前回の続いて、スタンフォード大学のウォルター・シャイデル教授の論説の要約。 ローマ帝国の人口規模を知るには、一番確実な方法は、どうやら考古学調査による人口密度の推算の蓄積にあるようです。一方史料 に残る人口調査の数値があり、これで大枠はわかるのですが、この人口調査が成年男性だけか、女性と子供を含む市民全部なのかで大 きく人口が分かれているとのこと。これについては前回記載しました。続く問題は、人口調査に入っていない奴隷などの人口を調べる ことにあります。一体奴隷はどれほどいたのか?市民人口の1/3か3倍なのか。ちょっと調べただけでは、1/3から3倍までの数 値が登場し、ここを正確にしないことには、ローマ帝国の人口規模の桁数さえ違ってきてしまいます。そこで調べてみたところ、シャ イデル教授が突っ込んで調べていたので、非常に参考になりました。以下「The Roman slave supply(2007年5月)」の要約です。 1.イタリアに関する従来の学説 これまでは一般に、共和政末期にはローマの人口の1/3が奴隷だとして、2-300万人がいたと考えられてきたが、これは、古 代の史料からというよりも、南北戦争前の米国や19世紀ブラジルの奴隷人口から想定されてきた数字である。史料には、プリニウス が記載するタリウス・ルフスが遺言で4116 人の奴隷を残したとか、タキトゥス年代記に知事のPedaniusが400人の家内奴隷を所有していたとか、アウグストゥスが500名以上の奴隷所有者に 課した奴隷解放の制限(ガ イウス『法学提要』I.43:法学提要は絶版だが邦訳もあ る)、などの記録があり、こうした極端な事例が、氷山の一角と見なされ、奴隷の割合が過大に多く見積もられてきた。 直接的なデータがないので、個別の経済的要素から奴隷数を割り出し、それを積算する方法が理想的である。この結果、共和政末期と 帝政初期には、60万人の非農業奴隷数を推計してみたが、根拠の乏しい推測に過ぎない。 一般的には田舎での奴隷数は、労働力の需要に応じているのかも知れないが、これも換金作物が拡大していたローマ時代のイタリア には適さないかもしれない。イタリアの農場の性質からすると、田舎で農業に従事する奴隷数が100万人の3/4を越えていると見 積もることは難しい。そこで、奴隷経済の最盛期に、奴隷数のピークが100−150万の間にある(イタリア人口の10-25%に 相当する)というモデル検討してみた。イタリアにおいては、農場で働く奴隷よりも、都市の奴隷数が、不適切なまでに大きかったこ とは疑いないところである(このあたりの詳細はシャイデルの2004年bの論説のようですが、現時点で見つけられておらず、未読 です。少し根拠が弱い気もしますが、前回のイタリア半島の人口論考によれば、後14年のローマ市民494万人と後47年の598 万人の差約(低位数値の場合100万、高位数値の場合300万)のうち低位数値で40-60万、高位数値で120−180万程度 がイタリア半島の人口増となり、これが殆ど解放奴隷数だとも考えられているので、恐らくこの考え方に拠っているのだと思われま す。これに解放されていない奴隷数や、奴隷自身の再生産により、100−150万の間だとしているようです。奴隷自体の人口再生 産率については、本論説の後半で検討しています)。 【※こちらの古代都市ローマの人口推定論説『The population of ancient Rome』(リンク修正済み)の記事には以下の記載があります。 Carandiniの研究では、最近のフォルム・ローマの中心部の建物のエリート世帯の発掘調査で、奴隷の数は少数だったとし ている((1988: 359-87)が、ローマの諸都市のエリートの世帯は、各地に別邸を持っていて、奴隷は各々の別邸に分散していたものと考えられる。. ローマ時代のエジプトでは、普通の富のある奴隷所有者は、6-18人の奴隷を所有し、70名というケースは例外とされる (Wiedemann 1981: 101)。核家族で3-5,6名、大家族で10-12名、奴隷を含めたり、不確定要素を考慮すれば、大家族世帯では.13 から17名くらいいたかも知れない】 2.エジプト ローマ時代の中部エジプトの14年間の人口登録文書のパピルスが残っており、記載されている1108名のうち11.6%が奴隷 となっている。これが一つの 基準となる。中心都市の奴隷人口率は14.6%、村は8.4%程度。上エジプトの都市では7%程度と考えられている。よりヘレニズム化が進ん だ都市や中エジプトの富んでいる地方では多様な割合だったと思われる。アレキサンドリアは史料がないが、もっと高いと思われる。 平均的な都市の奴隷割合は10.8%程度、上エジプトの地方では4%、エジプト全土の田舎の奴隷割合は6.2%、アレキサンドリ ア以外の都市の平均が15-20%だと仮定すると、平均で7%、慎重に書けば5-10%。 以下のグラフは、次の各種研究(Bagnall and Frier 1994: 181-312; Bagnall, Frier and Rurtherford 1997: 57-88. Lack of large slave estates: Biezunska-Malowist 1977: 73-108; cf. Rathbone 1991.)から引用したデータを元に作成したもので、世縦軸が世帯数、横軸がその世帯が所有している奴隷の数である。 良好に保存されているパピルスの戸口調査のうち、15%の世帯が奴隷を所有し、奴隷
を所有している41世帯が延べ137人の奴隷を所有していて、18%の世帯が1、2名だけの少数奴隷保有者である。
2.帝国全土 奴隷人口率は、イタリアでは10-15%、帝国全土では10%,(シャイデル1997年)、17-20% (Harris 1980年)という研究がある。ルカ伝には、殆ど奴隷所有者はおらず、かつて持っていた者も2-3人、農地での奴隷数は10-12%越えないのではないか と考えられる。 後74年のアナトリアのKabeira市には107の公共奴隷、ヨセフスの記録ではガザの長官アポロドトスは 10000 人の奴隷を指揮し、John Chrysostomの仮説では、シリアのアンティオキアの富裕者は10-20の浴場に1000-2000名の奴隷を所有していたとする。『黄金のロバ』 の作者のアプレイウスは彼の妻PudentillaがトリポリタニアのOeaに400人の奴隷を寄贈し、280年には、 属州「海沿いのアルプス(Alpes Maritimae)」の富裕な反乱者は奴隷のうち2000人を軍隊に参加させた。医者ガレノスは著書の5巻49節で、ペルガモンでは4万人の男性の市 民が、8万人の女性と奴隷(子供は入っていないのが疑問点とされる)がいたとしている(このガレノスの記述が、古代ロー マ帝国の人口総数の1/3が奴隷であったという説の根拠のひとつとされてきた)。ストラボンは『地誌』(12 巻.2,3,5節)で、2 つのカッパドキアの寺院で、それぞれ6000と3000の奴隷を所有していたとする。「タルムード(Sabbath 25b)」は100人の奴隷は アウグストゥスが定めた奴隷解放を制限する法令(ガイウス『法学提要』I.43)の基準の数とと概ね一致する。 以上の状況から、シャイデルが起こした仮説モデル表が提示される。
イタリアについては、低位数値を採用しているが、高位数値の場合、イタリアにおける奴隷割合が減るだけとなる(帝国全土 の人口はあま り変わらないか ら、奴隷の供給力は変わらない、と考えるのである) 3.奴隷供給量の規模 奴隷として生活を送る平均的な期間は20年間と考えられ、帝国全土で5-800万人の奴隷がいたとすると、計算上 (5-800/20で)25-40万人が毎年新規供給されていたことになる。当初の奴隷獲得源は戦争だったが、平和にな ると自然再生産に漸次置き換えられていったと思われる。すると、再生産は、奴隷人口を維持できたのか、減少したのか、が 論点のひとつとなる。最低限の見積もりをしてみると、幾つかの条件が考えられる。年間売買数はまったく不明なので、思考 実験をしてみる。 低見積(年間売買数が10万人と仮定した場合)の諸条件 @年間25万人の新規奴隷のうち80%が奴隷の子供であるとすると、A20万は奴隷の自然再生産 B1/4の奴隷 (約 6万人)が、その生涯で一度だけ売買された 高見積(年間売買が100万人と仮定した場合)の諸条件 @年間40万人の新規奴隷が、生涯で2度売買された シャイデルは1-2万人がイタリアに毎年輸入されていたと推定している(根拠は未記載)。 4.自由人生まれの奴隷 4−1戦争による獲得 戦争による獲得数を列挙して平均してみると、戦争による敵自由民を捕獲し奴隷化した数は、年間平均にするとあまり多く ならないことがわかる。古代ギリシア、中世イスラム、近世米国大陸や南アフリカの奴隷貿易例を参照しても、戦争による直 接獲得よりも、戦争に随行していた奴隷商人など第三者が継続的に奴隷貿易を行なって奴隷数を維持していたと考える方が妥 当である。 第三次サムニウム戦争(297-293) 58,000-77,000 第一次ポエニ戦争(254-241年) 107,000−133,000 ガリア戦争(225−222) 32,000 第二次ポエニ戦争(218-202) 172,000-186,000 その他の戦争(201-168) 153,000 エペイロス王戦争(167年) 150,000 合計 672,000-731,000 (年間平均5000人程度) 第三次ポエニ戦争(146) 55-60,000 キンブリ・テウトニ戦争(102-101) 60,000-90,000 ガリア戦争(58-51) 100万 前25年のアルプスのSalassi族の征服 44,000 合計 115-120万 (年間平均1万人程度) ユダヤ戦争(66-7) 97,000 ダキア戦争(105-106) 500,000 パルティア戦争(198年) クテシフォンで10万人 合計 70万 (年間平均5000人) 4-2 その他の自由民の奴隷化モデル 山賊・海賊による誘拐、債務の為の自発的転落、子供の売却。特に前2-1世紀の東地中海(キリキア、パンフィリア、ク レタ)では海賊による奴隷化が顕著。前166年のデロス島で は毎日1万人が市場で売買されていた(ストラボン)とされる。古代の史料によれば、赤ん坊の奴隷化も例外的は話ではな く、成熟した帝国においては、内部における奴隷供給のおもな供給源の一つだったと考えられる。古代ローマの法律では、捨 て子の奴隷化は、(市民の捨て子であっても)、法律違反ではなかった。捨て子の増加については、エジプトの乳母契約史料 に多数残されている。捨て子を奴 隷化した場合、子供は死亡率が高い為、(早死にしてしまうと利益が得られない為)乳母を雇って育てて高く売却する、とい うことである。エジプトのファイユームのTebtunis村の紀元42-47年の(約700のパピルス史料には、30の うち22の契約が乳母を含んでいて、奴隷売買契約は5つに過ぎない。ただしこれはあくまで田舎の事例であって、都会も同 じだとは限らない点留意が必要である。捨て子の出身を明確にすることは出来ない。 税金や負債や飢饉の為に子供を売るケースは例外的であり、バルバロイの間でこのようなことが行なわれているとのステレ オタイプが存在したに過ぎない。ローマ人の父親が自分の子供を販売する正式な権 利を持っていたことは ほとんどなかった。古代の法律では、家族は奴 隷として売られた り、または質入れすることはできな かった。また質入と売却とは異なっており、この違いも明確にはわ かっていない。自由 人が質入される場合、最大25年として20年間の労働のうち解放された。自 己を売 却するようなケースについても明確にはわからないが、このようなケースは多くはなかったと思われる。ビテュニアのニコメ デス三世による前104年の異議申し立て(彼の家臣の奴隷の多くがローマ人の徴税人に税金として奴隷として連れ去られ た)という一件が債務奴隷の事例としてあるが、自由民の供給量を明確にするほどの史料は少ない。 5.奴隷貿易 奴隷貿易の規模は大きく、中産階級も奴隷交易に関わっていたと思われるが、自分を奴隷貿易商だと表明している人物は殆 ど知られていない。トラキアのアンフィポリスのAulus Capreilius Timotheus、護民官であったToranius Flaccus、40年代エフェソスの超富裕者C. Sallustius Crispus Passienus、前70年代にフリギアで奴隷市場を作ったC. Sornatius(ビテュニア戦役で獲得した奴隷を売った)、スエトニウスはヴェスパシアヌスが皇帝になる前ちょっとの間財産を回復するために宦官貿易 を していたと記している。法学者は、奴隷貿易はsocietates(ソキエタテス)という組織を法律に反して形成し、事 業への資本を集めていたと推測している。兵士も私的に奴隷交易を行なっていた。ローマやエフェソスなど、有名な奴隷市場 センターがあり、シリアのBaetocaeceでは隔週で奴隷フェアが開催されていた。 どういう地域間の貿易があったのか、の事例が以下記載される。 クレタ人の女性とギリシア人の少年がダキアで売られ、北イタリアで捕獲された女性がスペインで売られ、フリギアの少女 はシデ(トルコ南岸)で売られ、シリアのオスロエネの少女はトリポリで売られ、二人は最終的にエジプトで売られた。リビ ア出身の女性は小アジアのミレトスから来た男にイタ リアのラベンナで売られ、最終的にエジプトの艦隊の兵士に売られた。 宦官貿易は国に支援されていなかった。後137年のパルミラからの関税記録では、10代の少年奴隷の場合は、関税は 2-3%を 越えず、ヌミディアのザライ(zarai)の碑文はより低い率となっている。私的売買と本職交易業者の関係も不明(この あと市場での奴隷売買の様子の記載があるが、映画に登場しているのと同じなので略)。 奴隷の価格は、エジプト、イタリア、スペイン、ダキア、シリアなどの記録があり、301年の最大価格令にも記載されて いる。1-3世紀は通常のスキルをもった若者の場合4000kg(+-50%)の小麦(約4000セステルティウス) と。食料額や賃金、奴隷の売値は古代アテネよりも高い。 ローマ法は民族を開示するよう交易業者に指定していた。民族的な偏見は、一方では、エペイロス出身者は牧夫に向いてい る などという、特殊なスキルへの適合性を判断するのにも用いられた。 奴隷の供給地: イタリア半島は前3世紀末には没落し、前2世紀には、奴隷供給地は北イタリア、イベリア、南バルカン、北アフリカ、西 ア ナトリアとなり、前1世紀にはガリア、中央バルカン、アナトリア、レバント、1世紀にはこれらにブリタニア、ゲルマニ ア、ダキア、パルティアが加わった。それに加えて多くの奴隷が辺境の外から購入されてきた。征服前のガリアでは、ケルト 人の資産家にワインと交換に年間15000人の奴隷を購入し、ダキアとドナウ川下流では1世紀中頃のローマの貨幣が多数 出土していることから、この頃奴隷貿易が盛んだったと推測されている。前60年代の海賊退治とレバント併合も奴隷数を急 上昇させた。黒海沿岸とコーカサスは、古典ギリシア時代には主要な奴隷供給地でこの伝統は後期古代にも継承された。遠く はソマリアやインドからも輸入された。征服後の領土ではアナトリアは内部調達での主要地だと古典史料によく登場してい る。アナトリアでは、フリギア、リディア、カリア、カッパドキアなどが産地。シリアも産地で、ユダヤ人の二度の叛乱の結 果、ユダヤ人が奴隷として売り払われたことが大きい。 奴隷の名前にギリシア人が多いのは、ギリシア名が流行していただったため、出身地に関係なくギリシア名を名乗ったもの が 多かった。ギリシア人奴隷が多かったというわけではない。調査ではローマの5800名の2/3がギリシア名、その他ラ テン名バルバロイ名は2-3%に(主にセム系)過ぎない。このことから、名前から奴隷の民族構成を割り出すことは難し い。 Felix, Primus/Primaや Erosなど縁起の良い、陽気な名前が人気があった。ヘレニズム地域とイタリアの奴隷はスキルが高いとされ、エジプトでは奴隷の1/4は他の地域(アジ ア、アフリカ、欧州など多様な地域)の出身である。前2-後1世紀のデルフィの奴隷解放の3つの碑文史料は、購入するよ りも、再生産の方がコストが低いので増加していることを示している。 1世紀のデルフィのコスト高はイタリアの需要の反映かも知れない。 6.自然再生産 ローマ法では、奴隷の子供は母親の地位を継承する(出産後に母親の地位が変化した場合、妊娠中の母親の地位が適用され る)。父親は基本的には母親の所有者(奴隷の主人)である。 エジプトのパピルス史料では、再生産率が高いことが判明しているが、帝国の他の地域では比較できる史料がない。1世紀 のローマの農学者コルメッラは、女奴隷は3,4人の子供を生むとしているが一般的な数値として採用できるかどうか判断は 困難である。 再生産の四つの要素には以下のものがある。 @ 男女比率 A 家族構成 B死亡率 C奴隷解放 @ 男女比率 不明であるが、ローマ時代のイタリアとアレキサンドリアでは男性比率が高いが、エジプトの史料では男女比 は解放前の奴隷の男女バランスが取れている。都会の碑文では、女性による奴隷職は少ないような理解を与え、農学者は、男性奴隷に重点を置いて記載してい る。女性の奴隷割合を知ることは非常に難しい。古代の史料は、戦争捕虜や誘拐では、女性や子供が多い印象を与え、自由人 の女の赤 子は男の赤子よりも状況を知ることは難しい。証拠は無いが、出産の場合の男女比は同等だったと推測される。奴隷数が増加すると、中核領域では、再生産率が 高くなり、男女比は均等になっていったと思われる。 A 家族構成 奴隷の間での結婚や、安定した頻度は、実情を知るのに役立つだろうが、定量化できる程のデータが不足している。 B 死亡率 余命は奴隷という身分から長くはなかったろう。エジプトの史料では女性は更年期前に解放されることは殆どなく、母親が 解放され ても、子供は奴隷のまま残された。301年の最高価格令では、女性の再生産性が重視されている。一方、西部やイタリアの碑文は、若くて多産な女性を顕彰し ている。シャイデルが以前の論説で記載した80%という再生産率は批判されたが、反証もない。最近は、共和政後期のイタ リアでは、最大再生産率は50%程度と考えている。 7.結論 ヘレニズム時代から帝政期まで一貫した情報があるのはエジプトだけで、それによれば、ローマの勃興は奴隷の価格には影 響し ていない。元首政期における奴隷価格の高止まりは、奴隷労働力の需要が続き、再生産や、外国からの輸入や、自己奴隷化により調達された。奴隷解放によるモ デ レートな供給制約というシナリオを想定できるかも知れない。 もし、奴隷数の減少が見られたとすれば、それは供給ではなく、需要の低下が理由であろう。ローマの勃興から帝国の衰亡ま での1000年間で、少なくとも1億人の奴隷がいたか、売り買いされたと思われる。 |