2014/May/11 created
古代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(1)
 通説の根拠とイベリア半島(スペイン+ポルトガル)の推計値の算定根拠


 【1】前置き

 新評論社から出ている湯浅赳男氏著『文明の人口史―人類と環境 との衝突、一万年史』(1999年)は、古代帝国から現代までに興亡した諸帝国や大国の人口を解説している書籍で す。出版直後に購入し、Wikiに歴史上の帝国の人口が掲載されるようになるまでは、数値の確認に大変便利だったため、頻繁に利 用していました。しかし、昨年1月(2013年1月)に、インド史上の人口数値の根拠について、本書を確認したところ、これまで あまり意識したことはなかったのですが、この本は、数値を算出した学者の論文を紹介しているものの、各学者が、どのように数値を 算出したのか、までは記載されていない、ということに気づきました。そこで、湯浅氏の言及している論文を調べ、インド史上の推計 数値がどのように算出されてきたを調べてみました(その結果はこちらの記事「インド史−史料と推計」にま とめています)。結果、インド史上の推計は1920年以降数名の諸学者が算出してきたものの、殆ど最初の論文の推算値が使いまわ され、しかも最初の論文でも、それ程確度の高そうな推計ではない、ということがわかりました。インドは、100年以上英国が全土 を統治し、全土で発掘調査も行なっているのだろうから、古代や中世の遺跡などから古代・中世の耕作地や村落規模などと史料上の数 値を勘案したものかと思っていたのですが、せいぜいのところ、例えば古代の場合、5億でも500万でも無く、数千万から2億程度 のどこか、という、数値のオーダーがわかる程度の確度しかないことがわかり、驚きました。

 漢王朝の場合は、一応『漢書』に、全土1500余県全ての人口が記され、その積算値としての5959万人という数値が記されて いる為、その数値の確度は学問上の検討が必要であるにしても、取り合えず、総人口の数値根拠史料は入手し易い状況にあります。一 方で、古代ローマ、特に帝政時代のローマの人口はどのように算出されたのだろうか、ということは、日本で出版されている各種ロー マ本でも、4500、5400、6000、8000万という数値は記載されていても、史料と算定根拠について書いてある記載はな かなか見つけられませんでした。そんな折、昨年秋頃、林玲子氏の2007年の博士論文『世界歴史人口推 計の評価と都市人口を用いた推計方法に関する研究』を読み少々衝撃を受けました。その「補足  地域別総人口データ  2. ヨーロッパ」で、林氏は、有名な、帝政ローマの人口推計を最初に行い、紀元14年アウ グストゥス帝死亡時のローマ帝国の人口を5400万と推計したBeloch(「Die Bevölkerung der Griechisch-Römischen Welt」(1886年)のその数値は、「Belochのヨーロッパ以外のローマ帝国人口数は、人口記録といった根拠に基づいて計算されてはいないことか ら、同時代の中国人口値に呼応させる形でBelochがローマ帝国人口値を設定したと考えられなくもない」と記載しています。

 私は、「漢朝とローマ帝国の国力数値比較表」というものを作っていて、漢王 朝と帝政ローマは面積・人口・経済力など、数値的にもほぼ匹敵するのだ、というイメージを長年(この15年くらい)抱き続け ていたこともあり、もしかしたら、インド史の人口推計値と同様、ローマの場合も、ベロッホの数値が基準となって、以降その数値の 絶対値としての確度が検証されないまま、5400万を基準に数値を吟味することが続いてしまい、4500万とか6000万とかい う数字が出てき ているだけなのでは?という疑問が出てきてしまいました。

 というわけで、帝政時代のローマの数値がどのように構成されているのか、を調べてみました。


 【2】当初の予想

 古代ローマの人口調査史料は、紀元前6世紀から紀元前後まで、史書に数値が残されています(Wiki のケンソルの項目や、林氏の 論文の補足2などに数値表があります)。問題は、この数値が「ローマ市民権所有者」だけの数値であり、しかも、ロー マ市民であっても女性や子供を含んでいるのかどうかが判然とせず、ローマに征服された地域の住民や、イタリア半島の奴隷や外国人 の数値は史書の記載からは不明な点にあります。そこで、遺跡の発掘調査などを合わせて、史料の数値が補正され、4500にしろ、 6000にしろ、5000万前後という、漢王朝に匹敵する数値が出てきたものと思っていたのですが、最新研究はどうなっているの でしょうか?

 多分こういうことをやっっているのだろうと、私が想定した、推計方法は以下の通りです。

1.調査が行なわれた遺跡から、都市・郊外・農村などの人口密度と面積を算出し、それを未調査(或いは調査が進んでいない)遺跡 や、農地など当時の領域全体を遺跡として確認しがたい部分について外挿し、各国毎(イタリア、フランス、スペイン、トルコ、エジ プト、シリアなど毎) に人口を算出する

2.史書に残る数値と、遺跡から判明する数値を比較検討する
3.史書の数値が女性市民や子供の市民を含むものだったか否か、史書の数値のうち、イタリア半島居住の人口と半島外の人口割合を 検討
4.奴隷と外国人の割合推計

 この4つがそれなりの確度で判明すれば、少なくとも+−50%程度くらいの確度でローマ帝国の総人口が推計できるのではない か、と予想しました。近年の学説を調べた結果としてわかったことは、

1.については、各国毎に行なわれている調査結果から得られた推計値を全部取得する必要がある
2.ヨーロッパについては行なわれている。イスラム圏については、どうも19世紀の人口が根拠な模様
3.最新学説でもこの点はわからないので、史書の数値を成年男性のローマ市民だけの人口とする低位数値(low countt)と、女性・子供も含めたローマ市民全体とする高位数値(high count)の両方を常に平行推計し続けている
4.エジプト出土のパピルスから具体的な登録奴隷人数が判明していて、全土の推計も行なわれている

ということでした。

 ローマ帝国を構成する現在の各国毎の論文全てを読んでいる時間はとても無いので、今回はイタリアとイベリア半島のものだけを読 みました。今回読んだ論説は以下の3本です。

・イベリア半島の人口推計
・イタリア半島の人口推計
・古代ローマの奴隷人口推計

 【3】ざっくりした結果

1.イベリア半島は400万人程度で、人口密度は7.12人/km2。これはローマ帝国を構成する諸地域の中では、低い方の人口 密度と考えられ、紀元14年のローマ帝国の面積約334万km2に適用すると2378万人となり、イタリアやエジプト、シリア は、イベリア半島よりも密度が倍以上高いと想定される為、2500万程度はほぼ確実な最低ラインだと考えて良さそうである。以下 の Bruce Frierによる研究では、イベリア半島は500万、人口密度8.5人/Km2であり、今回読んだイベリア半島の研究値413万/7.12人/km2と比 べ ると、19.4%多い数値となってる。帝国全土の人口を、この差分に準じて、Frierの提示する、帝国全土の人口密度平均13.6人 /km2の80.6%で見積もった場合は、3668万人となる。Frierの人口密度数値が正しいと仮定すれば、少なくても最低 ラ インを3668万人と見積もれるかも知れない。各地毎の詳細な個別の推計論説を読めば、確度が上がることになる。

 Bruce W Frierによる後14年の各地域と合計人口(The Cambridge Ancient History XI: The High Empire, A.D. 70–192, (Cambridge: Cambridge University Press, 2000
(Wikiの独自研究User:G.W./Demography of the Roman Empireに引用されている数値から引用)
各領域(属国含む)
面積
km2あたりの平均人口密度 人口
ギリシア
26.7万km2
10.5 280万
アナトリア(トルコ)
54.7万km2 15.0
820万
シリア
10.9万km2 39.4
430万
キプロス
0.95万km2 21.2
20万
エジプト
2.8万km2 160.7
450万
リビア
1.5万km2 26.7
20万
東部合計
97.55万km2 20.9
2040万
イタリア
25万km2 28.0
700万
シチリア
2.6万km2 23.1
60万
サルディーニャとコルシカ
3.3万km2 15.2
50万
マグリブ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)
40万km2 8.8
350万
イベリア
59万km2 8.5
500万
ガリア(フランス)とゲルマニア(ドイツ西南部)
58万km2 9.1
580万
ドナウ流域
28万km2 6.3
270万
西部合計
236.4万km2 10.6
2510万
全土合計
333.95万km2 13.6
4550万
 
 なお、今回「The Cambridge Ancient History, Vol. 11: The High Empire, A.D. 70-192」は参照していません。この書籍は、初版が1965年に出版され、1999年に再刷、2000年に第二 版が出ていて、2014年2月時点 では、国会図書館は置いておらず、都立図書館に置いてあるものは1965年版で、Frierの論説は掲載されていません。2000年 版は、Amazonでの定価が318ドル、中古が240ドルもする割に、目次を見ると、Frierの論説は30頁程度で、そのう ち 人口学の節はたったの7頁しかなく、この程度の紙幅では、各地域毎の遺跡調査の数値の積み上げを含む詳細な根拠は掲載されていな いように推測されることが、参照していない(購入していない)理由です。

2.イタリアについては、発掘された同時代碑文『アウグストゥス業績録』(岩波文庫・スエトニウス『ローマ皇帝伝』に所収。碑文 も発掘されているので、同時代史料の数値として非常に有用)に、前28/後8年/後14年の人口調査数値があり、それによると、 後 14年の低位数値*1のイ タリアは550万、高位数値*1だと1500万程度となる。また、遺跡調査によるイタリアの中でも比較的人口密度が高いと考えられるローマ近郊地帯(全 土面 積 の人口密度は36/km2であり、Frierの採用しているイタリア全土の人口密度700万人(28人/km2)は、低位数値 (550万人(22人/km2))よりも13%高いものの、妥当性が高そうな数値であといえる。遺跡調査の結果の36人/km2 で推計すると、900万人となるが、この数値は、後47年のローマ市民人口は約600万、奴隷や外国人含めた場合の推計(低位数 値)約800万に近い。

*1 低位数値(low count)は、人口調査をローマ市民数そのものと見なす場合。高位数値は、人口調査数を、成年男子とし、女性子供は含まないので、ざっくり人口調査数の 3倍がいたとする場合。

3.タキトゥス『年代記』の11巻25節(岩波文庫版下巻p39)に後47年の数値(598万)が残り、この数値から算出される 高位数値のローマ市民は1800万となり、低位数値と比べて1000万以上多くなる。更に、後14年以降の領土併合により数百万 人増加していると考えられ、帝政期に入り、過度な人口増減がなくなり、人口が低成長したと想定すると、6000万という人口が 導き出される。

4.帝国全土の奴隷人口割合が12.5%程度と推計される。帝国全土の人口は約6000万程度とすると、全土で約750万人が奴 隷であ り、47年のローマ市民の高位数値1800万の1/3となり、奴隷が1/3いたとする史料や、エジプトのパピルスなどの記録に残 る11.6%という記録と整合する。


ということがわかりました。取り合えず、漢王朝の数字ありきではなくても、一応5000万前後の数字になることがわかり、少し ほっとしています(最低でも後14年に3668万、後47年に4000万、後47年の高位数値なら5,000万、164年の全土 の疫病まで0.2%で人口成長したとすると約6000万となる。もっとも成長が持続したかどうかは、これも議論の焦点となってい る)。特に奴隷人口推計は、ネット上では自由民の1/3から、自由民数と同等かそれ以上という数値も出回っている 為、たったの12.5%という推計は興味のあるところです。ざっくり考えてみれば、戦争捕虜や境外で捕獲された人々などが、無償 でローマ市民に分配されたわけではなく、一般に経済力のある富裕層が有償で購入したのであって、仮にローマ市民に無償で分配され たとしても、それは「ローマ市民だけ」に分配されたので あって、帝国全土の自由民全員に分配されたわけではないわけです。帝国全土の平均的な人びとは奴隷を持たない家族経営の自営農業 か小作農であった筈なので、帝国全土の人口の多くは、奴隷を持たない人びとだったことになる、という考え方はそれ程おかしなもの ではなさそうです。自由民に比べて1/3も奴隷がいたりしたら、容易に叛乱や暴動で統制が効かなくなりそうです。

 今回から三回にわけ、上の結果1-4の内容が、どうしてそうなるのか、について個別に記載してゆきたいと思います。私が書いて いる内容は論説の要約に過ぎないので、ご興味のある方は直接論説のpdfをご参照ください。今回は以下に、イベリア半島の人口推 計論説 の要約を記載します。


【4】ローマ時代のイベリア半島の人口推計400万人の根拠

 Universitat Oberta de Catalunya(カタルーニャ公開大学)のCARRERAS MONFORT C氏が 『Revista de Historia da Arte e Arqueologia』(考古学と美術史ジャーナル』 第2号(1995-6年)に掲載した「 A new perspective for the demographic study of Roman Spain.」 という論説(pp. 59-82)です。以下要約です。公開大学というところがちょっとアレですが、史料とロジックは整然としており、有用です。

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 @ 従来説の算定根拠

 イベリア半島の人口研究は、史料に記載された穀物・肉の食料配給、戸口調査(ケンスス)、主要軍団、円形闘技場の収容人数、水 道の供給量、墓場、碑文な どの遺物を用いて行なわれてきた。一方おおよその属州人口値は、15世紀の推計が460万人、1717年に750万、1768-9年 にスペイン王国で最初に行なわれた近代的な人口調査の結果は930万人とされ、これらの数値から、ベロッホは1909年の著作で は600-900万、Vilaは1989年の著作で600万人と推定した(ポルトガルの人口調査については本論説では言及されて いない)。これらの推算の結果、5世紀から15世紀の1000年間のイベリア半島の人口は横ばいであるとされた。


 A理論モデルと考古学的証明

 2-1 都市の城壁

 古代のイベリア半島において、城壁で囲まれている町は、一部の町でしかない。従って城壁は目安になりにくい。また、城壁を目安 とした場合、城壁構築後の人口増の値は推測できない。

 2-2 史書の数値

 1世紀の大プリニウスは、イベリア半島のタラコネンシス州には、179のキウィタス(都市)+114のpopuli(部族) があるとし、2世紀のプトレマイオスは248キウィタス、27Populiとした。これは都市の拡張と、部族集落の減少を表現 し、都市化が進展していると解釈することはできない。両者の合計値は殆ど変わらないので、同じ規模の集落をプリニウスとプトレマ イオスは異なった分類としただけ、という可能性があるからである。

 2-3 田舎に関する研究

  田舎の推計は、ヴィラが中心で、農場は殆ど対象外となっている。航空写真による区画(地籍(cadastres))研究や発 掘遺物研究などが行なわれているが、 実際のところ、「ある日たまたまそこに住んでいた人」の合計にしかならない。


 このように、推計の方法論は確立しているとはいえず、どんな結果も疑わしいといえるのが現状である。フィールド調査が実施され た45の地点だけが有用かつ信頼できると言える。



 B本論の計算方法論

 都市については、人口密度と都市民族誌(Ethnographic)、文学データ、人口調査を史料とし、田舎については、各領 域における調査場所(サイト)の密度を用いて以下の式を適用する。

  都市 P=人口密度(K) * 都市の領域サイズ
  田舎 P=その領域におけるサイトの密度 * サイト毎の人の数 * 研究結果から導出されたその領域全体のサイズ

 都市の人口密度は、民家とその住民数と公共領域から算出する。現在における、前近代における人口密度の一般論は、以下のように 形成されてきた。

 3-1 前近代欧州・中近東における都市の人口密度一般推計

 20世紀中旬に行なわれた欧州、メソポタミア、バグダッドなどの人口密度研究の結果、14-18世紀欧州は 100-500人/Ha(ヘクタール)、古代メソポタミアは、297-494人/Ha、別の研究では現在(20世紀中旬)のバグ ダッドが216、その他都市が平均233、村の平均137人であることから、スーサ平原とKur峡谷を200人/Haとし、中世 欧州については100-200人などの研究結果が出てきた。これら各種研究の結果、多くの研究者達は、概ね前近代の人口密度を 150-350人/Ha(km2で表示すると、1.5-3.5万人)であろうとしている。

 3-2 古代地中海沿岸都市の個別人口密度推計

 ・シチリアのディオドロスの史書にはアレキサンドリア30万人説が記載されている。アレキサンドリアの面積が920ヘクタール (3km四方)=人口密度は326人/Haとなる。16世紀ベネツィアは327人/Ha、ポンペイの円形闘技場の収容人数から算 出したポンペイの人口密度は312人/Ha。
 ・エジプトのHermopolisの人口調査では、市は120Haで4つの地区のうち2つは4200家あり、平均員数を 4-5.3と推定すると、約300人/Haという人口密度が得られる。他にも世帯人数が5.8とか7.8人という研究があり、世 帯構成員平均4人なら233人/Haとなる。北アフリカの中心地Lézineは250人/Ha、オスティアの最も建築物が密集し ている4階建の住居は390/Ha。

 3-3 田舎と軍用地の人口密度

・軍用地では5000人/20Haにいた(これについての詳細な根拠は本論には記載されていないが、ローマ軍営地の遺跡から推定 されているものと思われる)
・田舎は、中世の例からすると5人から30人がひとつの集落にいたと考えられている為、平均20人とする (最大50人説を出し ている人もいるが、本論では取り合えず却下としている)

 3-4 考古学上の証拠

 ・都市の場合、106サイト(pdfの付録表1)で実測調査が行なわれている。プリニウスはヒスパニアには399サイトを勘定 していて、残り293のうち93サイトは、現代の地理学の原理(集落や町の数と人口をグラフ上にマップした場合に得られる曲線) に 従って(それが何かは本論説には具体的に記載されていない)10Ha程度、残り200サイトは平均5Haとする*1。

 ・田舎の場合、プリニウスが記載している、ヒスパニア独自の民会(conventus iuridici)について、3つの地域の数字があり、各々 Braccarum: 285.000人; Lucensis: 166.000人; Asturum: 240.000人としている。この数値は都市住民も含んでいるので、その数は除外しなくてはならないが、領域の総人口はこの数値を採用する。

 ・更に45箇所の、具体的なフィールド調査資料から(pdfのTable2)、各居住地ごとの人口(上記3-3の集落人数に 相当)を20名とする。

*1 『プリニウス博物誌(1986年版/第1巻)』(p142)の3巻-3節に、ヒスパニア・キリテオル属州(内ヒスパニア= 後のタラコネンシス州)の町の数の記載があります。邦訳では、「属州そのものには、他に従属する293の都市の他に、189の都 市があり、そのうち12は植民市、13はローマ市民の都市、18は古いラテン市民権を持ち、一つは同盟市、そして135は貢納市 である」とありますが、「293の都市」の部分はラテン語原文では以下となっていて、誤植か誤訳だと思われます。これが都市であ るとなると、「ヒスパニアの399の都市」という、本論だけではなく、他の著作でもしばしば引用されてきた、「ヒスパニアには 400の都市がある」という記載と一致しなくなるのです(プトレマイオスの著作でも約400の都市となる)

ラ テン語】accedunt insulae, quarum mentione seposita civitates provincia ipsa praeter contributas aliis CCXCIII continet, oppida CLXXVIIII, in iis colonias XII, oppida civium Romanorum XIII, Latinorum veterum XVIII, foederatorum unum, stipendiaria CXXXV.

これをGoogle翻訳にかけると、
【approach of the island, of which was given up to the cities of the province led past the mention of contributors contains the other 293, the towns of 179, in those 12 colonies, the towns of the citizens of the Romans, 13, of the Latins and of the old 18, the Allies one, the contributions of 135.】

となり、「293」の単位は存在しないことがわかります。一方で、ネット公開されている英訳を参照すると、以下のように、293 の単位は"states"とされ、他の地域に属する国(事実上州県)と書かれています。

【英 訳】
To these are to be added the islands, which will be described on another occasion, as also 293 states which are dependent on others; besides which the province contains 179 towns. Of these, twelve are colonies, thirteen, towns with the rights of Roman citizens, eighteen with the old Latian rights, one confederate, and 135 tributary.

更にバエディカとルシタニア(ポルトガル)の都市数の記載も見てみます。これらは問題ありません。

<バエディカ>(リンク先は同上)
【ラテン語】Baetica, a flumine mediam secante cognominata, cunctas provinciarum diviti cultu et quodam fertili ac peculiari nitore praecedit. iuridici conventus ei IIII, Gaditanus, Cordubensis, Astigitanus, Hispalensis. oppida omnia numero CLXXV, in iis coloniae VIIII, municipia c. R. X, Latio antiquitus donata XXVII, libertate VI, foedere III, stipendiaria CXX

【英訳】The total number of its towns is 175; of these nine are colonies5, and eight muni- cipal towns6; twenty-nine have been long since presented with the old Latin rights7; six are free towns8, three federate9, and 120 tributary.

<ルシタニア>4巻117節(p204)
ラ テン語】Universa provincia dividitur in conventus tres, Emeritensem, Pacensem, Scalabitanum, tota populorum XLV, in quibus coloniae sunt quinque, municipium civium Romanorum, Latii antiqui III, stipendiaria XXXVI.
英 訳】 It contains in all forty-six peoples, among whom there are five colonies, one municipal town of Roman citizens, three with the ancient Latin rights, and thirty-six that are tributaries. (この英訳のforty-six は、ラテン語XLV,(45)の誤 り)

ヒスパニア・キリテオルに登場している都市「293」を除外すると、ヒスパニア・キリテオル179、バエディカ175、ルシタニ ア45=ヒスパニア都市合計399 となる。プリニウスの各州都市数の記載では、ヒスパニアが一番詳しい。彼はヒスパニア・キリテオル州に代官として赴任しているので、数値はその時の実務に 由来するのかも知れない。仮にそうだとすれば、これらの数字は古代文献の中では、比較的信頼度が高い数値と見なせるかも知れませ ん。


 以上の式と数値から古代ローマ時代のイベリア半島(ヒスパニア)の総人口を算出する


 C ヒスパニアの合計人数

 4-1 都市人口

 民会(conventus iuridici)を有する14の地方中心都市(Braccara Augusta, Lucus Augustus, Asturica Augusta, Cartago Nova, Clunia, Caesaraugusta,Tarraco, Gades, Hispalis, Astigi, Corduba, Pax Iulia, Scallabis, Emerita Augusta)は特別な都市であり、規模にばらつきがあるものの、平均すると45Haとなる(実地調査の結果(付録表1にあり、14都市を含む106都 市の面積が個別に掲載されている)。14都市の うちScallabis,だけ30Haと小さく、14都市以外にもScallabisを越えるサイズのものもある。

 大都市14 45Haで326人/Ha=208640人(実測地ベースだと205380人)
 中都市92 10haで233人/Ha=214360人、
 小都市293のうち93を10Ha(216000)、200を5Haとし、双方人口密度は233/Haすると233000(合 計 449690人)
 軍隊駐留地 20ha*25箇所=500Haで129548人
  --------------------------------------------------
 合計約100万人(軍営地を除くと3480Ha=34.8km2(合計約6km四方)

 大都市でも650m四方(45ha)しかなく、殆どの小都市は220m四方しかない、ということになります。

 一方でMillettという研究者は、 論説[1990, 183]で、62の都市の人口密度を137から216人としており、この推計だと、上記100万人という推計は、半分程になることになる。


 4-2 田舎の人口

 このプリニウスが、ヒスパニアの民会(conventus iuridici)人口としているのは、自由民のみで、奴隷は入っていない。彼の示した数から、上記4-1の遺跡調査で判明した都会人口を差し引くと、

Conventus Asturum 240.000 - 38.604 = 201.395人. 5.1人/Ha. 居住地数(サイト)はKm²あたり0.25箇所
Conventus Lucensis 166.000 - 24.310 = 141.690人 6.3人/Ha. 居住地数はKm²あたり0.31箇所
Conventus Braccarum 285.000 - 40.078 = 244.922人 12.2/人Ha. 居住地数はKm0.61箇所

 これらの平均値を、45の調査サイト(pdfのTable2)にに追加すると、平均Km²あたり0.27箇所となり、1サイト ああたり20人として、これをイベリア半島の面積580.160 Km²に乗ずると、3132864人となる。

都市人口100万と田舎人口313万人を合計すると、合計413万人となる。

Urban population (24.23%) 1.002.238人
Rural population (75.77%) 3.132.864人
Total 4.135.102人、人口密度 7.12人/Km²,

 以下、本論説では、数字の妥当性について、他の時代や場所のデータと比較して論じている。

 ガリアより都市化率は低かったと考えられていてる(100Haを越える都市はメリダくらいだが、ガリアには100ヘクタールを 越える都市は沢山あった(ガリアの都市化率については以下の研究がある[Lot, 1945; Clavel and Levêque, 1971; Février, 1990]))。また、スペインの1820年の都市化率は1500万の人口中14%だっ た(都市人口210万)。これと比べると、古代ローマ時代の、24%の都市化率で100万人という数値は大きく異なるものではない。古代エジプトの都市人 口の計算は各種ある。


・ディオドロス・シクルスの記載は300万
・フラヴィウス・ヨセフスは700万と推測
・[Rathbone, 1990, 123-124]は、500万
・[Bagnall and Frier, 1994, 56]の推計では475万人
・ [Gerenek, 1969;Goldsmith,1984;Rathbone, 1990; Bagnall and Frier, 1994, 56].は、エジプトの都市人口を175万人と推計している。

(更にWalter Scheidelの論説「Roman population size: the logic of the debate」のp9では、「従来ローマ時 代のエジプトの人口は800万かそれ以上と見積もられてきたが、Lo Cascio (1999c)は、下限を5-700万と詳細に論じている」としている)。

以上が、ローマ時代のイベリア半島の人口見積もりの要約です。


【5】所感


 プリニウスが、ヒスパニア(イベリア半島)には399の都市がある、と記載していたことと、400万人という人口には何か関係 があるのでしょうか。400の都市で400万人という数値は、一つの都市を支える周辺人口を1万人とするような、帰納法を考えて しまいそうになります。例えば、プトレマイオスの『地理学』には、約8000の地名が記載されていますが、そのうち仮に都市を 6000をすると、人口6000万人説が導き出されてしまう、といような幻想に陥ったりしてしまいます(そすると、プトレマイオ スの記載に登場するパルティア時代の領域の都市597を約人口600万とすると、アンガス・マディソンも人口推計に参考にしてい るColin McEvedyと Richard M. Jones の『Atlas of World Population History』(1978年)の人口推計にも近い値となってしまいます(Colin McEvedyと Richard M. Jonesのイラン・イラクの推計は主に19-20世紀の人口調査の数値から推定している)。パルティアやサーサーン朝の人口の算定根拠の一つとして、プ ト レマイオスやストラボンの記述などが利用できる余地があるのではないか、と思いました。

 また、ローマ帝国の人口が、1000万とか2000万ではなく、だいたい4000万以上はいた可能性は高そう、ということは、 概ね納得できました。


 ところで、湯浅赳男氏の著作、『文明の「血液」―貨幣から 見た世界史』(初版1988年/新版1998年)という、面白い視点の書籍があります。金銀などの貴金属が、洋の東 西で、どのように流動してきた のか−例えば、10世紀頃にイスラム圏で銀貨が姿を消し、モンゴル帝国の勃興により、元朝から西方に銀が流入し、13世紀のイスラム圏で再度、銀の流通が 高まる、ということろ、各種最新研究を紹介する形で、人類史全体の金銀の流通像を描く、という、あまり他の書籍では扱われていな い独特の視点で 3000年の文明を描いた非常に啓発される書籍です。しかし、この本も、冒頭でご紹介した、『文明の人口史―人類と環境 との衝突、一万年史』(1999年)と同様、諸学者の論文を多数引用しているものの、史料上の根拠と結論に至ったロジックが殆ど言及されていない、事実上 欧米学者の諸論文とその主張の紹介となっている書籍となっているのが残念です。読んだ当初は興奮するのですが、だんだん消化でき てきた 後、改めて根拠はどんな史料で、どういうロジックなのかと確認しようとすると、各論文にあたらなくてはならくなり、大変なことに なるという。。。。湯浅氏の書籍は、非常に興味深い観点を提出していて面白いのですが、湯浅氏による総合化となっている書籍であ り、根拠を論じた書籍が出てくれると嬉しいと思う次第です。

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