(1) 4世紀のコンスタンティノープルの人口推計の算定 京都大学の史学雑誌「西南アジア研究 No21(1968年)」の p31-48 米田治泰に、「コンスタンティノープルの人口と生産機構」という論説があります。以下要約です(一部私の方で数値を計算して記載した部分があります)。 1.5世紀初頭の史料ノ ティティア・ディグニタートゥムに含まれている『Notitia Urbis Constantinopolitanae』には、貴族の邸宅(ドムス)が 4388(同時代のローマは1797)、インスラは 不明 (ロー マは46603)と記載がある(古 代ローマの人口推定論説『the population of Ancient Rome』)で はドムスは平均15 人程度とされているから、ドムス居住人子は、65820人となる)。 2.セプティミウス・セウェルス帝の城壁内が200Ha、コンスタンティノス大帝城壁の内側500Ha、テオドシウス城壁内 が 700Ha、合計1400Haとなり、1370Haのローマより広い。ドムス面積は1戸約100m2なので、4338世帯では 438Haとなる、としているのですが、この箇所のドムス面積の計算には誤りがあります。 100m2は1アールです。ドムス1戸あたり1aというのも少し小さすぎる気がしますので、100m2を100mX100m の意味で使っているのかも知れません。この場合、ドムス1戸あたり1haとなり、4388戸は、4388haとなってしま い、コンスタンティノープルの市域面積を越えてしまいます。恐らく、100m2を100mX10mと考えているのかも知れま せん(約30メートル四方)。これなら実際のドムス面積に近い値になります。 そこで、100m2の記載を、30mX30m(1000m2=0.1Ha)と、10mX10m(100m2=1a)の二つに 分けて計算してみます。 1)ドムス一戸30mX30mの場合 ドムス4388戸=438Ha。市域960Ha-438=520で、インスラ地域の人口密度を200名/Haとすると、 520*200=104,000名、ドムス4388*10名=43880名、両方加算して147880名 2)ドムス一戸10mX10mの場合 ドムス4388戸=43.8(44)Ha。960-44=916ha、916haに200人/haですから、 4388*10+916*200=43880+183400人=22万7080人となります。 3.ソゾメノス(Sozomenos/400-450年)は、コンスタンティヌス大帝が都民に1日80,000(単位不明) の小麦またはパンを配給したとして い る。単位がモディウスなら80万人分、個数なら8万人分となる。 4.4世紀末の小麦年間予算(金11万ポンド)は、310万モディウス(約2033万kg)に相当し、1人1日 700g(0.116モディウス)の消費とす ると、79471人程度となる。つまり、上記3の数値の単位は、パンの個数だと考えられる。 5.ヨ ハネス・クリソストムスの記録(どの史料かは言及なし)では4世紀末にキリスト教徒が10万、非キリスト教徒が 5万、合計15万とした。ソゾメノスは旧都ローマと同じだけの人口をコンスタンティヌス大帝が集めたと書いた。ヨハネス・ク リソトムスと同時代の アウソニウス(Ausonius)はローマの人口を17万程度 とした。 6.プロコピオスによるとニカの叛乱で3-5万人が虐殺された。フランク人のミラノ侵攻で30万人が殺された(当時のミラノ は 60万と推定されている)。 7.930年代に飢饉のため政府は市民のための小麦10万モディウスを購入したという記録がある(出典の記載なし)。仮に 1ヶ月 間1/4の市民に支給したとしても、10万人分強にしかならない。 8.1949年にA.M.Schneider が15世紀に関して4-5万人と見積もった(根拠記載なし)、1927年のイ スタ ンブールの人口をラッセルは24万としている(※本記事後半の澤井一彰論説では、1927年は60万となっていて、ラッセルの誤りだと思われる)、 R.Mantran(1965)の研究では16世紀のイスタンブールの人口密度は150-185人 /hr (総計28万5千人)と見積もっている。 以上の値からすると、4世紀の人口は15万、多く見積もっても25万程度が妥当だと思われる。 米田氏の論説の最後に、当時の研究者の最新推計が記載されている。以下の通り。 デルガー 約25万、ヤコビー 約37.4万、カジュダン 約28.75万、ラッセル約19.2万(最大25万) 要約は以上です。以下所感です。 それ以降の時代、ユスティニアヌス時代やマケドニア朝時代の最盛期の人口は、仮にテオドシウス城壁内に300人/Haの人 口が い たとしても、46万人にしかなりません。最盛期でさえ城壁内全部が建てこんだわけではないようなので(城壁内に農地、緑地があっ た)ので、最盛期でも50万人程度が限界だと思われます。コンスタンティノープルの人口推計が、50−100万という説は 20世 紀前 半までの説で、20世紀後半には、15-50万程度になっているという理由がよくわかりました。 ※2020/Apr追記 橋口倫介『中世のコンスタンティノープル』p116に、「この世帯数には「四街区分の一戸建て貸しアパート(インスーラエ) はふくまれていない」とも書かれている。とあり、この前段に『Notitia Urbis Constantinopolitanae』が出典だと書かれているのですが、ぱっと見 Notitiaには記載が見られないように見えました。時間があるときに再度見直します。もしこの記載が史料にあるので あれば、14街区のうちの四街区がインスラということになります。※
(2) 16世紀のイスタンブールの人口推計の算定根拠
澤井一彰著「16世紀後半におけるイスタンブルの人口規模」(『歴史学研究 〜特集 人口と権力(T)』2018年11月号(977号)を読みました。 同時代文書史料から穀物配給量の数値を算出し、その結果イスタンブルの人口規模を推計する、という記事です。従来50万から 80万という推計値が流通していましたが、それらの数字は厳密なデータに基づいた推計ではなく、多分に旅行者等の印象による 数値が根拠であったことを指摘し、当該年代における人口規模は、15-20、最大(アジア側のユキュスダル地区を加えても) で25万程度、と推計したものです。米田治泰氏が、「コンスタンティノープルの人口と生産機構──学説史的展望──」(『西 南アジア研究』21号1968年)で、似たような人口過大視(20世紀前半に80万)に対して、最近の研究では4世紀の人口 は15万、多く見積もっても25万程度が妥当だと思われる、と記載していた内容と似ているので驚きました。前近代におけるイ スタンブールのキャパは、古代から近世初期(前近代)の間あまり変わらなかった印象を受けました。 □関連記事 古代ローマ都市要覧史料『Curiosum urbis Romae』『Notitia urbis Romae』による都市ローマの人口推 古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(1) 通説の根拠 とイベリア半島の推計値の算定根拠 古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(2) ローマ時代 のイタリアとローマ市民の人口推計 古 代ローマ帝国の人口推定の算定根拠(3) シェイデル 教授の奴隷人口の推計 ロー マ時代のエジプトとシリアの人口推計 |