02/09/2003 - 

雑記



ウルの滅亡哀歌

 勝手な思い込みなのですが、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教に見られる世界の終末 思想、及び文明の興亡思想の源泉は、シュメール人が受けた滅亡認識 や、エーゲ文明の滅亡の記憶に起源があるのではないかと思っていました。特に、5世紀に見られた、ローマの衰亡と世界滅 亡の同調は、高度な都市文明が、周 囲の蛮族によって滅亡する類型として、シュメールの滅亡の記憶を引いているように思え、「ウルの滅亡哀歌」を読みたいと 思っていました。小林登志子さんの「シュメル-人類最古の文明」p123に、オックス フォードのウェブサイトhttp://www-etcsl.orient.ox.ac.uk/edition2/general.phpで シュメル文学の英訳が掲載されていることが言及されていたので、そのうち読もうと一日伸ばしにしていたのですが、昨日た またま乾電池回収ボックスを求めて入った図書館で筑摩書房の「古代オリエント集」を見たところ、日本語訳が既にあることを知りました。 なあんだー。小林さんも人が悪い。既訳があると書いておいてくれればもっと早く読めたのに(古代オリエント集の目次は、こちらのサイトに掲載されています)

  で、読んでみたのですが、少し予想と違う感じ。ウルに下される神の天罰は、蛮族による滅亡を象徴してはいるのでしょう が、ちょっと見た目には、インドのリ グ・ヴエーダに描かれた神々が引き起こす自然との闘いみたいな感じ。あるいは、文明滅亡というより、退廃した社会に神が 天罰を下すソドムとゴモラやノアの 洪水伝説のよう。蛮族のエラムとスー人が登場するのは1箇所だけ。文明衰亡思想というより、天罰思想という印象がありま す。

 一方、小林さんは、共著で「シュメル神話の世界」 という書籍も出されていて、こちらに「第二ウル市滅亡哀歌」または「シュメルとウルの滅亡哀歌」の抄訳が掲載されている のですが、こちらの方がウル王がエ ラムに連行されたり、蛮族がシュメル諸都市を破壊する文章も登場していて、文明衰亡思想の祖形が見られるように思えまし た。

 ところで、シュメルの滅亡哀歌は、ほかに「ニッップールの滅亡哀歌」「シュメル諸都市の滅亡哀歌」「ウルクの滅亡哀 歌」「エリドゥの滅亡哀歌」「エアンナ神殿とキシュの滅亡哀歌」などがあるとのこと。そのうちオックスフォードのサイト で読んでみようと思います。

  それにしても、小林登志子さんの「シュメル-人類最古の文明」は面白い本でした。私が感じた印象は、amazonの書評 で他の方がすべて記載済みなので、 特に付け加えることは無いのですが、政治や軍事中心ではなく、王や市井の人々の生活を中心に描いた点が、私の歴史の対す る目線と近いので非常に楽しく、興 味深く読めました。小林さんは、「シュメル社会は現代世界の原点である。当時既に文明社会の諸制度がほぼ整備されてい た」(前掲書「はじめに」p7)と記 載されています。私は、現代の欧米や古代ギリシア・ローマに、東アジアは古代中国に直接の原点を見ているのですが、「文 明全体」という大枠で考えると、確 かにシュメル社会が原点であるように思えます。一方同時に、紀元前5世紀頃から紀元後6世紀くらいの千年間続いた、古代 ローマや中国の古典古代時代にとっ ても、シュメル社会は原点だとの印象も持つようになりました。

12/25/2009



イラン料理とブルガリア料理

  カレッタ汐留の中に、ブルガリア料理店(ソフィ ア)ができていました。今年 の4月26日オープンとのことです。ひょっとしたら、日本ではじめてのブルガリア料理店かもしれません。少なくとも、こ こ数年はブルガリア料理店というも のは、東京近郊にはありませんでした。ということで早速行ってきました。最初は、カレッタ汐留にある、ということで、京 橋にあるクロアチア料理店「ドブロ」み たいな高級料理店を想像し、「ブルガリア料理の メニューで高級料理なんてできるのだろうか?」と思っていたのですが、実際行ってみると、「ドブロ」のような、あからさ まな高級料理店ではなく、とはい え、ファミレス程カジュアルではない、比較的普通のレストランでした。ただし価格の方は、普通よりも高めの設定でした が、これはまぁ仕方がないか。海外へ 行けば、500円程度のカツどんやてんぷら丼でさえ、10ドル〜20ドルしてしまうこともあることを考えると、まぁ、仕 方ないかな、という感じです。メイ ンディッシュは、だいたい1600円〜2000円程度でした。
 さて、想定範囲内ではありましたが、下の方の想定内でした。というのは、ブルガリア料理以外のカレー(これ最近はブル ガリア国内にも普及してきているの でしょうか)が置いてあったり、ワインも、ブルガリアワインは3種類くらいしかなく、殆どがフランスやチリワインなど、 他国のワインで、お店の内装にブル ガリア的なアクセサリーがなければ、「ブルガリア料理も置いてある欧風レストラン」という感じなのです。メニューにあっ た、ブルガリア度の高いブルガリア 料理としては、

- カバルマ (ブルガリアンシチュー。周囲の国には多分ない、ブルガリア独特のシチュー。醤油と味噌が好きなタイプの 日本人の口にも結構合うブルガリア 料理)
- ムサカ (ギリシア料理の、具が詰まった卵焼きです)
‐ タラトールスープ (ヨーグルトのスープ)
‐ ライスプディング (お米とヨーグルトの冷製プディング)
‐ バーニツァ (ケーキ)
‐ ショップスカサラダ (「ソフィア地方の」という意味のサラダ。実際の意味としては、「手抜き」サラダの意味。 ショップはソフィアの俗称。しかもあま りいい感に使わない)
‐ キュフテ (小さめのハンバーグ。ひき肉を練って固めて、串焼きにする感じのサイズなので、ハンバーグと少し違う が、あえて言えばハンバーグ)

くらい。旅行する日本人がなんとか食べれるブルガリア料理の代表選手を並べた感じである。まぁ仕方がないか。ブルガリア 料理店が沢山あって、ブルガリア人 がメインの顧客ぐらいの店でもできれば、本格的なブルガリア料理が食べれるかも知れないが、日本在住の中国、韓国人相手 の中華料理や韓国料理のようにはい かないのでしょう。ところで、「想定範囲内でも下の方」と記載しましたが、お店の人に聞いてみたところ、「予めオーダー してくれれば、メニューに無いもの も作ります。ただし、ワインについては、メニューにないものの取り寄せはできません」とのことで、一応料理は作ってくれ そうです。 というわけで、今度行 くときは、モツ煮込みの「シュケンベ・チョルバ」、かつフライの「シュニッツェル」や、鳥のピラフなどを頼んでみようか と思います。ところで、ラキア(果 物の蒸留酒)が置いてあったのは嬉しかったですね。「昼下がりにラキアを飲みながら、ショップスカサラダを食べる」。結 構これが醍醐味だったりします。

 この日は、ついでに高田馬場にできた「ヒー ロスヒーロー」という ギリシア系のファストフード店にも行ってきました。ライトバンで商売していたドューネルが開店したような感じでしたが、 値段は安く、ウゾやレツィーナが置 いてありました。ラキアとウゾは、ずっと同じものだと思っていましたが、昨日飲んだウゾはラキアよりも甘く感じられまし た。まぁ、銘柄にもよるのかも知れ ないけど。オープンエアになっていて、割とゆっくりできました。

 殆どがブルガリア料理の話となってしましましたが、先週やっと、日本ではじめてイラン料理の店に行ってきました。もと もと六本木にイラン料理店があるの は知っていましたが、昔調べたときはその1件だけだったので、あまり行く気にならなかったのです。行ってみてがっかりし たらそれで終わりではないですか。 ところが、たまたま先週調べてみたら、東京近郊に10件ほどイラン料理店ができているではありませんか。ということで早 速六本木の「アラジン」に行ってき ました。ホームページの評価を読んだ時は、「近隣のイスラム諸国の方々の溜まり場」という記載があったので、もっとネイ ティブっぽいお店かと思っていまし たが、どちらかというと、ジャパナイズされた感じで、店内も高級料理店、という感じで落ち着いて静かな雰囲気でした。ケ バプチェに、刻んだたまねぎが出て きたので、「丸ごとだしてよ」とお願いしたら、調理用にぶっきりにしたのが出てきました。サフランライスの味が若干現地 で食べた味と異なった感じでした が、羊肉を食べながら、たまねぎを丸かじりするところが、イラン料理の雰囲気を思い出すポイントかな、と思いました。

18/Sep/2006


惑星と週

 太陽系の惑星の定義が変更され、惑星の数が8個に減って しまいましたが、調べ てみたら、惑星の名前は古代バビロニアの頃から引き継いでいることを初めて知りました。木星は、ローマ神ユピテル(ギリ シア名ゼウス)からとって、英語名 ではジュピターと呼ばれていますが、木星は、バビロニア時代も、神々の王である、マルドゥク神をその名前としていたとの ことです。

中国名
ローマ名
ギリシア 名
シュメー ル名
アッカド 名
意味
木星
ユピテル
ゼウス
アサルルヒ
マルドゥク
主神
火星
マルス
アレス
ムスタバル
ネルガル
戦いの神
金星
ウェヌス
アフロディーテ
イナンナ
イシュタル
愛の女神
土星
サトゥルヌス
クロノス
ザグウシュ
カイマール
共通点なし
水星
メルクリウス
ヘルメス

gu-ad
共通点なし


このように、惑星に神の名前をつけることは、古代シュメールに始まり、バビロニアに受け継がれ、やがてギリシア・ローマ に入ったとのこと。
一方、週の概念は、これも古代バビロニア以来の伝統とのこと。ただし、バビロニアでは、週の曜日と惑星名は関係せず、こ の関係が生まれたのはエジプトでと 推測されているとのことです。バビロニアの週は、単純に1ヶ月という期間だけだと長すぎるため、新月から上弦まで/上弦 から満月まで/満月から下弦まで、 下弦から新月まで/と、1月を4当分して、7日を一単位とすることにしたとのこと。こうした話は、中国にもあって、古代 中国では、一月を3分して上旬、中 旬、下旬としていたとのことで、この習慣は殷代からのものだったとのことです。それでは、何故日本で、曜日に惑星名がつ けられ、中国ではそうなっていな かったか、という点については、 日 本語の曜日の名称はど うやって付いたのでしょう?というサイトに記載されていますが、要約すると、唐の時代、中国人僧がインドに 留学していた時に、 西方の知識として、インド人から伝えられ、そのとき、中国僧は、中国名の惑星名に翻訳しました。その中国僧が中国に帰国 したときに、日本からの留学僧であ る空海に伝え、日本にも伝わったとのことです。日本では、知識として所有され、実生活では用いられなかったのですが、明 治になってから、西洋の習慣が導入 されるとともに、この古代の知識が曜日名に利用されるようになったとのことです。この為、現代中国では、星期一、星期 二、星期三、星期四、などと数字が曜 日として利用されているとのことです。こちらの曜 日の名前の話というサイトには、現代各国語で、曜日にどのような言葉が使われているかについて、まとめられ ています。惑星と関連付けている国は、 ラテン系諸国と英語圏と日本語では、惑星名が利用され、ギリシアとアラビア語、ペルシア語、中国語、スラブ系諸語は数字 がメインで構成されているというこ とのようです。ブルガリア語を例にあげますと

日曜 - ネデーリャ
月曜 - ポネデルニック
火曜 - フトルニック - 「第2の」という意味の「フトーラタ」から
水曜 - スリャーダ  - 「真中の」という意味の「スレッドナ」から
木曜 - チェトバルタック - 「第4の」
金曜 - ペータック - 「第5の」
土曜 - サボタ - ユダヤ教の安息日サバトから。サターン/サトルヌゥスとは関係がない。

となるようです(月曜、日曜は不明です。今度調べておきます)
17/Sep/2006



歴史映画と空撮

 以前、これまでの歴史映画には、「空からの映像」が不足 していて、今後は、コ ンピュータグラフィクス技術の進展は、空撮を採用した歴史映画を可能にする だろう、と書きましたが、最近やっと、今ごろになってみた「アレクサンダー」で、それが実現されているのを見ました。ガ ウガメラの戦いの場面で、鳥 (鷹?)が戦場空高く舞い、アレクサンドロス軍とダレイオス軍の上空から見おろしている。正にイメージ通りの映像でし た。映画としてのできはともかく、歴 史映像としては、「アレクサンダー」はかなり満足の行くものでした。あえて付け加えるとしたら、インドのポロス王との戦 いの場面でも、空撮映像を作って欲 しかったと思います。

 ついでに、こちらも今ごろですが、「パッション」と「トロイ」も見ました。最近の歴史映画の映像力はなかなかのものだ と思います。どっちも期待していな かったので、割と面白く観れました。キリスト映画はこれまでも何作も作られてきているので、「いまさら新しいものがある のだろうか」と思っていましたが、 宗教思想上の観点はともかく、クールでリアルな映像でした。「トロイ」の方は、予告編を観ている限りでは、「ロード・オ ブ・ザ・リング」や「ハンナプト ラ」のように、過剰なGCの使いすぎで、反ってリアル感が無くなってしまっているのではないか、と思っていました。伝説 の映像化であり、アキレウスのよう な神の子孫が登場するため、「アルゴ探検隊の大冒険」のようなファンタジーを想像していたのですが、意外にも普通の歴史 映画として作られていいて、昔みた 「イフゲニア」という映画を思い出しました。
 それにしても、ヘクトル(エリック・バナ)とアキレウス(ブラッド・ピット)の戦いは見ごたえがありました。英雄達の 個性もわかり易く描かれていて、三 国志に通じるものがありました。
16/Sep/2006


パレートの法則、いよいよ日本に適用か

 9/6日の日経新聞によると、日本居住世帯 で、1068.8万世帯 が641兆円の金融資産を持っている、とある。3831.5万世帯が512兆円の金融資産を持っている。1153兆円の 金融資産のうち、4100.3万世 帯のうち、26%の世帯が、55.9%の金融資産を持っている。「金融資産」というところに注目したい。家屋や車は資産 に入れていない。つまり、株や預貯 金などの資産が3000万円以上ある世帯が、56%にものぼるわけだ。金融資産が1000万円あるだけでも、世帯的に は、かなり余裕がある、
家のローンや養育ローンを抱えている家庭では、金融資産ゼロに近い世帯もあるだろう。日経は、恐くて発表できなかったの ではないか。ひょっとしたら、 1000万円以上の金融資産のある国民 30%程度が、70%の資産をもっている、というパレートの理論に近い数字が、 既に日本で実現されつつある事実を (あくまで推測だけど)

9/Sep/2006






古代ペルシア文明展

 先週、東京都美術館で開催されている、「古代ペルシア文 明展」、「驚異の地下 帝国 始皇帝と彩色兵馬俑展」、上野の「岩 崎邸」に行ってきました。

 古代ペルシア文明展は、「どうせアケメネス朝だけだろう」と思っていましたが、紀元前5000年頃から各時代の遺物が まんべんなく展示されていました。 エラム王国の遺物の展示もあり、歴史の本でさえ見かけたことのないエラム王国の領域地図が壁に掲載されていたりして、新 しい情報に出会うことができ、有意 義でした。200点にわたる展示物のうち、約半数の97点までが、アケメネス朝以前の展示物であり、アケメネス朝44 点、セレウコス朝5点、パルティア 17点、ササン朝37点となっていて、意外にバランスが取れている展示でした。アケメネス時代のシグロス銀貨や当時アフ ガニスタンでのみ出土した、青色の 着色材料や装飾として用いられたラピズラズリの遺物など、通常あまり着目されないような遺物も展示されていて、予想より もいい展示でした。

 江戸東京博物館の「驚異の地下帝国 始皇帝と彩色兵馬俑展」の方は、2年前に上野で展示があったばかりで、2年前の展示の方が、様々な種類の兵馬俑が展示さ れていて、兵馬俑については、2年 前の展示会の方がよかったと思いました。彩色兵馬俑も、基本的な兵馬俑の展示を見たことのある人なら、雑誌「ニュー トン2006年2/25日号 (4月号) 完全再現!始皇帝が眠る地下帝国」 に多数掲載されている、復元イメージ画像を参照すれば充分 な気もしないではありません。とはい え、今回の展示では、漢代の俑の展示に特徴があったように思えます。始皇帝の兵馬俑よりも、実物よりも小さい俑ですが、 文官や侍女などの俑が多数展示され ていました。

 上野へいったついでに、不忍池の南側にある、三菱財閥の創業一族である岩崎家が、明治〜昭和初期にわたって利用してい た、邸宅の見学に行ってきました。 日本家屋と、洋館から構成されていて、洋館は、明治時代の代表的な洋館の一つだったとのことで、映画に登場する洋館のイ メージそのままでした。勘違いをし ていたのが、洋館は、あくまでパーティと、パーティ招待者の接待用として利用されていて、洋館の中で日常的に利用されて いたのは、当主の書斎だけだったと のこと。敷地の7,8割は、日本家屋で占められ、日常生活はこちらで営まれていたとか。日本家屋の多くは解体され、残さ れている日本家屋は、洋館とほぼ同 じ敷地面積くらいでした。受け付けに置いてあったチラシによると、東京中心部に、結構な数の明治時代の洋館が残されてい ることもわかりました。少し興味が 出てきましたので、週末にでも、少しずつ見学していこうかと思っています。

9/Sep/2006






古代オリエント世界の記憶の損失

 最近「ベ ロッソスとマネト」という本を読みました。やっと、古代地中海世界で、何故アッシリア以前の歴史がただしく 伝わらなくなってしまったのかが、わ かった気がします。書籍として非常に有用であり、書評も書いてしまいました。
 紀元前5世紀〜3世紀前後は、ギリシア人の世界が、地中海以外の文明圏へと、急速に拡大した時代です。この時代、エジ プトやバビロニアなど、古代オリエ ントの文明圏と直接交流し、それらの土地にギリシア人が在住することで、その地域の地誌が記載されました。現在に残る著 名なものとして、以下のものが挙げ られます。

著 作者名
著 作名
邦 題
内 容
クテシアス
ペルシカ
ペルシア誌
ギリシア人クテシアスは紀元前405 年、アケメネス朝アルタク セルクセースの要請により、ペルシア宮廷に侍医として滞在し、ペルシアとインドに関する23巻の地誌・ 歴史を記載した。荒唐無稽なエピソードが多いとされ るが、メディア、キュロス以降のペルシア帝国に関する歴史は、比較的史料として役立ちそうである。荒唐 無稽な部分とされるのは、アッシリアのセミラミスの 記載と、インド誌を扱った部分かと思われる。ディオドロスやプルタルコスに多く引用されている。バルバロイ!に 全訳がある。
メ ガステネス
イ ンディカ
イ ンド誌
セレウコ ス朝のギリシア人外交官。前302年〜291年の間 に、(最低1回以上)使節としてマウリヤ朝チャンドラグプタの宮廷に派遣された。インドの政治体制につ いて多少言及があるが、歴史的記述はゼロ。政治体制 の記述は荒唐無稽ではないが、大帝国と思えない、地方の王のような記載である。これもバ ルバロイ!に 全訳がある。
ベロッソス
バビロニア カ
バビロニア 誌
セレウコス1世からアンティオコス1 世の時代あたりに書かれ た。3巻。ベロッソスは、バビロンに住むバビロニア人の神官であったとされ、ギリシア語でバビロニアの 歴史を書いた。ギリシア人支配者のために記載したと される。占星術、天文学の記載も多いため、歴史家と占星術学の同名異人の著作者がいると考えられたこと もある。
マ ネト
ア エギプティカ (Aegyptiaca). エ ジプト誌
プトレマ イオス・ソーテールから、プトレマイオス3世エウエル ゲテスの時代のエジプト人。ベロッソス同様ギリシア人支配者の為に歴史を書いた。ヘロドトスの記述に対 して反論する意図もあった。

 これらの著作に共通している点は、完全な著作は、現在に伝わらず、後世の著作に、引用される形で残されている点が共通 しています。荒唐無稽な部分程、後 世の著述家からあまり引用されなくなっていくため、現在に残る部分は、比較的まともな記述部分が残されていると考えるこ ともできます。こう考えると、原典 が残らないことについても、あまり悔しくなくなります。この中で、ベロッソスとマネトの記述は、1世紀に古代ユダヤ誌を 書いたギリシア人ヨセフスや、4世 紀のキリスト橋司祭エウセビオス(「コンスタンティノープル大帝伝を書いた)の「年代記」、9世紀初コンスタンティノー プルのゲオルギ・シュンケルス (Syncellus)の「年代記抜粋」の、主にこの3者に引用されているとのこと。この3者は、宗教的な関心から、天 地創造からの年代記を記述している 点で共通しています。エウセビウスや、シュンケルスは、キリスト教的観点での天地創造以降の世界の歴史を記述する過程 で、ベロッソスとマネトの記述を引用 したとのことです。彼らにとって必要なものは、「合計年代だけ」であったため、王の事跡や過去の事件の記述は引用されな かったため、現代に残らないという 結果を招いたことになったようです。アッシリアの首都にニネベの図書館に集められていた、古代オリエント世界の年代記や 王名表、年報が、アッシリアの滅亡 とともに失われたこと、エウセビオス達により、ベロッソスやマネトの記述が、取捨選択されたことで、古代オリエント世界 の記憶が、後世から断絶してしまっ たといえそうです。

 アッシリア滅亡後、19世紀になるまで、古代オリエント世界の歴史は、主にヘロドトスによって記載された、きわめて歴 史の浅い、伝説的な王が活躍する歴 史像と、旧約聖書に記載されたアッシリアの歴史像から構成されるイメージが支配的となっています。アッシリアは、セミラ ミスとニノス王により勃興し、エジ プトをも支配した、最初の世界帝国とされ、史実とかけ離れた伝承の中に埋もれていってしまった、ということのようです。 こう考えると、ヘロドトスには、 「アッシリア史」という、今には失われた著作もあったようですが、クテシアスとあまり変わらないような内容であると思え ば、あまり惜しくはないと思ってし まいました。
18/June/2006



考古学雑誌Antiquityとクテシフォ ン発掘

 Antiquityと いう考古学雑誌の存在を最 近知りました。オンラインで購読することができ、過去の記事も有料で購入することができます。1927年の最初の号か ら、現在にいたる最新号まで、ずらり とバックナンバーが並んでいて、壮観です。早速、1929年の12号に掲載されている、クテシフォンとセレウキアの発掘 記事を読みました(要点はこちらにまとめました)。 1928年のドイツ隊による発掘の記事ですから相当古い 話です。しかも、この発掘が殆ど最初の本格的な発掘で、その後、まともな発掘は行われていないようです(この点まだ調査 中ですが)ので、唯一の機会の発掘 報告ということで、非常に貴重な資料となっているように思えます。

 面白かったのが、発掘隊は、最初、古代の著作者の記述に従って、ティグリス河西岸の遺構をセレウキア、東岸をクテシ フォンだと考えていたのが、調査をし てみると、西岸の遺跡もクテシフォンであることが判明し、より西にある丘がセレウキアだと判明した点です。つまり、 1000年程の間に、河床が移動したと いうことなのでした。1500年前には、クテシフォンとセレウキアの間を流れていたティグリス河が、東に移動し、クティ フォンを横切って、現在では、クテ シフォンを二つに割るように、真中を流れています。ひょっとしたら、一時は西方にも移動し、セレウキアの上を流れていた こともあるかもしれません。ローマ やアテネでは、それほど大きな大河の近くにあるわけではないため、殆ど河川の移動による、都市の破壊は見られないようで すが、ナイルやメソポタミアなど、 大河沿いの都市では、河川の移動により、都市が埋没する事例を見ることがあります。宋代の開封なども、黄河の移動で、当 時の市街は埋もれてしまい、その上 に現代都市が建設されてしまったので、遺構の発掘は困難となっているようです。

11/June/2006



グルジアの歴史
 
  「コー カサスを知るための60章」(明石書店)を読んで、突然グルジアの歴史に興味をもってしまい、久しぶりに歴史のペー ジを作成してしまいました。最 初はウィキペディアに記載しようかと思ったのですが、段々長くなってきてしまったので、ウィキには少しだけ記載して、本文はこちらに掲載することにしました。

 あまり知られていないグルジアの歴史ですが、調べてみて、意外にヒーローが多いので驚きました。大国に支配されている時代で も、基本的にグルジア国の組 織は残されていたりするので、支配勢力が去った後の再興も早く、連綿と国が続いている感じです。一つの国の通史として描き易いよ うにも思えます。にニーズ があるかどうかはともかくとして、「物語 グルジアの歴史」という書籍がなり立つような感じがしました。例えば以下の感じです。

ミリアン3世(284-361年) キリスト教に改宗
ヴァフタング・ゴルガサリ(446-510年) イベリア王(東グルジア) ササン朝ペルシャに抵抗。王国の盛時
ダヴィド3世(10世紀後半ー1001) アラブ支配を脱し、東グルジアを大体統一
バグラト・バグラトゥニ(1001-1027) 東西グルジア統一
バグラト4世(1027-1072) 中世第1黄金期 
ダヴィド4世(建設王/1089-1125) セルジュークに抵抗し、国家再統一
タマラ女王(1184-1213年) 中世第2黄金期
ゲオルギ5世(光輝王/1314-1346) モンゴルを放逐、中世第3黄金期

特にタマラの称号も凄い。西は黒海から東はカスピ海まで、北はコーカサスから南はアララト山まで、という感じ。アルメニアが、過 去の領土回復を唱え、「大 アルメニア主義」を唱えていますが、グルジアも、タマラの時の領土回復を唱えたら、いまでさえ泥沼なのが一層の泥沼になりそう。 しかも驚いたことには、タ マラ女王の称号には、イランのシャーという称号も含まれている点。アラブとトルコ、モンゴル支配時代にムスリム勢力が入り込んで いたので、中世グルジアの 最盛期には、支配下に多数のムスリムが暮らしていた多民族国家だったのでした。 近代は、オスマン朝、イラン、ロシア、ソ連に支配され、不遇な時代が続きますが、古代コルキス王国時代の、アルゴス探検隊や、ク セノポンのアナバシスのエ ピソード、中世の盛時、近代から現代の混乱を描くことで、面白いグルジア史が書けると思うのですが、いかがでしょうか。
06/May/2006
 


「這い上がれない未来」とグローバリゼーションの時代
 
 最近「這い上がれない未来」という書籍を読みました。そして、グローバリゼーションにつ いて、少し考えさせられました。
 
 ウォーラーステインの世界システム論というものがありました。16世紀以降、西欧植民地政策に取り込まれ、「世界システム」と して、一つのシステムに、 取り込まれてゆく、という主張です。その中で、「中心」とは、西欧列強の企業家、資本家であり、更に植民地の現地支配勢力が、シ ステムを支える「列強側」 価値観を身につけた社会層として、中心に位置付けられています。周辺とは、列強と植民地の労働者ということになります。

 この世界システムは、現在、1989年以降に進展しつつある、グローバリゼーションの時代での、世界規模での再編成の原理その ものとなっていると思うの です。
共産圏と中国・インド・ASEAN・BRICSの勃興とグローバリゼーションの進展は、かつて先進国・発展途上国のエリート階 級・途上国の貧民・低開発国 のヒエラルキーを

多国籍企業=中心
先進国・途上国問わず、それ以外の企業群=周辺

という、かつて、旧植民地国と宗主国の間で機能していたシステムが、グローバル企業とそれ以外の企業というように、世界規模で再 編成されているように思え るのです。 これまでは日本で、給料が、手取り15万の人でも、グローバルな基準では、1500$の高給取りだったといえました (途上国の平均給与は、月 100以下〜500$程度)。海外旅行をして、物価の安さに驚くことも多かったのではないでしょうか。先進国が中心にあり、発展 途上国は、周縁、という構 造があり、経済力としては、先進国はヒエラルキーの頂上を構成し、その最下層にいる低所得者も、自国内では、経済力を意識できな くても、ひとたび海外へで れば、ヒエラルキーの上の方にいる感覚を味わうことができたのです。

しかい、現在のグローバリゼーションの進展は、今後は世界中どこへいっても、15万円の給料は、15万給料の階層でしかなくなる 時代が来ようとしている、 そんな風に思うようになりました。そうして、多国籍企業は、発祥の国に囚われられず、発祥国の政治や経済システムに問題があれ ば、その中心を、より活動の しやすい別の国に移して、常に「世界システムを維持する」ように活動する、そんな時代がきつつあるように思えます。世界システム 論や周辺論は、再び脚光を 浴びる時が来るものと思いました。グローバリゼーションとは、輸出入という程度の「国際化」という意味ではなく、「世界規模の秩 序再編」だと思うのです。
 
 このイメージは、紀元前1世紀のローマの体制に近いのではないかと思います。紀元前2世紀までのローマは、都市国家連合と、領 域国家との同盟が、基本的 秩序であり、各地の支配層にローマ市民権を与え、支配層に取り組む、という構造をもっていました。ウォーラーステインが近代西欧 の植民地支配システムとし て捉えた構造に似ています。これに対して、前1世紀の、ローマ有力者による抗争は、それまでの構造を再編成し、有力者達の各ヒエ ラルキーが、最終的に単一 の、「皇帝」に再編・統合されてゆく過程に似ているように思えるのです。

2006/04/30



歴史と記録メディア

 久しぶりの更新です。最近思うのですが、インターネットの世界に情報が蓄積され、日々膨大な情報が蓄積されてきています。しか し、反面紙の情報が減って くると、歴史的にまずいことになるように思うのです。

 例えばアッシリア史が豊富に残る粘土板に刻まれた楔形文字から、前800-700年くらいは、1年刻みくらいで歴史がわかるの に、紀元後3-7世紀のサ サン朝時代は殆ど現地同時代史料が残っていないのです。この理由については様々な理由がありますが、粘土板が主流記録メディアで あったアッシリア時代に比 べ、絹や羊皮紙が主な記録メディアであったササン朝時代のメディアの方が、保存に弱い、という理由が挙げられます。同様に、現 代、ディスクに記載された情 報は、将来文明が衰退したら、読み取れなくなり、反って、紙の史料が豊富に残る時代の歴史の方が、記録がよく残る、ということに なるのではないでしょう か?

 また、ディスクに情報が蓄積されたとしても、ハードディスクの耐用年数なんてたかが知れています。粘土板よりも、保存力は低い といえるでしょう。このた め、数十年に一度は、新しいディスクにコピーする必要があります。これは、古来写本によって情報が伝えつづけられたことと似たよ うなことなのではないで しょうか? あちこちのディスクに、複数に記載されたメジャーな情報しか、遠い未来までコピーされつづけて残らないのではないで しょうか?
2006/04/30



アッシリア

日本ではメソポタミアやエジプトの歴史を総称して「オリエント史」と呼ぶことが多いようですが、こうした呼び方は日本だけの話で あって、西洋の学究機関 ではエジプト史は「エジプト学」、メソポタミア史は「アッシリア学」というそうです。これについて、何故バビロニアではなく、 「アッシリア」なのか、ずっ と疑問に思っていました。エジプトとメソポタミアを統合した最初の世界帝国といえる存在がアッシリアだからアッシリアに代表させ たのでしょうか。しかしそ れにしては、アッシリアは紀元前9世紀頃から、オリエント世界のもっとも強大は勢力にはなっていたにしても、それに先行する 2000年以上もの時代におい ては常に主役であったわけではありません。むしろバビロニアの方が、この地方の古代を研究する学問名としては、よっぽどふさわし いのではないかと考えてい たのですが、やっと氷解しました。古代ギリシャ・ローマ人にとっては、ペルシャに先行する世界帝国はメディアであり、メディアに 先行する世界帝国はアッシ リアだったのですね。同時にこのアッシリアは最初の世界帝国であったりする。この為、メディア以前のこの地方を研究する学問は 「アッシリア学」となってし まい、19世紀末から20世紀にかけて発見された膨大は楔形文字により、アッシリアに先行する長大は歴史が判明しても、引き続い てそのまま「アッシリア 学」が使われてしまったわけだったのですね。 
 といわけで、古代においては ギリシャ・ローマ人はアッシリアを先行する世界帝国との認識をもっていたようですが、現代の西洋 人は、アッシリアではなく エジプトの方こそ自分たちの文化圏の先祖だと考えているようですね。 エジプトー>ギリシャー>ローマー> ヨーロッパー>欧米  という認識となっているようです。アッシリアの方はむしろ東洋的専制帝国の祖として、ペルシャ帝国やイスラム帝国に引き継がれて いると考えているようで す。
2003/09/27