エジプトについても少し調べてみました。少し探したところでは、スペインやイタリアの
ように、正面きってローマ時代のエジプトの人口を詳細に論じた論説や書籍を見付けることができませんでした。精密な調査
をした論説が見つかれば、そのうち追記 したいと思います。それでも人口推計根拠の概要はつかめたような気がしています。 これに関しては、『古代エジプト
都市文明の誕生/古谷野 晃 著/1998年/古今書院』が役立ちました。しかし、細かく見ていくと、いま
ひとつ納得できない点もいくつかありました。
1.古代エジプトの記録(1) エ ドフ(Edfu/Idfu)にある神殿で発見された前3世紀文書の文書に、農地900万アローラという記録 が残っているとのこと。1アロー ラは約0.275ヘクタールなので、900万アローラは24600km2となり、1882年の耕地面積27159km2 に匹敵する。このことからラッセルは、前1世紀の人口を約450万と見積もった(p87)。農地面積を記載したエド フの文書自体は、ネットで調べてもでて来ないので、本当にそういう文面の記載があるのかどうか、確認が必要だと思います(取り合えず将来調べて加筆するこ とにして、今回は先に進みます(後述のButzerの論文(1976)のp92(pdfのp108)に、古谷野氏の引用 したラッセルの推計の記述が出てきます)。 ※ア ローラ(aroura/arourae)は、古代ギリシアの単位で、エドフの神殿文書は前237-前57年 のものとのことです (Wikipedia の古 代エジプトの面積の単位一覧はこちらにあります)。古谷野氏はp113の註24で、「アローラは古代 エジプ ト人の使用した面積の標準単位(約2.756m2)。100キュービット平方にあたる。セチャトとも呼ばれていた」とし ています。セチャトはSetat (setjat)のことで、上記Wikiによれば、2,756½ square meters(2756m2)です。古谷野氏は、1アローラは約0.275hrまたは約2.756m2としていますが900万=24600km2を逆算す れば 0.273333hrという数値が得られます。上記Wikiの記載では1アローラは、237.5m2となっています。0.273hrは、 2733m2(52.3m四方)に相当し、Wiki記載の数値は、面積でラッセ ルの数値の1/10にしかなりません。一方、Setatより一つ下のKhetは「100 sq cubits」で、「52.5 sq meters (Gillings)」と記載されています。Gillings とはRichard Gillings という人名で、この学者が1972年に記載した”Mathematics in the Time of the Pharaohs. MIT. ISBN 0262070456.” という書籍が典拠となっています。 整理すると、以下となります。どうやら、学者の間でも単位に関する見解の相違があるのかも知れませんが、記載 誤り のような気もします(1キュービット約50cm)。 古谷野(1988) WikipediaのAncient Egyptian units of measurementの記事 2.745m2=0.275hr*1 Aroura 2.756m2*2 237.5m2*5 Khet 100平方cubit(52.5m2)*3 Setat 100平方cubit=1アローラ 10000平方cubit*4(約2,756m2) *1 0.275hrは、27m*100mで、52m四方 *2 2.756m2(52m四方) 恐らく間違いは複数あって、 Khetの 100平方cubitsは「Cubitが100個」を意味し、Setat の10000平方キュービットは、「cubitが一万個」「一辺が100キュービット(即ち一辺が 1khet)」を意味しているのだと思われます。即ち、 *3 × 100平方cubits(52.5m2) → ○ 10平方 cubits(5.25m2) *4 × 10000平方cubits → ○ 100平方cubits(一辺52.5m(100キュービット)四方=約2,756m2) *5 恐らく、237m2というのは、0.237hr(23.7m * 100m 四方)の誤記だと思われます。0.237hrであれば、約48m四方となり、100平方キュービットの値に近くなります。 つまり、1アローラは、52.5m四方、Wikipediaの237.5m2は誤りだと疑われます。1アローラが 52.5m四方であれば、900万アロー ラ=24600km2 は問題ないことになります。 2.古代エジプトの記録(2) @フラヴィウス・ヨセフス『ユ ダヤ戦記』(第2巻16章4節) (ユダヤ戦争中(66-74年)のエジプトの記述) This country is extended as far as the Ethiopians, and Arabia the Happy, and borders upon India; it hath seven millions five hundred thousand men, besides the inhabitants of Alexandria(この国は、エチオキヤや幸福のアラビアと同じくらい広く、境界はインドに接し、750万の人口を持ち、その上アレキサンドリアの住 民がいる(こ ちらの英訳では、当該部分は2巻385節となっています) Aヘロドトスの『歴史』(岩波文庫上p275) 「人の住む町の数はエジプト国内で2万に達したという」 町の数は多そうです。 B一方、『プリニウス博物誌(1986年版第1巻)』5巻-59節では「アマシス王(前569-525年)の治世に二 万の都市を持っていたという栄誉を担っている。そして現在でも非常に多数の都市を持っている。もっともさして重要なもの で はないが」と記載されていて、町の人口規模はさして大きくはない可能性がありそうです。 Cハ リス・パピルスに、ラムセス三世時代(前1155年らしい)に神殿で10万人の奴隷を所有している、との記 載があるそうです。James Henry Breastedという学者は、この奴隷人口は総人口の2%に満たないだろうとし、総人口は約500万人以下と想定しているそうです(ハ リス・パピルスの英訳と思われる文章がこちらに掲載されています。捕獲した10万人を訓練して働かせた、と いうような記載が何箇所か出てきます)。 Dディオドロス・シクルス(前1世紀)『歴史叢書』(Diodorus Siculus・Historical Library,第1巻31:8) In olden times there were more than 18,000 towns and large villages which one can find recorded by name in the sacred lists; under Ptolemy, son of Lagus, more than 3,000 towns were counted, and as many there still are in our times. The total population is said to have amounted to 7 million, and even now it is said to be not less than 3 millions. (昔は18000以上の町や大きな村があり、神 聖文書に記録されていた。ラゴスの息子プトレマイオス(1世) の御世に、3000以上の町が数えられ、その多くは我々の時代にもまだ残っている。総人口は700万とも、300万を 下回らないとも言われている) E Papyrus Wilbour(ウィルボウ・パピルス) 前1140年夏の地籍の管理記録。農地の人口などがわかるらしい(こ ちらにPapyrus Wilbour を利用した研究の論考があるが、農地の人口の具体的な記載はなさそう) F タキトゥス『年代記』(岩波文庫(上)(p146/2-60節)に、ゲルマニクスが、エジプトのテーベを訪れた折、 現地聖職者に読ませた碑文に「かつては、戦える年齢の住民が70万人もいた。ラムセス王は(中略)まで支配下に収めた」 と記載されています。女性子供老人人口を成年人口の2倍とすると、210万人という数字が出てきます。 G 2世紀のプトレマイオス『地理学』では、エジプトに168の町を記載していて、ローマ帝国の他の地域の推計人口とプ トレマイオス記載の都市数から推定される、1町あたり後背地含めた人口2万を適用すると、約340万になります(プトレ マオイス『地理学』に登場する都市数と人口数の関係については、こちらの「プトレマイオス『地理学』に記載された 町と地名数の集計値」の記事をご参照ください)。 3.フィールド調査(1)上エジプト Karl W.Butzer(ブッツェル/1934-)という環境考古学者の1976年の著作に『Early Hydrauloc Civilization in Egypt - a Study in Cultural Ecology (The University of Chicago Press 1976/エジプトにおける初期水利文明』というものがあり、このpdfのp90-91(論文の頁で74-75頁)に掲載されている上エジプトにおける集 落の数や耕地面積・人口等の一覧表(表3)が、古谷野氏の著作p73に引用されています。この表は、2000年間に渡る ものだという点注意が必要との著者(ブッツェル)の注釈があります。第六王朝が言及されているので、古王国時代の前 2500年くらいから、アケメネス朝征服前の末期王朝時代までの2000年間か、或いは初期王朝時代の前3000年から 新王国までの2000年間のことかも知れません。いづれにしても、2000年間のうちに衰退したり、移住があったりした 土地が、すべてサマライズされたデータとなっている点に注意が必要とのことです。その前提で内容を見てみると、上エジプ ト22のノモスの合計推計人口は105万人、州面積合計8056km2、人口密度は平均130人/Km2(小谷野本 p73もButzerの引用元も168人/km2となっているが、これは誤りだと思われる)となっている(現行カイロか らアスワンまで982km、ナイル 渓谷の幅22km=約20000km2となるので、約40%が農地・集落だったことになる)。 一方、p99の、前4000年から前150年の人口一覧表(表4:古谷野本ではp90の表)では、前2500年の人口 密度が130人/km2、人口104万となっていて、表3の数値は、前2500年に適用されています。そうして、表で は、2500年の130人/km2を境に、それ以前は、より人口密度が低く、人口も少なく、それ以降はより人口密度が高 く、人口も多くなっています。この想定の根拠は後ほど検討することとして、取り合えずフィールド調査により、上エジプト では概ね100万人程度の人口があったと推定してよさそうです。 4.フィールド調査(2)下エジプト 一方、下ナイル(ナイルデルタ地帯)は、22,000 km2で、うち現在の耕地は15000km2である が、古代の耕地面積は、上エジプトと異なり、調査が進んでいないとのこと。その理由は @ 上ナイルの渓谷地帯と比べて、都市化が遅れ、集落が広く散在していた。古王国時代の都市はまだ(メンフィス以外)発 見されておらず、集落中心に農地と人口を割り出す方法では難しい(Butzer(1976)p94によれば、中王国時代 末までには、35の町が、遺跡と碑文で確認でき、古王国時代は、デルタ地帯の北1/3は無住地帯だった、としている)。 Aナイルの堆積土は10mにも及び、ナイルの流路変動も激しく、ノモスの領域も時代毎に変動が大きいため、集落階層の研 究は殆ど行なわれていない つまり、上エジプトにおける人口変動幅を推定すること以上に、下エジプトにおける農地・集落面積の推定値が、古代エジ プト総人口の大きな決定要因となっていることになります。 エドフの神殿文書は前237-前57年なので、文書に従ってプトレマイオス朝時代の耕地面積が24600km2だとし て、そこからフィールド調査で推定された上エジプトの面積8056km2を差し引くと16544km2となり、現在の耕 地15000km2に近い値となります。上エジプトと同じ人口密度130人/km2を想定すると、215万人となりま す。この数値、耕地面積・人口密度・人口とも、Butzer(1976)の表4(p99)の前150年の下エジプトの数 値と一致しています。Butzerの表では、下エジプト、上エジプト、ファイユーム地区、砂漠地区(農耕地は無し)の 4つの列があり、ファイユームにも農耕地はあり、前150年の人口は31万と見積もられていて、これを加算すると、 236万人となります(ブッツェルは、ラッ セルの研究の紹介部分(p92/pdfのp108)でエドフ神殿文書の数値に言及しています)。 これで一応、プトレマイオス朝時代には、320万人の人口はあったと考えてもよさそうです。取り合えず、この 値は基準となる値と考えて良さそうです。 上エジプト(前2500年) 104万 + 下エジプト(前150年頃) 215万 = 合計 320万 5.時代毎の増減値の推計 5−1 前150年以前の下エジプトの推計 下エジプトは、上述したように、フィールド調査が困難な地域とのことですが、古王国
時代の都市遺構が発見されていないなど、上エジプトに比べて都市化が遅れたのは明らかなようで、人口密度は上エジプトよ
りも低いことも概ね確かなようです。そこで、下エジプトの人口は、前150年の215万が最大で、それ以前の時代は、耕
地面積・人口・人口密度とも、前215年よりも低い値が推計されています。
古谷野(1998)p91によると、ラムセス時代(記載はないが2世のことだと思われます)、下エジプトに11の都市 が建 設されたそうです。ブッツェルの表3によれば、上エジプトの都市は17(ノモスの数は22なので、都市を持たないノモス もあったことになる)なので、単純計算で上エジプトの人口の11/17が下エジプトの人口という計算は一応できます。 ブッツェルの 表4のラムセス時代(前1250年)の上エジプトの人口は、162万なので、11/17は104万となり、表3に唯一記 載されている下エジプトのデータである都メンフィスの推計人口7万6千人を加算すると、約113万人となり、表記載の 前1250年の下エジプトの推計値117万に近い値となります(つまり、ラムセス二世時代の上下エジプト合計は275 万)。 一方、ノモスの数に着目すると、新王国時代に下エジプトでは4つのノモスが新設され、16→20州となりました(古谷 野p65)。前1250年の20のノモスが、中王国時代16だったとすると、単純計算で、117万の16/20で 93.6万人という数値が得られます。だたしその直後に、第18王朝で17番目、第22王朝(945-715年)で 18-20番目の州が追加されたと書かれているので、16-20への増加を新王国時代とすると、プトレマイオス朝時代の人口 215*16/20で、172万人となり、ブッツェルの新王国時代の下エジプトの推計値117万とはだいぶ開きが出ま す。 ブッツェル(1976)には、上記以上の具体的な数値の根拠となる議論はありません。遺跡の少なさや、発掘された動物 の骨の 遺物や、王が、町を建設するよう命じた記録、果樹園や狩猟園があり、牧畜が広く行なわれていた記録などから、上エジプト に比べれば人口密度が低く、人口の集中する町が少ない、という景観が考えられ、同時期の上エジプトと比べて人口が少な かったということはだいたい明らかであることから、推計人口を算出しているように思えます。 ブッツェルの出している下エジプトの数値は以下の通り。 前4000年(8万)、前3000年(21万)、前2500年(54万)、前1800年(75万)、前1250年(117 万)、前150年(216万) このうち、史料と推測で算出できている部分は太字の部分だけで、残りは、約1000年間で人口が倍増する、ただし、古 王国時代のように、急激に増加したと思われる時代では500年間で倍増する、というような推測で数字を出しているような 印象を受けました。 本記事ではローマ時代の人口推計の史料とロジックを知ることが目的なので、前1800年以前の下エジプトの数字の根拠 の調査はひとまず切り上げたいと思います。 5-2 前2500年以外の上エジプトの推計 ブッツェル(p82)は、前4000年の人口を、ナイル川の氾濫が覆う平原の75%が利用されていた、と仮定し て、24万人の人口を推定しています。古代ギリシアの事例では、土地の65-80%(平均75%)が、未耕作地で(耕作 地は25%となる)、その人口密度は10人/km2であることに因んで、エジプトの場合、75%(古代ギリシアの耕作地 の3倍)と仮定すると、人口密度も三倍となり、30人/km2が推定され、前4000年の上エジプトの人口を25万人と 仮定しています。これは仮定であって、推計では無いのですが、表やグラフに加工されてゆくうちに、推計となっていってし まっているようです。 初期王朝時代に入り、灌漑農業で生産性が50%増加した(50%の根拠無し。年率0.08%の増加率を想定している (500年間で1.5倍、1000年間で2.25倍))したので、前3000年に倍の人口を想定(60万)し、古王国時 代には更に短期間で倍となり、前2500年のフィールド調査の結果値104万に到達した、としています。新王国時代に入 り、 揚水灌漑(lift irrigation)が導入され、前1250年の160万、前150年の240万を達成した、としていますが、想定だけで、数字の根拠は記載されていま せん。 5-3 500年以降の推計値 参考のために、500年から近代にかけての人口推計も検討してみます。 5-3-1 近代の人口調査 1882年の人口調査数値は、Wikipediaのエジプトの人口調査の項目には670万とあります。こ ちらの論文(日本人の学者が英語で書いてます)には、詳細な各地域毎の一覧表があります。総計は680万人 となっているのに、一覧表の総計は580万である点の理由が(ちゃんと読んでいないので)不明ですが、調査内容の詳細 がわかるので参考になります。コリン・マックエベデイー前傾書p136には、ナポレオンがエジプト侵攻した時の見積もり (1799年)では250万人だったとのことです。 5-3-2 イスラム時代の人口調査 イスラム時代のエジプト人口推計についてはコリン・マックエベデイーの書籍に記載は無く、『イスラム世界』1985年 1月の23・24号に掲載されている「エジプトにおけるアラビア語の歴史」(池田修)のp6に以下の記載を見つけまし た。 「'al-Balādhurī(futūḥ 'al-budān)では、征服時のエジプトの Kharājは200万ディー ナールであったとしている。これは女、子供、老人を除いて、人頭税(ジズヤ)を課した人口が(1人あたり2ディー ナール)100万人であったことを物語る。Ibn 'abd 'aḥakam(futūḥ miṣr) ではジズヤ課税人口は600万となっており、'As-suyūṭī(ḥusn 'al-muḥāḍara)でもこれに従っている。 'Al-maqrīzī('al- Khiṭaṭ)で はジズヤ課税人口は800万となっている。これらを参考にしても、当時のコプトの人口は少なく みつもっても700万は下らなかったものと推定される」 とあります。 この人口の示す時代や地域の範囲などが不明確なので、これらの数字は精査する必要がありますが、一応の目安とは なりそうです。 6.古代ローマ時代の人口 確度の高そうなフィールド調査の数値は、プトレマイオス時代の320万という数字で、後は、ヨセフスやディオドロス記 載の数値、300-750万人や、初期イスラーム時代の7,800万、1799年の推計値250万と1882年の人口調 査の 値670万です。現在のエジプトの人口推計研究では、これらの数値の間に、古代ローマ時 代以降19世紀に至るエジプトの人口を置く、というロジックのようです。社会が安定し、繁栄していたと考えられる帝政ローマ開始時期は、300と700万 の間の500万に置く、という考え方なのではないかと推測する次第です。Bruce Frierの紀元14年の推定値430万は、上下エジプトの人口を同じくらいと見て、比較的固そうな値を採用した、という印象を持ちました。 以下は、ブッツエル(1976)のp85に掲載されている先史時代から紀元1000年までの人口グラフです。下の濃い 破線が上エジプトの人口数、上の薄い線が、上下エジプトの合算値です。プトレマイオス朝時代から帝政前期にかけて人口が ピークとして描かれています。 7.Bruce Frierの推計内容 Bruce W Frier(ブルース・フライ)とRoger S.Bangallの共著『The Demography of Roman Egypt』(1994)の第三章「世帯」の第一節エジプトの人口p53-57にて推計があります。おおよそ以下の内容です。 7-1.ディオドロス・シクルスが300万人、ヨセフスはアレキサンドリアを除いて750万人と記載していて(両方とも出典は上 述)が、統計値などに基づ いているわけではない。 7-2.推計は三要素に分解できる。アレキサンドリア、ノモス(州)の首都、農村地帯人口 7-3.アレキサンドリアは、ディオドロスによれば前59年30万人、Diana Deliaの推計(1989年)によれば5-60万人。都市全体で1250ヘクタールで、400人/Ha。複数階の建築物と城壁内が825Haあると仮 定すると、50万くらいになる。 7-4.ノモスの都(合計40)。Rathbone(1990)は50万程度としている。3世紀のパピルスは、ヘルモポリスの4 つの市区のうちの2つの地区には4200件の家があるとしている。残りの2地区がもう少し少ないとしても、合計で7000世帯を 想定可能。ただし、この家を一件の建物とみるか、1世帯と見るかで推計人口は変る。1世帯あたり5.3人と仮定す ると37000人、ヘルモポリスは120ヘクタールなので、300人/Haとなる。これは18世紀のアレッポに近い。平均的ノモ スのサイズを100haとすると人口は25000人。ノモスは40あるとされているが、下デジプトではノモス以外の都市もあり、 Deltaの30という数にちなんで、合計50の都市と想定する。結果、ノモス人口は125万人となる。 7-5.農村地帯。農村の数をディオドロスの記述から、2000-3000と想定する。それぞれ1000-1500名とすると、 300万人となる。 7-6.アレキサンドリア(50)+ノモス(125)+農村(300)=475万人となる。だいたい400-500万人程度と考 えて良さそう。 以下、発見された戸籍史料の所在地の話があり(アレキサンドリア0、ノモス149(うちアルシノエが86)、農村151(うちア ルシノエ近郊98)など、出土地の内訳数が紹介され、個別の世帯構成の分析に向かっています。 これで論証となっているのか?という論点がありますが、すこしは具体的になってはいるようではあります。個人的には、農村数を 3000とする数値が文献史料に基づいているようなので、考古学発掘等から推定される値や、近代直前の農村数との比較等でより絞 り込めば、更に妥当性の高い値が得られるものと考える次第です。 以上のように、人口推計部分は書籍のごく一部であって、『The Demography of Roman Egypt』(1994)は、エジプトで出土したパキルスの戸籍史料の内容が具体的に掲載されて当時の世帯が検討されているので、ローマ時代のエジプトの 地方都市と農村の、具体的な世帯構成のサンプルを知る資料書籍として有用です。 関連記事 ウマイヤ朝・アッバース朝時代のエジプトの人 口推計 |