【1】帝政期の都市ローマの人口の人口推計の算
定根拠
1.実測値
270年に建設されたアウレリアヌスの城壁内の面積:13.7Km2(1370ヘク
タール)
2.古代史家の記述による人口密度の参考情報
シチリアのディオドロスによると、アレキサンドリアの人口を30万人としており、人口密度0.1km2=326人 (32,600/km2)となる。これをそのままアウレリアヌスの城壁内の面積に適用すると44 万人となる。 3.古代の同時代史料の記載
3-1 碑文・文献に記載された人口 碑文も発見されていることから、アウグストゥス時代の同時代史料だとされる『アウグストゥス業績録』(岩波文庫スエトニウス 『ローマ皇帝伝』に併録されている)によると、前5年のこととして、「首都の平民32万(第15節p215)」という数字が出て くる。この数字が、成 人男性だけなのか、女性と子供、奴隷や外国人も含むのか(低位数値・高位数値)、で数字が異なってくる。 Lipsius が最初にこの数値を用いてローマの人口推計を行い、1605年の著作(のp113-20)で75万人以上と推計した。業績録の総人口調査では、女性と子供 を含めているとの説(低位数値)があり、これに よると32万+奴隷・外国人とい うことになる。この数字は、アウレリアヌス城壁内の面積に、アレキサンドリアの人口密度を適用した値に近い。 2世紀の著作『プルターク英雄伝・カエサル』(岩波文庫p165 55節)及び『スエトニウス ローマ皇帝伝』(岩波文庫 p49 41節)には、カエサルの行なった人口調査に関する数値があり、32万人の穀物無償受給者を15万人に減らしたという記 載が出てくる。スエトニウスの記載によれば、これは「従来とは調査方法も場所も違えて」「共同住宅(インスラ)の所有者によって 実施させた」とあり、文意からすれば、それまで過大に見積もられていた無償受給者を、より正確な調査により「減らした」というこ とだと思われ、穀物受給資格があるのはローマ市民であり、支給対象者という意味では女性や子供も含まれると考えられる。一方プル タルコスの文章では、内戦による人口減少(死亡か、ローマ市から内戦を避けて他の地域へ移住したのかは不明)だと記載されてい る。 なお、スエトニウスのアウグストゥス伝(岩波文庫p215)には、前29、24,23、12年にそれぞれローマ市民一人ずつに 祝儀を与えた、と記載があり、「私のこれらの祝儀は二十五万を決して下らない人びとに行き渡った」とあります。 3-2 インスラと一戸建ての数 共同住宅(インスラ)の人口が、ローマ市民の住民の何割に相当するか、という点については、次項コンスタンティノープルの人 口算定根拠の項目で利用している「西南アジア研究 No21 p31-48 米田治泰 「コンスタンティノープルの人口と生産機構」」に、以下のような数値の内容があります。 ・コンスタンティヌス大帝時代に、貴族の邸宅(ドムス)は1797、インスラはローマは46603戸 この記載では、一戸建ての居住民は、インスラの11.5%程度となり、古 代ローマの人口推定論説『the population of Ancient Rome』ではドムスの居住人数 を 平均12−20人としている。平 均15人と仮定すると26955人となり、インスラの一戸あたりの居住住民は平均5人程度だから、総計233,015、両者を合計した人口は 259,970人となる。(ヨハネ ス・クリソトムス(Johannes_Chrysostomos(349 頃−407年))と同時代人のAusoniusは17万程度としていたとのこと。 この部分、数値の出典とアウソニウスの出典箇 所が米田論文に記載されていないのが残念です。 <<2019/Apr/30追記 出典史料は4世紀の史料とされる『Curiosum urbis Romae』と『Notitia urbis Romae』で、アウグストゥスが設定したローマ14区に所属する各区のインスラ数とその総合計値が記載されています。他の建築物が単体の建築物を示して いることから、インスラも、戸ではなく、集合住宅1件を一つとカウントしているように見えます。集合住宅の数が46603件ある とすると、1件あたり平均20名住民がいるとして、約96万人になります。ただし、総てのインスラがメンテナンスされ人々が居住 していたとは考えられず、廃墟、廃部屋となっている物件も多かった筈です。インスラの平均規模300m2から計算すると、 1398.9ヘクタールとなり、アウレリアヌス城壁内の面積を若干上回る数値となってしまいます。公共建築の占有部分は、復元地 図をざっとみても、1/3から1/2ほどあり、アウレリアヌス城壁内に46603件のインスラがあることは物理的に成り立たない 可能性があります(小規模インスラが多い、或は『Curiosum urbis Romae』に記載されているインスラ数は、アウレリウス城壁外のものも含む等の可能性もありそうです。 アウレリウス城壁内の公道・公共施設、ドムス以外総てインスラが立て込んでいたとした場合、城壁内総面積の2/3がインスラとす れば、インスラは約30000となり、1インスラ20名の居住とすれば、60万人となります。 この史料に関するインスラ数の詳細は、記事「古代ローマ都 市要覧史料『Curiosum urbis Romae』『Notitia urbis Romae』による都市ローマの人口推計」を参照してください>> 「アウグストゥス業績録」の人口32万を、女性子供を含むローマ市民と解釈した場合(低位数値)、前回ご紹介したシャイデルの イタリア の都市部の奴隷率31%を適用すれば、奴隷を含めたローマの総人口は約42万人となり、アレキサンドリアやオスティアの人口密度 (以下の4節「遺跡調査」参照) を適用した値にほぼ等しい値となります。「業績録」の人口32万を成年男性だけだと解釈する高位数値では、凡そ三倍して96万、 これに奴隷 31%を加えて、約130万となりますが、これだと13.7km2のローマ城壁内の人口密度が9万5千人/km2となり、オスティアの人 口密度の三倍となります。いくら高層階を仮定するとしても、当時としては超高層過ぎるのではないかと思います。最盛期2世紀頃に も『Curiosum urbis Romae』に記載のあるインスラが存在し、270年頃に建設されるアルレリウス城壁の外側の地域にもインスラがひしめいていたと考えれば、130万人人 口は収容可能であるように思えます。 3-3 その他メモ スエトニウス カエサル伝38節(岩波文庫p32)には、内乱終結(前45年)に、ローマ市民に一人あたり穀物10モディウス (65.5kg=約100日分相当)、オリーブ10リブラ、400セステルティウスを支給し、ローマにおいて1年分の家賃 2000セステルティ以下、イタリアにおいて1年分の家賃500セステルティ以下の物件の家賃を1年分免除した、との記載があ る。 4.遺跡調査
ポンペイでは75%が発掘され、オスティアでは50%が発掘されている。現在では、未発掘エリアをコンピューターで推測する作 業が 行なわれている。遺構から人口を算出するには、家族構成を知る必要がある。家族構成の研究により、古代ローマは核家族だったと推 測されている。記述史料によれば、狭いアパートの個室に男性一人、或いは男性二人、母子家庭や小核家族が暮らしていた。人口学的 に も一世帯3-5,6人だと思われる。世帯に占める奴隷数が問題となる。古代ローマの奴隷数は1/3-40%と見積もられてきた が、これは医学者のガレノスの記載による、ペルガモンでは、12万人の人口があり、うち4万人が市民で、4万人の女性と子供、4 万人の 奴隷がいた、とするものである(即ち人口の1/3が奴隷)が、男性と女性・子供の割合が不自然なので、現在では一般化できそうにな い数字だと思われている。概ね、世帯人口は、アパートで3-5人、独立した住宅で13-17人ではないかと推測される。 これらの世帯人口データで、ポンペイとオスティアの人口と人口密度を算出すると、以下の内容となる。 ポンペイの人口は1万1132人で、人口密度は16,615人/km2(166人/Ha)、オスティアは21,874人で 人口密度は31,700人/km2(317人/Ha)。ポンペイの人口密度をローマに適用すると、335000人、オスティアだと44万人となる。前者は アウグストゥス業績録の記録32万に近く、後者はアレキサンドリアの人口密度を適用した値に近い。 古代ローマの市街地図遺跡フォ ルマ・ウルビス・ロマエは、 市街地様子を知る参考になり、ポンペイやオスティアの構成をローマにも部分部分で適用できる可能性を示す。 5.近代の人口統計との比較
以下は、近代から現代のローマ市統計。第一次世界大戦後に、オスティアやアレキサンドリアの人口密度を適用した44万を越して い る。 year population population density (persons per sq. km) 1881 272,012 18,675 1901 424,860 26,289 1911 409,263 25,324 1921 471,857 29,127 1931 460,196 29,347 1951 444,009 28,315 Source: Comune di Roma Ufficio di Statistica e Censimento 1960 Tavole 17, 65; Tavole 19, 68; Tavole 21, 70; Tavole 23, 73; Tavole 25, 76; Tavole 42, 233. TABLE 2. Modern city of Rome population 18811951. 6.100万人説に関する議論
もし100万人の人口がローマにあったとすると、どういう論点が出てくるのか。 6-1 現代のインドのボンベイより人口密度が高いということがありえるのか? もし、ローマに100万の人口がいたとすると、700人/Haとなるが、それは可能だろうか?1980年のボンベイでさえ 188人/Haなのに?(1980年のボンベイの人口密度は18,796人/km2、カルカッタは31,779人/km2(国連 報告書)で、このボンベイとカルカッタの数値は、各々古代ポンペイとオスティアの人口密度とほぼ等しい。国連で1980年から用 いている、Spot Density(局所密度:1-2km2のうち数ヘクタールの最高密度地域)の現代の値をローマ全体に適用すれば、100万に達することが可能である。 6-2 アウレリアヌスの城壁外にも人は住んでいたのではないか? (人口密度はポンペイ・オスティア並として)、人口100万を達成するには、ローマの後背地を含めて25km2必要となるが、 これはスペイン征服前のメキシコ盆地の人口に匹敵する。城壁外に多数居住していたとすれば、100万は可能となるのではないか? 城壁の直ぐ外の居住人口は、田舎よりも高かったと考えられるが、その人口密度は城壁内よりも低く、そもそも城壁外の居住地を都 市密度といえるのかどうか。 ※この議論は、現代の東京に城壁を作ると仮定した場合、外環道沿いに城壁を作るのか、圏央道沿いに城壁を作るのか、という議論 を想定すれば、想像しやすいのではないでしょうか。アウレリアヌス城壁が、ローマの人口数に影響するほど、市街地の中に作られ た、と仮定することは、外環道の外側にも東京の市街地は続いているのに、ここに城壁を作り、その外側は放棄すると仮定するのと似 たようなことです。一方圏央道沿いの城壁を作った場合、その外側の人口を含めても、城壁内の総人口のオーダーには大きく影響はし ないでしょう。3世紀のローマは、1,2世紀に比べ、既に人口は減少していたと推測されていて、その他の都市では、居住地に内側 に人口が移動し、城壁が都市域の内側に建設されたことから、ローマの場合も同じ減少があった可能性はあります。アウレリアヌス城 壁は、凡そ3.5キロ四方ですが、仮に最盛期のローマは4.5キロ四方(20km2)あったと仮定した場合、350人/hrとす れば70万になります。いづれにしても、100万人にはなりそうありません。 ※※<2015年追記>、プリニウス『博物誌』邦訳(1986年版第1巻)3-5-66に、以下の記載を見つけまし た。 「建都826年<後73年>において、城壁に囲まれたその面積は周囲13,200パッススで、七つの丘を抱いていた」 1パッススは約147cmなので13200パッススは約19kmとなり、アウレリウス城壁の周囲19kmとほぼ同じです。ラ テン語原文は、「moenia eius collegere ambitu imperatoribus censoribusque Vespasianis anno conditae DCCCXXVI m. p. XIII·CC, conplexa montes septem. ipsa dividitur in regiones XIIII」、となっていて、「XIII·CC」が何を指すのか、明確でないようで、この部分の注釈にも”An English translation of this passage (paragraphs 66‑67, based on a slightly different reading) can be found in Paul Halsall's Internet Ancient History Sourcebook ”。との記載があり、リ ンク先の英訳では、” 826 [73 CE], the circumference of the walls which surrounded it was thirteen and two-fifths miles. Surrounding as it does the Seven Hills”となっていて、13と2/5マイル=13.64マイル=約21.8kmとなります。 アウレリアヌス城壁の周長とあまり変わりません。しかし、 アウレリアヌス城壁は円形ではなく、既存の水道や住宅を城壁の一部に流用したことで凹凸があっての全長19kmなので、仮に、プ リニウスの記載するローマが、22kmの円形であったとすると、面積は38km2となり、現状の城壁内面積の約2.7倍、この内 部全部がオスティア並の人口密度であったと場合、単純計算では119万人となります。しかし現実的に考えれば、22kmの円周が プリニウスのローマ市認識だったとしても、この領域内にオスティア並みに建築物がひしめいていたとは考えられないので、アウレリ ウス城壁と、22kmの円周の間は、段々人口密度が減少していたと考えた方が妥当です。この部分の人口密度を城壁内の1/2と仮 定した場合、約38万となり、44+38=82万人となります。かなり無理のある想定ですが、以下10節で検討する郊外人口を含 めれば、首都圏人口を約100万と見ることは可能です※※。 6-3 ローマ、オスティア、ポンペイは、それぞれ特徴があり、典型的な都市ではなかったので、相互にデータを適用できない、 とする見解があるとのこと。ポンペイはエリートの居住するリゾート都市であり、邸宅の面積は広く、一方オスティアは(ローマの近 郊都市として)商業交易都市の機能に特化し、アパートの割合が高い。 ここまでが、古 代ローマの人口推定論説『the population of Ancient Rome』からの引用です(一部 私の方で情報を追加しています)。人口密度、住宅の数、古代の文献、近代の人口、それらが、45万人程度の人口となっている点 は、偶然ではないと思われま す。この論説からは、ざっくりいってローマ市自体には、50万人程度の人口が妥当だとの印象を受けますが、史料数値の解釈によっては100万人前後と解釈 もできます。では、上記以外の要素を用いて検討してみるとどうなるのでしょうか。 以下は私の方で調べて追加したものです。 7.ローマの穀物輸入量
穀物輸入量に関する記録も若干残っています。これが人口推計に役立たないか考えて見ます。 7-1 輸入量 4世紀の著述家、アウレリウ ス・ウィクトル(Sextus Aurelius Victor)の『ローマ概略 史(Epitome)(英訳)』の第一節の6行目(先リンク先に全文があります)に、アウグストゥス時代の文章 で”In his time, two hundred million allotments of grain were imported annually from Egypt to the city.”という一文があり、ローマは、エジプトから年間2000万モディウスの穀物を輸入していた、との記載と、フラヴィウス・ヨセフ スの文 章に、「北アフリカからの輸出量は、エジプトからの輸入量の二倍であり、ローマを一年のうち8ヶ月間養っている」という一文が、ピーター・ガーンジィ著『古代ギリシア・ローマの飢 饉と食料供給』(白水社1998年 p301から(WikiのGrain_supply_to_the_city_of_Rome の項目に引用されています)*1。 北アフリカの輸出のすべてがローマだけに輸 出されたのかどうかは明確ではありませ ん が、ローマの穀物が、エジプトとアフリカに依存するようになっていた様子は、タキトゥスの『年代記(下)』12巻43節(邦訳 p91)に、「クラウディウス末期(51年頃)頃のローマでは15日間備蓄しかなく、これはイタリアの土地がやせたわけではな く、アフリカやエジプトの耕作に力を入れたからであり、ローマ市民の生命を穀物船の運命に任せきっていたからだ」という趣旨の文 章があります。先のウィクトルの一文と 合わせて、エジプトからローマへの穀物輸出が1/3の2000万モディウス、北アフリカからローマへの穀物輸出が、エジプトの2 倍の4000万モディウス、と最大値を仮定すると、合計6000万モディウス(3億9300万kg)となり、一人当たりの穀物消 費量は、 年間40モディウス(一人一日717g)とすると、丁度150万人分となります。この輸入分が全てローマだけで消費されたのかど うか、ローマ近郊にも流通していたのかは不明ですが、取り合えず、穀物輸入量の数値からすると、ローマに100万人以上の人口が いた可能性はありそうです。 なお、ガーンジィ著のp301には、「25万人で1500万モディウス」とある次の行に「100万人で 3000万モディウス」とあるが、これは誤記か誤訳だと思われます。25万で1500なら、100万で6000万モディウスとな る筈です。 ※<2017/Feb/05追記 更に、ガーンジィは、アウレリウス・ウィクトルの文章を勘違いしている可能性もあります。上記記事の英訳の「two hundred million」は2億で、2000万ではありません。念のためラテン語原文を参照(こ ちら)しましたが、以下の内容となっていて、やはり2億です。 【 Huius tempore ex Aegypto urbi annua ducenties centena milia frumenti inferebantur. 】 この文には単位が書いてありませんから、もしかしたら2億というのは、貨幣など別の単位なのかも知れません。もしかしたら 単位や解釈で2億を2000万モディウスとする解釈があるのかも知れません。>※ ところで、下記注釈で記載したように、ガーンジィが出典とする部分を確認すると、ネット上で公開されている英訳では、前後の文 章をすべて確認したわけでは無いのですが、直前の文章を読む限りでは、アフリカはエジプトを含むようにも読め、そうなると総計は 4000万モディウスとなり、 これは、1人年間40モディウスの消費量と仮定すると100万人分となり、ガーンズィの計算に拠ると、66万人分となります(なお、ガーンズィは前掲書原 注p29 の12章註26で、「私は穀物の必要最低限度量を、年間1人当たり225モディウス、平均消費量を30モディウスと考えている」 と記載していますが、この2つの数値は大きな開きがあり、更に本文の計算値とも一致しません。この部分は意味不明です.。もしか したら、225の単位は、kgかも知れません。225を1モディウス=6.55kgで割ると、34.35モディウスとなりま す))。
なお、輸送中の穀物損傷(Grain_damage) は、当時どの程度だったか不明ですが、左リンク先の現代の米国の規定企画での最悪の品質値が小麦で20%程度なので、当時はもっ と多かったかも知れませんが、当時は、品質の悪いものでもそのまま食したとも考えられるので、取り合えず10%の損耗率*2だと すると、輸入分5400万モディウスが食され、135万人分相当ということになります。 *2古代に関する研究が見つかれば確認して追記 7-2 港の大きさ 6000万モディウスが毎年輸入されていたとすると、ローマ近郊のオスティアの港は、それだけの量を捌けたのでしょうか。船の サイズ的には可能な値なのでしょうか。 タキトゥス『年代記』(岩波文庫下)15巻18節(p248)に、AD62年のこととして、「暴風雨で、200艘にのぼる穀物 船が、オスティア港に泊まっていたにも関わらず、沈没した」との記載が出てきます。この港は、アウグストゥス帝が建設し、クラウ ディウス帝が拡張した「ポルトゥス・アウグスティ」と呼ばれる港で、オスティアの北4km地点に建設され、遺跡が残っています。こちら のサイトに見取り図があり、奥行き1キロ弱、幅800メートルとあります。計算上円周は、2500m程度、 12.56mごとに1隻の勘定になります。古代ローマ時代の船について、発掘された難破船などについて論じた『ローマ経済の考古 学』 p49によれば、一般的な商船は全長15m-37m、最大積載量100-150トンとあり、12.56m間隔で一隻の割合で停泊 することは、一応できそうです。仮に一隻100トンとすると、15267モディウス搭載でき、6000万モディウス(約40万ト ン)を輸入するに は3930隻が必要となり、1日平均10.76隻が来航すればまかなえます。 <<2019/Apr/30追記 池口守「ポルトゥスおよびオスティアの倉庫と港湾都市の盛衰」 (2014年/PDF)p5 によると、最大停泊船舶数は400隻との研究がある、また、地中海の航海に適した季節は5月末から9月半ばの約100日間とな る、(p11)としている>> 一方、ガーンジィ前傾著p304-305によれば、クラウディウス帝は、小麦1万モ ディウス、約70トン搭載できる船を所有している者のうち、6年間をローマへの食料供給に役立てる用意のある者に特典を与えた、 という記載がありますが、出典註がないので確認は不明です*3。スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』p101(第五巻18節)で は、 「輸入商人に、万一暴風雨のため何か事故があると、自分が損害を肩代わりし、一定の儲けを保証した。そして貨物船を建造する者に も、それぞれの身分や境遇に応じ、多くの恩恵を定めた」とあるだけで、具体的な特典や条件の記載はありません。オスティア港拡張 工事の件は20節に出てきます。仮に、一隻70トン、10000モディウス搭載とすると、6000万モディウスを捌くには 6000隻、一日平均16.4隻を捌くことになるので、これも可能そうな数値です。なお、p305には、アントニヌス朝の法 学者スカエウォラ(Scaevola/出典Digest 50.6.6.5-6,50.6.6.8-9,50.5.3)が、5万モディウス、350トンの収容力をほこる船を所有しているか、1万モディウス級の船 を数隻所有している ことが、国の輸送業務に参加する資格条件として定められている、と言及しているとのことです(ガーンジィ前傾著p305)。 <<2019/Apr/30修正 古代地中海における航海可能な期間は5月末から-9月半ばの約4ヶ月であるため、4ヶ月間で6000隻を捌くとすると、一日あた り50隻、一隻あたりの停泊可能日数は最大4日間となります。船の整備や修理、陸揚げ・出航用貨物の積み込みなどの詳細も確認す る必要があります が、一個60kgの袋が70トン分として約1167個、20人の人足で運搬すると、一人約60個、20分で一個陸揚げするとす ると、20時間、一日5時間働けば4日かかります。陸揚げと次の出航分積み込みを考えると不足します。しかし、ポルトゥスに 400隻停泊できるとすると、最大停泊日数は8日間となるため、充分処理できます。乱暴な計算ですが、一応現実的な範囲に収まり そうです。取り合えず船のサイズと港の大きさとしては、100万人の人口 分の穀物輸入は可能だとの印象を受けます。交易品目は穀物だけではなく、ワインなど量が嵩張る品目があるため、実際には、上記の倍の効率で搬入搬出を行わ なくてはならないはずで、荷揚げ・荷下ろしの担当人足数を倍にするか、一日の労働時間を倍にすれば、穀物と同量の他の品物を捌け ることになります。人足40人、或は1日の労働時間10時間というのはありえる範囲です。このように考えると、港のキャパシティ 的には、100万人分の食料の輸入には対応できていた、といえそうです。>> *3 出典を確認次第追記予定 7-3 穀物倉庫の大きさ 次に、貯蔵する穀物倉庫のサイズを考えて見ます。小麦の体積は、(小麦粉(flour)ではなく)粒子(grain)の場合、こ ちらの換算表によると、1m3=790kg(121モディウス)とのことです。仮に、1年分の小麦をローマ市及びそ の近郊の倉庫に備蓄しておくとした場合、約495868m3の容量が必要です。これは高さ20m、幅250m、奥行き100mと なります。 <<2017/Oct/22追記 オスティアとポルトゥスの港の倉庫の値について、研究論文がありました。 『古代ローマの港町 -オスティア・アンティカ研究の最前線』(勉誠出版、2017年)所収論考池口守「ポルトゥスおよびオスティアの倉 庫と港湾都市の盛衰」p119-132に以下の記載がありました。 ・オスティアの穀物輸入量年間44万トン(うち4万はオスティア居住者用)(ただし、輸入量20万トン説も検討) ・輸入期間は、年間約100日(5月末から9月半ば) ・必要倉庫スペース 1トンあたり、1平方メートルなので、44万トンが100日間で荷揚げされるとすると1日4400トンが 荷揚げされることになり、うち1200トンがその日のうちに消費されるとすると、残り3200トンが毎日貯蔵される計算となる。 最大で32万トン分(32万平米)の穀物倉庫が必要となるが、遺跡から確認されているオスティアとポルトゥスの倉庫面積の合計は 2世紀後半で約19万平米余であり、オスティアとポルテゥスだけではなく、プテオリで陸揚げされ、ローマに輸送されていた穀物が あり、プテオリは2世紀後半なお、重要なローマの穀物輸入港であった、と推定しています>> 8.水道の給水量
水道のローマ市街への水の供給量を検討してみます。 これについては、今井宏著『古代のローマ水道』 (原書房、1987年)という書籍に記載があります。97年にローマ市水道長官となったフロンティヌスの「ローマ市の水道の書」 が残っていて、詳細な流量に関する記載が残されているます。これによると、一日の供給量は99万m3(p45)で、ローマの人口 を100万人と仮定した場合、一人1日1000リットルとなるそうです。1967年のニューヨークが590、ベルリン403、パ リ443、東京399、ローマ443、ロンドン220(p45-46)となっています。現代は蛇口に栓があり、実質消費量、古代 ローマは、水道は垂れ流しで、都市の産業構造による消費量の相違も大きい筈なので、単純な比較は出来ませんが、24時間、蛇口に 人が行列を作り、入れ替 わって張り付いていたわけではないと思われるので、昼の時間帯のうち、半分の時間、人が水を汲んでいると仮定すれば、100万人で 250リットル、1/4の時間人が水を汲んでいるとすれば、100万人で125リットルとなります。昼間の時間の半分を人が水場 に張り付いていたというのは、感覚的に違和感がありますが、1/4程度ならありえそうです。その場合、現代のロンドンの半分程度 の給水量で生活をまかなったというのも、古代にしてみればありえそうな話です。給水量から見て、100万人分の給水量があったと いえそうですが、ロンドンの220という数値を重視すれば、50万人で250リットル/人との値は、これまで検討してきた値に 近くなることから、強い印象を受けます。いづれにしても、一日の何%、水場が利用されていたのか*6不明なので、100万人はあ りえそうだ、という話にしかならなさそうです。 *6 古代の文献に、「終日水場に行列が出来ていた」というような記録でも見つかれば、ある程度推測可能となるので、探してみる 予定 9.穀物無償配給
穀物無償受給者数は総人口推計にヒントとなるかも知れません。 9-1 受給者数 アウグストゥスが業績録に記載する32万の市民のうち、穀物無給配給者の数値を拾ってみました。 ・カエサル時代(前述のとおり、スエトニウスやプルタークに、32万、15万という数値が出てくる) ・アウグストゥス時代 『アウグストゥス業績録』(岩波文庫p215)「(前二年)、その頃国から穀物の無給配給を受けていた平民に、それぞれ六十 デナリウスを与えた。その数は二十万を少し越えていた」 同p217「(前十八年)以来、間接税が延滞するたびに、私の穀物倉と世襲財産から、ときに十万人、ときにそれ以上の人に、 食料と現金を贈与した」 更に、ガーンズィ前掲書p307には、3世紀の歴史家カッシウス・ディオの記載として(出典箇所の記載なし*7)、「市民の受 給者と親衛隊兵士と を合算した総数が、202年には20万人だった」と記載しています。 ガーンズィは、アウグストゥスが、市民に配布した祝儀の数(スエトニウス(岩波文庫p215)の前12年以前の25万という数 字と、前2年の20万という数値や、カッシオス・ディオの数値20万を比較して、アウグストゥスは配給者を減らそうとしたのでは ないか、という議論を展開しています。 インスラの世帯人口やドムス数とインスラ 数の数 (本記事3節)から、ドムス人口はインスラ人口の11.5%とすると、受給者数と人口はほぼ等しくなります。穀物受給者20万がインスラのローマ市民人口 となりますが、受給者数は、実際に受給資格のある成年男子(妻子の分は成年男子が受給する)ことになるため、ローマ市人口約66 万人程度という人口になります(都市ローマには出稼ぎ労働者も多いと思われるため、女性子供の割合が平均より低い想定に立てば、 66万以下となる)。更に穀物配給を受けない自立市民も多かったと思われるため、66万を遥かに越える値も想定できるかも知れま せん。 <<2017/Oct/22 アウグストゥス業績録の原文と英訳は(こ ちら)、以下の通り。 1モディウス(6.55kg)を3セステルティウスとすると、60デナリウスは524kgとなり、おおよそ一人一年分の食料に 相当します。『アウグストゥス業績録』に登場する一人当たり60デナリウスは一人分の食料に相当する。そこで、首都の平民とは、 成人男性のみを示すとする解釈となる。 "Tribuniciae potestátis duodevicensimum consul XII trecentís et viginti millibus plebís urbánae sexagenós denariós viritim dedí(第十二次執政官の年(前5年)、首都の平民の32万に1人あたり60デナリウスを与えた(国原吉之助訳)、" 私はラテン語は詳しくないのですが、この、plebís urbánae は、plebsの単数形で、通常は騎士階級や元老院議員以外の平民ではあるが、男女子供を含むかどうかは、特に意味したものではないそう です。しかし穀物配給の文意からすると、成年男子だけを意味するのが妥当のようです。 >> *7出典箇所調査中 9-2 配給窓口 青柳正規『皇帝たちの都ローマ』(中公新書)p215に、クラウディウスは、「カンプス・マルティウスのミニキウス回廊(ポル ティクス・ミヌキア)を小麦配 給 所に改築した。当時、小麦の配給を受ける市民は、その資格を証明する無料配給資格証(テッセラ・フルメンタリア)を各自所有して おり、毎月指定された日に配給所へ小麦を受け取りに行った」「クラウディウスは、ミニキウス回廊に45の配給窓口を設け、毎月の 指定日に、指定されば番号の窓口に出頭することを義務付けた*6」、「受給者数を30万人とし、指定日が20日あるとするなら、 1 つの 窓口は一日約300人を処理すればよかった」とあります。一日の業務時間が5時間とすると、1分に一人を捌く計算です。そんなに 早く処理できたのでしょうか。配給券を引き換えにしたという記載がどこかにあったような気がしますが*7、券と引き換えるだけな ら、1分でも可能だと思いますが、書類と照合して、配給済みチェックをするとなると、コンピュータ化される前の役所窓口の業務を 考えれば、ひとり当たり20分とか、普通にかかりそうです。これだと、300人*20分=6000分(100時間)必要となり、 業務が回りません。券を別途他の場所で配布していたとしても、その窓口手続きが、30万を捌ける施設・人員となっていたのか、確 認する必要があります。 受給者数をアウグストゥスが仮に20万人に減少させたとした場合、1月30日間処理するとした場合は、1つの窓口あたり148 人、1人20分とすると50時間で、これもありえない数値です。1人5分なら10時間で、なんとかなりそうな感じですが、窓口が 1日10時間も営業していたのか、たった5分で処理できるのか疑問です。もしかしたら、ミニキウス回廊以外にも窓口があったのか も知れません。仮に、ミニキウス回廊で処理できたとすると、45の窓口*300人*20日=27万人分を捌くことができます。こ の数字は、穀物受給者数に近い値です。 <<2019/Apr/30追記 4世紀の史料『Curiosum urbis Romae』にローマ市内の穀物倉庫の数の一覧が掲載されていて、それによると、全部で合計335箇所あり、ほぼ街区(ウィクス)の数だけあったことにな ります。穀物倉庫(Horrea/ホレア)=配給所と決まったわけではありませんが、倉庫と配給所が別の場所であったとすると、 移送する労力と盗難コストがかかるため、穀物倉庫=配給所、とひとまず考えることにします。 44350のインスラに平均20名居住しているとすると(この場合インスラ居住者合計約96万人となる)、一つの穀物倉庫が担当 する人数は2647名となり、穀物を配給されるのは世帯主である成人男子だから、約900名が月に一回配給所(居住ウィクス内の 穀物倉庫)を訪れることになる。倉庫が毎日運営していると過程した場合、一日30名に配給を行う計算になる。営業時間1日5時間 として、窓口業務担当者1人の場合平均1人の受給人を10分で処理する計算となる。担当者10名の場合、1人あたり100分。担 当者2-3名いれば100万人への配給運営は充分成り立つことになる》》。 *6,7 史料出典調査中 10.郊外人口を含めた場合
郊外の近郊諸都市を含めたローマ首都圏の人口はどうでしょうか。古代 ローマ時代のイタリア人口推計の記事にて、 Rob Witcherのフィールド調査の数字がありました。Witcherによると、ローマ周囲50km圏(半径25km)の人口として 193,275-644,200の範囲の人口が推定できるとのことです。最大値を採用すれば、ローマ市と合わせて100万を越え ます。Witcherが代 表値として提示している326,000人を採用すれば、45万+32.6万で、首都圏人口は約80万人程になります。首都圏ということでは、人口約100 万と 称することも可能かと思います。10km圏以内くらいの郊外に住んでいた人は、ローマに日帰りできたでしょうから、日中を働く・ 遊ぶなど様々な理由でローマで過ごす人もいたものと思われます。そのように考えれば、居住人口が50万程度であっても、日中ロー マ市内の人口 は6,70万くらいいたかも知れません。 <<2017/Oct/22追記 ローマ 市長官(Praefectus_urbi)は後5年の創設とのことです。出典は、スエトニウス皇帝伝アウグストゥス 37章(邦訳134)で、都警長官(原文praefecturam urbis,(こ ちら)、タキトゥス年代記(上)第6巻11p344)。出典は調べがついていませんが、100ローマンマイル(約 140km)とされていて(とりあえず出典は上記WikipediaのPraefectus urbi、史料が判明次第追記予定)、本職の創設以前から、概ねローマ市の管理領域がローマから半径70km地域であった可能性があります。この領域であ れば、首都平民32万(女性子供奴隷含めると100万以上)という数字はかなり納得できるものがあります。国原吉之助氏の注では (タキトゥス年代記上p432)では、永続的な官職となったのはティベリウス以降で、任務は都の治安維持で、警察隊三個大隊を指 揮し、若干の刑事裁判権(14巻41節)も持っていた、とされています。 ちなみに護民官職権は、これもWikipedia出典(英 語版護民官)なので、史料が判明次第記載しますが、ローマ市外1マイルまでの範囲とのことです。すると、直径にすれ ば、2マイル(3.2km)分が加算されます。アウレリアヌス城壁は約3.5キロ四方ですが、護民官職権管轄範囲だと、 6.7kmとなり、35km2となり、現行アウレリウス城壁内の約3倍近くなります。これであれば、100万人の人口は楽に収容 できます。なお、ローマ市長官の管轄区は、首都管区( Urbia Dioecesis)とのこと。>> 11.まとめ (2019/Apr修正)
市域の実測値(1)、古代文献の数値(2、3)、住宅数(3)、他の都市の遺跡調査からの推計値(4)、近代の人口(5)、穀 物無償配給量(9)では、約25-45万人という数値となりました。4世紀のインスラ数の史料を用いた場合でも、物理的なインス ラ面積から算出すると、30000インスラ程度が限界で、この場合の想定される人口は66万人程度です(ただし、インスラ一件平 均居住者数を30名とすれば、インスラだけで90万人となる)。 一方、穀物輸入量(7)や水道供給量は、100万人分に達し ているようです。水道や穀物は、ローマ市居住人口だけではなく、郊外からの日中流入人口による水道の使用や、販売穀物、或いは郊 外への穀物販売人口分を賄っていた、と考えれば、首都圏人口の推計約80万とも整合性が取れそうです。4世紀の史料掲載のインス ラ数を、登録インスラ数と見なし、物理的にはアウレリアヌス城壁外のインスラをも含んでいたとすると、人口100万人はありえそ うです。 プリニウスの記載から、 アウレリアヌス城壁建設前は、城壁外の部分にも居住していたとして、この部分を含めれば、ローマ市自体は80万程度、更に郊外含めれば、100万に到達し そうです。100万とい う数字は、首都 圏人口と考えた方が妥当なのではないかと考える次第です。 結局のところ、アウグスティヌス業績録に登場する数値を、女性・子供を含める低位数値(この場合市民32万+奴隷)か、成年男 性だけを意味する高位数値(この場合妻子含め市民96万+奴隷)の間の両方の数字のどちらをも支持する根拠がでてきて、決定打が ないの状況です。仮にプリニウスの時 代に100万近い人口がいたとしても、アウグストゥス時代については、低位数値が妥当そうに思えますが、最盛期の最大人口は、100万に到達していた可能 性も高そうに思えます。まだ精度を上げられる箇所(インスラ平均人口など)が多数あるため、今後も情報が集まるたびに updateしてゆきたいと思います。もっとも重要なポイントは、最盛期である1-2世紀の人口推計のために、アウレリウス城壁 とぴう枠組にとらわれすぎな点にあるようにも思えます。 □関連記事 古代ローマ都市要覧史料『Curiosum urbis Romae』『Notitia urbis Romae』による都市ローマの人口推計 古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(1) 通説の根拠 とイベリア半島の推計値の算定根拠 古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(2) ローマ時代 のイタリアとローマ市民の人口推計 古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(3) シェイデル 教授の奴隷人口の推計 ローマ時代 のエジプトとシリアの人口推計 4世紀のコンスタンティノープルの人口推 計の算定根拠 |