古代中華世界の生活(漢代の都市と農村)
6大都市 外食産業、インフラ 下水、水道
(1)都市 1.都市の形 以下は河北省武安県牛汲古城跡に見る当時の県城都市の平面プランである。南北768m、東西889mの城壁に囲まれ、中には幅2.5mの南 北4条の道と幅6mの東西のメイン通りがあった。それぞれの区域は「里」とされ、これが一つの村の単位だったとされる。一つの里は南北380m、東西 175m。この里毎に城壁の外に農地を持ち、朝耕しにでて夕方戻る生活をしていたと考えられているようである。道路幅 東西道路は6m、南北道路は 2.5m。 里の中は、30-50m毎に家があり、低い土塁で区分されていた。里自体も土塁で区分され、門には門番がいた。里の中の家は15-
20*20?m程度の邸宅が建っていた。家の間には土塁があったが、石で舗装された道があったことも(ビジュアル版講談社世界の歴史に遺構の写真があ
る)。住宅には井戸、倉庫、水道(石組の配管。これも前掲書に写真あり)などがきていた。
戦国の昔は里の中にも田があったが、漢代は郷の外に田があった。しかしこれも豪族が勢力をもってくると、郷外遠くの地に追いやられた。
祭りも郷単位で行った。 父老などが郷の治安、税収などを担った。 里あたり50戸程度。 50*5人=250人*10=2500人。*3万郷=7500万人。 だいたい漢代の最大人口になる。ということは、
大都市の存在を考えると
もともと里内は氏族だったのかも知れないが、漢代は既に核家族
北門
これに対して、豪族が発生した郷となると、豪族の小作人あるいは家内奴隷として、2.5m*3.45mの地面下1.5mの竪穴式住居が密集す
るような
後漢代は豪族が土地を特に江南で開拓し、大土地経営を行った。
2.都市の数
〜郡、県、郷、亭の数の変遷〜 前漢 後漢 減少率
後漢代に県、郷、亭ともに減少している。郷や亭というのは県令が在住していない都城であり、基本的には県城と同じ内容であり、含まれる里の 数が県より郷、郷より亭が少ない、というも。このうち県の減少部分は秦漢代になって新しく作られた新興都市であり、おもに低地に作られたものらしい。これ らの県の多くが後漢代には放棄されたということらしく、従来からあった都市が崩壊したことを意味しないとのこと。前漢、後漢ともそれほど人口構成に変動は ないので(どちらも建国期は1500万程度、末期は6000万程度の人口を抱えていた)反面亭の大幅な減少は 集村が減って、散村が増加したことを意味し ている。 |
農村の風景 |
農村の風景 |
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牛と馬の引く荷車 |
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遼陽棒台子2号墓壁画 |