2019/Apr/30 created
2020/Apr/19 updated

古代ローマ都市要覧史料『Curiosum urbis Romae』『Notitia urbis Romae』による都市ローマの人口推計


 
(1)米田論説見直しのきっかけ

澤井一彰著「16世紀後半におけるイスタンブルの人口規模」(『歴史学研究 〜特集 人口と権力(T)』2018年11 月号(977号)を読みました。同時代文書史料から穀物配給量の数値を算出し、その結果16世紀後半のイスタンブルの人 口規模を推計する、という記事です。従来50万から80万という推計値が流通していましたが、それらの数字は厳密なデー タに基づいた推計ではなく、多分に印象による数値であることを指摘し、当該年代における人口規模は、15-20万、最大 で25万程度、と推計したものです。

米田治泰氏が、「コンスタンティノープルの人口と生産機構──学説史的展望──」(『西南アジア研究』21号1968 年)で、似たような4世紀のコンスタンティノープルに関する人口過大視(20世紀前半に80万)に対して、最近の研究で は4世紀の人口は15万、多く見積もっても25万程度が妥当だと思われる、と記載していた内容と似ているので驚きまし た。前近代におけるイスタンブールのキャパは、古代から近世初期の間あまり変わらなかった印象を受けました。

今回米田氏の論説を読み直したところ、一点気になるところを見つけました。それは、インスラを「民家」と認識して いる箇所であり、しかもこのインスラの数値の出典は、5世紀初頭の官職要覧(ノ ティティア・ディグニタートゥム)ではない、という点です。私は誤解『ノティティア・ディグニタートゥム』 だと誤解していましたので、以前記載した都市ローマの人口推計の記事(こちら)を修正しました。長文となってきて しまったので、コンスタンティノープル人口推計の記事を分割しました(こちら)。


(2)米田論説に史料名の無かった古代文書史料『Curiosum urbis Romae』

米田論説に掲載されていたインスラの数字の出典は、337年頃以降コンスタンティウス二世時代頃と考えられる、『Curiosum urbis Romae』『Notitia urbis Romae』という二つの古代伝世文献とのことで す(コンスタンティヌス時代の彫像が掲載されているバージョンとコンスタンティヌス二世時代の新築建築が掲載されている バージョンがあるため、だいたいその頃に記載されたと推定されているとのこと)。

この文書は、アウグストゥスが設置した都市ローマの14街区にある建築物を、種類別に数え上げた文書とのことです。イタリア語版Wikipedia の記事によれば、『Curiosum urbis Romae』と『Notitia urbis Romae』(無題名のため、通称としてNotitia urbis Romaeと呼ばれているとのこと)はほぼ同内容ですが、大本の同一史料から作成された別々の文書とのことで、前者はヴァティカン文書館で8世紀のもの1 冊と11世紀の二冊の計3冊、後者は9世紀のウィーン国立文書館と8-10世紀のドイツのシュパイヤー大聖堂のものがあ るそうです。1846年に出版された『Die Regionen der Stadt Rom』(イエナ大学教授L.Preller著)がパブリックドメインとなっていて、こ ちらで参照できます。驚きです(こ ちらにもあります)。

この書籍は、冒頭40頁の左側に『Curiosum urbis Romae』、右側に『Notitia urbis Romae』が掲載されていて、違いがひと目で確認できるようになっています。

p29頁以前は、14の各街区ごとの建物の種別件数で、p30に、ローマ市全体の集計値が掲載されています。競馬 場(キルクス)2件、アンフィシアター(闘技場)2件、劇場2件、などと出てくるわけですが、中ほどでインスラとドムス の数が出てきます。

『Curiosum urbis Romae』の方は、インスラ46602(Insulae per totam urbem XLVI.DCII)、ドムス1790(MDCCXC)、
『Notitia urbis Romae』の方は、インスラ46600(Insulae per totam urbem XLVI milia sexcentae duae)、ドムス1797(mille septingentae nonaginta VII

とあります。こ ちらの文書の脚注では、14街路ごとのインスラを集計した人によると、合計値は46603となるとのことで す。

他の建物の種別からすると、インスラの数とは、インスラに収容されている民家の数ではなく、集合住宅そのものの数、という ことになるものと思います。1個のインスラの居住人数を平均20名とすれば、単純計算で46603*20=932060 名、古代都市ローマ100万人説は簡単に達成できそうです。各インスラの居住人数をmax 40名と想定すれば、200万人くらいまでいけそうですが、実際に総ての建物が常に満杯であったわけはなく、また、廃 墟地帯や老朽化した廃部屋も多かったと考えられます。ドムス1戸あたり平均15人として26955人、合計 96万人程度です。

このように概算すると、都市ローマ100万人説は堅そうに思えるのですが、19世紀の都市ローマの近代人口統計 (約44万人)を重視して古代都市ローマ最盛期の推計値を出した論文では45万人を想定していて簡単ではありません(ア イオワ大学のGLEN STOREYの論文(こ ちら)。以前古代都市ローマの人口推計についてまとめた記事ではhtml版を引用したのですが、現在はリン ク切れとなっていて、代わりにpdfがケンブリッジ大学のサイトに掲載されています))。

(3)米田論説見直し

グレン・ストーレイの人口密度をもとにした算出を米田論文に適用した場合、4世紀のコンスタンティノープルの人口は、 15-20万人程度に収まらなくなる可能性があるため、検証してみました。

米田論文を見直してみると、いくつかミスではないかと思われる箇所が見つかりましたが、大勢には影響はないことがわかり ました。以下内容を記載します。


米田論文自体は、諸説を整理しているだけで、米田氏が独自の論旨をたてて推計しているわけではないのですが、イン スラに関する部分の論旨は以下の通りです。

・コンスタンティヌス大帝時代の『Curiosum urbis Romae』(論説では史料名は出ていない)では、ローマのドムス1797、インスラ46603。

・5世紀初頭の『ノティティア・ディグニタートム』では、コンスタンティノープル(以下CPと記載)のドムス 4388、インスラ不明

・CPのドムス数がローマの二倍以上あることから、インスラもローマの46603よりも多いはず

・ソゾメノス(400-450年)の『教会史』に残る穀物配給80000という数字をパン8万個ではなく、8万モディウ スと解釈(1モディウス約655kg)

と想定して、4世紀のCP80万人説が登場した。これに対し、

・8万モディウスはパンの個数

・史料に残るCPの穀物予算額(金11ポンド)から、パンの個数を約7万人分と推定

・ドムスの平均敷地は一戸あたり100m平米なので合計438ヘクタール、実際のコンスタンティノープルの推定居 住地面積960haから438haを差し引いた残り520haの人口密度200人/haとすると、147880名となる


という推計手順が紹介されています(以上は一部の論拠であり、他にもある)。

論説では触れられていませんが、CPのドムス数がローマより多いのに対して、CPのインスラ数は逆にローマより少なかっ ただろう、ということを意味しています。インスラ一戸あたり約300m2=3アールとのことなので、 520ha=52000アール、52000/3=17333戸のインスラ数がコンスタンティノープルには想定されます。

米田氏は、ラッセルの推計の紹介で、CPの4388戸のドムス総面積は、100m2*4388=438haとしています が、44haの誤りではないかと思います。となると、960-438=520というインスラの敷地面積の算出も誤りとな ります。44haを用いて計算すると、960-44=916ha、916haに200人/haですから、

4388*10+916*200=43880+183200人=22万7080人となります。

ラッセルの計算に誤りがあるのでしょうか???ドムス1戸あたり100m2というのも少し小さすぎる気がします。ただ し、CP50-80万人説が、15-20万程度、というオーダーはそれほど変わりはありませんので、論説自体の結論に影 響はありません(100m2を、100mX100mの意味で使っているのだとすると、ドムス1戸あたり1haとなり、 4388戸は、4388haとなってしまいます。100m2を100mX10mとしないと、ドムス一戸あたり0.1ha にはなりません。恐らく、ドムス一戸あたり30mX30m=約0.1Ha(約10アール)と想定しているのではないかと 思います)。


(4)『Curiosum urbis Romae』掲載のインスラ数の検討


 ローマのアウレリアヌス城壁内面積は約1370ヘクタールですから、インスラ46603*3アール /100=1398.9ヘクタールとなり、実際のアウレリアヌス城壁内面積とほぼ一致します。しかしこれだと、アウレリ アヌス城壁内は、インスラがびっしり密集していたことになります。路地や公共建築の敷地は、遺跡地図を見ても1/3くら い占めていそうに見えます。ドムス一戸100m2*合計1797戸=占有面積17Haでドムスの占めるスペースはあまり ありませんが、多数の巨大な公共建築のスペースが無くなってしまいます。このあたりの計算について学説史はどのように なっているのか、 興味があります。また、『Curiosum urbis Romae』の46603をインスラに収容されている戸数ではなく、インスラ数とした場合、4世紀の文人アウソニウスがローマ市人口17万とした数と整合 性が合わなくなりますが、この場合、インスラあたりの平均居住者数は4人程度となり、大半のインスラが空き家同然 だったと考えれば整合性はとれます。その場合4世紀のローマ市の多くのインスラが放棄されていたという当時 の文献史料があれば、確実になりますが現時点では不明です。

ローマ市のインスラ数の妥当性を知るために、14区ごとのドムスとインスラ数を書き出してみました。数字は 『Curiosum urbis Romae』のもので、『Notitia urbis Romae』と異なっている場合だけ、括弧内にNotitiaの数字を記載しています(1000の桁のTはIと解 釈しています)。

第一区 REGNO PRIMA Insulae IIICCL Domos CXX Vici X  
/インスラ3250/ドムス120/街路10/穀物倉庫16/小浴場86

第二区 REGIO SECUNDA Insulae IIIDC Domos CXXVII Vici VII
/インスラ3600/ドムス127/街路7/穀物倉庫27/小浴場85

第三区 REGIO TERTIA Insulae  IIDCCLVII Domos LX(CLX) Vici XII 
/インスラ2757/ドムス60(160)/街路12/穀物倉庫18/小浴場80

第四区 REGIO QUATRA Insulae IIDCCLVII Domos LXXXVIII Vici VIII 
/インスラ2757/ドムス88/街路8/穀物倉庫18/小浴場65

第五区 REGIO QUINA Insulae IIIDCCCL Domos CLXXX Vici XV 
/インスラ3850/ドムス180/街路15/穀物倉庫22/小浴場75

第六区 REGIO SEXTA Insulae (IIICCCIII) Domos (CXLVII) Vici XVII 
/インスラ3303/ドムス147/街路17/穀物倉庫18/小浴場75

第七区 REGIO SEPTIMA Insulae III.DCCCV Domos CXX Vici XV 
/インスラ3805/ドムス120/街路15/穀物倉庫25/小浴場75

第八区 REGIO OCTAVA Insulae III.CCCCLXXX Domos CXXX Bici XXXIV 
/インスラ3480/ドムス130/街路34/穀物倉庫18/小浴場86

第九区 REGIO NOVA  Insulae II.DCCLXXVII Domos CXL Vici XXXV
/インスラ2777/ドムス140/街路35/穀物倉庫25/小浴場63

第十区 REGIO DECIMA Insulae IIDCCXLII(IIDCLXIII) Domos LXXXIX(LXXXVIII) Vici XX
/インスラ2742/ドムス89(88)/街路20/穀物倉庫48/小浴場44

第十一区 REGIO UNDECIMA Insulae IID(IIDCL)  Domos LXXXVIII (LXXXVIIII) Vici XXI(XVIIII) 
/インスラ2650/ドムス88(89)/街路21/穀物倉庫16/小浴場15

第十二区 REGIO DUODECIMA Insulae IICCCCLXXXVII Domos CXIII vici XVII
/インスラ2487/ドムス113/街路17/穀物倉庫27/小浴場63

第十三区 REGIO TERTIA DECIA  Insulae IICCCCLXXXVII domos CXXX Vici XVIII
/インスラ2487/ドムス130/街路18/穀物倉庫35/小浴場44

第十四区 REGIO QUARTA DECIMA Insulae IIIICCCCV Domos CL Vici LXXVIII
/インスラ4405/ドムス150/街路78/穀物倉庫22/小浴場86

上記を合計すると、インスラ44350、ドムス1682、街路307となりました。史料に記載のある、合計値、イ ンスラ46602(46600)、ドムス1790(1797)、街路422(324)と相違があります。私 が書き間違えたか、訳し間違えているのかも知れませんが、p248に、L.Preller氏の集計値表があり、その街区 ごとの合計値と私が書き出した上記の街区ごとの合計値とは一致しているので、数字はあってい ます。どういうわけか、14街区全部の合計値(46602、1790、422)が私が計算した街区全体合計値(44350、1682、307)とは異なっ ているのですが、大きな開きがあるわけではないので、人口推計上の問題はありません。
上記インスラの数値は、2箇所同じ数字が 登場しており、恐らく記入時に誤りがあったのではないかと思われ、一部信頼性にも問題があるのですが、全体的には利用可 能な数値ではないかと思います。

この数字を14街区地図に記入してみました。下敷きとした地図は、GLEN STOREYの論文(こ ちら)から引用しました。



全体的にインスラ数の多い地区が外側に来てはいますが、問題は、フォロマーノがある第八区にインスラが3250、皇帝宮殿の あるパラティヌス丘のある第10区に2742個、マクシムス戦車競技場のあった第11区に2650ものインスラがあったの か、という点です。

パラティーノの丘はだいたい500m四方ですから、25ヘクタール(2500アール)です。インスラ一戸300m2(3アー ル)とすると、833個くらいしか入りません。4世紀のローマは既に皇帝所在地ではなかったので、宮殿が総てインスラに建て 替えられてしまっていたとしても、2472という数字はありえない値です。10区と同じくらいの広さの第11区は、半分くら いマクシムス競技場が占有していますから、計算上400個くらいしかインスラは立てられないはずです。そこに2650という 数字もありえなさそうです。きっと私のローマ数字の読み方が間違っているのだろう、と思いたいのですが、各区が物理的に連続 していなかった可能性もあるような気がします。「このインスラはXX区に所属する」という具合に割り振られてい たケースを想 定しています。14街区に登録されているだけで、物理的には14街区以外の場 所にあるインスラが存在していたとすると、中心部の街区のインスラが、周辺部のキャパのある街区に実際には存在している 可能性や、アウレリウス城壁外部に存在している可能性もあり、アウレリウス城壁外部地域にあるインスラを含めた人口だと すると、都市ローマ人口100万人は達成できます

もしそうだとすれば、区ごとのインスラの数と区の面積からインスラ数の妥当性を検討することは無意味となります(p248に Pedes(長さの単位、約30cm)が集計されており、各区の全長は3km程度となり、区の周長の可能性がありそうで す)。

<<2020/Apr/19追記
もしかしたら、ドムスを改造してアパートとしたものをインスラといっているのかもしれません。具体的には、こちら(知 の回廊 第90回「古代ローマの裁判」)のヘラクラネウムの遺跡で発掘されている(7−8分部分で解説されている)形式です。元は一件の富裕層のドムスだったもの が、内部が区分けされて数世帯の住むアパートと化している、という事例です。この場合は、1ドムスの中に個人の貸部屋ひと つ、一般世帯四つ(元の居住者一世帯含む)となり、仮に一世帯3人、個人部屋1人とすると13人となります。仮にインスラ全 部がドムス形式(100m2=1アール)だとすると46603*1アール /100≒466haとなります。アウレリアヌス城壁の1/3程度となりますので、数としては市壁内の1/3に収まり、現実的にありえそうな数値となりま す。上記ヘルクラネウムの事例は、一戸10m*20m程度の二階建てで13人なので、この数値を基準とした場合は、 46603*2アール≒930haとなり、これもまあまあ市壁内部に収まります。13人*46603=60万5893人とな ります。かなり現実的な値に近づきそうです。

こ ちらにある(キャッシュの画像しか見つからなかったのでそのままキャッシュのリンクを掲載しています)画像 (ローマ文明博物館収蔵)、ローマのトルロニア村(Villa Torlonia)で発見されたローマ市街を描いた浮き彫りでも、高層インフラには見えない建築物が多い(あくまで浮き彫りの印象です)>>


余禄(5)『Curiosum urbis Romae』掲載のその他の各区ごとの施設情報

各区に必ず登場する建築物数が、『Die Regionen der Stadt Rom』p248の表には他に以下の建築物が集計されています。

1.エディクラ(Aediculae) ウィクス(Vici)の数と同じ。街路ごとにあった小祠。
2.Vivomagistri (ウィクス政務官) ウィクスごとに4名。建築物一覧に掲載があるということは、ウィクス政務官の事務所ということだろうか。あるいは政務官自身の数のこ とであろうか。10のウィクスからなる区は40箇所のはずだが、表では14区以外48箇所で統一されている(14区のみ49 箇所)。合計673箇所。
3.Cratores クラトール(管理官)の在所であろうか、クラトール自身の数であろうか。区ごとに2箇所。合計29箇所。
4.Horrea   (穀物倉庫) 合計335箇所(史料記載合計値は290)。ほぼウィクスの合計値数と同じだがあまり比例していない。 44350のインスラに平均20名居住しているとすると、一つの穀物倉庫が担当する人数は2647名となる。穀物を配給され るのは世帯主である成人男子だから、約900名が月に一回配給所を訪れることになる。毎日運営していると過程した場合、一日 30名に配給を行う計算になる。営業時間1日5時間として、窓口業務担当者1人の場合平均1人の受給人を10分で処理する計 算となる。担当者10名の場合、1人あたり100分。担当者2-3名いれば運営は成り立つことになる。

5.Balnea(小浴場) 合計942箇所(史料記載合計値は956)
6.Lacus(霊泉のような場所) 区あたり80-120箇所あり合計1272箇所(史料記載合計値1352箇所)
7.Pistrina(粉引き小屋・パン屋) 区あたり15-20箇所、合計258箇所(史料記載合計値254箇所)
8.Pedes(区の周長か?不明)。

□関連文献等
 『フィ ロカルスのカレンダー』(『354 年の年代記』)(英 訳) 354年の年代記の第14章に、『Curiosum urbis Romae』と『Notitia urbis Romae』が収録されているそうです(14 章)。
 志内一興「イガエディタ人に贈られた日時計」 『古代地中海世界のダイナミズム』山川出版社、2010年
 Polemius Silvius

□関連記事
古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(1) 通説の根拠 とイベリア半島の推計値の算定根拠
古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(2) ローマ時代 のイタリアとローマ市民の人口推計
古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(3) シェイデル 教授の奴隷人口の推計
ローマ時代のエジプトとシリアの人口推計
帝政期の都市ローマの人口の人口推計の算定根拠
4世紀のコンスタンティノープルの人口推 計の算定根拠

戻る(古代ローマ帝国の人口・財政・官吏・役 人などの各種データ)