすぎな気がします。ま た、1寸(3cm)が50km とすると、華夷図や禹跡図の80cm四方は1500kmを表現することになり、これでは小さすぎることになります(宋代の領 域は東西約2000km、南北 約3000km、160cm x 120cmが必要となる)。もっとも、墜理図の場合は、碑文220 x 104cmのうち、地図部分が約140m x 100 cmを占めている為、石碑の原画は、1寸一里相当の160cm x 120cmだった可能性はあります。石碑版は縦横約80cmで70コマなので、一コマ約1.1cmとなり、一寸の1/3とな ります。原画の1/3のサイズ で石碑が製造されたということになり、これは一枚板を採取できる石碑の材料のサイズに合わせたのかも知れません。 計里画方は伝統的な製図法の一つであり、サイズも大きく異なることから、唐代の地図は、宋代の地図と同様に、実際の地形に 近い地図であったとするには根拠として少し弱い気もしますが、宋代地図に近いイメージのものだった可能性もあり、なんともい えないところです。 地図上の一寸を実測地のX里として記載する計里画方は、西晋時代の裴秀(224-271 年)という役人が整理した地図製法”制図六体”と言われる、分率(比例尺度)、准望(方向表示)、道里(距離)、高下(道路 の上下)、方邪(道路の曲がり くねり)、迂直(道路の直線部)*の6種の方法論を適用したものとのことで、計里画方を適用した地図を”地形方丈図”と言 い、この手法で裴秀は「禹貢地域 図」(現存せず)を作成したとのこと。唐代の海内華夷図も宋代の禹跡図も(そして恐らく華夷図の原画も)、この手法を採用し ているので、裴秀の「禹貢地域 図」も、比較的リアルな地図だったと推測することが出来るとの見解もあるようです。 *道里は直線距離。これに対して、実際の道路は、高下(道路の上下)、方邪(道路の曲がりくねり)、迂直(道路の直線部)か ら構成され、実際に移動する距離とは異なる点を整理する為の方法論。 一方で、伝明代「歴代地理指掌図」という書籍に、宋代1185年の地図として「古今华夷区域总要图(古今華夷区域総要図)」 という地図があるそうです。これは計里画方の痕跡は薄れ、後の1389年の大明混一図や、1402年朝鮮で製作された混一疆 理歴代国都之図に近い形式で す。 禹跡図に計里画方の碁盤の目が記載されていることに対し、華夷図は古今華夷区域総要図に近い印象を受けます。この記事 で集めた宋代から明代の地図、 及び前 回の記事での康熙皇輿全一覧図(禹跡図系)や1790年地図(華夷図系) を見る限りでは、宋代には華夷図系と禹 跡図系の地図が混在し、この二つの流れは清代まで続いたような印象を受けます。 ところで、宋代以前の中華王朝歴代全図はどのような状況だったのでしょうか。 晋代の地図は現存していないものの、前漢代の地図は出土しています。馬王堆漢墓(马王堆汉墓)から出土した駐軍図(驻军图)と地形図) です。現在の地図に前漢代の地名をマップした中国史地図集の付近の地図をほぼ同縮尺にして並べてみました(東経 111〜112°30′、北緯 23〜26°)。赤点が南平県城(現湖南省南端藍山県付近)。右下が広州湾です。地図は、現広東。広西・湖南省境界地帯のほ ぼ400km四方に相当)交趾刺史部の地図と現在の湖南省に相当する荆州刺史部の地図をつなげて作成したものです。 実際の地形よりも、南平付近の地形全体がかなり東方に寄っていますが、この付近が漢代にはまだ辺境地であり、かつ山岳地帯で あることを考えれば、中原地帯 の地図はかなり正確である可能性もありそうです。縮尺は地図の範囲全体がほぼ18万分の一でほぼ均等とのこと。図は、約 400km四方を示していて、漢尺 で1000里に近く、100里方眼で10x10となり、後世の計里画方の1方100里の基準に近い値となっています。 駐軍図の方は、現 湖南省南端瑶族自治県を中心とする地域で、場所によって縮尺が1万3千分の一から5万分の一まで不均等で、地図は正方形で あっても、地図に記載されている 範囲は、実際の地形に対応させると、以下の右図のようになるとのこと。左図は、地形図と駐軍図の関係。駐軍図は地形図に含ま れるとのこと(以下の図は、中国科学院東北地理と農業生態研究所の雑誌「地理科学」のサイト掲載の「馬王堆《駐留軍図》 測絵精度及絵制特点研究 - 地理科学(马王堆《驻军 图》 测绘精度及绘制特点研究 - 地理科学)」から引用したもの。 地形図(96cm四方)や駐軍図(縦98cm、幅78cm)は1m近いサイズがあり、細かく地名が記載されているとは知り ませんでした。 今後史料の発掘などにより補強されたり、或いは引っ繰り返る可能性はいくらでもありますが、馬王堆出土地形図と宋代地図の精 度、及びその中間となる裴秀や ある賈耽の情報を踏まえると、現段階では概ね裴秀作成地図も、そこそこの精度(少なくとも馬王堆地形図を全土に拡大した程 度)はあった可能性もありそうで す。現存遺物が確認されていないとはいえ、中世イスラーム帝国でもプトレマイオス地理理論に基づいた地図が作成され続けてい た可能性があり(現存遺物は 1154年のイドリーシーの地図。プトレマイオス方式で描かれている)、帝政ローマや馬王堆の漢代地図などを鑑みるに、広大 な領域を支配する場合には、そ こそこの測量技術が発達する傾向が見られるように思えました。そうなると、アケメネス朝以降サーサーン朝までの古代ペルシア 帝国でもそれなりの地図作成技 術があったのかも、という儚い希望を持ったりしてしまうのでした。プトレマイオス地図(帝政ローマ) - イドリーシー地図 (イスラーム) = 7つの地域理論(古代ペルシア世界地図)という感じになりそうなのはわかって いるのですが。。。 --記事作成中見つけた情報メモ □香港浸会大学の中国古地図サイト。 □宋代開封府のミニチュア模型(河南省開封市の山陝甘会館に展示されている宋代 開封の立体模型。京都アスニーにある平安京創生館の平安京模型と似たような巨大なもの) □中国現存最古(前310年)の地図である「兆域图」遺物の写真。 □「《天下全舆总图》真的是中国人最先发现世界?」 清代全図各種の名称が記載さ れている記事 □中 国最古の地図(とされている)「兆域図」 |