【1】資史料と研究状況
以前ローマ帝国の人口推計についていくつかの記事を書いた時(こちら)
に、ガリアはもっと少ないのではないか、との感触を持ちました。そこで人口出典根拠が詳しく知りたい、と思っていまし
た。最近井上文則著『シルクロードと
ローマ帝国の興亡』にガリアは250万人とあるのを読み、この機会にかなり本腰を入れて調べてみました。そ
の結果わかったことは、どうやら19世紀のベロッホ以来その後の研究はあまり進展していないようだ、ということがわかり
ました。ベロッホの著作はドイツ語版のみしかなく、英訳はなく、ベロッホの論証概要をまとめた英語論文も見つかりません
でした(こちらは探索が甘いだけかも知れません)。そこで良い機会なのでベロッホの著作のガリアの章を翻訳ソフトにかけ
て英訳し、読んでみました。
その結果、いろいろなことがわかりました。この、いろいろなこと、というのはマニアックな話が殆どであって、
多くの人にとっての興味の対象である情報は、非常に簡単です。ガリア人口の推計について、
資料:ベロッホの1886年の書籍と1899年の論文
史料:『ガリア戦記』 以上、終わり。
ということがわかりました。フランスは先進国で、19世紀は地方の開発も進んでいて遺跡の発掘や調査がなされていた 筈なので、もっと遺跡情報などを加味した人口研究があるかと思ったのですが、結局『ガリア戦記』とベロッホだけのよ うだ、というのが調べた結果の印象です。とはいえ詳細については、大変複雑です。というのも、後世の学者や著述家が ベロッホを継承してガリア人口の研究を深化させていて、結構多くの著作が、ベロッホ1886年の方の数値を引用して いるわけですが、1899年の論文 でだいぶ細かい部分で変更があるからです。今回、かなり労力を要してしまいましたので、3−4回に分けて調べた内容を記載したいと思います。今回は、以下 の@-Bの部分です。 @ガリア人口が大きいと推計されてきた状況証拠
Aガリア人口が少ない、という可能性 B研究状況と資料探索 Cベロッホの1886年の著作 Dベロッホ1899年の論文 Eラッセル/マッケベディー/フライの推計概要と250万人の可能性の検討 @
ガリア人口が大きいと推計されてきた状況証拠
ガリア人口は、通常大きいと思われてきました。これには確度の高い論拠がいくつかあります(この部分については掲載資料 のみ記載し、史料までは調べていません)。 1.フランス革命当時2300万人という、面積で同等のドイツやイベリア半島をはるかに凌駕するヨーロッパ随一の人口が い た。これは19世紀になってからの近代統計で行われた人口調査の値と整合性があるため、ほぼ確かな値と考えられます。 2.1328年のフランス王国で課税のための世帯調査がなされ、かまど数(≒世帯数)が241万あった。史料名は「小教 区別・戸別課税人口調査」(L'etat des paroisses et des feux)*1。 一世帯5人強と仮定すると、当時の フランス王国の人口は約1300万人となる。しかも当時のフランス王国は現在のフランスよりも小さかった(アルザス・ロレー ヌ、フランシュ・コンテ、サヴォワ地方、プロヴァンス地方がまだ領域外)。このため、現在の領域の人口を含めると 1600万人となると思われる*2。 *1カルロ・マリア・チボッラ『経済史への招待』(国文社、2001年)、p160 *2 コリン・マッケベディー 1978年『Atlas of world population history』p58 3.中世のフランドル地方は人口稠密だったことで商業が勃興したと思われること。カロリング帝国の都のひとつ、アーヘン がフ ランドル地方に置かれたこと、三分割されたフランク帝国の長男が継承したロートリンゲンがフランドル地方やイタリア北部を含 み、中世末期の商業先進地域となったことから、中世中期にもフランドルから北伊に至る地域(ロートリンゲン)は人口稠密 であ る可能性があること、 4.北フランスからフランドル地方を中核としたフランク帝国が強勢を誇ったこと 5.プルタルコスのカエサル伝に、ガリア地方における戦闘で、カエサルは300万人の敵と戦い、カエサルが100万人を 殺し、100万人を捕虜にした、という記録があるこ と。当時のガリアは、ナルボネンシス地方を含んでいないため、現フランス領土の総人口は400万以上が想定されること 6.以上 1789年、1328年、カエサル時代の人口をグラフ化すると、無理のない直線が描け、古代から一貫して旧 ローマ 帝国領土の中では人口稠密な地域であり続けたように見えること などの理由から、常にガリア人口は強大な人口を持ち続けてきたと考えられるようなのですが 個人的にも、現在発見されているローマ時代の遺跡数は、国単位ではフランスがダントツであり(こちらに各国別集計 値をまとめています。フランスは466遺跡)、3世紀にガリア帝国を起こすことができた地域なのだから人口も多いのだろう、 という印象をもっていました。 A
ガリア人口が少ない可能性
しかし逆の印象ももっていました。細かい遺跡は多くても、タキトゥスに「ほぼイタ リア」と称さ れた南仏以外には大規模遺跡は無く、カルタゴやアンティオキア規模の大都市もなく、更に2014年にプトレマイオス地理学に登場する地や町の数を、属州毎 に集計した記事を作成してみたところ(こちら)、地名町名の密度で図る と、ガリア地方はかなり過疎地方に見えます。ここではじめてガリア地方の人口が少ない可能性が実際にあるのではないか、との所感を持ちました。うすうす もっていた印象が視覚化されたような『プトレマイオス地理学』の以下の地名密度地図を見つけたこともインパクトがありま した。 B
研究状況と資料探索
ローマ時代の人口推計に関する詳 細な解説がなかなか見つからず、どうやら、19世紀のベロッホの論文がそのまま継承されているような気配を感じていました。 ベロッホのローマ人口研究のうち、イタリアについては、イタリア人学者のカッシオがベロッホを批判した1994年の英語 論文 やシャイデルの2007年の論説(こちらの記事で要約を紹介しています)があり、 両者でイタリア人口推計方法の詳細が解説されているため、史料もロジックも、ベロッホを参照せずとも知ることができたのです が、ガリアについては、その後のローマ人口推計を行っている論説(ラッセル、マッケベディー、フライなど)を参照して も、史 料とロジックにまで立ち入って書かれているものは見つかりません。ベロッホの論文はドイツ語だけで、英訳はないようです。私 はドイツ語が読めないため、ラッセル、マッケベディー、フライなどの英語論説を、この10年間くらいで少しづつ読んでき たの ですが、ガリアだけは詳細がわかりません。参照したこれらの論文や書籍は以下のものです。 ベ ロッホ(1854-1929年) ・『Die Bevölkerung der griechisch-römischen Welt 』 1886年:アウグストゥス時代の各属州毎の人口推計 p448-460がガリアで推計人口489万人 ・「Die Bevölkerung Galliens zur Zeit Caesar」1899年:カエサル時代のガリア人口推計論文 ガリア570万人 J・ C・ラッセル(1900-1996 年) ・『Late Ancient and Medieval Population』1958 年:古代末期から中世初期欧州の人口推計 コリ ン・マッケベディー(1930-2005年) ・『Atlas of World Population History 』(1978年):世界全体の国ごとの歴史人口推計 現フランス領AD14年500万、ガリア全体575万、現フランス領AD200年650万程度、ガリア全体750万 人 ブ ルース・フライ(1943- ) ・『The Cambridge ancient history. The High Empire 70-192』(2000年)所収「Demography」(p787-816) AD14年 ガリアとゲルマニア併せて580万、AD164年同900 万人 古代ローマ人口推計で多くの資料に引用されているフライの論説では、古代ローマの人口推計学の概要(出生率/平均寿命 /死亡率/移住等)が述べられているだけで、属州毎の推計を行っているわけではありません。ローマ帝国の、紀元14年と 164年の二つの地域毎の人口一覧表が掲載され、ガリアについては、遺跡の調査結果から、遺跡規模が拡大しているため、 人口増加があったとし、164年の数値を表に掲載していますが、各遺跡の数値などの根拠が掲載されているわけではありま せん。AD14年の数値出典は、基本的にベロッホ、一部マッケベディーが参照されています。 そこでマッケベディーを参照しますと、古代と中世の史料出典は、カエサル『ガリア戦記』と1328年の課税表だけで、数 値自体の根拠は掲載されていません。ラッセルも、ローマ帝国のいくつかの地域について章を立てて検討していますが、基本 的にベロッホの数値ありきで、古代末期に向けての変化を検討しています。ベースとなるベロッホの数値の根拠についての記 載はありません。というわけで、結局ベロッホを読まないことにはどうにもならない、ということがわかりました。ベロッホ の著作のガリアの部分を翻訳機にかけて読みました。 次回はベロッホの1886年の著作のガリア人口推計について紹介したいと思います。
【2】ベロッホ(1886年)のガリ
アの人口推計
19世紀のドイツ人古代ローマ研究者カー
ル・ユリウス・ベ ロッホ(1854-1929年)の、紀元前後のローマ帝国の人口推計研究『Die
Bevölkerung der griechisch-römischen Welt
』(1886年)(こ
ちら/著作権切れなので恐らくパブリックドメイン)の、ガリアの人口推計の内容紹介です(p448-460
/pp427-434にある「das diesseitige
Gallien」の章はガリア・キサルピナのことで、イタリア地域の一部として推計されている)。カエサルの『ガリア戦記』に登場する数値から人口推計を
行っています。ここで推定されたいくつかの数値は、1899年の論文でリバイスされているのですが、本書の方の数値が後
世の研究で流用され続けている、ということがわかりました。
@ガリア面積の算出(p448-p451) A基準となる一部の部族の人口と人口密度を算出(p452-3) B 部族全人口に対する、戦闘に参加した兵士の割合の一般数値の取得 Cベルギカの数値の 検討(p453-455) D58年の戦闘に参 加した部族の総人口を推定(p456-57) Eローマ 支配後の属州別(ルグドゥネンシス、アクィタニア、ベルギカ)ごとの数値の算出(p458-60) @ガリア面積の算出(p448-p451) ベロッホは、最初に当時の最新地図をもとに、ガリアの面積を63 万5598平方キロと測定していますが、p460に登場している属州ごと(ナルボネンシス、ルグドネンシ ス、アクィタニア)とは異なる区分を検討していて、この部分の記述に意味があるようには思えない。取り合え ずこの部分での結果は以下の通り。 ナルボネンシス 10万平方キロメートル強 ガロンヌ河以南のアキテーヌ 約4万平方キロ ベルギー 2万9461平方キロ ルグドゥネ ンシス 約46万5000平方キロ(この値は本文に登場しておらず私の 方で算出したもの) (ガロンヌ以南のアキテーヌ、ルグドゥネ ンシス、ベルギーを合わせた地域を一括してトレスガリア(53万5000平方キロ)ともいう)。 A基準となる一部の部族の人口と人口密度を算出(p452-3) 『ガリア戦記』 1-29にある、前58年におけるヘルヴェティア族五部族連合とのビブラクテ の戦いにおける数値、および、VII-75で記載される前52年のア レシアの戦いにおける数値を用いて、ガリア人口推計全体の基底となる人口密度を算出しています。 ビブラクテの戦いは、現在のスイスとドイツ南西部に住む5部族がガリア方面に移住を開始し、その途上でカエ サル軍との戦闘になったもの。総計約36万人の部族が戦争後14万余に減少し、うち11万が故郷に戻ったと される。故郷に戻った4部族についてカエサルがセンサスを行い、11万という数値を得た。戦闘前について は、総計36万人のうち各部族の数値が出ているが、戦闘後の11万という数値については部族ごとの内訳が 『ガリア戦記』には掲載されていないため、ベロッホが算出している。部族前36万に対する各部族の%を求 め、その%を11万※に適用し、戦闘後の各部族の推計値を算出している。 更にベロッホは、スイスに住んでいた諸部族がガリアに移動した時、および戦闘後故郷に戻った時の移動の双方 で人口減があったと考え(恐らく戦闘時の損失も含む)、その割合を1/4と仮定し (p453)ていますが、この仮定の根拠は記載がありません。15万人の25%が失われたと仮定すると11 万2500人となるため、当初15万人の人口だったものが、1/4が失われて11万2000人となったと想 定し、この15万という数字をもとに人口密度を算出しています。 ビブラ クテの戦いに参加した部族の故地は、18,600 平方キロ メートルの面積があると地図から測定し、今日のスイス連邦から、ジュネーブ、ヴァレー、ティチーノ、グラウブン テン、グララス、ザンクトガレン、アッペンツェル、トゥールガウ、シャフハウゼンのカ ントン(スイスの州)を差し引いたものとし、1平方キロメートルあたり8 人の人口密度を取得しています。この1平方キロあたり人口密度8人 という数値が、ひとつの基準となっています(以降の論証において、過疎地域だとこの数値よ り低いと思われるし、稠密地域だと、この数値より高い、と考えることになるわけである)。 ※岩波文庫版『ガリア戦記』には11万とあるのに、ベロッホは11万2000人と増やして いる。写本による相違かも知れないが、理由は不明。15000の25%=112500なの で、数字を丸めて11万2000人とした可能性がある、 B部族全人口に対する、戦闘に参加した兵士の割合の一般数値の取得 『ガリア戦記』1-29には、ビブ ラクテの戦い前の部族連合総人口36万8000人に対し、武装しえる者を92000人とし、これは正確に4 倍の値となっている。この数値は、カエサルが機械的に「武装しえる者」の「4倍」を一律に適用して総人口を 算出したものである、とベロッホは推定し、36万8000人はあくまでカエサルの想定値に過ぎず、実数では ない、とし、36万の数値は採用しないことにしています。 この、人口の1/4が武装者、との根拠は、全人口の1/2が女性であり、残り1/2の男性のうち、老人・子 どもを除いた男性人口の半分が、「兵士として戦闘可能な人=武装しえる者」、という考え方のようです。一応 ひとつの目安となる値です。しかし、ベロッホは、この考えを却下し、実際は、戦闘可能な年齢に相当する男性 人口のうち、実際に戦争に参加する兵士の数は、もっと少ないだろうと考え、その数値が、戦闘可能な年齢に相 当する男性人口のうちの1/2なのか1/3なのか、ということを突き止めようとして検討を続けていきます。 Cベルギカの数値の検討(p453-455) 『ガリア戦記』II-4でベルギカ征服戦争時の各部族の武装する者の数を検討しています。この節に記載のあ る参加兵士(武装する者)の合計は30万6000人となり、この数値を巡って色々検討しているのですが、納 得できるような値が出てこないため、ベロッホはここでの議論は放棄しています。 例えば、ベルギカでもっとも多い兵士を動員したベロヴァキー族に対し、以下の検討をしています。 A)ベロヴァキー族は武装しえる者10万、実際に戦闘に参加した精鋭兵士は6万とし、この値を基に、30万 6000人のベルギカ征服戦争参加者に対し、全「武装しえる者」は、40-45万人とすると(実際に計算す ると、50万人となる筈だがベロッホはなぜか40-45万人としている)、全人口はその4倍となるため、 160-180万人となり、ベルギカの人口密度は17〜 19人/94000平方キロとなり、これはイタリアに匹敵することになる。人 口密度17人をトレスガリア全体に適用すると1071万人となり、600万人のイベリ ア半島を上回る。この数値は高すぎるため、却下としています。 B)ベロヴァキー族は武装しえる者10万なので、全部族人口は4倍の40万が想定され るが、この数値は、ベロヴァキー族の居住地に相当する現フランスのオワーズ県の1876 年の人口401 618人と同じである。現オワーズ県の面積は 5855 平方キロメート ルで、人口は、1平方キロメートルで69人となってしまうため、この人口密度はありえない。 以上のことから、II-4のベルギカ征服戦における数値を利用することは放棄していま す。 D58年の戦闘に参加した部族の総人口を推定(p456-57) 続いてベロッホは、実際に戦闘に参加する兵士は、「武装しえる者」のうち何割になるのか、について検討して いきます。52年のアレシアの戦いと58年のビブラフテの戦い の戦闘の双方に参加した部族の数を比較して、部族全人口と、「武装しえる者」の数の割合を検討しています。 58年と52年の両方の戦闘に参加したのはヘルヴェティー族、ボイー族、ラウレキー族だが、ボイー族は戦後故地に戻って いないた め(1-28)、戦後調査の11万2000人からは除外される。58年の戦闘前の部族人数が残っているた め、その数字から、58年の戦後の部族数を計算すると、以下の数値となる(ベロッホはこの計算結果の一覧表を作成しているわ けではないので、読者が検算しなくてはならない)。
前58年の戦後に生き残った部族の人数は、カエサルが統計調査を実施したもので、こちらは実数に近いと考えられる(戦闘 前の数は、 カエサルが、単純一律に兵士数を四倍しただけなので、推計には採用しない、ということはCで検討済)。そこで、58年の戦後の部族 総人数と、これらの部族が52年の戦闘に動員してきた兵士数を比較すると、ヘルヴェティー族は全部族人数のうち1/11 が参加 し、ラウレキー族は1/4 が参加している。兵士動員可能数(武装しえる者)は、男性の半分(残りは老人と子供)なので、全人口の1/4と仮 定すると、ラ ウレキー族は動員可能兵士数がほぼ動員されてい ることになり、ヘルヴェティー族は動員可能兵士数21917人のうちの36.5%(1/2.7人)が参加したことになる。 ベロッホはここから52年の戦闘に参加した全部族について、1/11を丸めてざっくり「全部族とも部族 総人数の1/10が参加した」との仮定をする。この数字がガリア人口算出の基数 とされる。 Eローマ支配 後の属州別(ルグドゥネンシス、アクィタニア、ベルギカ)ごとに数値を算出(p458-60) 『ガリア戦記』VII-75に記載されている、前52年のアレシアの戦いに参加した兵士数が、部族 全人口の1/10であるとの仮定を一律適用し、ルグドゥネ ンシス、アクィタニア、ベルギカの人口と人口密度を算出。 E-1) ル グドゥネンシス 部族名 兵士数 人口 面積 人口密度 ハエドゥイー 35000 35万 29,000平方キ ロ 12人 セノネース 12000 12万 66,000平方キ ロ※ 1 8人※1 カルヌーテース12000 12万 (上に含む) (同上) パーリーシー 8000 8万 (上に含む) (同上) トゥロニー 8000 8万 (上に含む) (同上) ヘルウェティー 8000 8万 (上に含む) (同上) ボイー 2000 2万 (上に含む) (同上) ウェリオカッシー4000 4万 83000平方キロ※2 4.5人※2 アレーモリカエ 30000 30万 (上に含む) (同上) 計 119000 119万※3 17万8000平方キロ 6.68人※4 ※1カルヌーテース以下の5部族含む。 5部族合計は50万人だが、ベロッホは54万人として計算している。4万人の差分は以下※3のアレーモリカ エの4万人に該当すると思われる。なぜセノネース族と一緒に集計したのか理由は不明(単に杜撰なだけなのか も)。 ※2アレーモリカエ族含む ※3 集計値は119万人だが、ベロッホは、ウェリオカッシーとアレーモリカエの合計を38万人としているため、4万人 の部 族をp460の集計表では記載し忘れていることになる。p460後半の総合集計では、ルグドゥネンシスは125万人となって いるため、更に2万人の部族が漏れていることになる(アルモリカ(現ブルターニュ半島)で4万人、それ以外で2万漏れて い る)。集 計表から漏れている6万人は、p460の本文の方に記載があり、 Lingons、 Vadicasser、Tricasser の三部族であると記載されている。 ※4 ベロッホは、p460の総合計表ではルグドゥネンシスの人口密度を7.35、面積を17万平方キロとしているが、本文で記 載している29000,66000,83000を合計すると17万8000平方キロとなり、人口密度は6.68人とな る。総 合計表の人口125万と17万8000で計算しても7.022人にしかならない。17万を125万で割ると7.35となる。本文でルグドゥネ ンシスに含めて記載していたビートゥリベースの居住地面積は2.2万であり、これを差し引いて12万6000平方キロと する と人口密度は9.92となってしまう。計算違いか、集計時の誤記である可能性がある。このように、ベロッホの資料の加工は杜撰なところが散見され、検算が 面倒である。 E-2) アクィタニア※1 部族名 兵士数 人口 面積 人口密度 アルウェルニー 35000 35万 38,000平方キロ 12人 ルーテーニー 12000 12万 (上に含む) (同上) ビートゥリベース 12000 12万 22,000平方キロ※ 5.45人※2 ピクト ネース 8000 8万 60,000 平方キロ 5.5人 サントニー 12000 12 万 (上に含む) レクソ ウィー 3000 3万 (上に含む) ベロッホではレ モウィケース となっている) ペトロコリー 5000 5万 (上に含む) ニティオブロケース 5000 5万 (上に含む) 合計 9万2千 92万 12万平方キロメートル 7.67人 ※1 ここでいっている「アクィタニア」は、ローマ属州の属州アクィタニアのことで、属州名になる前に、地 元で「アクィタニア」と呼ばれていた地域とは異なるので注意が必要である。属州化以前の「アクィタニアと呼 ばれた地域」についてはE-4で検討している。もともとのアクィタニアを合わせた「属州アクィタニア」の総 計値はE-4に記載。 ※2ビートゥリベース族 は本 文中ではルグドゥネン シスのパーリーシー族等に含んで面積がカウントされている。このため、ビー トゥリベース族単体での面積は記載されていない、し かしp459の集計表ではアクィタニアに含まれている。アクィタニアの総面積は12万平方キロとあ が、アクィタニア内の部族居住地の面積は、アルウェルニーの38000と、ビートゥリベース以外の その他部族の合計6万平方キロしか数値がない。総面積12万から38000+6万を差し引くと、 22000となる。ここから人口密度を算出すると5.45人となる。 E-3) ベルギカ 部族名 兵士数 人口 面積 人口密度 セークァーニー 12000 12万 16,000 平方キロ 7.5人 (現フランシュ=コンテ地方) ※ベロヴァキー 10000 10万 レモウィケース 10000 10万 スエッィオーネース 5000 5万 アンビアーニー 5000 5万 ネルウィー 5000 5万 モリニー 5000 5万 アレトパテース 4000 4万 アウレルキー・エプロウィーケース3000 3万 ラウラキー 2000 2万 合計 70000 70万 18万平方キロ 3.9人 ※ベロッホはベルギカについては一覧表を作成していないため、この一覧は私の方で作成したもの。セークァーニ以外は「残 りの部族」と一括しているが、合計は70万 としているため、これでルグドネンシス、アクィタニア含め『ガリア戦記』VII-76記載の全部族をカウントしていることになる。 E-4)ガロンヌ河南部のアクィタニア(ローマ征服以前にアクティタニアと呼ばれた地方)p459 この地域はアレシアの戦いに参加していないので、別途数値を検討している。『ガリア戦記』の参照箇所は、III- 11,III-20から26。 アクィタニア地方の数字が登場するのは2か所で、III-11に、プブリウス・クラッススにコホルス隊12隊と騎兵を指 揮させアクィタニアへ派遣し、ガリアへ援軍が派遣された、との記載があり、III-26では 「騎兵は広い野原でこれを追い、アクィターニアとカンタブリー人から集められた五万人の中、わずかに四分の一だけを見棄てて夜遅く陣地へもどった」 とある。5万人の兵士を集めたということは、全人口は4倍、といういつもの論法で、20万程であろう、としています。一 方で、アクィタニア地 方の面積が40,000 平方キロなので、隣接する(後の属州アクィタニアの南部の)地方の人口密度が5.5 だったので、アクィタニア地方も同じだとすると、4万平方キロであれば、22万人にな る。この二つの経路が同じ20万程度となったため、確度が高いと判断し、推定値として確定。 E-2で算出した属州アクィタニアの値と併せると、以下の数値となる。 面積 推定人口 人口密度 属 州アクィタニア 12万平方キロ 92万人 7.35 ガロンヌ河以南のアクィタニア 4万平方キロ 22万 5.5 合計 16万平方キロ 114万人 7.1人 F総 合計 面積 人口 人口密度 アクィタニア 16万平方キロ 114万人 7.1人 ルグドゥネンシス 17万平方キロ 125万人 7.35人 ベルギカ 20万5000平方キロ100万人 4.5人 53.5万平方キロ 339万人 6.3人 ナルボネンシス 10万 150万 15.0人 合計 63万5千平方キロ 489万 7.6人 p458での推算では、ベルギカは18万平方キロと70万だった筈なのに、p460の表で は、なぜか2.5万平方キロと30万人が増加 しています。ベロッホにはこのような杜撰な記載漏れ箇所が散見されます。どうやらこれは、p458でベルギカの人口と人口密度を検討している箇所の最後で の「8-90万の人口がいるのが本当のところだと思われるため、(近隣の)アルモリカ地方 のように、4.5-5人の人口密度だったろう」、という言葉を受けて、人口密度5人*20 万5000平方キロで再計算した結果、100万2500という値となったものだと思われま す。”人口密度5人*20万5000平方キロで再計算した結果、100万2500となる” という文言を書かずにいきなり集計表に登場させたりするところが、この本には散見されます (ベロッホに限らず数量経済史の本にはよく登場する杜撰なパターン)。ナルボネンシスは まったく検討していません。150万という数字は一体どこから出てきた のか、まったく不明(書籍巻末の索引を参照してもナルボネンシスという用語が登場している箇所は少なく、そのどこにも推計作業をしているところがない)。 以上のように、取り合えず約500万人という数値が算出されました。 以
上の内容は、ざっくりいえば、スイスのヘルヴェティア族の値(人口密度8人/平方キロ)を
ガリア全体の部族に単純に適用しただけでで、それらの値の妥当性を個別に精査しているわけ
ではないため、この点を1899年の、ガリア人口推計のみを扱った論文で検討することに展
開しています。
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