2003/10/18 created
2030/Apr/19 last updated(皇帝政府の発展)

古代ローマ帝国の人口・財政・官吏・役人などの各種データ


 ローマ帝国の行政はひとことで言えば「秩序維持と調整機構」に基本的に限られたといえるのではないでしょうか。帝国政府は極少数の官吏しか 持たず、殆ど の実務は民間に委託するか、地方都市にまかせてしまう。帝国政府が行うことは、地方都市で解決できなかった問題の裁定や、軍団を送り込む事態 (反乱、大災 害、外敵侵入)への対処であり、従って日常業務は軍団を維持する予算のための徴税と、裁判となっていたようである。現代で言えば、合衆国の上 院議員が日本 やフィリピンなどの長官として赴任し、日本やフィリピンは合衆国軍隊を支える税金を拠出する。また、戦争発生時には増援軍隊の維持費を拠出す る。また国内 で解決できない問題が発生した場合に、大統領に嘆願する、というシステムがローマ帝国の支配の実態に近いのではないでしょうか。更にはこのよ うな体制で は、おおまかな財政は試算できても、GDPの算出は困難ということになります。

【人口】
ロー マ市の 人口とローマ市民人口

ローマ人口  ローマ市民権所有者
前6世紀 13万

前5世紀 10万人

前4世紀 25万人

前3世紀 27万人

前2世紀 33万人

前1世紀 46万人
423万人
BC44年
市民25万計100万

紀元14年頃 100万人 493万人
2世紀 150万人
-「パピルスが伝えた文明」 p86より

 紀元14年以降ブリタニア、マウレタニア、トラキア、ダキアなどが獲得されている。しかし人口が稠密であったとは考え られない。大都市はアレクサンドリ ア、アンティオキア、カルタゴなど
 ローマ帝国 人口推計

 「古 代ローマを知る事典」によると、アウグストゥス治世末期の5400万という数字は過大であり、最近では4550 万程度と見積もられているとのこと。その後、人口は漸増し、紀元164年には6130万に達したとの研究があるとのこと。紀 元164年頃に最大人口に達した後、パルティア遠征で持ち帰った伝染病が人口に大きな打撃を与えたと考えられ、164年頃が 最大だとされているとのこと。 以下、人口推計の詳細です。

1.古代ローマ帝国の人口推定の算定根拠

(1)通説の根拠とイベリア半島(スペイン+ポルトガ ル)の推計値の算定根拠

(2)古代ローマ人口研究の概要とローマ時代のイタリ アとローマ市民の人口推計

(3)奴隷人口の推計

(4)帝政期の都市ローマの人口推計の算定根拠

(5)ローマ時代のエジプトの人口推計根拠:史料とロ ジック

(6)ローマ時代のシリアの人口統計根拠:史料と ロジック

(7)古代ローマ都市要覧史料『Curiosum urbis Romae』『Notitia urbis Romae』による都市ローマの人口推計

(8)ローマ時代のガリアの人口推計 その1  ベロッホ(1886年)のガリアの人口推計

(9)ローマ時代のガリアの人口推計 その2  ベロッホ(1889)の人口推計

(10)ローマ時代のガリアの人口推計 その3  ラッセル/マッケベディー/フライのガリアの人口推計と全体の所感

 「古代ローマを知る事典」では、平均寿命についても詳細に紹介されており、墓の碑文や墓の遺骨などの研究によると  男は20代前半、女性でも25歳くらいが平均年齢だったと考えられるとのこと。ただしこの数字は、30%程度と見積もら れる乳児死亡率を含んでの話であって、15歳まで育った後の平均余命で考えると、、男は32年、女は34年くらいの余命 があり、死亡率の高い少年期を過ぎれば、大半が40代後半まで生きることができた模様。死亡率は高かった為、人口を維持 するには、女性1人あたり5名程度の出産が必要で、上流社会の女性程、少子または、子無しという傾向だったらしい(貧乏 子沢山、あるいは高学歴程少子化となるのと同じ傾向に思えます)。因みに、この「余命表」は、0歳から80歳くらいまで 5歳刻みで作成されており、非常に詳細な資料となっています。


□地理認識

東海大学出版会中務哲郎訳「プトレマイオス地理学」(1986 年)の特徴
「プトレマイオス地理学」(1986年刊)とストラボン (1994年刊)とプリニウ ス(1986年刊)との比較
プトレマイオス『地理学』に記載された町と地名数の集計値

 

【財政:税収】

 

 

 

□歳入

共和制末期の徴税(以下1と2は、長谷川博隆『古代ローマの政治と社会』2001年、名古屋大学 出版会、p168,242-265を参考にしました)
1.全体
 @イタリアの公共、公有地への課税
 Aローマ市民からの負担金
 B属州 (負担金、人頭税、土地税(十分の一税、定額税、放牧地への課税)
 C間接税(関税)
 D特別国家収入(専売(塩、鉱山)、相続税、奴隷解放税、戦利品、罰金)
 (CとDは属州にも存在する)

2.属州
2−1.都市ローマへの納税:徴税概要
2−1−1.

 属州の土地は都市単位に区分される。即ち、植民市(ローマ市民権都市)、自由免税都市(同盟市、自由免税都市)、その他の都市 (ケンソル都市、定額税(または十分の一税)都市)。前二者は非課税。厳密に属州の土地といえるのは、「その他の都市」であり、 そ れは公有地を有するケンソル都市と、私有地を有する定額税(または十分の一税)都市に分かれる。ケンソル都市の公有地は、地租と 地代が徴収され、定額税(または十分の一税)都市は地租を徴収される。しかし、帝国各地で整然とした統一規則で運用されていたわ けではなく、征服地の属州化の過程でなし崩しに適用されていったと考えられる(ローマの同盟者は貢納から自由、征服された地域は 公有地と化し、降伏した地域は貢納を支払う(シチリア、ペルガモン、シリアは、現地税制を流用し、アフリカ、ヒスパニアは降伏時 の貢納(賠償金)が定期税化してゆく)。

2−2.都市ローマへの納税:定額税と十分の一税分布
 十分の一税(シチリア、サルディニア、アシア)、定額税(ヒスパニア、マケドニア、ガリア)、両方(アフリカ)、不明(ビテュ ニア、キリキア、シリア)
 ただし定額税属州でも公有地は十分の一税を払っている例(アフリカ)がある。
2−3.人にかかる税
 財産税(ギリシア語圏のみに見られる)、人頭税(アフリカ、キリキア、アシア等、自由人も対象とされた)
 
3.地方都市における納税
 都市参事会員から選出された租税徴収役人(susceptores浦野1994p230)が徴収。

4.帝政後期の徴税
 ユガティオ(人頭税)・カピタティオ(地租)税制が全土に導入されたと考えられているが、実態は全国均一内容であったのか、議 論がある。
後 期ロ-マ帝国における負担munera免除特権をめぐって」『史苑』巻 56号 2、pp20-47、1996年3、浦野聡 p45の註32によれば、帝政後期には、4ヶ月おきに3度に分け て都市ごとに徴税されていた、とある。出典はJones ,1964とあるが、Jonesの出典は未確認。
  
5.その他雑記
 ローマ市民は間接税のみ、非市民は直接税。ただし税率は属州毎に相違する。征服前の 税率に準じているため。課税対象も収穫、農地面積、資産などばらばら。徴税の責任者は各属州の財務官だが、実際の徴税は(共和制末期から帝政前期は)徴税 請負 人という民間業者または都 市に委託。 税率は固定。ローマ市民には5%の相続税。
 帝国財政は皇帝の私財と公共財の区分は無かったため、皇帝の家宰がそのまま国家管財人になっていった。

 ガリアとエジプトの税収合計7000万との情報がある。この場 合、ガリアとエジプト人 口合計は約1000万人なので、税金は年間たったの7セステルティウスということになる。実際には奴隷などは除外されたた め、奴隷人口を30%(属州では もっと低かったかも知れない)としても、10セステルティウス(約3300円)程度にしかならない。しかし、税金は帝国政府 だけではなく、各地方都市の運 用のためにも徴収された筈なので、実際にはもっと高額だったと推測される。
 また、ガリア+エジプト合計で7000万とすると、税率が各地方で異なっているとは言え、単純計算で全帝国でも4億セステ ルティにしかならず、これだと 歳出の半分にしかならない。アウグストゥス時代20年間で14億の遺産寄贈をうけており、年額平均7000万となり、これを 含めると5億程度。残りの税収 をローマ市民の間接税、港湾税、戦勝略奪品等でまかなっていたのだろうか?(「古代ローマを知る事典」によると、税収はGDPの6-8%程度だったとのこ と)。


          □歳出


14年頃
86年頃
150年頃
211年頃
軍団費
2億4705万
4億40万
6億4300万
6億6060万
文官費


7500万

貧民救済費


4400万

建築費


2000万

その他


5000万

合計


8億3200万

*1セステルティウス=330円と仮定すると、150年頃の歳出は2745億6000万程度にしかならない。


【行政】

総督1名、財務官1名、総督副官数名(アシア3名、キプロス1名など)、 軍団司令官1 名、管区司法官1名など数名程度。また、属州官吏は複数の属州をかけもちしていることが普通。これは現代日本の税務署の管轄地域と市町村 管轄地域が異なる ことを考えると理解しやすいかも。
  その他官職(数字は1世紀末)
    元老院官職
財務官 20名
護民官 10名
造営官 6名
法務官 17名
法務官級官職
   軍資金管理委員  3名
   国庫管理委員    2名
   幕僚
   軍団長                  27名
   2級元首属州総督 8名、副官 14名 
   2級元老院属州総督 9名、管区司法官 3名
   国道管理委員
   公共建築管理委員  (2名)
   穀物配給官               4名
執政官 2名 補充執政官 6名
   河水溝管理委員     1名
   水道管理委員      1名
   首都警備長官(ローマ市長官)
   1級元首属州総督    9名
   1級元老院属州総督  2名
   公共建築管理委員   2名
   ※更に5年毎に選出される戸口調査官(ケンソル)がいた。
     騎士官職
近衛隊長官  2名
穀物供給長官 1名
消防隊長官   1名
皇帝属州総督  12名、 財務官 16名
元老院属州 皇帝領管理官 10名
属州エジプト官吏 総督1、司法官1、財務官1、郡官吏官 3、軍団司令官 3名、
艦隊長官  9名
イタリア地域国家輸送管理官 1名
財務官 数名
文書局長 1、渉外局長 1、財務局長 1名

   吏員(アパリトーレス) 書記、先導警吏(リクトル)、使丁、触れ役の4種類。
     中でも書記が実務担当官吏であった。しかしこれも各属州に数名程度であったらしい。
 
   その他、イタリア内地方行政に街道監督官や司法官などが各地区に数名づつ。

□帝政前期から後期への移行

 帝政期は、都市ローマの役職、属州総督官房の役職、地方都市の役職の3点に、段階的に皇帝配下の吏員が派遣されるようになり、漸進的に帝国 政府が成立していった。

 都市ローマにおいて、消防隊がローマ市の組織から、皇帝直轄に段階的に移行。
 ローマ市区は14のレギオと265のウィクスに区分され、レギオに皇帝直轄の「都市監督官」が出現する。
 4世紀には、各レギオあたり2名の監督官と48名のウィクス長(「帝政期都市ローマにおける消防活動と社会的地位 : 消防隊とウィクス」本間俊行、2007年、p14)
 やがて地方においても、トラヤヌス時代以降都市監督官が派遣されるようになる。一般行政における皇帝直轄組織が段階的に拡大した。
 属州総督の総督官房(オフィキウム)では、前58年ガビニウス法以前はローマの公職者の下僚がそのまま属州総督官房を構成していたが、前 58年以降軍団兵士がキャリアの一時に入局するようになり、アウグストゥス以降皇帝属州でも同様に続くが、トラヤヌス時代に増員され、ハドリ アヌス時代以降恒久職となり、運用上軍団キャリアとは切り離された(柴田2004年)。元老院属州では従来通りの下僚や、プロクラトルの吏員 が官房を構成した。皇帝属州官房の吏員は3世紀後半からは制度上でも軍団から分離した。

□皇帝政府の発展
 初期元首政時期から既に皇帝の友人から構成される皇帝諮問会議があった。皇帝の勅令を記載したり翻訳したりする皇帝官房(主に解放奴隷から 構成される)が拡大し、やがて官庁化してゆく。ただしこのあたりの情報は多くはない(クセジュ文庫『ビザンツ帝国史』(ポール・ルメルル、 1943年初版1998年13版の邦訳2009年)のp36には、「ハドリアヌス時代から受け継がれていた四つの大きな業務」とあり、ハドリ アヌス時代に四つの大きな業務が皇帝官房にある、と記載されている。この四つの業務は、クセジュ文庫『ハドリアヌス帝』p64では、学事担当 官(ア・ストゥデイイス)、司書担当官(ア・ビブリオテキス)、ギリシア語・ラテン語書簡担当官(アビ・エビストウリス・グエアエキス・エ ト・ラテイニス)、陳情・戸口調査担当官(ア・リペツリス・エト・ケンシプス)とされている。この業務が、ディオクレティアヌス時代に成立し た官房長官に統合され、官庁化したと考えられる。ハドリアヌス時代の改革についての詳細は上記『ハドリアヌス帝』に記載されているが、前掲ル メルル著p32では端的に以下のように記載されている。
「軍隊の募兵が地方ごとに行われるようになったこと、皇帝顧問会議や帝国の官庁が組織化されたこと、イタリアの行政権が元老院から取り上げら れたこと、少なくとも騎士階級のために、職務と給与と職名の序列が設けられたこと」

□帝国官僚数【2】帝国晩期(5世紀初頭)2000名程度かそれ以上
 出典は、5世紀初の官職表ノティティア・ディグニタートゥム(Notitia Dignitatum)。
 2000名近いという数字は、こ ちらのサイトに掲載されているノティティア・ディグニタートゥムの行をコピーして表計算ソフトで行数を測定したもの。行には属州 名も含まれているので実際の官職は表の行数よりも少ない(2000名以下)値となるが、現存史料には欠損部もあるとのことなので、2000名 以上かも知れない。いずれにしても帝政初期よりは増加していると言えそう。
  ディオクレティアヌス改革で属州はそれまでの50から倍の100に増加し、属州は数個ごとに合計12の管区という
  上級州に管轄されるように変更された。コンスタンティヌス時代以降管区は道という上級州に管轄されるようになった。
   
  4道−12管区−100属州

  道には道長官、管区には管区長官、属州には属州総督がいて、文官化した。それぞれ100人程度の官房を持っていたと
  考えられている。ただし、道長官、管区長官、属州総督の階層は整然と機能したわけではなく、任官した個人の力量
  により上長を押しのけて皇帝と直結するようなケースも多数見られた。

□帝国官僚による行政は裁判中心であり、警察機構もなし。立法は元老院、皇帝が行う。皇帝の日常業務も裁判が殆ど。治安は反乱や外敵などよほ ど大きな問題 についてだけ、軍団が出動する。日常の治安は対象外。

□地方行政
  1)地方都市
政務官、民会、都市参事会が担当。 全部無給。都市財政は基本的に名望家 の寄付、地域の地代、間接税、臨時の徴収によっ て運営。
政務官- 二人官(執政官)2名、造営官2名、財務官2名
 (二人官の上に5年毎に選出される戸口調査官がいた。これを五年毎の二人官という)
都市参事会 -政務官経験者からなる。数十名-100名程度。
民会 -市民会 しかし事実上都市参事会に従っていた。
治安、行政実務は事実上地方都市参事会が担った。

その他参事会の業務 : 穀物供給の管理、下水道維持、公共施設と道路の管理、公共浴場の燃料確保、建設活動規制、度量衡の統一
資産家の責務: 宗教行事、記念の祝祭、競技会、剣闘士競技の主催
対ローマへの責務:人頭税・財産税などの租税の納付、労働力の提供、兵士の供給

  2)属州会議
    属州の都市代表者が年に一度主要都市で会合
  3)都市監督官(Curator rei publicae、クラトール・キウィタティス)
    トラヤヌス時代から部分的に存在し、次第に帝国全土に広まりだした。都市財政を担当。
    ディオクレティアヌス改革以降帝国官僚の地方都市担当役人とされたという従来説に対し、
    近年では都市側の役職との説も出ているとのこと。*1
  4)下僚(アパリトレス)
    ラテン語圏の地方都市の二人官には、以下の下僚(下級役人:給与取得者)がいた。
    -先導警吏2名、随員1名、書記2名、執達吏2名、文書役1名、布告吏1名、腸占師1名、笛吹き1名、4名の公有奴隷
    地方都市の造営官の下僚には、書記1名、布告吏1名、腸占吏1名、笛吹き1名、4名の公有奴隷がいた。
    首都ローマの公職者の下僚にもこのくらいの人数がいたかも知れない。
  5)デフェンソル・キウィタティス(都市の保護者)
    4世紀初頭から登場し、4世紀後半以降帝国東西に広まった、都市側にたって置かれた都市の監察的業務を行う官吏。帝国政府側の都市管 理行政の監査・司法裁定等を行う。5-6世紀に全盛。元小規模属州総督級の職務であり、高級官僚に属す。故郷に引退した元高級官僚や法律家等 が都市参事会や司教等の選挙によって任命された模様(浦野1994、p236)。(ギリシア語でシュンディコスというらしい)。6世紀には都 市の最高職となったとも考えられる。

□監査
 基本的に監査機能というものは無かった。この為、帝国官吏、および地方行政での不正を監督することが出来ないので、不正を蒙った者が司法官 なり、総督な り、皇帝なりに嘆願しなくては泣き寝入りするだけだった。この為、必然的に皇帝・役人の業務は訴訟が多くなった。4世紀頃から監査官に近いデフェンソル職 が地方諸都市に広まった。

□帝政ローマ時代の属州の行政区画 ( 帝政ローマとビザンツ帝国の各属州一覧表

*1 飯坂晃治「ロー マ初期における都市監督官 curator rei publicaeとイタリア都市」p54によると、コンスタンティヌス時代 に都市政務官の最高官に(二人官の上)位置づけられ、都市参事会メンバーから、都市公職者キャリアの最後に選出される職務となったとのこと。

【軍隊】

              
□ 軍団構成(1世紀末)
               歩兵5000〜6000名、騎兵120名
               軍団=10個大隊=30個中隊=60個百人隊+補助軍団(属州民兵、25年勤務後に市民権獲得。軍団とほぼ同数)
              指揮系統

            総督-軍団長-副官-首位百人隊長-百人隊長
       
       
帝政初期は皇帝属州総督が軍団を指揮したが、帝政後期(コンスタンティヌス以降)は軍団は総督とは別系統と なった。
        4つの道ごとに軍団司令官(マギステル・ミリトゥム)と、その配下の騎兵長官、歩兵長官の元に実働部隊が配置された。       

              
□ 構成人数と経費


14年頃/年収
86年頃/年収
211年頃/年収
正規兵(平均5000人)
25軍団(12万5千人)/900
30軍団(15万人)/1200
33軍団(16万5千人)/1800
近衛兵
4500人/3000
4500人/4000 9000人/6000
首都警備隊
1500人/1500
2000人/2000
4000人/3000
消防隊
7000人/900
7000人/1200 7000人/1800
補助軍団
15万人/750
19万人/1000
19万人/1500
総計
28万8000人/2億4705万 35万3500人/4億40万 37万5000人/6億6060万
-「ローマ帝国愚帝列伝」p36による試算例

5世紀初頭の官職表「Notitia Dignitatum」によると、約51万から55万。こ ちらのサイトのNotitia Dignitatumでは55万4千人。Warren Treadgold著「Byzantium and Its Army: 284-1081」のp55には以下の表が掲載されて いる。

Reference エジプトとアジア
バルカン半島
東ローマ帝国(312年)
西ローマ帝国(312年)
Scholae,transfer
合計
235年(推定)
132,000
121,000
253,000
132,000
-
385,000
ゾシムス*
165,000
130,000
295,000
286,000
-
581,000
Notitia
171,500
149,000
320,500
145,500
48,000
514,500

*ゾシムズは5世紀の歴史家。「新しい歴史(Historia Nea)」という史書を残した。

-参考資料

 「パピルスが伝 えた文明」 箕輪成男 出版ニュース社

 「文明の人口 史」 湯浅 赳男 新評論

 「ローマ帝国愚 帝列伝」新保 良明  講談社

 「年代記」 タ キトゥス 岩波文庫

 「古代ローマを 知る事典」 長谷川 岳男 、樋脇 博敏  東京堂出版

 「ローマ帝国  A very short introduction The Roman Empire」 クリストファー・ケリー岩波書店

 「古代ローマの 帝国官僚と行政:小さな政府と都市 (MINERVA西洋史ライブラリー)」新保良明著、ミネルヴァ書房

 「古代ローマの 政治と社会」長谷川博隆、2001年、名古屋大学出版会
 Notitia Dignitatum(5世紀初頭の帝国官職表)
 Warren Treadgold著「Byzantium and Its Army: 284-1081」
ローマ帝政前期における諸都市の書 記(scribae)」 西洋史論集 (12), 1-26, 2009 北海道大学大学院文学研究科西洋史研究室

ロー マ帝政前期における下僚(apparitores)と都市社会 : オスティアの事例を中心に」西洋古典学研究、2009 年 57 巻 p. 78-87
「後期ローマ帝国におけるデフェンソル・キウィタティス」浦野聡、『支配における正義と不正 : ギリシアとローマの場合』平田隆一, 松本宣郎 共編、南窓社、1994年


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