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 史料『コンスタンティノープル史要覧』と『コンスタンティノープル史蹟案内』その他 諸情報

  
長年ビザンツ世界(オイクメネー)の生活風景を探求しているわけですが、、、、、これまでは殆どコンスタンティ ノープルの風景の探求は行ってきませんでした。それには主に三つの理由があります。ひとつは、「ビザンツ史=コンスタン ティノープル史」という、地方を捨象してしまうところが感じられて抵抗があっためです。二つ目は、コンスタンティノープ ルの風景の史料や文学作品などが簡単には見つからないためです。三つ目は、同じコンスタンティノープルの描写とはいえ6 世紀のマララスや14世紀のものだったりして幅がありすぎる時代の断片集積に陥ることを避けるためです。
ビザンツ帝国の領土の変遷が激しすぎて、1000年間の間ずっと領土だった部分はあまり多くはなく、7-10世紀 の間の約400年間はバルカン半島の領土は殆どなく、逆に11世紀末-14世紀の300年間は、小アジア東部の領土はな いわけで、最大公約数をとると、もしかしたら1000年間ずっと領土だったのはコンスタンティノープルとその周辺だけと なってしまうのではないかと思うわけです。すると「ビザンツ史=コンスタンティノープル史」みたいになってしまうのだ、 との印象があります。ただでさえコンスタンティノープルの存在感が強すぎるのだから、まず地方の景観を優先して調べよ う、というような方針がこれまで私にはありました。

古代ローマと異なり、往時の、特にバシレイオス二世以前のコンスタンティノープルの市街景観を記載した史料/資料 については、これまであまり力を入れて探して来なかった、という理由もありますが、実際あまり見つかりません。古代ロー マですと、ローマ市についてはユウェナリスやマールティアーリスなどの作品とローマ 市に残る豊富な一般住居遺跡などがあり、地方でも豊富な遺跡や『黄金の驢馬』のような景観が描かれた文学作品がある わけですが、ビザンツ帝国の場合、首都コンスタンティノープルも地方も、ずばり景観がわかるすぐにわかるような史料 は見つからなく、比較的豊富な日本語訳のある十字軍のコンスタンティノープル訪問記でも、教会や聖堂の描写ばかり で、町の様子がわかる描写はほとんどありません。
コンスタンティノープルの様子がわかる史料として以下の四つは概説書等でもよ く登場しているのですが(上述の最初の理由からコ市についてあまり熱を入れて調べていなかった、ということもありま すが)、具体的にどのようなことが書かれているのかについてまとまった記述に出くわしたこともないため、これらがど ういう種類の史料なのかもあまりイメージできなかったのですが、今回少し力を入れて調べてみました。

「コンスタンティノープル市通覧」 5世紀 (425年頃)
「コンスタンティノープル史跡案内(史蹟案内)」 八世紀
「コンスタンティノープル案内記」 ハルン・イブン・ヤヒュア 10世紀初
「総督の書」10世紀

驚いたのが、それぞれの史料の傾向の違いです(今回に限らず史料を実見すると驚くことが多いわけですが)。

「コンスタンティノープル市通覧」とは、『Notitia Urbis Constantinopolitanae』 のことで、分類的にはコンスタンティウス二世時代のローマ市の『Curiosum urbis Romae』と似た形式の史料です(『Curiosum urbis Romae』の紹介はこ ちら)。コンスタンティノープルをローマ市と同様14区にわけ、そこにある建物の一覧と数が記載されて います。米田治泰氏が、「コンスタンティノープルの人口と生産機構──学説史的展望──」(『西南アジア研究』21 号1968 年)で、コンスタンティノープル市の建築物数の史料として用いていたのはこれだということがわかりました。この史料は、19世紀の史料集編纂の過程で 1876年版『Notitia Dignitatum』(官職要覧)に含まれていて、ノティティア・ディグニタートゥムと同じ時期 (425年頃)に作成されたと考えられているそうです。ノティティアに含まれているとは思っていませんでした。 ちょっとわかりずらくなっているような気がします。この史料には、インスラが掲載されていないのが特徴的です。単に 掲載されていないだけなのか、実はコンスタンティノープルにはインスラはなかったのか、、、、この点は景観だけでは なく、推計人口にも大きく影響する部分なので大変興味深いところです。

『Notitia Urbis Constantinopolitanae』は建物の一覧なので、史料集の227-243頁の部分の、16ページしかありません(こ ちら)。これに対して「コンスタンティノープル史跡案内(史蹟案内)」の 方は、 『Parastaseis syntomoi chronikai(Παραστάσεις σύντομοι χρονικαί)』という名称で、英訳も出ていることがわかりました。291頁 あり、現在絶版で500ドルとなっています(こ ちら)。ギリシア語英語対訳なので実質150頁くらいです。『Notitia Urbis Constantinopolitanae』の十倍の分量です。

なおも調べてゆくと、 この史料は『Patria of Constantinople』(ラテン名Scriptores originum Constantinopolitarum) の一部であり、 『Patria of Constantinople(Πάτρια Κωνσταντινουπόλεως)』は、以下の5つの先行 史料を編纂した書物ということがわかりました。

1.『コンスタンティノープル古誌』(和田廣『史料が語るビザンツ世界』巻末史料解題p38によると6世紀のミレトスの ヘシュキオス『ローマ史』第6巻の『Patria Constantinoples』のこと) ビュザンティオンからコンスタンティノス大帝時代の歴史2. 『Parastaseis syntomoi chronikai』(8-9世紀)
3.995年の日付をもつPatria
4.6-10世紀に記載されたハギア・ソフィア建築史
5.アレクシオス一世に捧げられた地誌

ギリシア語版は『Patria of Constantinople』にリンクされていて、二巻分を合計すると約440頁となり、結構な分 量です。しかも6世紀から12世紀初頭まで継続的に存在していることがわかりました。とりあえず 『Parastaseis syntomoi chronikai』の方は母校の図書館にあることがわかりましたのでそのうち読みに行こうと思いますが、残りの部分は将来英訳が出るのを待つか、テキス トデータが出回るようになってから翻訳機で英訳して読もうと思います。それでも出ない場合はOCRでギリシア語をテキス トデータ化し翻訳機で英訳することになるのかもしれませんが、ともかくいずれは詳細な内容を知りたいと願っています。

ハルン・イブン・ヤヒュア「コンスタンティノープル案内記」は、他の書籍に断片的に引用が残っているだけのようで、 少し検索した限りでは情報がなく、今回はあまり深く調べてはおりません。

総 督の書(Book of the Prefect/The Book of the Prefect)』 10世紀初頭頃に成立したと考えられている首都の同業者組合の解説書。

The Book of the Eparch
, trans. E. H. Freshfield in Roman Law in the Later Roman Empire (1938
)がパブリックドメインとなっていてイリノイ大学のサイ トに掲載されています(こ ちら)。序文が25頁、付録が20頁くらいあり、本文は50頁程度。

首都の風景や風俗を描いた文学作品は、6世紀のマララスやパラエオロゴス朝については見つかりそうなのですが、これ らの時代をごっちゃにして「ビザンツ時代のコンスタンティノープルの様子」とするには抵抗感があります。古代ローマ の場合、首都の景観といったら、大抵は前1世紀から後2世紀くらいの約300年間の話がほとんどなのに、現行、コン スタンティノープルの場合はなぜか6世紀中盤から14世紀中盤までの、かなり異なる時代のエピソードのコラージュと なってしまっているところが不満なわけです。こうした紹介の仕方をとっている最たる本がミッシェル・カプラン『黄金 のビザンティン帝国』です。この本は、日本語で読めるビザンツの図説としてもっともはやいものの一つで1993年に 出版されたものです。物価情報から農村、都市景観までさまざまな情報や図版が織り込まれていて一見便利なのですが、 引用されているの図像が初期の頃しか領土でなかったシリアの絵だったり、ギリシア商人の絵が16世紀末のドイツの水 彩画だったり、オスマン征服後のコンスタンティノープルの絵図だったりと、1000年間の相違や空間の相違を無視し て一般化するような結果を招いてしまっている難点がある本です。時空を無視した「視覚的ビザンツ空間」を創出してい るような印象さえ受ける書籍なので(これはこれで面白いのですが)、便利ではあるけれども、逆効果となっている部分 も多々あり、注意を要する本となってしまっています。

マララスの時代やパラエオロゴス朝時代のコンスタンティノープルの風景についても知りたいのですが、まずは8-10世紀 前半と、10世紀後半-12世紀の景観を知りたいと思っています。8-10世紀前半はもっともビザンツ的な時代、10後 半-12世紀はイタリア商人やアラブ人などが進出し、交易が活発化して国際都市として様変わりしてゆく印象があるため、 この二つの時期を分けて探索してゆきたいと思っています。
ところで、最近学生時代に読んで今ではすっかり内容を忘れているように思われたビザンツ本を読み返しています。樋 口倫介『中世のコンスタンティノープル』(1982年)は、読書リストに無かったのですが、読みだしてみたところ、半分 くらい読んだ記憶があり、恐らく高校時代に一部を読んでいたようなのがわかりましたが、今回完読しました。この本にはコ ンスタンティノープルの街の描写や料理、学校の話など、今まで探していたような生活景観が掲載されていて驚きました。こ んなに早い時期にこのような内容の書籍が出ていることに驚きました。灯台下暗しでした。ただし、フランスの研究書からの 引用で、史料出典は殆どないため、概要を知るには有用でも出典を知るには役に立ちませんので、結局のところ『コンスタン ティノープル史蹟案内』のような史料を渉猟することになることには変わりはありませんが、それでも有用です。いちおうこ ちらにレビューを書きました。表 紙と裏表紙の内扉にある中世コンスタンティノープル再現地図が、それぞれ(ブレイユのものとイェーディンのも の)が若干違うので、コンスタンティノープル地図再現も、まだ不確定な部分も多いのではないか、との印象を受け ました。これらについてもそのうち詳しく調べてみたいと思います。

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