ウマイヤ朝・アッバース朝時代のエジプトの人口推計



【1】
国家歳入額と人頭税割合から推定される人口


 森本公誠『初期イスラム時代 エジプト税制の研究』のp259に、発掘されたパピルス文書に記載された9世紀後半のエジプトの 三つの県の徴税割合表があります。以下は、その表を簡略化し、数値は端数を切り捨ています。

県名

地租
人頭税
その他
合計
Kufūr
税額
1152
880
1112
3144
割合
36.6%
27.9%
35.4%
100%
Qūṣ 税額 793
110
462
1365
割合 58.1%
8.1%
33.8%
100%
Maysāra
税額 188
571
900
1659
割合 11.3%
34.4%
54.2%
100%
合計
税額 2134
1561
2474
6169
割合 34.6%
25.3%
40%
100%

表1.9世紀後半の3県の徴税分野割合。税額の単位はディナール

 概ね租税の1/3が地租で、1/4が人頭税となっています。これを、国家歳入額に適 用すると、人頭税の総税額が算出されます。下層民の場合1人あたり1ディナール(前傾書p212)となり、人頭税は成人 男 子のみにかかることから、人頭税課税対象人口を3倍(女性・子供含めて)して、人口を算出します。

年代
税収 総額
人頭税人口
総人 口
ウマイヤ朝時代
272万ディナール
68.8万人
206万
ラーシド時代*1
192万ディナール
48.5万人
145万
ラーシド時代
218万ディナール
55.2万人
165万
ヒジュラ暦 3世紀前半
250万ディナール
63.2万人
189.8万
マームーン時代(813-833年)
450万ディナール
113.9万人
342万
イブン・トゥールーン時代(868-884年)
430万ディナール
108.8万人
326万
フマーラワイフ時代(884-896年)
400万ディナール
101万人
303万
イフシード朝時代
327万ディナール
82.7万人
248万人
表2.税収総額の出典 森本公誠『初期イスラム時代 エジプト税制の研究』p274
(*1 のみイブン・ハルドゥーン『歴史序説』第1巻p460-468に登場する税収額)
人頭税人口と総人口は本記事における推計

 この表の数値を評価するには、三点留意点があります。

1.表1の県におけるアラブ人居住の有無

 表1に登場している県に、人頭税非課税のアラブ人が居住しているのか、それともアラブ人が一切いない県なのか不明ですが、取り 合えずこの県においては、アラブ人の構成の考察は除外します。

2.エジプト全土でのアラブ人人口

 エジプト全土では、特定の都市を中心にアラブ人が居住していましたから、総人口の何割かは人頭税対象外のアラブ人であった筈で す。それが1割か2割かは不明ですが、取り合えず1割居住しているとして、表2の値の一割り増しの数値をエジプト総人口と想定し ます。すると、概ね200万から300万人近い人口にあったと想定することができます。

3.アッバース時代前半以前と後半以降での人頭税の実態の相違

 『初期イスラム時代 エジプト税制の研究』の第一部「税制史編」では、イスラム帝国の有名なジズヤ(人頭税)とハラージュ(地 租)の概念の成立と実態を研究しています。森本氏によると、土地に課税する概念の無かった征服時代のアラブ人にとっては、地租と 人頭税の概念が明確ではなく(属人主義)、征服時代のジズヤとは、語義通りの人頭税ではなく、支配下のコプト人・ギリシア人に課 した”所得税=貢納”を表していたとのことです。それがウマイヤ朝からアッバース朝時代にかけて少しずつ、属地主義の意識が浸透 し、ジズヤ=人頭税、ハラージュ=地租の概念が明確になっていったとのことです。表1は、属地主義的課税が浸透してきた頃の課税 表なので、アッバース朝前半時以前になるほど、適合率が低下することになります。アッバース朝後半以降に比べると、前半以前の推 計値の数字のぶれが大きくなる点、注意が必要ですが、人口規模を想定するには、有用なデータとなるかと思われます。

4.国家歳入額に対するインフレの影響

 アッバース時代中期以降、国家財政が増大していますが、この理由は、人口増大と農業生産上昇だけではなく、貨幣発行数の増大に より貨幣価値が落ちて、額面が肥大化している可能性があります。この点は、地租に影響はしても、人頭税にはあまり影響しないかも 知れませんが、一応留意しておく必要があります。



【2】ユスティニアヌス時代の人口との整合性

 ピーター・ガーンジィ著『古代ギリシア・ローマの飢饉と食糧供給』p301に、ユスティニアヌス時代のエジプトの小麦年間総生 産額が「年間800万アルタバ、すなわち3600万モディウス」という数字が記載され、出典は、 Epitome,Caes.1,6;Justinian,Edict 13 となっています。一応ユスティニアヌス時代の出土碑文が出典のようです。この文章の前に「25万人の食糧として年間1200万モディウスが必要」との意味 の 文章があるので、3600万モディウスは、75万人分の食糧ということになります。穀物は、小麦だけでなく大麦も生産されていた ので、小麦だけで人口は計れません。しかし、単位面積あたりの(1フェッダーン)納税額が、小麦1/2アルデブ、大麦1/6アル デブとなっていることなどから、大麦の栽培量は小麦の1/3である可能性があります。取り合えず大麦も、小麦と同じ比率で人口を 養えるとすると、75万人の1/3の25万人が大麦分であり、合計100万人の人口がいたと推測できます。ただし、この時代にコ ンスタンティノープルに穀物が輸出されていた筈なので、総生産額の全てがエジプト人に渡っていたわけでは無いので、その分を差し 引かなくてはならないのですが、仮にコンスタンティノープルの10万人分の食料を輸出していたとなると、エジプト人口は90万人 ということになります。いづれにしてもこれらの数値は、上記ウ マイヤ朝時代の推計値200万余の半分しかありませんが、ありえないほどかけ離れている数値ではありません。もしかしたら、ユス ティニアヌス時代には疫病の流行などで人口が極度に減少していたのかも知れません。

 更に、森本前傾書p41-42に、征服期のアレキサンドリアの貢納金が2万2000ディナール、3万2957ディナールという 数字が出ていて、それ程大きな金額ではありません。紀元前後のアレキンドリア人口が30万、エジプト全土で300万以上の人口が あったと推定されていることからすれば、一人当たり2ディナールを徴収したとしても1-1.5万人分、一人当たり1ディナールで も2,3万人分にしかなりません。この点も、エジプト人口全体の衰退を連想させるものがあります。

 4,5世紀あたりのパピルス資料に基づいた人口推計資料があるかも知れないので、探してみたいと思う次第です。


【3】その他の記録

 『イスラム世界』1985年 1月の23・24号に掲載されている「エジプトにおけるアラビア語の歴史」(池田修)のp6に以下の記載があります。

 「'al-Balādhurī(futūḥ  'al-budān)では、征服時のエジプトの Kharājは200万ディー ナールであったとしている。これは女、子供、老人を除いて、人頭税(ジズヤ)を課した人口が(1人あたり2ディー ナール)100万人であったことを物語る。Ibn  'abd 'aḥakamfutūḥ  miṣr) ではジズヤ課税人口は600万となっており、'As-suyūṭī(ḥusn 'al-muāḍara)でもこれに従っている。 'Al-maqrīzī('al- Khia)で はジズヤ課税人口は800万となっている。これらを参考にしても、当時のコプトの人口は少なく みつもっても700万は下らなかったものと推定される」 とあります。

 森本前傾書p25-6にも「コプト人の男各人に2ディナールを課するという条件で和約を結んだ」「それによっ て彼らを数えたところ、その数は800万に達した」という史料や、p36では、「ヒジュラ暦20年(641 年)、アムルはアレキサンドリアとエジプトの全域を征服し、一人当たり1ディナールの率による彼らの頭の税と 100アルデブにつき2アルデブの率による穀物税として1400万ディナールを徴収した」とあり、人口、歳入額 とも、ありえそうもない程の数値が示されている史料があります。

【4】人口グラフ

 Karl W.Butzer(ブッツェル/1934-)という環境考古学者の1976年の著作に『Early Hydrauloc Civilization in Egypt - a Study in Cultural Ecology (The University of Chicago Press 1976/エジプトにおける初期水利文明』という著作があります。以下は、ブッツエル(1976) のp85に掲載されている先史時代から紀元1000年までの人口グラフです。下の濃い 破線が上エジプトの人口数、上の薄い線が、上下エジプトの合算値です。紀元500年から1000年の間は、300万から200万へと一貫して減少したもの として描かれています。



【5】19世紀の人口調査

 1882年の人口調査数値は、Wikipediaのエジプトの人口調査の項目には670万とあります。こ ちらの論文(日本人の学者が英語で書いてます)には、詳細な各地域毎の一覧表があります。総計は680万人 となっているのに、一覧表の総計は580万である点の理由が(ちゃんと読んでいないので)不明ですが、調査内容の詳細 がわかるので参考になります。コリン・マックエベディー(Colin McEvedy/1930-2005年)とリチャード・ジョーンズ(Richard Jones)の著作『Atlas of World Population History(1978年)』のp136には、ナポレオンがエジプト侵攻した 時の見積もり (1799年)は250万人だったとの記載があります。この数値は、この記事のウマイヤ朝・アッバース朝の推計値に近い値となっています。イスラム時代の エジ プトは、200-300万人の間あたりで人口の増減を繰り返していた可能性がありそうです。


□関連記事
 古代ローマ帝国の人口推計値の算定根拠(5)エジプト・ シリア

□参考資料
 ピーター・ガーンジィ 著『古代ギリシア・ローマの飢饉と食糧供給』白水社1998年
 森本公誠著『初期イス ラム時代 エジプト税制の研究』1975年岩波書店
 「エジプトにおけるアラビア語の歴史」(池田修)『イスラム世界』1985年 1月の23・24号
 Karl W.Butzer(ブッツェル)『Early Hydrauloc Civilization in Egypt - a Study in Cultural Ecology (The University of Chicago Press 1976/エジプトにおける初期水利文明』
 コリン・マックエベディー(Colin McEvedy/1930-2005年)とリチャード・ジョーンズ(Richard Jones)著『Atlas of World Population History(1978年)』
 イブン・ハルドゥーン『歴史序説』第1巻 森本公誠訳(2001年)



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