【5】ラッセル/マッケベディー/フライのガリアの人口推計の概要 今回は、ベロッホ以降のガリア人口研究の概要とまとめです。 (1)ラッセル(1958年)
(2)マッケベディー(1978年)
(3)フライ
(4)Notitia Galliarum(4-6世紀)
(5)250万人は可能か?
(6)まとめ
p7ではベロッホ[1886]の数値を掲載しているのに、p83-5の推計ではベロッホ[1899]を出発点にし
ている。カエサルの数値をすこし検討している。
@ヘルヴェティー族らビブラクテの戦いに参加した5部族36万8000人をガリアの60部族(※出典不明)に適用する と、36.8万を12倍して400万を越す(※計算すると441万)とし、Aベルギカ征服戦に参加した部族29万 6000人が、武装可能男性人口の3/5が参加したとすると、男性武装可能人口は49.3万人、ベルギカ全部族(※15 部族)は4倍して200万、全ガリア(※60部族)は更に4倍して800万人、Bアウレルキー・ケノマニーのカエサル時 代の居住地域は65000で(※単位不明。km2と仮定)、現在のサルト県かメー ヌ州のあたりとなり、現在の5,6倍となり、2000万人となってしまう。とありますが、何が5,6倍なの か、何が2000万人なのか不明です(※恐らくガリア全体で2000万人となってしまう、ということだと思われます)。 ベロッホにも増して説明不足の粗雑な記述です。 C3-4世紀と14世紀の諸都市の規模を比較して推計する方法。
南部の14諸都市の面積一覧比較表(p83)、中部の22都市の面積一覧比較表(p84)、北部の20都市の面
積比較一覧表(p84)
南部の8都市は367ヘクタールから1061の約三倍に増加
中部リヨン州の7都市は262ヘクタールから1244と5倍に増加。人口も5倍となっていると推測できる。
ベルギカの諸都市(低地地帯)は数値を出すのが難しい。
1328年のかまど税に
は北部低地地方は入っていないため、この人数を追加して2500万人とすると(※なぜ2500万人となるのかこの部分に
記載なし。他の部分にあるのかも知れない)、中部リヨン州の都市サイズは、14世紀の1/5、人口も1/5なので、
2500万/5=500で、4世紀のガリアは500万人、と推計される。(※マッケベディーの推計だと、14世紀の現フ
ランス領域は1600万、低地地方は60万人、これにラッセルの1/5という定式を適用すると1660/5で4世紀のガ
リアは332万人となる)
Dコンスタンティヌス大帝時代に、オータンのCapita(人頭税)が32000から25000に減らされた。
Caputは平均すると二人の人を示ため*1、オータンの人口は64000人から50000人に減少した、ということに
なる。当時のガリアには115のキウィタスがあるため(出典はモヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリ
カの1:552のリストとあるが、115という数字はモムゼンがまとめた
Notitia
Galliarumに登場するキウィタスの値なので、これなのかも知れない)、オータンが都市平均だとすると、560万となる(※115都市x5万人は
575万人となるが、どうして560万人となるのか不明)。もしガリアのどの都市もオータン同様の人口減少があったとす
ると、平均22%の人口減少なので、元は640万人が想定される。
【*1
Caputa平均二人の出典史料と解説はラッセル本のp49にある。 32000から25000の出典*2は、FRANK
ESAR 3:605(Tenny Frank , Economic survey of ancient Rome
,III v Bortimore,Johns Hopkins Press
1933-1940)のp605にある。Capuaの人数に関する数値は、p49に帝国各地の複数の事例が書かれていて、男性の場合1人、女性や奴隷の場
合2人、等とされている。ざっと見平均して2人だろう、というのがラッセルの判断の模様。なお、弓削達『ローマ帝国の国
家と社会』(1964年)p459-460には「カピタへの換算については、ユパイパ碑文第一断片第二申告が、二十歳の
男子を一カプトと記載していることが唯一の手がかりである」とされ、p465にある註釈には史料翻訳があり、「アウレオ
ス・シュノディオス、ビラコンティオスの子、ヒュパイパ市民。自己の家に住む。私、ニ十歳・総計、一。」とある。】
【*2 この史料は「オータンの皇帝頌詩」というもので、浦野聡「後期ローマ帝国における台帳碑文」『古代文字史料の周 縁性と中心性』(2006年、p258-260)で若干解説があります。この論説では、当初労働力査定であったカプトが 土地に織り込まれた財産査定となった、とあり、単純に担税者と対応しているわけではなさそうです。この場合の財産査定と は、家畜のカピタや奴隷のカピタなどもあり、これらのような動産も含まれるケースもあり、非常に多様なようです】 【2021/Dec/5
追記:ラッセルのガリアの人口推計で登場した帝政後期人頭税カプトの出典史料オータン頌詩について、弓削徹『ローマ帝国の国家と社会』(1964年)でよ
り詳細に登場していました。この書籍の第二部第四節において、52頁に渡ってカピタティオ・ユガティオ制の分析がなされ
ていて大変有用です。この税制は、各地域で若干異なる適用がされていて、代表的な地域として小アジアとエジプトが節を立
てて分析され、ガリアとイタリアについてもそれぞれ約5頁、3頁扱われています。カピタティオ・ユガティオは、その課税
単位は、課税対象毎の税額をそのまま反映していましたが、そのうち抽象的な積算単位となった、という経緯が論証されてい
ます。当初人頭税や奴隷や家畜などの不動産と農地・果樹などの不動産それぞれについて、年額いくら、と決まっていたわけ
ですが、そのうち土地所有者一人の動産併せて総額いくら、不動産併せていくら、となり、地域によっては、動産と不動産さ
え合算した積算額で徴税が処理されていたそうです。こういうパターンは明代の丁税でも見られましたし、実質積算していた
と推定されるのは唐代でもありましたから、人間社会の実務処理では古今東西起こりうる社会現象なのかも知れません。カピ
タティオ・ユガティオでは、動産不動産が合算された地域代表として小アジア、分離したままの地域代表としてエジプトが分
析され、ガリアは両方のケースがあった、と推定されています。カピタティオ・ユガティオ制については、史料が断片的す
ぎ、地域毎の差異も大きすぎて、用語の看板を付け替えただけで体系的な税制とは言い難いのではないか、という意見もで
て、史料が少ないうちはあまり有為が議論はできないことから、20世紀後半にはあまり議論されなくなったようなのです
が、申告台帳や課税台帳などの断片が残っていて、その文面が若干とはいえ引用されているため、当時の社会の一端に直接触
れることができて大変面白く読めました。
で、本書によれば、ガリアについて1カプトを何人と決定することは難しい、という解釈もなり立ちそうです。も
ともと、1都市あたりの人口は、プトレマイオス地理学に登場する町の数で推計を割ると、イベリア半島で1万1700
人、イタリア半島で
2.49万人、アナトリアで1.59であるのにも関わらず、ガリアは2.76と多めでしたので(出
典はこちら)、カプトの数から割り出されたオータン人口5万人という数値について、ラッセルはありだと
見なしたのかも知れませんが、オータン人口推定をもっと小さく解釈することも可能かも知れません。ラッセル推計で
は、オータン人口5万で500万の推計がなされ、この数値はベロッホ推計値とも整合しましたが、ベロッホ推計も、
「武器を持てる者」の1/2が従軍したとすれば、もっと数値を小さくすることができるわけです。】
5世紀中頃に人口減少は底をつき、この頃ブリタニアからブリトン人の移住があり、同時期に初期ゲルマン人移動期と
同様にフランク人の移住があり、この移住は(ゲルマン語とロマンス語の)言語ラインを永続的に西方にずらした。人口増が
はじまり、543年にはコンスタンティヌス時代にまで回復したと思われる(※どうしてそのような数値になるのか、543
年に何があったのか不明)。(※結局、ラッセルが古代末期のガリア人口としてどの値を採用したのかここでは記載されていない。p148に掲載
されている古代から1500年までのヨーロッパ各地の数値表では紀元1年は660万人、350年は500万人、600年
は300万人としている。このことからすると、ラッセルは、上記Cの値を採用したのかも知れないし、他の推計方法の値と
も兼ね合わせて妥当そうな値として500万を採用したのかも知れない。どこかに、なぜ660万人と500万を採用したの
かについて記載があるのかも知れないが、面倒なので探していません。
なお、1328年の推計は、p106に表があり、これによると、1328年当時の領域の推定人口は1345万人、
1794年当時のフランス領土で1760万人としている)。
(2)コリ
ン・マッケベディー(1930-2005年)『Atlas
of World Population History
』(1978年):世界全体の国ごとの歴史人口推計
現フランス領AD14年500万、ガリア全体575万、現フランス領AD200年650万程度、ガリア全体750万 人とし、この数値が、次のフライに採用されています(フライのAD164年の出典としてマッケベディー(1978年)と なっているため)。恐らくフライのガリアとゲルマニア併せた900万という数値は、マッケベディーのゲルマニア全体の推 計値350万人のうち、150万人を帝国領土として、ガリア750+ゲルマニア150万=900万人、という推計を行っ ているのだと思われます。 (3)ブ
ルース・フライ(1943- )『The Cambridge ancient history. The
High Empire 70-192』(2000年)所収「Demography」(p787-816)
ベロッホ推計は、シリアとアナトリアが最も誇大であるとして、アナトリアとシリアの合計値(ベロッホ 1900
万)を1250万人へと減らし、更にマグリブも600万から350万に減らし、イタリアは600万から700万に増やし
ている。それ以外の地域はあまり増減がなく、帝国合計ではベロッホの5400万に対して4550万人としている。
フライは、紀元164年の帝国人口も推計しており、その人口変化にはいくつか要素があるが、ガリアに関係する部分
では、移住の影響が大きく、AD14年に580万人(ガリア+ゲルマニア)の推計は、AD164年には900万に増加す
る、と推計している。移住については概要以下のように解説している。これにより、シリアとアナトリアの人口密度はフライ
においてはかなり低く変更されている。
ローマ帝国内外の移住は、帝国内での移住には主に三つのパターンがある。@軍団兵A商業従事者や知識人の移民B奴
隷。及び帝国外からの流入がある。
東方から西方への移住が、移住者の碑文(名前を現地名に同化させていない人々が)などから確認される。これらは港湾市に 多く、西方にキリスト教が広まる拠点となった。奴隷も各地に移住したが、こちらは名前を変えるので判別は難しい。文学史 料では首都ローマにおける東方出身(小アジアやシリアが多い)の奴隷が言及されている。首都ローマで発見されている墓碑 は、出生自由市民と比べると解放奴隷は二倍である(ただし墓碑は一般人口における解放奴隷数を過大評価する傾向があるこ とは確かだが、東方からの移民がその逆を圧倒していたことは疑いない)。 領土外からの奴隷流入は、戦争でもっとも多く獲得される。トラヤヌスのダキア戦争では誇張があるものの50万人が
奴隷となったと記録され、70年のユダヤ戦争では97000人が奴隷とされ、商人による領土外からの獲得もほぼ同数だと
思われる。
帝国西方の出生人口増加率は、0.15%(p815)とし、1世紀で4.6%としている(ここは計算間違いで、
0.15の100乗は4.0656%)。これに年間帝国領土外から流入する20000人の奴隷の3/4が帝国西方に流入
し、同様に20000人が東方から西方(特にスペイン、ガリア、マグリブ)へと移住したと仮定して、西方帝国人口は、
AD14年の2500万から164年の3570万人に、帝国東方ではAD14年の2000万人からAD164年の
2310万人へと増加した、とモデル推計を行っている。ガリア移住に関する論文は、 The Three Gauls
and the Third-century Crisis 、ohn Drinkwater
(1983)168-70,としている。西方の人口成長は、主に出生による自然増ではなく、移住によって達成された、とフライは見ている。更にフライは、
人口増に対して食糧生産高が伸びなかったことで物価高を招き(エジプトの史料からわかるそう)、(史料はないようだが)
賃金増も低かったとすれば、全体的に貧困化が進み、結婚と出産を抑える、いわゆるマルサス的限界となったかも知れない、
と予想しています。
興味深いのは、フライが、166年の大秦王安敦の後漢到着を取り上げ、二大帝国の接触は、伝染病の伝播もまたもた
らすような交流をもたらした、としている点です。1347年ヨーロッパと地中海沿岸部に流行した黒死病がモンゴル帝国に
よる統一と北伊都市による東方交易にがその基盤となったのと同様、166年の疫病流行は、ローマと漢王朝が直接接触する
ような南海交易によるグローバリゼーションが、その基盤をもたらした、という論旨に展開するような指摘となっています。
プトレマイオス地理学は117、ガリア要覧は115です(属州数17、キウィタス数115)。プトレマイオス地理
学は2世紀及びそれ以前の情報、ガリア要覧は4-6世紀頃の情報で、都市数についてはまったくといっていいほど相違があ
りません。同じ都市が存続していたと考えられ、個々の都市の面積を比較する手法は、都市数の増減が見られない、というこ
とが前提のようです(プトレマイオスをざっと数えると、ナルボネンシス33、ベルギカ35、ルグドゥネンシス31、ア
クィタニア19)。
ガリア要覧の都市数についても概要を記載しようと思いましたが、長くなるのでやめました。都市の数がプトレマイオ
スの時代と変わらないため、古代末期における都市数の増減というものは認めがたく、このことから、個々の都市の規模の縮
小や拡大が、人口増減の指標となる、と、ラッセルは考えたのかも知れません。
【6】250万人は可能か
ガリア人口250万人が可能かどうか、をすこし考えてみたいと思います。 @ガリア全部で250万人のパターン トレス・ガリア 110万(28万*4=112万) (人口の4人に一人が兵士 成人男性全員兵士ミニマムモデ
ル)
ナルボネンシス 120万
アクィタニア 20万(ガロンヌ河以南のアクィタニア)
合計250万
トレス・ガリアについて、成人男性人口全部が前52年の戦いに参加した兵士とした場合。参加兵士28万を四倍すると全部 族数となり、ナルボネンシスを少ない方(ベロッホ[1899]の推計)を採用、アクィタニアをベロッホが提出している もっとも少ない値の20万とする場合。 成人男性人口全部が前52年の戦いに参加した兵士するパターンは、ガリアに関する記載ではベロッホは否定していて、成人 男性人口の1/2,1/3,1/4の、いずれかの割合を検討していることからもありえなさそうに思えますが、実は、シリ アの推計では、成人男性全員が反乱に参加した推計を行っている部分もあります。まとまった軍隊と、ゲリラ的な全土反乱と では、ケースが異なり、ゲリラ的反乱では、兵士と異なり、男性全員参加というものありえる、とベロッホは考えていたのか も知れません。そういうわけで、反乱ではアリ、兵士はナシ、というルールであれば250万人説は成り立ちませんが、兵士 でもアリ、ということであれば、250万人説も一応なり立ちます。しかしやはりこれは『ガリア戦記』のみに基づく限り は、可能性の低いもののギリギリありえるミニマムモデルなのではないかという気がします。 Aトレスガリアのみ250万人のパターン トレス・ガリア 28*9=252万人( 人口の1/9、成人男子の1/2強が兵士)
ナルボネンシス 120万
アクィタニア 20万
合計390万人
「ガリア」は、一般に現フランスとベルギー、及びドイツとスイスの西部の一部、という地理認識があるものと思われま すが、古代における時期や、当時の人の認識においては、北イタリア(ガリア・キサルピナ)、ナルボネンシス(ガリ ア・トランスアルピナ)、ガリア・コマタ、ガリア・ウルテリオル、ベロッホにおける「トレス・ガリア」など、異なる 場所や、微妙に異なる地域概念用語が複数あるため、井上氏が記載している「ガリア」は、ベロッホの「トレス・ガリ ア」のみを示している、と解釈すれば、わりと可能性が高い数値となります。 B成人男子の1/3が兵士のパターン トレス・ガリア 28*11=308万人( 人口の1/11、成人男子の1/3弱が兵士)
ナルボネンシス 120万
アクィタニア 20万
+52年の戦闘不参加部族分
合計450万人以上(ベロッホ[1886])
この場合には、250万人説に解釈できる余地はまったくありません。 以上のように、『ガリア戦記』だけに基づいた推計だと、可能性はあるものの250人説は苦しいかも知
れません。ラッセルは古代末期の人口減を推計していますが、それは紀元1年を660万人とし、そこからの減
少なので、紀元1年をベロッホ[1886]の489万からの転落だとすると、500万は660の24%減な
ので、同様に489万からの24%減を想定すると、370万となります(が、さすがに250万にはなりませ
んが)。
更に、『絵 で旅する-ローマ帝国時代のガリア-ジェラール・クーロン』p46によると、最近の研究では、 ラッセルが参照したような、かつて都市縮小=人口減少の証拠とされた古代末期のガリアの都市の城壁建設は、 都市住居の全てを囲っていたわけではく、要塞部分のみの建築で、その周囲に住居があった、との解釈も提出さ れているとのことで、この場合には、古代末期の人口減少像は、かなり変わって来る可能性もあります。その一 方、コンスタンティヌス時代のオータンのCaputの数値が減少している点は、人口減を反映しているのかも 知れず、こうした事例を更に複数収集することで、古代末期の人口減少を証明できるかもしれません。 更に現在では、別分野の側面からも推計を支援することができます。これらの推計値のオーダーの基本に
あるのはベロッホの推計であるため、『ガリア戦記』以外の史料による推計(古代気候学や古代植生学や古代栄
養学や古代遺伝学、古代の戸籍の出土等々)により、古代末期における人口減少がより強力に後押しされてば、
250万説の可能性も高まるかも知れませんし、井上氏も既になにか情報を持っているのかも知れません。もし
かしたら『ガリア戦記』の数値解釈さえ、もう少し下振れさせることができるかも知れません。
【7】まとめ
これまで書いてきた内容が膨大であるため、まとめを書くのも容易ではなく、ここでは非常におおざっぱな所感だ
け記載して取り合えず終わりたいと思います。
今回の一連の作業でわかったこと
@ガリア人口推計のおおもとの史料は『ガリア戦記』のみ。最盛期2世紀や古代末期の推計は、皆『ガリア戦記』を元
に推計したベロッホの数値に基づいている。
Aベロッホ(に限らず数量経済史ではありがちだが)の論文では、出典や根拠が明確に記載されていなかったり、計算
ロジックが記載されず、読者が検算しなくてはならない箇所が非常に多く、ストレスがたまる。四捨五入を説明しないまま、
四捨五入値が次の段落で登場したり、いくつかの数値の合計する旨の記載がないのに合計値がいきなり登場したり、合計値は
四捨五入した値の合計だったり、計算部分の解説がいっさいないまま数値が登場したり、というような基本的な部分で記述を
端折るパターンが多い。書籍の時代は、論文の頁数に限りがあるため、ある程度端折るのも仕方がないかも知れませんが、基
本的に読者が読んで再現できない論文は、検証可能性が低いことになります。電子書籍やWebでの論文掲載の時代にあって
は端折る必要はないのだから、論文をそのまま読んだ読者が再現できなければ、その論文の正確性に疑問を呈されてもし方な
いわけで、今後はこうした論文がなくなることが期待されます。当初は、いちいち事例を列挙して、「こういうところがダメ
なんですよ、(一部の)数量経済史」みたいな内容を書こうと思っていましたが、推計作業の紹介だけで大変な労力となって
しまい、疲れた(飽きた)ので、具体的な事例は割愛。
B今回私自身大きな収穫だったのは、ベロッホの研究内容を知ることができたことはもちろんですが、個人的に一番大
きな収穫だと思えたことは、北伊と低地諸国(現在のオランダ、ベルギー)の古代末期から中世初期の人口増加に関心が出た
点です。両方とも古代には湿地帯であり、古代における湿地帯は、一定の技術力による開拓や排水が行われない限り、人口稠
密地帯にはならないため、いつ、北伊や低地地方が、中世中期以降に見られるような人口稠密地帯となったのか、に関心が出
ました。古代においては、丘陵地帯の方が先に開け、湿地帯の方がだいぶ遅れた事例として有名なのは古代エジプトのナイル
川の河口地帯(下エジプト))です。エジプトは上エジプトが先に発展し、下ナイルは時代が下ってから運河や水路が整備さ
れ、人口が増加したと考えられているようですし、日本においても、南関東地方で最初に住民が定着したのは多摩丘陵地帯
で、古代中世には平野部の多くは湿地帯でした。恐らくはこれと同様な感じでガリア推計でもベロッホは、低地地方の人口密
度を低く見積もっているのだと思われます。
というわけで、これらの地帯の古気候学や地質学等の調査研究に基づく当時の景観や、これらの地域の古代末期から中
期中世に至る開拓史に興味が出てきました。まずは、オランダとベルギーの各国史の古代の章などを参照して、このあたりの
文献について調べるところからはじめたいと思います(いつかそのうち)。
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追記:2021/Nov/30 : Caputの「オータン頌詩」の部分を追加 2021/Dec/5 弓削徹『ローマ帝国の国家と社会』のカピタティオ・ユガティオ制度に関するコメント追加 |