東海大学出版会中務哲郎訳「プトレマイオス地理学」(1986年)の感想(1)


 以前東海大学出版会から出版された中務哲郎訳「プトレマイオス地理学」(1986 年)を本屋で見て、この書物が地名の座標カタログだということを知り、驚くとともに納得しました。写本が残っているわけでも無い のに、どうしてプトレマイ オス(83頃-168年頃)の近世復刻地図が帝政ローマ時代の地図の様子を伝えるものであるとされているのか理由がわかり納得し たのですが、今回図書館か ら借りてじっくり読んでみて更に驚かされました。読むといっても本文の殆どが地名リストと座標の記載となっていて、実質読む部分 は20頁くらいしかありま せんので、地名リストの部分を集計しただけですが、それでも腑に落ちる点や驚きが多々ありました。


【1】図よりも座標情報が大事

 まず驚いたのは、方法論を述べている冒頭の巻でプトレマイオス自身が視覚的な図よりも本文記事を重視している点です。

  「図の見本が無い場合でも、本文を目の前に置くだけでできるだけ容易に地図化が果たせるような方途を示しておくことが大事なので ある。なぜなら、写本から 写本へと(地図の)転写が進むうちに僅かずつの変改が重なって、遂にはその変化は元の姿をとどめぬ由々しいものとなるのが常だか らである。それなのに、本 文から出発するこの方法が明確な地点表示には不十分であるというようなことであれば、図の見本を手にできない場合に作図という目 下の課題を十全に果たすこ とはお手上げとなるであろう(第一巻第十八章(訳本p11)」

 著者自身が本文から地図が再構成されることを意図していたというわけで す。今に残る15世紀の再現地図そのものは、それはそれで貴重なわけですが、本文の記述を元に今現在プトレマイオスの世界地図を 再構成しても、本文の座標 の記載自体が転写過程で変改されていなければ、基本的には著者の時代のものとほぼ同じ地図が再現できることになります。最初から それを想定して本書が記載 されたことに驚きました。


【2】6000もの座標が延々と列挙されている

 そうして、その本文記事とは、地誌的な描写ではなく、以下のような地名とその緯度・経度の一覧です。

アテネ(アテナイ)  52°45' 37°15'
ラムヌゥス      53°15' 37°30'
マラトン        53°15' 37°20'
アナフリュストス   53°30' 37°10'
ケナイオン岬     52°20' 38°35'
アタランテ小島   52°35' 38°30'

  これが延々と約6000行続きます(数十行に1行程の割合で1,2行解説文が入る箇所もある。なお座標の記載されていない地名や 民族名などを合計すると全 部で約7800の名称が登場しているとのこと*2。景観や歴史記述中心のストラボンの『世界地誌』とは大きな違いです。著者は冒 頭で「地誌学には景観の描 写が必要で、絵心のない人間には地誌学は無理である。しかし地理学はその限りではなく、単純な線と補助記号によって、位置と全体 的な形を示す」(第1巻1 章)と地誌学と地理学の違いを論じています。「XXから何キロXXの方角に」という書き方は無く、2点間の位置関係を示す記述 は、「測量が直線コースを扱 うことは稀で、陸路の場合でも海路の場合でも多くの曲折が含まれているので、スタディオン*1で表す距離測定では真実の誤りなき 理解をもたらすことにはな らない(第1巻第2章)」として明確に採用しない理由を述べています。

*1 古代ギリシア・ローマ時代の距離尺度。約180m。
*2  数えるのが大変なので、索引を計算してみました。p153-197に、1頁三段で索引が掲載されていて、p196の左端は64 行、頻出地名は、索引が複 数行になることもあるので、1段60行として計算すると、60*3*45=8100。p197の最後の段は人名物産名なので、こ れを除くと約8040行と なります。一段平均58-59行だと、計算上7800-900の間に収まります。


【3】部分地図の分割

 緯度と経度を用いることで、地図の分割が可能になる。分割した地図の縮尺が異なっていても、相互の比較が可能となる(8巻1 章)。



【4】地球儀やメルカトル図法とプトレマイオスの作図法との比較

 更に、現在の世界地図でもっともよく目にするメルカトル図法や地球儀に相当するものについても論じています(1巻第20章)。

 地球儀については、以下の長所短所を述べています。

  「球の上に地図作成を行なうものは、自ずから地球の形状との相似があって、何らそれ以上の工夫は必要としない。ただしこの図法 は、必ず記入しなければなら ない多くのものを包含できて、しかも手ごろな大きさ(だというような球)を準備することはできないし、球の全体に同時に一瞥を注 ぐこともできず、切れ目な く続くものを一望しようとすれば、どちらか一方、つまり視線か球かをずらさなければならない」

 一方、現在でいうところのメルカトル図法に相当する方法については、先行の学者マリノスが用いたとして、以下の意見を述べてい ます。

  「平面上に作図を行なうものはそのような(地球儀のような)不都合からは一切免れている代わりに、そこに配列される距離が展開図 の上でも現実の距離とでき るだけ比例を保つものとなるよう、球面図形との相似を目指すなんらかの方策を必要とするのである。マリノスはこの点に並々ならぬ 注意を払い、平面上に作成 するすべての方法を概ね非難しているにも関わらず、彼自身も同様に、距離の比例を保つこと最も少ない方法を用いていることはあき らかである。なぜなら彼 は、緯度圏及び子午線を表現する線をすべて直線として設定するばかりでなく、多くの学者と同じく、子午線を互いに平行なものとし て設定しているからであ る」

 この内容から、マリノスが用いた方法は、メルカトル図法に相当するものであることがわかります。マリノス*2は、ロードス島の 緯度 (プトレマイオスにおいては北緯36度)と赤道両地点とも、1°=500mとして表現した為、北緯36度における、当時知られて いたヨーロッパの最西端か らシナエ(中国に比定されている)の最東端までの間を15時間(225°)とする誤まりをおかしていると、プトレマイオスは指摘 し、北緯36度の1°は赤 道の1°と比べると4/5になることから、ヨーロッパの最西端からシナエの間は180°でなければならないと修正しています。こ の結果ロードス島の緯度に おける世界の陸地の幅は72000スタディオン(約1万2千960キロ)と算出するわけです。

*2 マリノスはプトレマイオスの本書でしか知られておらず、プトレマイオスによると、『世界地図の集成』とその改訂版を作成し たとされている。

 もっとも、この議論はプトレマイオスの独創ではなく、ストラボンの地理書にも登場しており、当時の地図学では一般的な議論だっ たようです。


【5】南半球について

 最終的にプトレマイオスが提案し、用いているのは現在でいうところの円錐図法に近いものなのですが、赤道以下が折り返してい て、赤道以下の地域に関して次の議論がされているのも興味を惹かれました。

  「エチオピアに属するアギシュムバ地方を通る緯度圏は、南回帰線までは達せず、もっと赤道に近い所で終わっているということであ る。というのは、南回帰線 と等緯度、すなわち北回帰線上の地にある我々のところでは、もはやエチオピア人のような肌の色はしていないし、犀や象もいないか らである」

  肌の黒い人は赤道付近に存在し、南回帰線を越えて南下すると、寒くなる筈だから、エチオピア地方は南回帰線よりも北で終わってい るだろう、という推察で す。地球を球だと考えて、赤道以南も、以北と同じような気候帯がある、と考えている点は凄いと思うのですが、そこで人類の居住地 が終わってしまっていると してしまっているのは残念です。鋭いところと間が抜けたところが混在している感じに親しみが持てました。
 

 残念なのは、赤道上 の経度1°が500スタディオン(約90km)となる根拠が論じられていない点。プトレマイオスの議論は、緯度が変わると1°の 距離が変わるので、緯度が わかれば、2点間の距離を算出できる、この為、曲折が含まれ易い地上での2点間距離の実測に頼る必要は無い、として北緯36度で の距離の算出を計算する方 に議論が向かってしまっています。1°=500スタディオンとすると、360度で18万スタディオンとなり(7巻5章)、これは 先行する学者ポセイドニオ ス(前51年死去)の説と一致するので、これを採用したとされているとのことですが、天文学的な計算による算出などを読みたかっ たところです。


 一見無味乾燥な地名・座標一覧で参考になった点も幾つかあります。

 ・掲載されている座標を伴う地名が6000以上もある点。1901年に校訂本を出版したKarl Wilhelm Ludwig Müllerは 7800箇所の殆どの考証を行なっているそうです。地名には、町や村だけではなく、山、湾、港、岬、軍団駐在地、州境等が記載さ れています。プトレマイオ スも、沿岸都市の方が内陸都市よりも配列がよく観察されている(1巻18章)と記載しています。これだけ膨大な情報に元ずくので あるから、復元されたプト レマイオス地図が、2世紀のオリジナル本に掲載されていた地図とほぼ同一のもの(写本の転写の過程で、地形線が歪んだり、簡略化 されたりする余地が無い。 ただし、座標の文字が判読しがたくなり、数値が違って見えるようになってしまい、結果的に2世紀の地図とは違った地形に復元され てしまうことはあるかも知 れない)と考えてよいということがよく理解できました。


・帝政ローマ時代の属州区画地図が記載されている点。2巻ヨーロッパ西 部・3巻東部・4巻リビアの題名が「州または総督領ごとの説明」となっていて、各巻内の各章が、概ね現在の帝政ローマ歴史アトラ スに記載されている属州と 対応していて、帝政ローマ時代の属州の州の境界線が明確に判明している典拠の一つが本書であることがわかりました。


・「東西を長さ」、「南北を幅」という認識。
 「一般に、広がりの中でよい大きいほうを長さとなづけており、人間の住む世界の場合、東西の広がりが南北の広がりより遥かに大 きいことは万人の斉しく認めるところだからである」(1巻6章)

  監修者解説によると、本書の本文部分は、ベネツィアに来たビザンツ使節からギリシア語を学んだヤコポ・アンジェロにより1406 年にギリシア語からラテン 語訳され、更に世界図もleonardo boninsegni(レオナルド・ボニンセーニ)とfransisco di lapacino(フランチェスコ・ディ・ラパチーノ)という人(イタリア人?)が、13世紀ころのビザンティンの写本の図版に記された地図の地名をラテ ン語訳した地図を作成し、ラテン語圏(西欧)に紹介した、とあります。fransisco di lapacinoで検索すると、Google Cacheに以下のギリシア語らしきものが書かれたプトレマイオス地図が1件だけヒットしました(1件しかヒットしなかたので、キャッシュから消えてしま いうことを避ける為、ここに転載しています)。もしかしたらこれがビザンツ帝国にあったプトレマイオス地図かも知れません。
 


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