29/Jun/2014 created

プトレマイオス『地理学』に記載された町と地名数の集計値



【1】プトレマイオス『地理学』に記載された町と地名数の集計表

 2世紀のプトレマイオス『地理学』が、帝政時代のローマ人口の推計に役立つ可能性がありそうなのか、調べてみました。『地理 学』には、7800の地名が記されているとされていますが、地域毎の集計や、記されている地名の種別毎の数を集計したものは見た ことが ありません。ネットで確認できた範囲では、唯一Wikipedia の『地理学(英語版)の記事に、マスウーディが、4530の都市と200以上の山地名の記載された彩色地図を見たと 言 及している、という記載だけです。地形や地名と町を分けて集計したものが見つからなかったので、自分で数えてみました。数えたの は、座標がついている地名だけです。厳格に検算しているわけではないので、若干誤差はあるかと思いますが、座標付きの地名・町の 総計は、6031箇所ありました。これは、総計約7800と言われている数値よりも約1800少ない値となっています。座標が記 されていない地名や部族名が約1800個ある、ということなのかも知れません。カウントにあたって、幾つか留意事項があります。

・一つの地名に島・町の両方の属性が記されている場合は、町に分類
・実は、所々、町の名前だと思っていた箇所に、「以下の島々である」という前置きがある部分があり、「以下の島々である」という 前置きを見逃した箇所は、町に分類してしまった可能性があります。気づいた部分は数えなおしましたが、確認漏れの箇所がある可能 性があります。
・祭壇・社・神殿・戦勝碑・泊・温泉・柵・断崖・船着場などは地名に分類。広場・交易地・港・砦・警備地・軍団駐屯地は町に分類

 それにしても、河川の源流地、分岐点、合流点、方向転換地点、山地の中心、鉱泉、温泉、湾、岬、島など、様々な地形の座標が記 されていて、中世イスラーム世界や近世欧州で、プトレマオイスの地図が正しく復元された理由が良くわかりました。

 もしかしたら、どこかの大学や誰か個人がデータベースで集計しているかも知れませんが、ネット公開されているものは見付けるこ とが できませんでした(探し足り無かった可能性もあります)。今回書籍を用いて約4時間かけて集計しましたが、早くcsvファイルでいいのでネットで共有でき るようになっ て欲しいものです(英語版で公開されているテキストは(Lacus Curtius)は、まだ入力中(2014年6月)の部分が多く、全部掲載されていないようです)。
 

地域
地名・地形

地域
地名・地形

地域
地名・地形

ブリタニア・イヴェルニア島
(アイルランド)
21
3
マウリタニア
67
131
コルキス
5
9
ブリガニア・アルウィオン
島(ブリテン島)
85
60
アフリカ
51
173
イベリア
1
9
ヒスパニア
77
426
キレナイカ
15
36
アルバニア
8
29
ガリア
62
117
エジプト
80
163
大アルメニア
20
85
ゲルマニア
43
93
北アフリカ計
273
502
メソポタミア
10
69
ラエティア
5
18



バビロニア
6
27
ノリクム
13
17
ポントゥス・ビテュニア
25
35
アッシリア
6
34
パンノニア
10
52
アシア
48
146
メディア
21
82
イタリア
58
281
リュキア
10
34
スシアナ
14
16
コルシカ
21
29
ガラティア
8
72
ペルシア
13
33
サルディニア
28
46
パンフュリア
6
39
パルティア
3
24
シチリア
45
64
カッパドキア
32
168
カルマニア
23
25
イリリア 14 54 キリキア
12
16
ヒルカニア
4
13



キプロス
18
17



ダキア
10
42
アナトリア計
159
527
マルギアナ
4
9
モエシア
28
46



バクトリア
13
17
トラキア
16
44
シリア
29
129
アレイア
8
34
エペイロス
21
23
パレスチナ
3
42
パロパニサダ
2
16
アカイア
85
166
ペトラのあるアラビア
2
30
ドランギアナ
2
11
クレタ
25
42



アラコシア
4
12
バルカン半島計
242
538



ゲドロシア
9
13
ヨーロッパ計
710
1740
ローマ合計
1116
2974
ペルシア合計
176
567

 ブリタニアの北部や、アイルランドは当時ローマ領ではありませんし、ゲルマニアについても、ローマの領土は一部に過ぎないので すが、大勢に影響はしないので、そのままローマ領に含めてカウントしています。「メソポタミア」の町は、ローマの進出前はパル ティア領、ローマ進出後は、バ リフ川(古代名ビレカス川)以東の43の町が概ねローマ領(現シリアに加算されるので、シリアの合計は153とな る) となり、26の町が概ねパルティア領になりますので、厳密にはペルシア領土の合計は524となります。クリミア半島にあたるタウ リケ (25町)、黒海東岸にあたるコルキス(9町)もローマ領と考えていいかも知れませんが、ここでは、タウリケは「その他」、コル キスはペルシア領に含めています。また、ユーフラテス中下流域の西部にあるアラビアの町や集落もペルシアに入りますが、これも少 数なので省いています。


地域
地名・地形

サルマティア
30
42
タウリケ
8
25
イアジュゲス
2
8



サカイ
3
0
ソグディアナ
9
9
イマオンの内側のスキティア
19
2
イマオンの外側のスキティア
6
4



内リビア(サハラ南)
44
53
エチオピア
68
53
幸福のアラビア
54
152



ガンジスの内側(インド)
96
275
ガンジスの外側(東南アジア)
45
74
タブロパネ(スリランカ)
41
25



シナイ
12
7
セリカ
17
15



その他合計
454
744
地域  地名・地形  割合

割合
合計
ローマ
1116
27%
3017
73%
4133
ペルシア
176
24.5%
524
75.5%
700
その他
454
38%
744
62%
1198
合計
1746
29%
4285
71%
6031
 上の表は、ローマとペルシア・その他の3つの地域毎の地形と地名の割合です。町の記載は2/3強、地形の記載 は1/3弱、ローマ領内は67.6%、ペルシア領内は12.4%、その他の地域は19.98%となっていること がわかります。4285という町の数は、マスウーディ記載の4530という値に近く、マスウーディの見た写本 と、現在に残る写本は、ほぼ同じだという推測が成り立ちそうです。

 遠方にあるとはいえ、インドの町が275も記載されているのは、やはりインドの人口の多さを象徴しているとの 印象があります。また、「幸福のアラビア(アラビア半島)」の町も、152と、エジプトに匹敵する数が記載され ていて、それなりに人口が稠密である様子が伺えます。6世紀におけるローマとササン朝の争奪戦や、イスラームの 勃興の素地が、この点にも見て取れるともいえそうです。

 シリアは、20の区画に分かれていて、パレスチナは7、メソポタミアは13区画に分かれているとされていま す。もしかしたら、シリアの人口推計(詳 細はこちら)の推計要素となっている、シリアの「35−40の地区」の根拠は、もしかしたらこれな のではないかと思いました。


【2】現在の人口推計値と『地理学』の町の数との比較

 集計した値を、Bruce Frierの紀元14年のローマ帝国の集計値(引 用はこちらから)と比較してみました。双方での地域区分が異なっているため、単純な比較はできないとはいえ、概ね傾 向はつかめそうです。以下の「人口(万人)」の列は、Frierの推計値、割合は、この表の全部の列の値の合計値に対する、その 地域の割合です。「町」は、プトレマイオス『地理学』の町の集計値。割合は、全体の中の、その地域の割合です。


人口推計値
プトレマイオス

人口(万 人)
割合

割合
ヒスパニア
500
11.0%
426 15.0%
ガリア+ゲルマニア 580
12.8%
210 7.4%
ドナウ沿岸(ラエティア+ノリクム+パンノニア
+ダキア+トラキア+モエシア)
270
5.96%
219 7.73%
イタリア
700
15.5%
281
9.9%
サルディーニア+シチリア+コルシカ
110
2.4%
139
4.9%
ギリシア半島部(イリリア+エペイロス+アカイア+クレタ)
280
6.2%
285
10.05%





マグリブ+リビア(アフリカ) 390 8.6%
304
10.7%
エジプト(エジプト+キレナイカ) 450
9.9%
199 7.0%





シリア(シリア+パレスチナ+ペトラのあるアラビア)
430
9.5%
244
8.6%
アナトリア(含キプロス)
840
18.5%
527
18.6%





合計
4550

2834



 幾つか気づいた点を指摘してみたいと思います。

1.ガリア(現フランス)の人口について

 概ね双方の割合の相違は5%以内となっていますが、唯一差が5%を越えているのがガリア+ゲルマニア、及びイタリアの値です。 ガリ アについては、まだ人口推計論文を読むことができていないのですが、もしかしたら、現在の人口推計値は、多すぎるのではないかと 疑っています。このところ、幾つか文献を読み、ローマ時代の人口推計の手口を知ることになりましたが、それらは基本的に、古代の 文献に記載されている数値+最初に実施された近代的統計値、この二つから推計されています。欧州の一部の先進国では17,8世紀 頃から、欧州の植民地や中東では19世紀後半から近代的政府人口調査が行なわれ、近代化して人口が急増する以前の人口の有力な手 がかり として利用されています。フランスは、革命当時2300万人の人口があり、1328年の租税調査でも、世帯数241万という数値 から、1000万という人口を推計されているため、想定される人口増加率から遡って逆算して、古代にも、数百万の人口がいた、と 推計しているような気がしてきました。古代の人口は、プトレマオイスの『地理学』のガリアの町の数117から推定さ れる100万程度の人口しかおらず、フランク族の移動とフランク帝国の発展により、フランス北部と低地地方(オランダ・ベル ギー)の人口が飛躍的に増加した、という可能性もあるのではないか、と疑わしくなってきてしまいました。取り合えず、ガリアの人 口推計の詳細を論じた文献を探して読む予定です。

 しかし、一方、イタリアの町の数と人口の割合比も5%を越えていて、推計人口の方が割合が多くなっています。遺跡発掘などか ら、 8−900万程度の人口さえ推定されるなど、イタリアでは、他の地域と比べ、人口密度が倍以上に高かった、と解釈した方が妥当と いうことなのかも知れません。この想定で、イタリアでは700万の推計人口が281の町とその後背地に居住していたと仮定する と、1つの町とその後背地あたり、2.49万人となり、この割合をガリアにも外挿すれば、2.49*117で291万人になり、 「プルターク英雄伝」のカエサル伝に登場する(岩波文庫版p121)、ガリアの戦争の10年間で、800以上の町、300の部 族、300万の敵を相手に白兵戦で100万を殺し、100万を捕虜とした、という記載に近い値が出てきます(カエサルの同盟部族 を100万と仮定すれば、当初400万いたガリア人のうち100万を殺害し、300万となった、という仮定が成り立ちます)。

 唯一ガリアの都市を多く記載しているのは、『プリニウス博物誌(1986年版)第1巻』(p142,3巻17節)にある、「大 ポンペイウスがピレネー山中に建てた戦勝記念碑の面に、彼がアルプスからヒスパニア・ウルテリオスの間の876の都市を従えた」 という記載で、この後プリニウスが記載するヒスパニア全土の都市数総計399を差し引くと、アルプスとピレネーの間に476もの 都市があることになりますが、プリニウスは、その後のナルボネンシスの章で(3-37)、ローマ植民市と地元部族の住む46の都 市の名を上げ、最後に「そしてまた19もある重要でない都市、同じくネマウスムの種族に割り当てられた24の都市」と記載して、 合計89の都市が上げられているだけで、その他のガリア地域であるベルギカ、ルグドゥネンシス、アクィタニアでは、都市名は登場 していません。89という数字は、プトレマオイスの挙げる117のガリアの町に近く、差分の28都市が、ガリア中北部にあった、 ということなのかも知れません(プトレマイオスをざっと数えると、ナルボネンシス33、ベルギカ35、ルグドゥネンシス31、ア クィタニア19、計118となり、ナルボネンシスの数は33にしかならず、この点はプリニウスの記載と不一致となりますが、 89:33の比率で、他の州を計算すると、ベルギカ94、ルグドゥネンシス83、アクィタニア51、計317都市となります。プ リニウスが各属州の合計値を記載した部分が、転写の過程で失われてしまったのは、本当に残念です)。

 いづれにしても、ガリアは、

@.人口が多いが、単に町の数が少なかった
A.町の数は少ないが、町の規模が大きく町の人口は多かった(これは一部主要都市については遺跡などから判明しているとのこと)
B.実は人口は少なかった
C.単にプトレマイオスが情報を知らなかった(プルタルコスは800以上の町と記載しているが、プトレマイオスは118しか挙げ ていない)

すら、即断できないような気がします。ところで、Hans van Deukerenという方(多分ドイツ人)のサイトに、プトレマイオスの(恐らく)全座標を打ち込んだPtolemy's World: index mapという物凄い力作サイトがあります。地図をクリックしていくと拡大してゆき、詳細 な位置を知ることが出来る、というものです。イベリア半島とガリアをざっと数えてみましたが、その限りでは、町については全部の 地点が打ち込んであり、河口や岬、湾など、陸地の地形を示す座標もほぼ打ち込んであるようです。経緯度1度の枠内に登場する地名 の数毎に色分けし、過密地帯程赤方(経緯度1度の枠内に20地点上が最過密)に、過疎地帯程青方(1経緯度内に1つだけ)に、色 分けした見事な地図を作成されています。


Hans van Deukeren(c)


 まるで、現在のNASAの衛星が撮影した夜間照明の写真のようです。プトレマイオスはギリシア語圏の人なのだから、当然ながら ギリシア語圏、及び早いうちから開けた地域に関する情報密度が高く、先進地域及びギリシア語圏から離れるほど、密度が低下してい る、ということなのだと考えられますが、それでも人口が多いとされているガリアが、アラビア半島やコーカサス並みであるのは注意 を惹きます。

 いづれにしても、ガリアの人口推計史料とロジックについて、確認しないことには、現在の通説を鵜呑みはできなくなってしまいま した。



2.アナトリア(現トルコ共和国の小アジア部分)

 シリア・エジプトの人口推計の記事では、アナト リアの人口推計値は、どうやら、ポンペイウスが征服した人口数1200万から、シリアの人口400万を差し引いて、約800万、 という数値となった、という程度の根拠しか、現時点では見出せていないのですが、プトレマオイスの挙げているアナトリア町の数の 全体に占める割合(18.9%)が、Frierの推計値18.5%に近い値となっていて、乏しい根拠ではあるものの、アナトリア の人口推計値を補強する要素として有効そうな印象を受けました。
 

3.シリア

  シリア・エジプトの人口推計の記事で、シリア の人口推計は、シリアには35-40地区があり、最大のアパメア市の所属する地区の人口が11万7千人である、数値から、シリア 全体の人口が、300-400万と推定されていました。この根拠は不明だったのですが、『地理学』では、シリアを20地区、パレ スチナを7地区、メソポタミア(エデッサなどを含む上流部分はローマ領土)を13区画としていて、合計40区画となります。メソ ポタミアの区画の一部はパルティア領なので、それを差し引くと、35-40区画という数字に符合します。プリニウスとストラボン の記載もそのうち 確認する予定ですが、もしかしたら、35-40区画の根拠はプトレマイオス『地理学』かも知れません。


3.イベリア半島

 イベリア半島は、人口の割には町の数が相対的に多い(プトレマイオス記載の町426、推計人口500万、平均1つの町と、その 後背地あたり、1万1700人)、ここも特徴のある地域です。イベリア半島については、フィールド調査の資料もある程度あり(詳細はこちらの記事)、民会を有した14の町さえ、 平均45hr(約700m四方)であり、200の町はたったの5hr(220m四方、人口1000人程度)と、住民全員が、周辺 の畑を耕す農民であったと極端な仮定をしても無理のない規模です。この場合、住居を一人当たり6m四方、一世帯5人と仮定する と、 20m X 10mの敷地となり、十分ありうる広さです。町の敷地の半分が通りや公共施設だとして、500人の住民が上記各々20m x 10mの敷地に住む農民で、残り半数が部屋住まいの共同住宅の都市生活者、極一部が大きな邸宅に住む富裕者(大規模農場主か商人)、住民の半数が農民であ ると仮定しても、無理はなさそうです。実際、著名な観光地であるローマの都市は、一辺が500m以上、大きなものは1kmを越す 規模だとしても、無名な地方の小都市は、一辺が300-500m程度です。小都市の場合、人口の大半が周囲に農地を持つ自営農 だったとしてもおかしくありません。

 中規模以上(一辺500m以上)の都市は、その地域の中心都市であり、役人や商人など非農業の人びとが住み、それを周辺地帯か ら搬入される食料で成り立つ都市だったのだろうと思うのですが、以前の記事でご紹介しましたが、イベリア半島は、人 口の1/4に相当する100万人が都市住民だと推計されているものの、殆どは小規模都市であり、実のところイベリア半島の都市住 民とは、殆ど農民なのではないか、と考える次第です。

 1町とその後背地が平均2.49万人となるイタリアと比べると、非農都市住民数は、イタリアの都市の方が多く、農地の人口密 度もイタリアの方が多い、という傾向は間違いのないところなのではないでしょうか。極論すれば、殆どが農民都市といえそうなイベ リアと、非農業居住者の多いイタリアやアナトリア、シリアとでは、同じ都市でも、だいぶ異なった景観にあったのかも知れません。


【3】所感

 ローマ時代の都市は、ローマ帝国全土どこでも、同じような規格・構造の都市の遺跡が、版図内であったどの国にいってもあり、私 にとって、ローマ都市の地域性といえば、東部に円形闘技場が少なかったり、採石できる付近の石の種類の相違から、町の色が異な る、とい う程度しか違いがわからないものがありました。ローマ各地の農地についても多くを記載している書籍『ローマ経済の考古学』 にて、農場跡に農機具小屋の跡が発見されていて、都市居住の農民の農具置き場だったのではないか、との記載に遭遇しました。地主 ではない自営 農が都市に住んでいた、とするイメージがわかなかったのですが、漸く数値的に納得できそうな気がします。


 今回プトレマイオス『地理学』を調べていて、他にも幾つかわかった点があります。

・赤道以南の座標も結構記載されていて、再現地図では、南半球は途中までしか描かれていないが、プトレマイオス自身は、内エチオ ピアの章(日本語版p76)で、「人間の住む世界の南側で、南極までの未知の(世界の)緯度数は(南緯)73°35'或いはまる 74°で ある」と記載している点

・日本語訳書籍がA4版(より縦横1cm大きい)である理由もわかったように思えます。理由は二つありそうです。

 @1頁内の文章が、左右二段組みとなっているのですが、このレイアウトが、写本と同じようになるようにした(ラ テン語の写本の画像がこちらにあります(リンク切れの場合、「ptolemy's geography」で画像検索してみてください)が、日本語訳も、ほぼ同じ構成となっています)。日本語版でも、写本の感触を出そうとしたのではないで しょうか。

 A巻末の復元地図のため。ネットで色々調べていて、地図復元時に、必ずしも全部の地名が記載されているわけではない、という点 がわかりました。検索して出てくる地図は、殆ど細かい地名を省略したものです。日本語版巻末の地図は、恐らく掲載地名全部を記載 した地図である点貴重であり、ネットでもかなり探さないと見つけられない程 詳細です。例えば、こ ちらのリンク先の地図(販売用なので、そのうちリンク切れになるかも知れません)は、全部の地名が記載されていると 思われる、シリアとメポタミアの部分の地図です。高解像度で、拡大して細かい文字まで確認できますが、文字がブラックレター体で 書かれているので、判別しにくい文字が多々あります。日本語版の巻末地図は、ゴシックフォントで、文字の判別は容易です。すべ ての地名を掲載した地図は、それなりのサイズとならざるを得ず、逆に小さい紙面に印刷された地図は、主な地名・都市名だけに絞ら れ、細かい地名や町名は省略されているということがわかりました。ネット上の地図も、1枚数メガバイトの高解像度のものでない と、すべての地名が見分けられる程拡大できない、ということもわかりました。

 本書は、廉価な文庫版が出て欲しいと考えていたのですが、プトレマイオスの地図理論の部分だけを文庫版で出すことは可能かも 知れませんが、全体の文庫化は難しいということがわかりました。


・パルティアの人口推計に利用できそうです。ローマ領土の町の数が約3000で、推計人口から換算すると、1町あたり後背地含め た地域人口は平均約1.6万となることから、パルティア領土内の町約550についても、人口880万を上限として目安に出来るか も 知れません。プトレマイオスの生きたローマ領土内にあっては、パルティアに関する情報は乏しく、実際にはもっと多くの町が記され るべきかも知れないし、逆にパルティアの人口は、地中海沿岸の人口過密地帯と比べると格段に少なかったのかも知れません。しか し、パルティア領内の人口密度がイベリア半島並みであったとしても550万人、逆により多数のプトレマイオスに知られていない小 さな町が沢山あったとしても、そのような小さな町の平均人口は少なかったと考えられるので、町の数が倍あった場合、ローマ領土と 同じ、後背地含めた一町の平均1.6万人を適用すれば、1760万人、イタリア半島並み平均2万とすれば、1100万人となりま す。つまりは、パルティアの人口 は、550-1760万の間 のどこかにある可能性が高い、ということの傍証ぐらいには、利用できそうな気がします。人口推計の根拠すら殆ど無いパルティアの 人口推計には、僅かながら寄与しそうです。私の中で、漸く、古代イランの人口推計が、推測の段階から、推定の段階になりそうで す。


□参考資料
 プトレマイオス『地理 学』東海大学出版(1985年)
 プ トレマオイス『地理学』英語訳テキスト(Lucas Curtius))
 Hans van Deukeren氏のPtolemy's World: index map

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