グルジアは自国語では、サカルトヴェロ (SAKARTVELO)とい う。グルジアの歴史は、主に西グルジアと東グルジアに分けられる。グルジア史は、大まかに分けると、ローマ時代以前は、主に 西グルジアにあるコルキス王国(Egrisi王国)が栄えていた。ローマ支配紀頃から東グルジアにカルトリ王国(イベリア王国と も言われた)が勃興し、し ばらくカルトリがグルジア史の主役となる。4-6世紀にキリスト教に改宗。6世紀頃に、この頃ラジカ王国として知られていた古代 コルキス王国は、(この間 ずっとEgrisi王国が正式名らしい)はビザンツ治下に、カルトリ王国はペルシャ支配下となる。その後、グルジアはアラブ支配 下に入る。ラジカ王国は、 9世紀にアブハジア人を主体としてアブハジア王国として独立した。イベリア王国は、同じく9世紀に、アショト・バグラトゥニによ りアラブより解放された。 1008年に東西グルジアが統一され、その後セルジューク、モンゴルと2度の国難を乗り切って盛時を現出したが、チムールとオス マン・サファヴィー朝の進 出により、西グルジアはオスマン、東グルジアはイラン圏に入ることになった。 |
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西 グルジアにおいて、紀元前1000年前後に、タオ族 (Diakhi/Taokhi/Tao)と、コルキス(Qolha /Colchis)族という2つの部族連合が勃興した。コルキスとは、ギリシア神話のアルゴス探検隊に出てくるように、その富貴 で知られていた。(西グル ジアは古代末期には、ラジカ王国、東グルジアはイベリア王国を建設した。前8世紀中頃に、この部族連合は解体し、前8-7世紀 に、Karts, Mengrels, Chans 、Svansといった部族が到来し、その結果前6-4世紀にかけて、2つの国家へとまとまっていった。西グルジアには、コルキス 王国(Egrisi王国と もいう)が建設された。この王国は、銀を産出し、独自通貨を鋳造していた。コルキスは、その地理的条件からギリシアと結びついて いた。それらの植民都市と しては、Phasis (今の Poti), Gyenos (現Ochamchire), Dioscuras (現Sukhumi), Anakopia (現Akhali/Atoni) 、 Pityus (現Bichvinta)などがある。この時期には、カルトリ(Kartli)部族が東南グルジアに定住した。 Meskhian部族が東北方面へと進出していった。ムツケタは、その入植地の一つであり、 Meskhianが語源である。カルトリ王国は、パルナバス王(ファラマネス/Parnavaz)と結びついている。彼はパルナ バシ王朝( the Parnavazi dynasty)の建設者であり、彼は侵略者を撃退した。彼の時代に、城砦Armazistsicheと、Armazi神の像が 建設された。パルナバシ1 世は、グルジア文字を作ったといわれる。 |
前66年に、ミトラダテス6世の支配下にあった、ポントス王 国を破っ たローマ人は、ポンペイウスに率いられて、アルメニア、アルバニア(現アゼルバイジャンあたりか)とカルトリへと作戦を展開し た。アルメニア侵攻後、前 65年に、ポンペイウスはカルトリとアルバニアへ侵攻した。カルトリ王アルタグ( Artag )は降伏を強要された。ポンペイウスは、西グルジアを横断し、ファシス河の町に到達した。前2世紀前半、カルトリ王国は強力にな り、特にファルスマン2世 ( Parsman )の時代(前150-130年)に隆盛した。ローマ皇帝ハドリアヌスは、カルトリとの関係改善に努めたが、パルスマンはこれを拒 否した。次のアントニウ ス・ピウスの時代に、パルスマン2世との間で関係が改善された。パルスマン2世は、共のものとローマを訪問した。ディオ・カッシ ウスによれば、パルスマン 2世の像がローマに建てられた。皇帝は、カルトリをおおまかな国境と見なしていた。カルトリは、ローマに対しては、臣属国という よりも同盟者だと考えてい た。ローマとパルティアの抗争については、カルトリは一貫してローマの同盟者だった。298年、ササン朝は、ローマとニシビスの 和を結び、カルトリはロー マの管轄とされ、ミフラン3世(284-361年)は、キリスト教を受け入れた。 |
キリスト教は、1世紀からグルジアに広がり始め た。 330年には国家宗教とされた、同時期に西グルジアもキリスト教が国教となった。400年代中頃には、30人の僧侶がカルトリに いたとされる。ヴァフタン グ・ゴルガサリ(Vakhtang Gorgasali 446-510年)は、カルトリ教会を強化し、ムツヘタの僧侶の地位を向上させるため、コンスタンティノープルから許可を得た。 キリスト教は、古代グルジ アの文学を消滅させ、独自の文学を作り出した。最初のグルジア語は5世紀に見られる。それは、パレスチナのベツレヘムにある、グ ルジア人の聖十字架修道院 にある碑文に含まれている。他にも、トビリシの南にある BolnisiのSioni教会などにある。 Bolnisi や Urbnisiに、5世紀にさかのぼる、バシリカ型教会が見られる。ヴァフタング・ゴルガサリはまた、ペルシア人に抵抗し、首都 をムツヘタからトビリシへ と移した。王は、カルトリ王国を南西、東へと拡張した。最初のペルシャへの抵抗は、高位の貴族、Eristavsと、及びイラン 人との同盟による抵抗に あってうまくいかなかった。王は、502年の闘いで破られ、死去した。523年に、カルトリを臣属させたペルシア人は、エギリシ (Egrisi/ラジカ王 国)へと侵攻した。ラジカは、この時まだビザンツに従っていた。しかし、ラジカ王国とビザンツとの絆は弱まってきていた。ラジカ 王は、ビザンツとペルシャ の間の対立を利用しようとしたが、562年に締結された50年間平和条約が、2国間で締結され、西グルジアはビザンツに服属する こととなった。523年と いう年は、ラジカ王国がキリスト教に改宗した年でもあり、ペルシャ人のラジカ侵攻は、これが原因でおこったとされる |
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572年に、カルトリは軍事蜂起し、ペルシャ人を追放
し、地方政権の集まりとなった。これは早期封建国家という様相をなしていて、後の統一国家の基礎となった。7-8世紀に、カ
ルトリ、 Hereti、Tao-
Klarjetiの諸侯国、及びアブハジア王国は、この期間に形成された。アラブが勃興し、645年にトビリシが陥落し、ア
ラブのエミール(知事)に支配
下に入った。しかしアラブは西グルジアは征服しなかった。アラブ支配下で、トビリシは、交易の中心として栄えた。しかし、直
ぐにグルジア全土に叛乱が広
がった。Abkhaz-Adyghe部族で有名なKodori川の北部にあたる、アブジガのアルコン(アブハジアの
Eristavi)であるレオン(アチ
バ/アンチャバヅェ家)(この頃から、西グルジアをアブハジアと呼び始める)は、ビザンツに蜂起し、「アブハジア人の王」を
宣言した。レオンは、ラジカ
(Egrisi)を解放し、独立エグリシーアブハジア王国を打ち立てた。首都はKutaisi(クタイシ)である。978
年、グランドゥフト王女が西南グ
ルジアのグルゲン2世と結婚し、息子バグラトが後継者となった。このバグラトが、東グルジアのダヴィドの養子となることで、
東西グルジアが統一されること になる。 一方東グルジアでは、9世紀に、 Tao-Klarjeti侯国のカルトリのErismtavari であるアショト・バグラトゥニがアラブに対して蜂起した。アショトはKlarjetiを中心に、Tao, Kola, Artvani, Shavshetiをアラブから解放し、ビザンツ皇帝の支援のもとで支配権を樹立し、ビザンツ皇帝から、 Kuropalate(クロパレテス)の称号を受 けた。10世紀後半、ダヴィド3世は、アラブからの解放を更に進めた。ダヴィドは、ビザンツのバシレイオス2世と、コンスタ ンティヌス5世を支援し、特に 979年のBardas Sclerus の叛乱鎮圧に協力したことで、ヴァン湖に至る幾つかの州をビザンツより受封された。ダヴィドは、カルトリ人の Eristaviである、 Ioanne Marushidzeの支援を受け、グルジア全土の統一を目指した。バグラト・バグラトゥニを養子として、彼をカルトリの王 につけ(975年)、978年 には、アブハジア王女グランドゥフトがグルゲン2世に嫁いだため、アブハジアの王を継承した。バグラトは、ダヴィド (1001年)の死後、Tao- Klarjeti から Kartliまでを加え、 Kartvels王の称号を継承し、Kakheti と Heretiを併合し(実父グルゲン2世(1008死)からの継承領土も含まれていると思われる)、トビリシにあるアミール 領以外のグルジア全土を統一し た。この時期のグルジア国王の称号は、King of the Abkhazians, Kartvels, Hers and Kakhs というものだった。王国の首都はアブハジアのクタイシに置かれた。バグラト4世 (1027-1072)の時、1062年にアミール領を併合し、グルジア統一を完了した。 |
中世 -セルジュークトルコ時代ー
1060年代、セルジューク・トルコがカフカスに侵攻し
てきた。
1068年にカルトリが陥落し、1080年に、本格的なグルジア侵攻が開始された。ゲオルギ2世(1072-1089)は、
スルタンに毎年貢納しなければ
ならなかったが、グルジアの支配組織は温存され、ゲオルギ2世の息子、16歳のダヴィド4世(建設王/1089-1125)
が王座についた。彼は中世で
もっとも偉大な君主である。彼は小作農達には山へ避難し、また戻る、といったことを許可して、次第にカルトリからセルジュー
ク勢力を放逐し、また、十字軍
の到来と相まって、セルジューク人は、次第にカフカスにかまっていられなくなった。1099年の幾つかの勝利のあと、年貢を
収めるのを辞めた。ダヴィド4
世は、小作農と地主から成る常備軍を作り、その軍隊は12世紀初頭には、4万名へと膨れ上がっていた。1104年、ダヴィド
は常備軍を率いてカルトリと Kakhetiからせるジュークを追い出し、1105年には、
Ertsukhiの闘いで、大きなトルコ軍を破った。続く1110-1118年には、 Samshvilde,
Rustavi, Gishi, Kubala,
、Loreの町を開放した。しかしこの時は、まだ軍隊は封建領主に従う部分も多く、全てが国王に従属していたわけではなかっ
た。絶え間ない戦争は、農村か
ら、生産者を奪う結果となり、これを補うために、ダビッドは、キプチャックから4万名の傭兵を招いた。コーカサスの不穏な動
きに、スルタンムハマドは、最 高の将軍である、Radjin Al-Din
Ilguziを差し向けた。1121年8月12日、Didgori近郊で、ダヴィド4世は、セルジューク軍を破った。
1122年にトビリシが奪還され、首
都はクタイシからトビリシに移った。トビリシには、ムスリム多数いたが、寛容をもって統治された。1123年には、
最後の大きな拠点であるDmanisiが解放され、1124年にアルメニアのアニの市民の要請により、アニを解放し、国境は
アラクス河まで広まった。ダ ビィドは1125年1月24日に死去した。 |
中世 -セルジュークトルコ後ー
ダヴィドの後継者の時代、国境は更に拡大し、西は、
Nicopsia (現 Sokhi と Tuapseの間) から 東は、カスピ海のデルベントまで、北は
Ossetia (北カフカス)
から南はアララト山まで広がった。グルジア最盛期はダヴィド4世の子、ギオルギ3世(在1128-1156)とその娘タマラ
(1160-在1184- 1213)の時代である。タマラの 時代、グルジアは政治、経済、軍事とも
に発展し、Shamkor (1195) と Basiani
(1203)の戦いで西北イランと小アジアの知事の軍隊を破り、1204には十字軍に首都を占領されたビザンツ帝国の地方
政権であるトレビゾントの建設に助力した。彼女はグルジアを文化の中心とし、科学、詩人、芸術化を保護した。グルジア正教会
はタマラを聖人に 列している。タマラ女王の称号は以 下の通り。 Tamar Bagrationi, by the will of our Lord, Queen of the Abkhazians, Kartvels, Rans, Kakhs and the Armenians, Shirvan-Shah and Shah-in-Shah and ruler of all East and West この称号に見られる通り、イランの称号である、シャーが含まれており、女王の王国は、ムスリムを含む国際王国であったこと がわかる。この時代に、宗教建 築や美術が繁栄した。Gelati やVardziaが建設され、Shota Rustaveliは女王に詩(「虎の皮の夜」)をささげた。 タマラの後は、Giorgi IV Lasha (1212-1223)は周囲に貢納国を持つに至った。ゲオルギ4世は、モンゴルが到来した時、十字軍に参加する計画を立て た、9万人の軍勢で立ち向かっ たが、1223年にモンゴルとの闘いで陣没した。ゲオルギの後は、娘ルスダン女王が継いだ。その後、モンゴル軍が通過したあ と、ホラズム王ジャラール・ ウッディーンの侵攻を受け、トビリシは陥落した。1236年には、モンゴル軍が常駐することとなった。長いモンゴルの支配 は、グルジアをバラバラに分解 し、重税が衰退に向かわせた。ゲオルギ5世(光輝王/1314-1346)は、貢納を取りやめ、1335年、モンゴルを放逐 し、再度グルジアを統一した。 中央集権がすすみ、交易も復活し、主にビザンツやジェノバ、ベネツィアと貿易を行った。1386年、チムールの8度のグルジ ア遠征の初回が行われ、王と王 妃は捕虜となった。1366年に黒死病のダメージを受けていたこともあり、ゲオルギ5世の、2度目のグルジアの栄光の時代は 終わった。1453年のコンス タンティノープルの陥落は、国際的な貿易ルートの変更を意味し、グルジアにとって政治・経済的に打撃となった。これにより王 国は衰退し、15世紀末には、 王国は、Kakheti(グルジア東部), Kartli(グルジア東部), Imeret(グルジア西部)、Samtskhe に分かれた。カヘティ王国と、カルトリ王国はサファヴィー朝、イメレティ王国はオスマン治下となった。 |
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