2014/May/18 created
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古代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(2)
シャイデル教授の古代ローマ人口研究の概要とローマ時代のイタリアとローマ市民の人口推計


【1】シャイデル教授の古代ローマ人口研究の概要

 古代ローマの人口推計は、最近ではスタンフォード大学のウォルター・シャイデル教授(Walter Scheidel 1966-)が精力的に行なっているようです。著作も既に幾つか出版されてるものの、多数の論考 (working paper)をネットで公開してくれていて(こ ちらのプリンストン大学の「プリンストン・スタンフォード大学研究報告書」サイトにシャイデル氏の報告書のpdf版 が掲載されています)、シャイデル氏の論考はほぼpdfで読めるようになっています(掲 載Working Paperの定義はこちらにあります。基本的には出版前の作業ノートの位置づけなので、学者が論 文に引用することはできないものです。表紙にVersion番号の記載があり、最終的に出版や雑誌掲載となったものは、HPの バージョンより番号が上がっていることがあります、というような注意書きが記載されています。しかし、論点や論旨の展開を知るに は非常に有用です)。

その中で古代ローマの人口学に関する主な論考には以下のものがあります。

The demography of Roman state formation in Italy 2005年11月 (共和政時代の人口)
Roman funerary commemoration and the age at first marriage  2005年11月 (葬式と結婚年齢)
Marriage, families, and survival in the Roman imperial army: demographic aspects 2005年11月(軍隊の人口)
The Roman slave supply 2007年5月 (奴隷人口)
Epigraphy and demography: birth, marriage, family, and death 2007年6月(碑文による寿命研究)
Roman population size: the logic of the debate 2007年7月(古代ローマ人口推計学と古代イタリアの人口)
Monogamy and polygyny in Greece, Rome, and world history 2008年6月(婚姻)
Demography, disease, and death in the ancient city of Rome 2009年4月(病気と死亡)
Roman wellbeing and the economic consequences of the ‘Antonine Plague’ 2010年1月(164年の疫病の影響)
Age and health in Roman Egypt  2010年2月(ローマ時代のエジプト人の人口動態)


 シャイデル教授は、古代ローマの人口について、大まかには以下の順序で研究を進めているようです。

1.史書に、かなり小刻みに人口調査記録の残っている共和政時代の研究を最初に行ない、古代ローマの人口成長率や人口規模・人口 構成など基本要素を把握する
2.続いて奴隷や軍隊など、人口調査記録に残っていない人口主要要素を研究
3.その後葬儀や結婚、病気などの分析から平均寿命を掴み、成年男性のみが対象となっている戸籍記録の数値に現れない女性や子供 の人口規模を把握
4.ローマ市民権を持たない被征服民の人口規模が問題となる帝政時代の全土の人口推計
5.最盛期の人口 164年の全土の疫病の人口に対するインパクト

この研究履歴をみるだけでも、古代ローマの人口研究が、何年もかかるテーマであることと、テーマに対して、非常にロジカルな順序 で研究を重ねていることがわかります。また、ローマ市民の人口記録が激減する帝政時代の人口ほど、奴隷や寿命など様々な側面の 補助研究を行う必要があることが見て取れます。

 シャイデル教授の古代ローマ人口研究は、古代ローマのGDP算出というより大きな枠組みの研究の一環となっているようで、 2009年1月の「The size of the economy and the distribution of income in the Roman Empire」でGDPの概算の研究を行なったあと、物価や賃金、奴隷経済の実態などの詳細研究に向 かっています。このあたりについても、そのうち概要紹 介をまとめてみたいと考えています。

 シャイデル教授の研究の興味深いところは、研究のかなり早い段階から、漢王朝との比較研究を開始し、匈奴に関する論説 (「The Xiongnu and the comparative study of empire」(2010年9月)まで書いたりしているところにあります。日本では邦訳は出ずに終わりそうですが、数量経済史の分野で時代を画したケネ ス・ポメランツの大分岐(「The Great Divergence: China, Europe, and the Making of the Modern World Economy(2001年)」を明らかに意識している「The ‘First Great Divergence’: Trajectories of post-ancient state formation in eastern and western Eurasia(2007年10月)」「From the ‘Great Convergence’ to the ‘First Great Divergence’: Roman and Qin-Han state formation and its aftermath2007 年11月)」という論考があります。ポメランツの「大分岐」は、近代における西欧の急激な成長と、停滞した清朝の一人当たりの GDPの「大分岐」を、具体的な統計数値を比較して対して説明しようとしたものですが、シャイデル氏の‘First Great Divergence’は、古代ローマは没落したまま終わったのに、中華の方は唐帝国として復活した、という点を、「洋の東西の 最初の大分岐」としているようです。

 Amazonで見ると、シャイデル氏は単著も出しているようですが、古代ローマ経済の人口とGDPに特化した書籍はまだ無さそ うです。サイトに掲載されているpdfをざっと確認したところ、古代ローマの人口(200頁)とGDP(200頁)に、漢王朝と の比較論考などを含めて5,600ページで50$くらいの著作が出せそうな感じがします。是非出して欲しいところですし、もしそ ういう著作が出てきた場合は、明石教授とか本村教授(「ローマ経済の考古学」 を監修)とかに是非邦訳をお願いしたいところです。1万円以下なら絶対買います。

※実は、昨年末に、シャイデル氏の古代ローマの人口学の論説が読みたくて、「The Cambridge Economic History of the Greco-Roman World」という956頁もある本を 購入してしまったのですが、シャイデル氏の論説は49頁だけで、その内容は、ちょっと圧縮され過ぎていて、しかもこの書籍は、持 ち運びにまったく不便で、座って読んでいても腕が痛くなり、読みたいところだけコピーして持ち歩いて読もうとしても、分厚すぎて コピーがとりづらい、など、結局殆ど読まずに終わってしまいました(今のところ)。もっとも、この著作は、ギリシア・ローマ時代 全部の経済を扱った書籍なので、他の部分の論説のテーマに興味が出ればそのうち読むかもしれませんが、今のところ放置していま す。そうして、最近(2014年4月)になり、ネット上にシャイデル先生の各論毎のpdfを見つけた、という経緯があります。

以下、シャイデル教授の主として古代ローマのイタリアの人口について論じた論説「Roman population size: the logic of the debate(2007年7月)」の要約で す。要約といいながら、かなり長文になってしまったのは、読み返すのが面 倒なための、自分の為に作成した要約という点があるのですが、シャイデル先生も、論じている、というより、だらだらと書きながら論点や思考をまとめてい る、といった方が良い感じの内容である点も、読みにくさの一因ではないかと考えています。この程度まとまりのなさこそが無料で読 めるpdfとして惜しげもなく公開してある理由のひとつかと思われます。まあ所詮はworking paperだということだと思いますが、有用です。でも本当に、根拠となる数字が前後したり註に散在したり、計算プロセスをはしょって計算結果の数字が突 然出てきたりして、読みながら、既出の数字や註の数字を探して自分で計算しなくてはいけない箇所が多く、非常に読みにくいものが あります(それら計算した値を各所に記入するのも、この要約の主目的です)。


【2】ローマ時代のイタリアとローマ市民の人口推計

1)ローマ人の人口規模に関する問題の所在

 ローマの人口規模はローマ史を理解するために重要な要素であり、長年研究も行なわれてきたが、未だ全然わかってないに等しい状 況にある。特にローマ時代のイタリアの人口規模は、地中海の他の地域との関係で重要である。人口は経済活動の活発さの指標でもあ り、直接GDPを算定できないため、人口研究はGDPを推定するための前提ともなる。長期的に漸次的な成長があったのか、過度な 成長後の衰退など循環を描いていたのか、とか、中世や近代と比較するためにも重要な指標である。

2)目的と方法

 従来の推計は、資料に偏りがあったりしているので、考えられる推計のための諸要素と諸方法を個別にすべて検討し、整理する必要 がある。諸指標として、都市化率、軍隊、労働市場、内部対立、生活水準、移住パターン、環境状況などがあげられる。

3)ローマの人口調査

 史書から判明している数値(Wiki のケンソルの項目にもある)を検討する。前3-2世紀のローマ市民の人口調査の25個の数 字(ほぼ10年毎)をグラフ化し、前3-2世紀はだいたい30万人であることを確認し、それが、前86年に463,000人、 前70/69年には 91万人と急激に増加しているのは、前86年にイタリア半島の同盟市へのローマ市民権付与が原因であることを確認する。69年の91万人が、前28年 406 万に急激に増加しているのは、前47年のガリア・トランサルピナ(Gallia Transalpina/アルプスの向こうのガリア)への公民権付与だけでは説明できないとし、前8年には423万、後14には494万、後47年598 万人と急激に上昇しているのは、文字通り急激な人口成長があったのか、或いは、人口の登録基準が変わったという可能性を指摘する (前28,8,後14年の人口は「アウグストゥス業績録(岩波文庫スエトニウス「ローマ皇帝伝」(上)所収)」、後47年の人口 はタキトゥス『年代記』岩波文庫(下)に出ている)。



4)急激な市民増加に関する過去の研究
 
 この章はだらだらと色々論じているが、一行で書くと、古代ローマ時代のイタリア人口とローマ市民推計には、史料からすると、高 位数値(high count)と低位数値(low count)があり、様々な他の指標を用いてこの二つを検討することになる、更にイタリア外在住ローマ市民の割合も詳細に検討する必要がある、というも の。以下詳細。

 Karl Julius Beloch(ベロッホ)やPeter Brunt(ブラント)は、前28年以前は、17歳以上の成年男性(17歳以上が軍役となる)だけを人口調査の対象としていたのを、前28年以降の調査で は、子供と女性を含むものとアウグストゥスが変更したのではないか、と解釈した(前69-28年の約315万人の増加(4.46 倍)のうち、2倍分は女性の分、更に2倍分は17歳以下の子供の分、と見る)。しかし、この変更を裏付ける証拠は無いため、ブラ ントは別の見方も提唱している。この見解は、同盟都市の人口はローマ市の人口の2倍から等倍程度で、ガリア・トランサルピナの人 口はローマの人口の1/4を越えない程度のものであり、同盟都市とガリアへの市民権付与等だけで400万人に到達していたのでは ないかという 見解である。シャイデルの2005年の「The demography of Roman state formation in Italy」p7では、同盟市の 人口を推計し、ローマ市民人口と比較した以下のようなグラフを掲載している。同盟市の人口がローマ市民権を付与され、 「ローマ市民」に吸収されてゆく趨勢をうまくイメージ化している(この表の同盟市人口は推計であり、ローマ人口は史料に基づく数値である)。


 
 紀元14年のイタリアに関し、1886年にベロッホは、イタリアを600万、全帝国を5400万、2世紀の全土は1億と見積も り、Bruce Frierはイタリア700万、全帝国4500万、164年をイタリア800、全帝国を6140万とした。このFrierの見解は、イタリアの人口密度を 他の属州(エジプト、シリア、パレスチナ、キレナイカ)よりも非常に高く見積もっている。これら、イタリア人人口を6-800万 とする解釈は、Tenney Frank, Elio Lo Cascio、Geoffrey Kronなどの学者に支持されていて、シャイデルは、この見解を、ローマ市民数を成年男性に限定しないモデルとして「低位 数 値(low count)」と称している。これに対して17歳以上の成年男性は、全人口の1/3しかいないとし て、 女性と子供を含めて前28-47年の調査人口数を三倍するものを「高位数値(high count)」と称 する、 としている(※このような観点に立った場合、17歳以下の人口を算出するために、平均余命の研究が重要となる。シャイデルが葬式 や 結婚、病気、碑文の研究を行なっているのはこの為だと思われる)。

 1924年Frankは、前28年の406万の人口のうち350万をイタリア(80%)とし、イタリアの人口を自由民1000 万、奴隷400万とした。1940年の著作では、そのうち8-90%イタリア半島在住としていた。その理由はFrankは述べて いな いが、成年男性は400万となり、女子供は成年男性を2倍して800万とし、奴隷を含めて15.5-1700万とした、と考えら れる。

 Lo Cascio(カッシオ)は前28年を1350万、前14年を1640万とし、そのうちイタリア在住人口は前28年に1225万、後14年には1447万 人とした(ローマ市民人口の88-90%)。47年についてはカッシオは根拠を示していないが2000万人としている。その増加 は奴隷解 放と市民権獲得によるものとしている。1996年の研究ではカッシオは後47年のイタリア人口を2000-2150万の間とし た。2005年には見積もりを低める方向に変更した。14年以降のイタリア半島の人口増は認められないとし、1350-1450 万がイタリアに居住したとし、市民総数を1500-1640万の間とした。奴隷を含めてイタリア居住者数は1500-1600万 と し、後47年への増加分は、もともとイタリアに居住していた奴隷が解放されて市民になったとし、14年から47年の人口合計はゼ ロサムであるとした。2005年説では、14-160年の間人口増なし、としている。このことは、前28-後14の41年間に 20%も増加したのに、その後1世紀半の間増加しなかったのか?という疑問が出てくるし、ローマ市民のうちの90%のイタリアの 住民は人口増は無かったが、残り10%は移住した属州で人口増が見られた、と見なさなくてはならなくなる。後14年に1400万 人がイタリアに居住したとすると(1400万の7%の)100万人が在外ローマ市民となり、外国人が30万イタリアに在住してい たとしても、その数は1500万の中に含められてしまう(この部分でシャイデルが主張したいのは、結局イタリア外居住者の10% と奴隷・外国人の数は重視されていない。そうしてたいした理由もなく、在外ローマ人が100-150万人とされている、という カッシオの推計方法を 批判している、ということのようである。そこで、在外ローマ人の推計値について、以下の部分でシャイデルが検証計算を行なっている)。

 後14年と47年の100万人の相違は、高位数値では、100万人の成年男性或いは(女性子供含めた)300万人の市民が増加 したということであ る。この300万人のうち、非イタリア居住市民が200万(最新のカッシオは170万とする)、更に彼らが従来からイタリアに住 んでいた現地人の5倍の増加率で増加した、と仮定すると、175万人がイタリアでの増加(12.5%)、125万人が属州での ローマ人の増加(62.5%)、となり(後14年のイタリア在住ローマ人1400万人の12.5%が175万人(合計1575 万)、12.5%の5倍の62.5%が増加300万-175万で125万となり、後14年の在外ローマ人200万人の62.5% の増加分は125万人となる、という計算だと思われる)、47年のローマ市民の総計は1800万 近くなる(イタリア在住1575万、在外ローマ人325万だと合計1900万となるが、本文には1800万とある)。後14-47年も、47-164年も 同じようにゆっくりとした増加だとすると、19-2000万という数字は妥当性を 持つことになる。

 更に、14-47年の300万人の増加について、非イタリア在住ローマ市民の人口増加率が、イタリア半島 居住民の10倍の増加率があると仮定すると、47年のイタリアの人口は更に9%増加(実数120万増加(1400->1520万)し、属州は180 万人(9%の10倍なので90%。120+180で合計300万。在外ローマ人は14年時点では100万という計算となる)増加 する、という推定をすると、後14年の1500万から、後47年の1800万という数値となり、イタリア半島在住ローマ人の成長 と在外ローマ人の人口成長率に大きな差があったと仮定しても、高位数値は 1800万を下回ることは非現実的ということになり、2000万人という推計もありうる数値ということになる。

 カッシオは、アウグストゥス時代は成長トレンドにあったとしているが、それ以降については見解を述べていない。アウグストゥス 以降も成長が続いたのか、アウグストゥス時代がピークだったのか、ということが次なる検討課題となる。一つの事実は、軍事的人材 供給力が低下していることがあり、14-47年の33年間で300万人の増加は、成長の間接的な証明となる一方、その傾向を2世 紀にも当てはめることはできない。2世紀に関する考古学的調査はイタリアでの人口減を示している。成長が無かったとすると、イタ リアの人口は17-1800万という従来的な数字に戻り、1世紀末から二世紀は、人口停滞と低下があった可能性が出てくる。

 高位モデルであれば、共和政後期におけるイタリアには自然増あったことになるが、共和政末期のローマ市民権付与モデルというシ ナリオも未だ有効である。カッシオはエジプト以外の属州は検討しておらず、Frankもまったく言及が無い。僅かにKronが、 ポンペイウスが退治した海賊の人口を1870年代のオスマン帝国時代の当該地の人口を参考に推計しているが、19世紀のレバント 地方や、ローマ時代のエジプトの数値はイタリアの人口見積もりとはあまり関係が無い。

 これまで低位モデルは高位モデルよりも重視されてきて、学者達は、アウグストゥス時代の人口登録方法の変更か否か、という極端 な見解しかなかったが、現在この点を深く論じる時に来ているようである。実のところ、人口登録要件は必ずしも軍事奉仕に直結し ていたわけではないし、資産評価(階級ごとに資産区分があった)と課税目的であれば未亡人や父無し子も入ることになる。選挙登録 という理由が高いかも知れない。独り身の女性やマイノリティを含めるとすれば、人口調査の数値を2.5倍する必要があるかも知れ ない。この場合は、イタリアの人口は前28年で1000万、後14年で1500万となり、これは高位数値と低位数値の中間値とし て妥当な値となるのかも知れない。こうして、高位数値と低位数値という2つのモデルの検討に焦点を当てることになるのである(議 論に埋もれてよくわからなくなってしまうが、結局、高位数値だと47年のタリア半島在住人口はカッシオ説の1500-1600 万、ローマ市民全体だとカッシオが理由を示していなかった2000万という数字もありえる、とシャイデルは言いたいようである。 しかし、低位数値の場合の在外・半島在住人数の検討はしていない。一般に低位数値が検討されているので、ここでは詳細な計算につ いて言及していないのかも知れない)


5)都市化率

 従来の人口推計には、都市の人口数や都市化率が重要な要素として利用されてきた。この節では、古代のイタリアの都市化率を巡る 従来の学説の検 討と、人口推計要素としての都市と都市化率要素の妥当性を論じている。一行に要約すると、従来の都市化率論は総人口の指標としては有効ではな い、という のがシャイデルの結論。以下詳細。


 史料ではイタリア半島には400以上の都市集落があるとされ、Morelyの推算では25%の都市化率となっている。ローマは 巨大人口を抱えているため、ローマを入れるとイタリア半島の都市化率は40%にもなる。1996年にMorelyは、1300年 の都市人口223万人を古代ローマにも適用して推計した(都市ローマ100、その他諸都市132万、イタリア総人口550万)、 半島全体で32%の非農業人口、ローマを除けば18%の非農業人口だったとした。カッシオは、低位数値の場合、前近代としては、 ローマ時代のイタ リアの都市化率はありえない程に高率だとしている。都市化率の議論には、幾つかの問題がある。


 @問題1  ローマのようなぬきんでた都市がある場合、単純に都市化率を判断することができない。

 前28年の550万人(低位数値)のうち、80-100万人が首都圏人口とすると、比率は15-18%となり、都市住民のうち の 38-43%になる。比較として、17世紀英国の数値が引き合いに出すと、17世紀英国では、5000人以上の都市の合計人口のうち70%がロ ンドンに住んでいた。これは英国の9.5%の人口に相当する。低位数値の場合の都市ローマも17世紀のロンドンも、その人口シェ アは圧倒的だが、ロンドンは圧倒的にローマのシェアより高い。数値が違いすぎて、適正値なのかどうか、判断材料にならない(しか も、以下の問題Aで検討されているように、国民国家が誕生しつつあり、イングランドだけの都市とロンドンで都市化率を算定できた 地域・時代と、地中海沿岸部諸都市の首都という位置づけにあったローマとでは、「都市化率」を同列に持ちいることはできない(半 島内だけの都市化率を検討するのは無意味)。問 題Bで検討されているように、17世紀英国の都市の定義を人口3000人以上とか1000人以上と定義を変えることでローマの数値に近 づけるという操作はいくらでもできてしまう)。


 A問題2 都市ローマは、「イタリア半島の都市化率」の指標とはできない

 帝国の首都であるローマの人口と、イタリアの人口とを関係づけることは殆ど意味がない。何故ならば、人口学的なローマン・イタ リアとは物理的半島と同一ではなく、シチリア・サルディーニャ、北アフリカの範囲は、ローマを経済的・政治的中心とする地域であ り、アウグストゥス時代の地中海沿岸部は1000万人と考えられる。これはイタリアの低位数値の倍となる。地中海沿岸地域の首都 としてのローマの人口の比率と、イタリア半島内における都市ローマの人口比率とでは意味が違うし、与える印象も異なる。イタリア 半 島の人口増加率と、都市ローマの人口増加率は一致しないのである。

 B問題3 都市の人口密度が厳密には不明である

 イタリアにおける都市占有面積は古代では580km2であったとされている。一方、1300年のイタリアには71の 10000人以上の都市があり、4225km2(ローマ時代イタリアの7倍)の領域があったとされている。中世には5000人以 上の都市は161あり、総計1860km2で、ローマ時代の3倍となる。合わせると、1300年にはローマ時代の10倍に相当す る(5000人以上の都市の)領域があったことになる(4225+1860=6085 vs 580 で約10倍)。 
 一方、ローマ時代のエジプトの都市領域のサイズ5-600km2は、当時のイタリアの都市領域(580km2)とだいたい同じ である。しかし、エジプトの方が生産高も大きく、耕地面積も大きいのだから、エ ジプトの人口の方が大きいことになるが、同時に、当時のエジプトの村は、イタリアの小都市の人口と同じくらいの人口を抱えていた。

 このように、都市の人口は総人口の算定には直接結びつかない。

 Moleryは、低位数値を用いて、ローマ以外のイタリアの都市に130万を想定している。これは1都市あたり 3000人となり、唯一碑文史料に記載さ れているplebs urbana (CIL XI 2650 from Saturnia in Etruria)が指し示す、1,000 から2,000名の都市自由民の数に近いが、碑文以外の文学史料は概して大きな都市人口を記載していて、あまり役立たない。

 1300年のイタリアの人口は950-1100万人、5000人以上の都市の総人口が、Morelyが用いた223万という数 字で ある。しかし、イタリア半島外からの流入人口を除外すると、帝政初期ローマ時代のイタリア半島の都市人口は180万(と仮定すると)となり、223万より 非常に低くなる。仮に、1300年当時の3000人以上の都市を含めた都市人口で計算すれば、都市人口は270万となり、ローマ 時代の都市人口180万とは50%もの開きとなる。1300年の270万は、全人口の25-28%となり、この割合を古代ローマ の都市人口180万に適用すると、ローマ時代のイタリア全土の人口は680-720万(うち50万が外国人)となり、古代イタリ アの人口は、1300年当時よりも30%低くなるが、低位数値のラインに乗ってくる。反対に、古代の人口を1300年の人口に合 わせると、古代ローマの都市化率は低くなる。更に高位数値を採用すると、古代の都市化率は更に低くなる。イタリアの人口を高位数 値の1600−2000万とした場合、25−28%の都市化率だと、都市人口は400−600万となる。都市の平均人口は、ロー マを除外しても、7000-1万となる。ローマを含めると、1都市あたり9300-13000人となるが、これは中世の5000 名以上の都市人口平均が13,900人、 5000人の都市161の平均 8,400、及び3000人の小さい都市という数字と一致する(この中世の数字の根拠はここでは記載されていない。ただしこのpdfの末尾で中世の都市の 人口規模別分布に関する言及がある)。このように高位数値の都市人口は、低位数値の2.3-3.6倍になる(2.3倍は、低位数 値の都市人口見積もり180万に対し、高位数値の400万が約2.3倍になるということだと思われるが、高位数値600万に対す る180万は3倍でしかなく、3.6倍ではないので、この部分は意味不明)。

 では、ローマ時代のイタリア都市の人口を3000から、その三倍の値として考えて総人口を推計すればいいのだろうか?結局都市 化率のようなものは、人口推定に予見を与えるだけのものなのではないだろうか。都市の規模というものは、総人口の推計上重要な問 題ではないのではないか。Moleryの推計より大きな都市人口を想定しても、それは総人口の巨大さには直結しない。後世の同じ 都市化率の時代と比較するのも不適切である。なぜなら、この手法をとる研究者は、2つの異なった環境における一致点を探している だけだからである。

(p14)都市と周辺住民の緊密性を取り上げたMogens Hansenの古代ギリシア研究などによると、「都市民」の定義そのものが使用が難しいことがわかる。 古代イタリアの、580km2という都市領域の総計数値に限定して算出することの無意味性も論じている。都市民は非農業人口とは限らず、政治的・文化的代 表者を意味するこのでもあるからである。都市民の大多数は農業と関係している。後世の地方領主と比べると、都市と農村の区分は明 確ではなかった。カッシオは、都市 と田舎を明確に区別する推計タイプと19世紀シチリア風の混合タイプ(註68 2/3の都市率)での推計という2つの方法論を出 してきたが、これも無意味である。周辺地帯の都市化度は10,20,30%のどれを置くべきなのか?

 結局第5節の結論は、都市化率に関するこれまでの議論は、古代ローマの人口サイズの総量については、まったく寄与しない、とし て いる。


6)軍事奉仕

 カッシオは、人口に占める軍隊動員率を、前215年9.5%、214年11.8%、212年12.6%と見積もっているが、こ れらの数字は、成人男性が総人口の1/3で、そのうち動員対象のiuniores(17歳から45歳の男性のこと)が 50-70%という想定で計算しているのであって、女性や子供も戦時には動員されたことを考えると、この数字は容易に変動する (シャイデルは、前215-212をそれぞれ、7.5%、9.4%、11.9%と記載している)。
 カッシオの計算は17-19世紀西欧の軍隊参加率を参考にしている。Brunt(ブラント)の場合も18-9世紀の欧米での国 民 軍を構成する人口比率などを流用している。ブラントが参考にした米南北戦争中の南部連合(11%)や1760年や1813年のプロイセンでの動員率 (6-7%、 1709年のスウェーデンでは7.7%)も、単純に比較できない。ロー マ軍には他国傭兵の参加率も高いため、条件が異なっている。カッシオの主張は、軍事的奉仕は負担が高いから、極端な数値は持続性がない、そこで前近代での 軍隊維持割合は、概ね相違がないだろう、ととしている。カッシオは、低位数値では、負担率が高すぎるとし、Frankは、これを 解決するものとして高位数値を提案した(高位数値だと、前212年は、低位数値の11.9%に対して、6.3-6.5%となり、 スウェーデンやプロイセンの数字に近くなるが、低位数値の11.9%は南部連合に近くなる)。ローマは、南部連合に近いのか、プ ロイセンに近いのか? 結局のところ、都市化率 と同様、軍事奉仕率も総人口の算出には関連性がないのである(高位数値と低位数値の問題の解決には寄与しない)。

 動員率とは異なり、軍事奉仕では別の検討テーマもある。帝政開始後150年間の、ローマの軍団におけるイタリア出身者のシェア は、兵士の出身地に言及した碑文が多数発見されて いることから推定されている。これによると、前30−後14年の62%から、後41-68年の37%、68-117年には 22%、117年-3世紀末には2%へと急激に低下していている。ここからわかることは、「イタリア人の軍隊参加者が減少」して いることまでで、イタリア半島の人口全体が減少していたのかは判断できない、外国人の流入により増加していたかも知れない、とし ている(この点が、従来研究での、帝政期のイタリアの人口停滞の論拠の一つとなったのかも知れない)。

※メモ『プリニウス博物誌(1986年版)第1巻』(p170/3-133節)に「(前225年に)8万の騎兵と70万の歩兵を 装備したあのイタリア」との記載がある。


7)労働市場

 労働市場を人口指標とする考え方は従来殆ど省みられてこなかった。前3世紀末に20万だった奴隷人口が、その後の200年間で 120万に増加したとすれば、人口学的に見ても重要な要素となる。イタリアが経済力をつけたことで、イタリア市民の賃金 が上昇し、奴隷購入の方が安上がりになり、奴隷需要が増加した。また、イタリア市民に奴隷購入資金ができる程経済力がついてきた。こうして奴隷 需要が増えたから、奴隷がイタリアに流入することになったのであって、逆では無い。戦勝で獲得した奴隷が法律的に自由民世帯に 割り当てられて、その結果奴隷利用事業が発達したわけではない。または奴隷を利用する事業が最初からあって、事業の為に戦争を行 なって奴隷を獲得したわけではない。ただし、軍隊参加者が多数となり、労働市場での人手不足を奴隷にを購入することで補填した、 という考えは成り立つ。経済力が奴隷人口に影響する。そうして、奴隷が多数流入すれば、今度は賃金抑制に向かう。
 
 低位数値の場合は、人口は停滞し、軍事奉仕や都市化、資本の成長に伴う移住や奴隷市場へのアクセスの容易化などが、奴隷数の増 加を強制させたとというシナリオになる傾向がある。高位数値シナリオでは、人口成長は自由人による軍事奉仕をまかない、経済需要 も高め、奴隷需要が増加したと見る。

 この状況は、内戦中のローマにも適用できる。前69年から29年の間の内戦軍事費用は少なくとも10億デナリウスに達していた とされている(註93)。この結果賃金が高騰し、安価な奴隷が流入することになった、とも考えられる。註92では、16世紀ポ ルトガルにおける、人口減少と都市化・賃金上昇と移住・奴隷労働の増加の平行現象が傍証事例として記されている。


8)政治的安定性
 
 共和政後期の混乱や、高位数値の人口成長圧力を見ると、内戦中でも人口成長が実現されていたように見える。実際 半島統一戦争 時代(前4-3世紀)は、植民ブームがあり、第二次ポエニ戦争でも人口圧力はあった。従来の研究は、人口成長を政治的不安定性と 関連付けていた。Jack Goldstone,とPeter Turchinは、人口と国家体制の関係を再考する研究を行なっている。一方Turchinと Sergey Nefedovは 共和政の崩壊と人口成長の関係を研究し、内戦を低位数値モデルに結び付けている。Luuk de Ligt,も前2世紀末後半以降の混乱は、緩やかな人口成長(低位数値)が土地所有や政治的騒乱の一端となったとしている。こうしてみると、政治的安定性 と人口成長の間にはあまり関連性が無い。人口密度が100人/Km2では人口過剰で社会が不安定となり、50/Km2で十分に人 口を賄えた、とい うことを決定することはできない。観測される危機を人口に関連づけるものは証明されていない。社会混乱は人口密度の測定を容易に する、ということ以上はいえない。どれくらいの労働需要が、 農地に関する闘争と表裏一体のものなのか、を知ることは難しい。ス キル職種に需要が集中すると、奴隷と農場労働者との競合が低まるので農場での奴隷の使用率は低下するだろうが、このシナリオは、 農地や知識労働での奴隷の人数の推計には役立たないだろうし、(常に)コストのかかる軍事奉仕の推計にも役立たないだろう。
 より単純な見方は、人口圧力による殖民があったと考えることはできるが、この考えを内戦後について、適用することは難しい。 Morleyは、ア ウグストゥスとその後継者が達成した統一と平和は、過大人口が政治的不安定を導かなかった、と論じた。ではなぜ、同じ人口圧力 が、共和政期には不安定となり、帝政に入り不安定にならなかったのか。証拠は低位数値にも高位数値にも読め、これについても結論 は出ない。


9)生活レベル

 高位数値の理由を、イタリアにおける技術や生活レベルの発展や気候変動や労働環境改善とか、輪作技術の向上の生産性上昇に 求める考え方がある。動物の遺骨の研究で、帝国全土で食料事情が改善していたとか、人骨の遺骨研究で、身長が20世紀中旬レベル に達 していたとか、地中海の沈没船数や鉱山生産量や貨幣出土数が、共和政末期から帝国初期にピークを迎えるとか、20世紀になるまで 実現できなかった物理的レベル・人口レベルに達した、とする研究を利用するものである。

 しかしこの観点も問題がある。イタリアの準エリート階層の生活レベルの改善は、人口全体の拡大や、人口圧力と連動しないし、生 活レベルを維持するだけの労働比率の定義や、一人当たりの消費量の成長率を示しはするだろう。イタリアにおける高位数値は、前近 代としては大きな数値で、そこに物理的に良い状況があったという予見を与えるとともに、後の伝染病の流行などにより、人口崩壊が 発生するという人口の脆弱性にも注意を 向けることになる。長期気候変動や労働環境改善などが持続的レベル以上に人口を発展 させていた場合、これらの条件が変わると、一時的に持続可能はレベルを突破してしまうことが発生する。
 Kronのように、人口と経済力・高い生活レベルの両方で、帝国は、19世紀の欧州レベルまで到達できなかったレベルに達して いた、とする楽観論者もいる。しかしこの観 点に2つの問題がある。一つは、ローマ人が開発した輪作のような農耕方法の高い技術は、それが広く利用されたことを意味するものではない。2つ目の問題 は、Kronの楽観主義は、近代欧州と同じとように持続的成長があったとか、中国の状況と同じとか、ローマを極端な例外主義でみ ていることにある。ローマでも(近代欧州や中国のように)人口的経済的開花が起こり、マルサス的人口の罠にかかって終了する、と いうものである。Ian Morrisの最近の研究では、古代ギリシアにおける持続的人口拡大と経済成長を示しているが、古代ローマはデータも少なく、そこまでわかっていない。

 本質的に、ローマ帝国もイタリアも、人口稠密で高い生活レベルを実現していたのは本当に例外的で、より広範な歴史のパターンと 一致しないものなのか、しかし生活レベルの情報も未だ十分とはいえないし、物証の年代も正確に判明していない。現時点では、生活 レベルを人口規模の算出に用いるには、データが少なすぎて、まだ信頼できるガイドを出せるレベルには無く、生 活レベルを人口算出に用いるには、真空中に人口規模を構築するが如しである。


10)現地調査

 Rob Witcherは、ローマを中心とする直径50kmの範囲内にある郊外の112箇所のフィールド調査を行ない、田舎では平均1km2あたり、2つの農場と 1 つのヴィラがあるとし、平均的な規模の農場とヴィラの規模から推計して、合計10,830の農場と5,415のヴィラに 135,375人から 433,200の間の人びとが居住していたと推計した。一方この範囲の村には2,500-10,000人が居住し、都市域には 55,400-201,000人が居住していたと推計した。これは合計で、193,275人から644,200人(1平方キロ メートルあたり35.7から119人)が耕作地に住んでいたということになる。

 この数値は幅が広いため、Witcherは平均値として、326,000人を採用している。更に、ローマから 50−100 kmの環状地域のフィールド調査を行い、 1km2あたり1.5の農場と0.2のヴィラがあるとし、その人口を95,000-294,000人とし、平均値として、154,000人を採用してい る。これに村と町を含めると、50-100kmの環状地域には384,000人が居住していたと推計している。 前者の中心地域の人口密度は 60/km2、後者の環状地域は42人/km2、都市化率は、前者が1/3、後者が1/2としている。その後、Witcherは、2005年の論考で、低 位数値の場合、ローマ以外のイタリアに600万人が居住し、耕作地の人口密度を42/km2と60/km2を合 算平均する値として48人/km2という数値を提出し、高位数値の場合には、1400万人、人口密度は112人/km2となると している(低位数値 (550万人)のイタリア人口密度22人/Km2、高位数値(2000万人)の人口密度80人/km2と比べると、119や60 は高位数値に近く、42は 高位と低位の中間値となる)。

 このローマ近郊50km地帯とその外側50kmの環状地帯は、合計14,466 km2の耕作地と19,520 km2のそれ以外の場から構成されていて、 Witcherの算出した平均値の総計は71万人、耕作地の人口密度49人/km2、全体で36人/km2となる。一方Wicherの推計の最大値で計算 すると総計1,398,000人、97人/km2が耕作地に住み、全土で72人/km2となる。

 この時点では、イタリア全土の戸口調査から推計される単純人口密度の高位と低位数値に、Wicherの推計が匹敵していること はわかったものの、「耕作地」だ けに絞った人口密度ではどうなるのだろうか、と、これ以下シャイデルは、いくつかのパターンの計算を行なう。

 ベロッホは、イタリアの耕作地を、全土(250,000km2)の40%の100,000 km2とし、耕作地の人口密度を 50-60人/km2(非都市人口5-600万人)、全土の人口密度を20-24人/km2と見積もった。Witcherの算出 した、ローマ近郊の耕作地人口 密度49人/km2は、ベロッホの推定した耕作地を、イタリア全土の50%が耕作地(125,000km2)であると仮定した場合の人口密度(=低位数値 の耕作地の人口密度)40-48/km2にほぼ等しくなる。このことは、仮にローマ近郊の人口密度がイタリア全土の耕作地の 1.5倍という仮定にも適合する(なぜ突然1.5倍という数字が出てきたのかは不明)。

 高位数値(非都市人口1500万)で計算すると、イタリア全土の60%が耕作地だと仮定すると(※高位算定なのだから、耕作地 の割合も低位(50%)に比べて10%増やしたのだと思われる)、耕作地人口密度は100人/km2となり、全土で60人 /km2となる。1700万人で計算すると、それぞれ113人/km2、68人/km2となり、最大 1900万で計算すると127人/km2、76人/km2となる。,高位数値だと耕作地人口密度は100-120人/km2となり、Wicherの推計値 の(平均値の)2-2.5倍の値となる。この高位数値の人口密度は、Witcherの推計値の最大値の耕作地人口密度97人 /km2にほぼ等しくなる。つまり、高位数値は、土地柄の良い土地の人口密度に該当する、という可能性がありそうである。

 高位数値が正しい可能性もあり、その場合、Witcherが調査した地域内に調査漏れとなっているサイトがある可能性があり、 その場合、1農場の人口を8人と想定すると、 92,000から133,250箇所の農場(人口にして736,000から1,066,000万人)を追加できるかもしれず、更にWitcherは 24400の農場の存在を推測している(シャイデルは、133250/24400という算定から、埋もれている農場の割合を 80-85%と書いている)。もし24400の半分(人口にして195,000人)が確認されれば、 耕作地人口密度は63/km2、2/3が確認されれば、77人/km2となり、高位数値に近づくことになるのである。

※シャイデルの主張がわかりにくいので表にました。

(1)Witcherの調査結果の数値

--   Witcherの調査 -------------------
ローマの周囲50km範囲内 50-100kmの環状地帯 合計 耕作地以外を含めた人口密度
農場数 10,830 21699 32529
ヴィラ数 5,415 7233 12648
農場+ヴィラの住民数 135,375-433,200 95,000-294,000 230,375-727,000
農場+ヴィラの住民数(平均)
154,000 48万
村の人口 2,500-10,000


都市域人口 55,400-201,000


合計人口 193,275-644,200 384,000 577,275-1,028,200
上の合計値の人口密度(1km2) 35.7-119


平均値(代表値)人口 326,000 384,000 71万
平均値(代表値)人口密度 60/km2 42/km2 49人/km2 36人/km2
耕作地面積
14,466 km2 19,520 km2 33,986km2

人口最大値


1,398,000人
人口最大値の人口密度


97人/km2 72人/km2

(2)シャイデルの思考実験


耕作地人口密度
全土の人口密度
ローマ近郊耕作地人口
Wicher推計の人口密度平均値(ローマ周辺の稠密地帯、全体の50%が耕作 地) 49人/km2 36人/km2 71万
同上(最大値)
97人/km2 72人/km2 140万
ベロッホの推計人口密度(耕作地は全土の40%) 50-60人/km2 20-24人/km2
ベロッホの推計人口密度(耕作地を全土の50%とした場合)=低位数値の耕作地 人口密度 40-48/km2

高位数値(非都市人口1500万)の耕作地(イタリア全土の60%)の人口密度を採用した場合 100人/km2 60人/km2 144.6万
高位数値(非都市人口1900万)の耕作地(イタリア全土の60%)の人口密度 を 採用した場合 127人/km2 76人/km2 177.6万

 読んでいると数字をこねくり回して遊んでいるようにも思えてくるが、要するに、シェイデルは、Wicherの調査結果による推 計の高い方の値(97人/km2)を、低位数値と高位数値に近づける為には、どのような条件が必要か、を検討しているのである。

 考古学発掘は、従来予期されていた値以上の結果となっている。実地調査の結果の数字の幅は、低位数値よりも少し大目の値とな り、高位と低位の中間の値への道を開いている。そうして、未だ埋もれている農場の数の如何によっては、高位数値もまた現実味を帯 びてくる、ということを整理することを意図したのだと思われる。


 オスマン帝国時代のボエティアでは、15-19世紀の記録と発掘データが3つの時代で平行線がある(連動している)ことがわ かっているので、考古学の値も有用である(p25冒頭)
 
 エトルリアでの30回以上の調査で、Witcherは、内陸と郊外、海岸地帯での人口を検討し、内陸では停滞か減少し、郊外は 成長、海岸はその中間、と人口の時代変遷を推測している。エトルリア地方の人口減少は、ローマへの集中化を表していると考えられ ている。つまり、 郊外とローマは、自然増減ではな い、ということを意味している。同時に、移住は、全体の人口の増減と調査対象地での増減を関連付けることを困難にする、ということでもある。

 周辺地帯は、中心部と比べると移住による増減率は低かったのではないかと思われるが、このことは、東南イタリアとサムニウム地 方における人口が希薄な理由への疑問を投げかける。

 John Pattersonによるフィールド調査の結果では、イタリア半島の2/3の地域で1世紀から減少に入った、としている。他の場所(残りの1/3という意 味だと思われる)は継続的成長が見られても、2世紀になると稀となる。これらの諸研究の範囲では、アウグストゥス時代以降一貫し た成長があったようではなさそうで、ローマ帝国の人口は2世紀ではなく、1世紀をその頂点とみる方向性を示している。


11)運輸

 運送される物資量から人口規模判断する方法である。収穫は、気候的条件で共和制後期はよくなっていたことも要素として挙げられ る(この節は12行しかなく、必要であれば読み直せばよい、という程度の記載しかない)。


12)比較上の証拠

 この節では、中世のイタリアとの数値の比較ということの有意性を検討している。

 高位数値の場合、1700万から2000万人がイタリアに住み、そのうち3/5が半島部分に住んでいたとすると、凡 そ1000から1200万人が、半島(この場合の半島とは、北イタリアや島嶼部(サルディーニャ、シチリア)を除外した部分のこ と)に居住していたことになる。この数値は、1840年代に到達し、1880年代の値にも匹敵している。低位数値の場合でも、帝 国全土の人口の1/4が、全土の面積1/6の領域に居住していた.ことになる。低位数値 はBelochが提唱してBruntが発展させた。Kronは、低位数値は、中世の最大人口の半分という考え方から出て きたものとし、ローマ時代のイタリアの人口が600万以下であるベロッホとブラントの仮説は、1660年のイタリアの人口 11,647,000人を越えない、ということと連動しているとした。低位数値が多くても7,800万程度に留まり、中世イタリ アの最大人口が1000-1100万人くらいであれば、この見解の範囲に収まるが、そもそも比較対象となっている中世イタリアの 人口推計はどのようなものなのだろうか。

 1300年のイタリア人口推計12.5Mは、以下3点から推計されている。

1.都会人口が2.5-300万 2.総人口の20-25%が都市人口  3. 1と2から算出される10-1500万人の中間をとって1250万人ということになった(サルディーニャとシチリアを含む)。そうして、都市人口率 20-25%という数字に特に根拠はないのである。有用な資料は、1300年当時5000人以上の町が200あった、というだけ なのである(Malanimaの研究では、199の都市のうち28%にあたる55の都市の数しか彼のデータベースに入っておら ず、残り5000人を半分の99の都市に振り分け、だいたい四捨五入に5の倍数の数値を採用し、5000(55)、6,000 (26), 7,000 (21) and 8,000 (9)(=計65万人。これに5000名都市の99を加算すると114万5千人)。彼の推計した都市人口合計は257万人、全土総人口 10.5-12.9(平均値11.6M)としている)。

 黒死病の流行の後、人口は復興し、1700年には1360万人程となったとされている。増減はあったものの、 1300年から17世紀末まで10-1300万で増減したようである。シチリアとサルディーニャは100万とすると、本土は 9-1200万人で増減していたことになる。しかし、もっと低い推計もある。1300年当時、5000人以上の町の総人口は 124万人程度で、これに都市化率20-25%を乗じて410-500万人程度とするものもある。後14年の600万に近い値と なり、半島部分だけなら450-550万人程度かもしれず、この数値は1300年の低位数値に近い値となる。ローマの特別に大き い都市は除外して、ローマ時代の人口を4-500万としてみても、1300年の低位数値に近くなる。

 北部イタリアは更に異なった状況にある。1300年当時の北イタリアは、987,000人の都市住民がいて、北伊全体の15% だと考えられている。北伊全体では6-700万人いたことになるが、ローマ時代の北伊人口150-200万人(この数値の出典の 記載はないが、後述のブラントの推計(全土の20%)のようである)と比べると非常に大 きな隔たりがある。また、1300年当時のイタリア人口の半分が北伊である。

 このように考えてくると、1300年の人口推計は、ローマ時代の低位数値に関しては、比較してもあまり意味は無いといえる。ブ ラントはイタリア人口の20%を北伊に割り当てたが、現代イタリアにおける北伊比率は75%にもなる。ローマ時代の人口が中世の 半分だとする見解では、ローマ時代以降北伊が急増したのだとしても、1300年にその半分に達することもおぼつかない。半島部分 については、「ローマ時代は1300年(中世最大時)の人口の半分以下」という見解は成り立ちがたい(De Ligtは、ローマ時代の北伊は、低位数値モデルに従う程度の人口密度だったとしている)。

 ローマ帝国の東部の人口は、19世紀や20世紀中頃の当該地域の人口に匹敵し、西部の人口は中世西欧の人口に匹敵していた、と いう言説も、時代状況が異なっている為無意味であるが、とりわけイタリアについては当てはまらない。そもそもイタリアは西欧と同 じトレンドにあるのか、オリエントと同じトレンドにあるのかえ区別できない。高位数値モデルをイタリア半島に適用してオリエント 地域の人口密度を想定し、この地域の人口は19世紀レベルにあったとしても、北伊の人口はそうではなかったし、低位数値モデルを 半島に適用し、中世西欧と同じレベルにあったとしても、やはり北伊の人口は逸脱している。低位数値モデルは中世と比較するのは無 意味である。

 このように、中世や近世を比較対象とした場合、低位数値と高位数値の間を行ったり来たりするだけなので、中位モデルを検討する 価値がある。例えば、Saskia Hinは、北伊の人口を後世の人口に近づけている。これは、西欧人口モデルに近づくというメリットもある。これまで続いてきた高位数値と低位数値の二分法 を批判的に検討することは急を要している(全体的に低位数値を採用する学者が多いことから(Bruce Frierなど)、シャイデルは、高位数値も含め、ローマ帝国全土を総合した人口研究を提唱している)。


13)どこに向かっているのか?

 この調査は決定的な答えを出すことには失敗した。人口調査記録は解釈の余地が広く、私の計算によっても様々な要素は低位と高位 の どちらを強化するものでもなかった。もし古代が中世より人口密度が低くないのではと考えるなら、低位数値モデルは採用しがたくなる。とはいえ近代イタリア 程の達成が古代にあったするのはチャレンジャブルである。この点を明確にする為に表で示す(以下の表は、p30とp31のグラフ の引用。上は北伊を含むイタリア半島の人口、下は 北伊を含まない半島部分の人口推移グラフ(北伊がキーであることがわかって、グラフを分割して作成したということのようです。半 島部分は、低位モデルを採用しても、中世よりも古代は上回っていたことがわかります)。



 Lo CascioとMalanimaの2005年の研究では、古代ローマの人口のピークを 1世紀15-1600万とし、中世の1300年のピーク1250万を20-30% 上回っていたとする(中世はシチリアとサルディーニャも含んでいおり、古代ローマの方は両地域を含んでいない)。本土だけで比較すれば、中世は1160万 人程度であり、ローマの方が30-40%多いことになる。 更にMalanimaは独自の方法論で島嶼部を更に80万人マイナスし、1080万としていて、これだと、ローマの方が40-50%中世を上回ることにな る。もし高位数値の17-1900万を受け入れるならば、ローマの人口の頂点は60-75%中世を上回ることになる。

 この表から伺われることは、低位と高位の間の、中位数値モデルが、解決策となるのかも知れない。しかし高位数値の少なくとも説 得力のある選択肢であることも否定するものもなかった。巨大な平和は流通コスト、情報コストを低め、通常ではありえない人口密度 を達成した。しかし統一が人口にどの程度寄与したのかは、作業仮説に留まり、先入観ではなく、データによる証明を必要としてい る。ローマの経済が中世や近代欧州と異なる軌道を描いていたのか、持続的経済成長にあったのか、これらを論じるためには、人口の 規模は基礎となる。2つのシナリオ(高位と低位)の論理的帰結は、前近代の歴史の理解に非常に重要である。 

□関連資料
 毛利晶「古代ローマのケーンスス」『歴史学研究』2018年12月号、共和政時代の人口調査(ケンスス)の実態と、前91年か らアウグストゥス時代の大幅人口増の背景を論じていて有用。

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