2021/Nov/3- Nov/15 created

  ローマ時代のガリアの人口推計 その2
ベロッホ(1889)の人口推計


【3】  ベロッホの1899年の論文の概要

ベロッホの「Die Bevölkerung Galliens zur Zeit Caesars」1899年(ケ ルン大掲載PDF/著作権切れ)のカエサル時代のガリア人口 推計論文の概要です(翻訳機で英訳したものを利用)。
 
ベロッホ(1886)のガリアがp448-460の約12頁であるのに対 し、本論説は32頁あります。1886年の書籍で 489万人としていた推計を、570万人と若干上方修正しています。ベロッホ[1886]と比べると構成が大変わかりにくくなっています。本論は、章分け もされておらず、前著との相違も記載がないため、以下、本論[1899] と前著[1886]とのおおまかな相違点について比較表にまとめてみまし た。

  ベロッホ[1886] ベロッホ[1899]
推計人口 489万人 570万人
核となる推計方法 ヘルヴェティイー族との前58年の戦後人口調 査の部族人数と52年の戦争動員数から、全部族数の約1/10が参戦したとし、ガリアのほとんどの部族 が参加した前52年の動員兵を10倍して参戦部族の全人口を推計。これに前52年の戦争非参加部族を個 別に推定して加算。兵士動員率を中心に推計を行っている。 各部族の居住面積を推定し、その面積と前52 年の戦闘参加部族からの推定人数から人口密度を算定。算出された人口密度が地理的観点からも妥当かどう かを検証する、という人口密度アプローチというべきものが中核にあ る。
また、兵士動員率も更に深く検討し、部族人口の1/4にあたる武装可能者数(最大兵士動員数)のうち、 実際に動員される兵士の割合が、1/2,1/3,1/4のどのあたりかを検討している(結論の数値はベ ロッホ[1886]の数値と変わらないが、異なる観点から算出して類似の結果となっている点に意味があ るといえそう)。
地理区分 アウグストゥス時代(AD14年)の人口算出 という建前であるため、属州ベルギカ・属州アクィタニア・属州ナルボネンシスの三区分で集計 カエサル時代(前52年)の人口算出という建 前であるため、属州化する前の地理区分、ベルギカ、ケルトランド・アクィタニア・ナルボネンシス、とい う区分で集計
(ナルボネンシス以外は、同じ名称でも実際の地理範囲はベロッホ[1886]とは異なるので注意が必 要)
ベロッホが推定するカエサルが用いた定式(プロット) 武器を持てる者(最大動員可能兵士数=老人子供の除いた成年男子)は、 男性の半分(全人口の1/4)(1/4の定式)
ベロッホはこれを用いて前58年の戦闘に参加した部族の総人口は、カエサルが演繹的に算出したものとす る(それ以外の数値でもこの定式を当てはめたと思われる箇所がある)
ベロッホ[1886]では主に前58年の戦闘での全部族数は演繹とし、 前52年の部族ごとの戦闘参加兵士数は信頼できるものとしていたが、本論では、前52年の兵士数にも規 則性があると示し、前52年の数値もカエサルが抽象化した数値だとした上で、抽象化していても部族の大 体のスケールは示していると考える
頁数 約12 32頁
本論は、人口密度アプローチ、と呼べる方法をとってる のが特徴です。ベロッホ[1886]では、『ガリア戦記』に登場する数値が実勢を反映しているのかどうか、の検討を行い、使 える数値を抽出して人口を推計し、人口推計の結果として人口密度が得られていましたが、本論は、人口密度の推計をま ずは目的 とし、その後人口密度に推定面積を乗じて推計人口を算出する、という相違があります。議論の過程で、同じ数値史料を用 いているため、一見似たような検討内容に見えますが、全体的な論旨の展開方法は、このように異なっています。章分け もないため、記述が連続していて区切りがわかりにくいため、以下に私の方で区切りを入れてみました。

A 『ガリア戦記』以外に登場する数値の検討
 @ベロッホ[1886]中各所で若干言及されていたことが少し深く詳述されている(p414-415)
B ベロッホ[1886]の補足
 Bアレシアの戦いの史料批判(各写本の矛盾や誤りの検討)p418-419
C 人口密度アプローチ

 この部分のAやCでは、一見ベロッホ[1886]と同様に前58年の戦 闘や前57年の戦闘を解析しているが、目的が異なっ ている。ベロッホ[1886]では人口算出の確度の高いデータとして利用可能かどうかの観点から検討していたが、本論では、 各地域の人口密度を算定することを目的としている。

 Aヘルヴェティアの人口密度の算出(p416-417) (辺境地帯の 人口密度の算出。前58年の戦闘。約7.5人 /km2)
 Cベルギカ の人口密度の検討1(p421-425) (北部の人口密度の算出。前57年の戦闘。人口密度算出には成功しない)。ベルギカの範囲がベロッホ [1866]と若干異なるので注意が必要
 Dナルボネンシス(p426)(南部の人口密度の算出1。北伊の25% と仮定して約12人/km2)
  ナルボネンシスの人口密度の算出はベロッホ[1886]では行ってお らず、本論ではじめて登場。
 E属州ナルボネンシスのアルペン地域 (p427)(山岳部と沿岸部をそれぞれ推定。全体平均は12人/km2で変わらない)
 Fアクィタニアの人口密度(p428)(南部の人口密度の算出2。武装 しえる者は1/3が妥当との結論を導く。1/3の場 合13人/q2程度) アクィタニアの範囲はベロッホ[1886]と異なるので注意が必要
 Gルグ ドネンシス(p429-430)(中部の人口密度の各部族ごとの算出。ハエドゥイ族は10人 /km2
 H前52年の数値のモデル化と各部 族の面積と人口密度の算出(p431-432)(中部の人口密度9人 /km2)
 Ip432に中央部の部族人口数と人口密度一覧表 が掲載され、数値の妥当性を個別に検討(p433-435)
 Jベルギカの人口密度の検討2(p436-437)
 K全体合計値(p438-9)とその検討
 L中世や近世の推計数値との比較(p440-445)

 ナルボネンシスの人口推計では、イタリアの人口推計をもとに しています。ということは、イタリアの人口推計値が改訂されれば、ナルボ ネンシスの人口推計にも影響する、ということです。本論では、北イの数値 をえいやで25%減じた数値をナルボネンシスに適用している、という、か なり強引な方法です。ただし、出てきた数値は、ちょうどいい塩梅に内陸ガ リア(ヘルヴェティイー族の数値)と北イの中間値くらいに収まるため、ま あ妥当な感じのする数値となっています。

また、本論でアクィタニアといっているのは、ガロンヌ河以南のアクィタニ アのことで、ローマの属州化によって属州アクィタニア」という名称がつけ られた領域ではない点注意が必要です(ベロッホ[1886]では、ガロン ヌ以南のアクィタニアを含んで「属州アクィタニア」単位で集計されていま す)。

p438に掲載される総集計表は以下の内容です。
  面積 推計人口 1km2当たりの人口密度
ケルトランド 31.万平方キロ 285万 9.1人/km2
ベルギカ 17万平方キロ 125万 7.4人/km2
アクィタニア 4万平方キロ 40万 10.0人/km2
トレス・ガリア全体 52万3000平方キロ 450万 8.6人/km2
ナルボネンシス 10万平方キロ 120万 12.0人/km2
総合計 62.3万平方キロ 570万人 9.1人/km2

『ガリア戦記』に登場する数値的根拠が高いのは、カエサルによる人口調査 がされたヘルヴェティイー族の7.5人/平方キロと、ハエドゥイー族の 10人/平方キロくらいであって、
ヘルヴェティイー族の値は、周辺部の値 としてベルギカの値の正当化のための基準値として用いられ、ハエドゥイー族の値はアクィタニアの値 の基準値として用いらて、ハエドゥイー族とヘルヴェティイー族の 中間値である9人/平方キロが、ケルトランド(おおむねガロンヌ以北のア クィタニアとルグドネンシスを合わせた地域(一部ベルギカも含む))の値 となっています。ナルボネンシスは、ベロッホ[1886]では15人/平 方キロでしたが、本論では、推計人口600万のイタリアの1/3の人口が 北イであると仮定し※、その数値と北イの面積から16-17 人/平方キロを北イの人口密度を算出し、北イの25%減をナルボネンシス の人口密度と仮定する、という具合に 算出し、イタリア(24人/キロ)→北イ(17)→ナルボネンシス (12)→ガロンヌ以南のアクィタニア(10)→ルグドネンシス(9)→ ベルギカ(7.5人) というように、イタリアから離れるにつれていい塩梅に人口密度がグラデーションに なる結果となっています。

※p433に登場しているガリア・キサ ルピナについての集計表ではガリア・キサルピナを332万人と推計し、半 島部494万と併せてている合計800万としているのに、最後に登場する p507の集計表でのイタリア人口は600万となっているため、その後の 検討で北伊を200万程度に下げているのかも知れない。今回キサルピナの 部分は読んでいないので、詳細は不明です。


このようにガリアの人口推計は壮大なフェルミ推定の構築物であることがわ かりました。フェルミ推定とかいてしまうと、まったくの虚妄だと受け止め る人もいるかも知れませんが、フェルミ推定の重要なところは、算出された 数値自体にあるのではなく、変数及び変数間の関係の洗い出しこ そが重要で、一度徹底度の高い洗い出しができていれば、その後いずれかの 変数が新史料等により変更となった場合の影響度も容易に判明する、という 点にあります。フェルミ推定をただしく理解している人は、算出され た数値は重要ではなく、変数とその関係ロジックこそが重要な ので、ベロッホの業績はフェルミ推定だからといってなんら価値が下がるも のではありません。

なお、検索していると、近年の北イ(ガリアキサルピナ)の人口推計の論文 がいくつか見つかるのですが、それはこうした、確度の低かった変数に代入 する数値の確度を上げるために作成されたものである、ということが推測さ れます。今回たまたま見つけた北イ人口推計論説には以下のものがありま す。北イ人口推計が要請されるのも、上記推計内容に見た通り、ナルボネン シスの人口密度に影響する、という点でも重要だ、という位置づけがわかり ました。

The population of Cisalpine Gaul in the time of Augustus  January 2008/L. De Ligt(PDF

The Population of Northern Italy and the debate over the Augustan Census figures  January 2017/Geoffrey Kron(PDF

しかしそれでも本論には、わかりにくい箇所がたくさんあり(数量経済史には珍しくないが)、ストレスがたまった箇所もた くさんあるので、取り合えず次回、本論の要約(めいた私の読書メモ)を掲載し、次々回にまとめと苦情、及び、そもそも今 回の作業の発端となった、井上氏の提案した推計人口250万の可能性などを記載して見たいと思います。


【4】ベロッ ホの1899年 の論文の要約


以 下要約です。というより、ベロッホの説明不足な部分が多すぎてよくわからない箇所が多いため、大量に断片メモと理解した部分のまとめを書いているうちに膨 大になってしまったものです。私のコメントは文中(※  )で挿入していますが、大変わか りにくくなっています。基本これは自分のためのメモであり、誰も読まないと思うのですが、 何かの参考になるかも知れないため一応アップします。


@『ガリア戦記』以外に登場する数値の検討
 ベロッホ[1886]中各所で若干言及されていたことが少し深く詳述されている箇所(p414-415)

p414 ディオドロス(5-25)では、引用元のポセイドニオスは、ガリアの部族は最大20万、最小5万人と している。
p415 カエサルがベルギカ征服で記録しているのは、ベルギーのベロウァキー族、スエッシオーネース、ネル ウィーが5万 以上、モリニー族は2万5000でそれ以外は2万以下でガリア戦記II-4に記載がある。

ヘルヴェティー族と一緒の4部族については、どの部族も36000を越えない(I-29)。1/4の法則(子供 老人を除く成 年男性の総人口中の割合。成年男性=武装可能な者となる)では、武装可能人は9000人となる。カエ サルによれば前58年の戦闘以前のヘルヴェティー族は263000人中66000人が武装していた。つまり263000/4=65750 で丸めて66000人が武装可能な者ということになり、ディオドロスとポセイドニオスの最小部族数(5万)は誇 張だろう。 20万という最大値は、ストラボン(IV 185.191)が記録している前121年のアルウェルティー族とドミティウス・アヘノバルブス及びファビウス・マキシムスとの戦闘に関する誇張である、 とし、ポセイドニオスの記述は検討する価値はなし、としています。

(※本論に地図はありませんが、地図がないとよくわからないため、ネット上から持ってきた地図を以下に掲載しま す(引用元は  「What if Gaul was not conqueded by Rome?」(こ ちら
https://www.alternatehistory.com/forum/threads/what-if- gaul-was-not-conqueded-by-rome.450566/ 

以下の色付き区分とベロッホが用いているベルギカ/アクィタニア/ルグドネンシスの区分は異なっていますが、黒 線の区分は部 族区分となっていて、おおむねベロッホの区分と同じだと思われます。色分けの意味は不明ですが、おおむね人口密度が高いとこ ろは赤、白は過疎地帯だと思われます。)

gallia_map.jpg

Aヘルヴェティアの人口密度の算出(p416-417)

ここでは前58年の戦い(ガリア戦記1-29)の数値検討(※ここはベロッホ[1886]と若干異なるアプロー チ)していま す。

p416 詳細なセンサスが登場するのはカエサルの前58年のビブラフテの戦い(『ガリア戦記』1-29)の 後。オロシウス (6-7-5)ではヘルヴェティ族は、(カエサルの数値である)368000人と異なり、157000人が移住したとしてい る。最初の戦力の1/4から1/3が敗北で失われ、40万もの人口の移住というのはほとんど考えられない。戦後 のセンサスに よる112000という数値が検討されなくてはならない。

p417 スイスのカントン(スイスの「州」のこと)のうち、ゾロトゥル ン等の6カントンは16409平方キロ(※この数値はベロッホ[1886]で用いた18600平方キロと異なっている)。これを丸めて約15000とする と、ビブラフテの戦い前は人口密度7.5人/平方キロで、帰還後6としている(※ここは誤りかも知れない。帰還 後の 112000名/15000平方キロで人口密度7.47となるため、戦闘前の人口はオロシウスの数字を採用して157000 人だとすると、人口密度10.45となる)。今日のスイスの人口密度は72人/平方キロ、フランスの人口密度は 71人 /km2で、全体としては同じだが、 ヘルヴェティー族の地域の人口密度は、ハエドゥス族やアル ウェルニ族よりも低いが、ベルギーよりも高い。アルモリカよりも低くない。ヘルヴェルティー族の人口密度は、トレス・ガリア全体の平均人口密度にちょうど 良い。 トレスガリアは52万3000平方キロなので、人口は3-400万人となる(※人口密度6とすると300万、8とすると400万ということ)。

Bアレシアの戦いの史料批判(写本の矛盾や誤りの検討)p418-419

(※この部分はベロッホ[1886]にはなかった部分です。ベロッホ[1886]では、ここまで立ち入らずに底 本としたガリア 戦 記本の記載数値をそのまま流用していました。ベロッホ自身は各写本や各学者の数値を検討していたのかも知れないが、それは文 章には登場していない。よってベロッホ[1886]の挙げる数値と岩波文庫の7-75と76の数値や部族名が一 部異なってい て、ベロッホ[1886]にはこのあたりの解説がなかったので困惑した。本論[1899]の記載を読むと納得できる)。

p418 第二のメイン史料であるアレシアの戦い(ガリア戦記7-75と76)。
p419 写本の相違や写本の読み方でアレシアの戦いの参加した部族の数値が一部異なるようで、ベロッホは、五 人の学者が主 張する各部族の数値の比較表を載せている。若干数値が違うがだいたい同じ。岩波文庫版同様レモヴィケス族は二回出てくる。 よって学 者の意見もレモヴィケス族は10000と 3000で割れている。二つ目はのレモヴィケス族は、アルモリカの部族の一つとして登場し、レモヴィケスとレクソウィーのスペルミス( Lexoviis:とLemmlie)との見解がある、等が解説される) 。セノネス族も二回出てくる。全部族合計は28万としている。この数値を、278000ではないか、25万は27万の誤記で 本文中には25万と騎兵 8000と出てくるがどうなのか、などと些細な矛盾を議論しているのがp420。

Cベルギカ の人口密度の検討(p421-425)

(※ここは、ベロッホ[1886]の「Cベルギ カの数値の検討(p453-455)」と同様、ベルギカを検討しています。ベロッホ[1886]よ り詳しく検討している感じですが、結論はあまり変わらず、ベルギカ征服戦で登場する数値はカエサル の誇張が多い、ということで終わっています)。

p421ではアルモリカ族について、p422ではレモヴィケース族について議論。p423ではヘルヴェルティー 族88000 のうちの1/11である8000人しかアレシアに参加していない。さもなくば武器を持てる 者(※全部族88000の1/4の22000人のうち)の1/3の8000人しか参加していな い。ベルギカのベロヴァッキー族は40万のうち10万人が武器をもてる者としているが、ベロヴァッキー族40万人は、ベロヴァキー族がいたと思われる今日 のオワー ズ 県の人口が40万人ということを考えると、これはカエサルの誇張であると思われる、などと続く(ヘルヴェルティーやオワーズ県のくだりはベロッホ [1886]と同じ)。

p424では ネルウィー族について登場する5,6万の数値(※ガリア戦記II-28にある、6万の軍がカエサルに負けて500になった、II-4に登場するネルウィー は 50000)は、カエサルの誇張とし、実際は1万5000-2万としている(※15-20000とする出 典不明)。 スセシオー ネース族とベロヴァキー族はベルギカの1/4の面積を占めているだけなのにも関わらず、ネルウィー含めこの三部族は人口は、 カエサルによれ ばベルギカの兵士の半分以上を占め、一方面積は1/4だった。(※面積 1/4とどうしてわかるのかの論証はしていない)。これは近隣エリアより6倍の人口密度となる。続いてガリア戦記II-33でのベルギカのアトアートゥ キー族が検討される。(※このあたりは、ガリア戦記の各所に登場する部族に関する数値が検討されているが、カエ サルの誇張等の 結 論になることが多く、直接人口推計に結びついてはないため、ここでは省略)。

p425では、57年のベルギカ征服戦と52年アレシアの戦い双方に参加したベルギカの部族の兵士数の比較がさ れる。この部分はベロッホ[1886]にはなかった部分。結論としては52年の数値の方が信頼できる、としてい て、ベロッホ[1886] と変わりはない。

部族名    前57年の兵士数  前52年の兵士数
Bellovavi     60000    10000
Nervii      50000    5000
Atrebates     15000    4000
Moriner      25000    5000
Veliocasses    10000    4000
Ambianer      10000     5000

ベロッホ[1886]より細かく検討しているが、結局前52年以前の戦闘で登場している数値は信頼度が低い、と いう結論に導 くためのものであって、直接推計数値を算出するところまではいっていない(にも関わらず、後ろの方で出典不明の数値が頻出し ている)。

Dナルボネンシス(p426)

(※ここはベロッホ[1886]にはなかった部分。ベロッホ[1886]では無かったナルボネンシスの推計がこ こでなされてい る)。

ナルボネンシスが面積はもっとも狭いが人口密度がガリアでもっとも高い。その主な要因は、ギリシア植民市マッサ リア(マルセ イユの ことマッシリア)とナルボンヌという大きな都市と半世紀以上のローマ支配にある。一方ナルボネンシスは北イタリアには遠く及ばない。イタ リアの人口は600万人と推計され、北イは200万人を越えることはないと思われ、北伊の面積が12万平方キロ とすると人口 密度は16-17人/Km2となる。しかし北イよりはナルボネンシス州の人口密度は低いだろう、よってナ ルボネンシス は北イと比べて25%低い仮定し、 12人/平方キロを想定する(ベロッホ[1886]では人口 密度は15人/km2)。続いて更に、ナルボネンシス州を、アルペン山脈とそれ以外の地域について検討(この場合、ナルボン シス州の人口は120万となる)。

E属州ナルボネンシスのアルペン地域 (p427)

ナルボネンシス州は10万平方キロなので、面積を3万と7万に分けた。山岳地帯とそれ以外の人口密度は1/2か ら1/3の差 があると仮定し、3万平方キロの山岳地帯の人口密度を5-7 人/q2、7万の面積の人口密度を14-16/q 2と した(※つまり、この部分はベロッホの決め打ちである)。 (※この場合、15万(5人/km2の場合)+980000(14人/km2の場合)=113万人(最小値) or 21万(7人/km2)+112万(16人/km2)=133万(最大値)となるが、ベロッホは結局平均12人/km2で12万人という値を末尾集計一覧 で採用している)。

F属州アクィタニア(p428-29)

この部分では、ベロッホは、武装しえる者の数を、成人男性の1/2,1/3,1/4各々について試算推計を行っ ている。

Fー1 1/2とする場合
 
ルーテーニー族(前52年の兵力12000人)とアルウェルニー族(前52年の兵力35000人)について検討 している。ま ず、この二部族は比較的近くに位置しているからか合算し、突然47000人という数字をだし、武 装しえる者が成人男性の1/2だと仮定して)、94000人という数値を出し、部族総人 口は成人男性の4倍なの で、376000という数字を出している(※本論では突然376000という数字が出現してとまどうが、左記の計算ということ らし い)。(※この1:4の法則は、 は『ガリア戦記』I-29にある、前58年の戦闘前の武装しうる者は92000人と全部族数368000人から由来した数値だと思われるが自明のように扱 われていて出典が明記されていない)。376000人を面積 42300km2(アルウェルニーの 土地 33400km2+ルーテーニーの土地8900km)で除して 8.888888となり、これをまるめて人口密度約9人/q2としている。

Fー2 武装しえる者を1/4、1/3とした場合 

ベロッホ[1886]では、以下の値となっていたが、本論では、面積は38000->42300 に増えており(より正確な値としたのかも知れない)、人口密度についても約9人から18人の間となるパターンを検討している。

  アルウェルニー  35000    35万  38,000平方キロ  12人 
  ルーテーニー   12000   12万  (上に含む)   (同上)

武装しえる者を1/4と した場合、人口密度は18人となる。1/3とした場合は、14人となる(※A:1/2 の場合:47000*2*4/42300=8.88、 B;1/3の場合:47000*3*4/42300=13.333 ,C;1/4の場合、47000*4*4/42300=17.778 )。

以上の計算の結果、カエサルは、武器を持てる者の成人男性における割合を1/3と考えているのでは ないかとの印象が生まれる。実際、カエサルが前52年の戦闘に参加した部族の兵士数は、 35000、12000、10000、8000、5000 の各階層にたいへん規則的に分類できる (※各部族兵士数は本記事のベロッホ[1886]の前52年の属州別の参加兵士数一覧表を参照して確 認可能)。
つまり、カエサルは、前 52年の参加兵士数についても実数を記載しているわけではなく、人口の多さや人口の稠密性 などの印象から、大中小のグループ別に分けただけ、ということが推測される(この 議論は以下Hで更に展開される)。

G ルグドネンシス(p429-430)

ハエドゥイ族
(p429)とアルウェルニー族 (p430) について検討している。

ハ エドゥイ族は、前52年の戦闘に参加し、人数は35000人であり、
カエサルが武器を持てる者を成人男性の1/3としているとしたら、35000の参加者は、10万人の武器を持て る者がいる、ということを意味する(※計算上は105000人となるがベロッホは10万、と数字を丸めてい る。わ かりにくい)。(※現在のフランスの県の面積からハエドゥイ族の居住範囲を想定し、人口密度は10人/q2と し)、ハエドゥイ族はガリアの中央高地にいて、より 過密な南部と過疎の北部の間にあって中央値を占めるため、トレス・ガリア全土が52万平方キロであることから、 全土に10人/km2を適用すると、トレスガリアの人口は525万人を越えることはない、と論が展開される (※突 然人口密度が10人/km2)となる理由の記載が不明(ひとつ前の補足は私の推定補足))。

アルウェルニー族も前 52年の戦闘に 35000人を出している。彼らの領域はハエドゥイーより少し狭いため、人口密度はハエドゥイーより高いことにな る。

H 前52 年の数値のモデル化と各部族の面積と人口密度の算出(p431-432)

(※ここではFで検討された前52年の動員兵士数のグループ化が更に検討されています)。

カエサルが第二階層(12000人)に入れた諸部族は、同じくらいの人口を持ち、第三階層(10000人) も同 様である。そこでベロッホは、以下の人口モデルを提示している。想定人口は、参加部族数の12倍としている(※一 部の数値は丸められている)。

     前52年参加兵士数   想定部族総人口
第一階層  35000人      40万
第二階層  12000人      15万
第三階層  10000人      108000-13万2000
第四階層  8000人       78000-10万8000
第五階層  5000人       50000-78000人

12倍という数値は、ここまでの議論から、成人男性人口(武装しえる者)は全人口の 1/4、武装しえる者 のうち、実際に戦闘に参加する者は1/3、よって 部族総数は戦闘参加者の 3x4=12倍  である、という定式化を行ったものベ ロッホ[1886]が、前58年と前52年の 戦闘双方に参加したヘルヴェティー族とラウレキー族の値から、11倍という数字を出していたことと比べる と、異なる方法で部族全体数を推定する理屈を提出した、ということになります。

(※ベロッホ[1886]は、『ガリア戦記』に登場している数値のうち、実態を著していると思われる数値を スク リー ニングし、帰納的に出した定数(1/11)から総人口を演繹して算出していたが、本論では、信頼できると考えてい た前52年の数値も、かなり定式化された数値だと見なすようにベロッホ自身の解釈が変わったのだと思われま す。 前52年の数値も 演繹的な数値であり(ただし実態をまったく反映していないわけではない)、その数値の性質と妥当性を明らかにし た後で、前52年の数値は「人口の稠密さ別にランク分けしたもの」という「人口の稠密さ」の度合いを著す指 標 データと して利用することにし、各地域の人口密度をより細かく算出し、ここから演繹的に総人口を算出する、という方法に 変わった、ということだと思われます)。

p432ではこの手法でルグドスネンシスの各部族の居住領域、現在のフランスの県に正確に当てはめた一覧表 を作 成しています(現在のフランスの県の面積から、各部族居住地の面積を算出したようです)。例えば、アルウェル ニー族とクリエンテン族は、

Arverni und Clienten (Cantal, Haute Loire, Lot, Lo-zere, Pay du Dome, ca 1/8  Allier uud 1/2  Tarn et Garonne) . . . . . . . . .. 33400q2  第一階層  40万人  人口密度約 12人/km2

とし、現在のカ ンタル県オー ト=ロワール県ロッ ト県等の地域に居住しているとし、面積を掲載している。パーリーシー族については以下の通り。

Parisii (Seine, Hälfte von Seine et Oise) . . . . . . 3300km2  第四階層 78000-10万8000人 24-33人/km2(平均29.5km2)

というようにトレス・ガリアの中部の16部族についての一覧表が掲載されている(※この表は、最後の方が切 れてい て、PDFに全部が掲載されていない可能性がある)。本論によるとこの表の合計値は人口278万人、人口密度は 9人 /km2となり、これは、カエサル記載の戦闘参加人数を単純に12倍した274万8000人と近い値となる、と している。

(※しかし、表に掲載されている16部族に加え、見切れていると推測されるボイー、レクソウィー、ピクト ネースの 3部族を追加し、アルモリカエの数値を捕捉を私の方で集計し、12倍したところ、270万人となった。ベロッホ は、作成している各表にない値を補填して総合計表を作成したりするので非常ににわかりにくい。これについて は、 合計が279万人となる、全ての数値の入った一覧表を添付すべきだったと思います)。

I p432の一覧表の数値の妥当性を個別に検討(p433-436


(※ここでは、上記表で算出した一覧表の数値を個別に検討し、数値の微調整を行って います)。

パリサ イ族(平均29,5人/km2、最小24/km2)は高すぎる、現セーヌとマルヌ県あた りは15-20人/km2あたりだろう(※根拠なし)、この(突出値)は概算エラーだろう、トゥロニー族(15人 /km2)はもっと高いだろう、カエサルは軍事衝突のあった部族を多く見積もる傾向があるからパリサイ族は 高い のだろう、
セークァー ニー族(10人/km2)は、ハエドゥイ族と同じなのは高すぎるのではないか、ヘルヴェティー族 (6人/km2)と同じくらいではないか、レモヴィケース族は最小で6人/km2となっているが、 彼らはアルウェルニー(12人/km2)やビー トゥリベース(9人/km2)に隣接しているのに、レモヴィケース族の密度が低いにの は、 ア ルウェル ニーやビー トゥリベースが 中心集落を抱えているからである、アルウェルニー(12人/km2)とルーテーニー族(17人/km2)もまた稠密で、セー ヌとマルヌに次ぐ稠密地帯は、属州との境界地帯にあたる南西部で見られる。第三の稠密地はトゥロニー族(現 トゥーレーヌ付 近)で、ローヌ川に沿った地域である。

ガロンヌ河に沿ったトロサテス族とルーテーニー族(17人/km2)も稠密で、ガロンヌ河河口部からセーヌ河河 口部に沿った 沿岸部は人口密度は低く、人口稠密地は北西へ向かって増加し、北東にむかっていて減少し、周辺部は密度が低い。ナルボネンシ スを中心として、遠方になるほど人口密度は低い。

というような議論が続きます。

Jベルギカの 人口密度の検討2(p436-437)

セーヌ右岸のベロヴァキー族(20人/q2)、アトレバテース族とモリニー族(15人/km2)、アンテアー ニー族(10人 /km2)、ウェリオカッシー族とカレティー族の居住地は6000平方キロで人口は7万-10万であるため(出 典不明)、 人口密度は12-17人/km2が想定される、ウェリオカッシー族はセーヌ県との境界であるため、人口密度はセーヌ県地域よ り若干低い、スエシオネース族の領域は広くなく、ネルウィー族は稠密である(※この両族は表に掲載がない。 PDFで見切れている部分にあるのかも知れない)。これらが居住する 現ベルギーの一部は11000平方キロで、ここから前52年に5000人が召集されているため、12倍して6万人の人口が あったと思われ、5.5人/km2となる。ここからライン川へ向かって東方向は人口稠密である、モーゼル周辺は 6万人の人口 (出典不明)で9000-1万平方キロなので、人口密度は 6-6.5/km2となる、Lingonen族と レ―ミー族(II-4 、人数の記載はない)の地域(La Champagne pouilleus)は人口も稠密であるが、現在のフランスではこのあたりはまばらであ る。

ケルト人の居住するベルギカ地方は17万平方キロあり、そのうち3 万平方キロが、フランスのカ レ―海峡からセーヌ川低地地 方、オワーズ県、ソンム県、パ=ド=カレー県、エーヌ県の南半分にあたり、非常に人口稠密であり、40 万人が 住み、ベルギカ の残り14万平方キロ84 万人が住み、合計で125万人がベルギカにいたこ とになる(9人/km2)。
 続いて全体集計表の前に、トゥーレーヌの人口7万、面積3000平方キロ、人口密度10人/km2という情報 が差しはさま れている(※なぜこんな中途半端な場所(125万という全体集計値を出した後、ガリア全体の集計値の前)に差しはさまれている のかよくわからないし、人口7万の出典も不明)。

※【ベルギカ合計値に関する検算】

ベルギカに関するp436-7での議論にはほとんど数値の出典の記載がないため、ストレスは半 端ありません。文中(※ )で記載するコメント量が膨大となってしまったため、ここでグレイ地 のコメント欄に切り出しました。

ベロッホが突然だしてきた84万人という数値は、一見ベ ロッホ[1886]で、前52年のベルギカにおける参加兵士の数の合計7万人を本論で提出された定式の12倍を乗じて 84万人としたものと思われるわけですが、この数値は現ベルギー領内とフランス領内の諸部族含 めた値であるた め、これに加えてフランス領内の40万を加える、というのはダブルカウントになってしまいます。よもやそんなことは ないとは思いますが、84万という切りのいい数字に整合する数値が他に見つからないため、どう にもベロッホ のダブルカウントを疑ってしまいます。

 また、ベロッホ[1886]では18万平方キロとされた領域は、本論では17万平方キロとされて いるが、 本論で17万 に変わった理由は書かれていません。そもそも、ベルギカに所属するどの部族が現在のフランス側に所属し、どの部族がベルギー の所属としてカウントしているのか、について明確に書かれていないのが問題です。こういうことは論 の前提であるのだから、前提 条件は冒頭の方で書くべきこと です。

 そこで私の方で以下のような試算を行ってみました。

 1.前57年の戦争と前52年の戦争の双方に参加した部族の兵数を比較すると、前52年は前57 年の 30%となっている。そこで前52年の戦いに参加していない部族の兵数を、前57年の兵数に一律0.3倍すること で算出する。その数に一律12を乗じた数を部族人口とする。

 2.前52年の戦いに参加した部族は、その兵数*12を部族人口とする。

 3.現フランス領内に所属する部族は以下のものとする。ベロッホがハッキリ書いていないので、私 が地図を みて1889年当時のフランス領内と判断したものです。

 ベロヴァキー族(12万人)、アトレバテース族(48000)、アンビアーニー族(6万)、ウェ リオカッ シー族(48000)、スエシオネース族(6万人)、カレティー(3万6000)

 4.すると、フランス領内部族の合計値は計37万2000人となる。

 この数値は、ベ ロッホが主張している40万人に近い値になります。更にベロッホの階層毎に決め打ちした値(第一階層は40 万、第二階層は15万)をこの人数に適用すると、ベロヴァッキー族は15万に、アンビアーニーとス エシオ ネースは各々78000となり、6万6000増加します。増加分を上記37万2000に加算すると、43万 8000となります。もしかしたら、37万2000と43万の中間値として40万、としたのかも知 れません。

 5.現ベルギー領内に所属する部族は以下のものとする(数字は1の算出結果)

 モリニー族(6万)、メディオマトリーキー族(6万)、ラウラキー族(24000)、ネルウィー (6万) (以上前52年参加組、計14万4000)、

 アトゥアトゥキ(3万6000)、ウィロマンドゥーイー(3万 6000)、コンドルーシー/エブロネース/カエロシー/パエマーニー(14万4000) (以上前52年 不参加組、計21万6000)

 合計36万人(ベロッホが主張している84万人には遠くおよびません)

 5.これ以外にp436でモーゼル周辺6万、その他数字が登場していない部族がいくつかありま す。

これらの総合計値(43.8+36+6=約86万人)は、ベロッホ[1886]で、「8-90万く らいはい るだろう」とベロッホ自身がえいやで提示している数字とほぼ同じです。更に、その他数字が登場していない部 族を含めるとざっくり100万程度となる可能性が出てくることにはなりそうです。ベロッホ [1886]では算出した 70万の数値を100万に補正する理由を提示していませんでしたが、本論では推計をより精緻に実施した結果、100万という数値はなんとか理屈づけができ そうなわけですが、本論で更に嵩上げされた125万という数字についてのロジックにはなりえていな いように見えま す(私の見落とし、理解不足の可能性もあるため、いつかこのあたりが判明したら追記します)。

K 全体合計値(p438上)
  面積 推計人口 1km2当たりの人口密度
ケルトランド 31.万平方キロ 285万 9.1人/km2
ベルギカ 17万平方キロ 125万 7.4人/km2
アクィタニア 4万平方キロ 40万 10.0人/km2
トレス・ガリア全体 52万3000平方キロ 450万 8.6人/km2
ナルボネンシス 10万平方キロ 120万 12.0人/km2
総合計 62.3万平方キロ 570万人 9.1人/km2
上記地域区分は、ベロッホ[1886]と異なっている点注意が必要です。ベロッホ[1886]は、アウグス トゥス時代 (AD14年)の行政区画(属州成立後)であって、本論の区画はカエサル時代、属州が成立する以前の区分となっています。トレスガリアの内部区域の面積が 異なるものとなっています。

(※本論での上記アクィタニアは、ガロンヌ川以南のアクィタニアのことで、ベロッホ[1886]では22万と推計 し、本論では特 に補正がなされているわけでないのに、はなぜか人数が倍の40万となっています(ルーテーニー族とアルウェルニー族をガロンヌ 以南に変更したのかも知れないが、そうなるとケルトランドの値を減らす必要がある。もしかしたら、ベロッホは、ここ でもルー テーニー族とアルウェルニー族をダブルカウントしてしまっているのかも知れない。また、ベロッホは、ガリア戦記から数値を 推計し、ベロッホ[1886]では、集計の枠組みだけAD14年とし、本論では枠組みだけカエサル時代(前52年) としてい ることわかる))。
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(※ ベロッホ[1886]と本論の相違は以下。

A)本論で出典と数値導出ロジックの確認できなかったもの
・ベルギカの約40万人(ベロッホ[1886]と比べて25万人増)/アクィタニアの18万人増、合計43万人増
B)ベロッホ[1886]と異なる数値でロジックの判明しているもの
・ケルトランド285万は、属州ルグドネンシス+属州アクィタニアの217万に対して68万増
・ナルボネンシス150万に対して30万減

ベルギカに関しては、ベロッホ[1886]でもロジックが判明しているのは70万で、残り30万は出典が不明でし た。本論で も86万までは一応理屈はつけられそうですが、残り約40万は出典が不明です。恐らく数値情報が一切ない部族について、えいやで出 した数字なのかも知れません(※私の見落としかも知れないため、見返して判明したら修正追記します)。

しかし、これら出典不明の人数を除外しても、本論でのナルボネンシス以外のガリア人口は約405万となり、ベロッホ [1886]と比 べ66万人の増加となっています。ナルボネンシスが30万減なので、合計で525万、ベロッホ[1886]に対し、36万人 増となっています )。
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ハエドゥイ族の人口密度10人/km2を全土に適用すると、625万人となり、ヘルヴェティイー族の7.5人 /km2を選べ ば340万から470万人となる。どちらの人口密度を全土平均として選ぶべきなのか? ヘルヴェルティー族は領土が狭く、人口過剰だったから移動を始めた、というガリア戦記I-2を想起すれば、トレス・ガリアの横断時より健康状態がよかった とは言えないだろうし、近隣のセークァーニー族より健康状態が悪いということもないだろう。ヘルヴェティイ族の故地 は肥沃で あり、移住後は11万2000、ラトヴィクスとテューリンゲン族を含めると13万5000くらいにはなっただろう。そこで人 口密度を9.1人/q2とした、とのことです。

L中世や近世の推計数値との比較 (p440-445)

北イ人口と比べると、ガリアも、もっと高い人口密度であった可能性はある。当時のイタリア王国北部の人口は1100 万人で、 19世紀初頭より200万人増加し、更に6地方50万人が地理的にイタリアに属している(※1899年当時はオーストリア領等となっ ている)。このように考えると(古代ローマの)帝政期は北伊がもっとも繁栄した時代だけれども、その頃は16世紀ほ どではなかった。都市化率も考慮する必要がある。古代にはウェネツィアはまだ存在せず、ミラノはマクシミアヌス帝が 拡張した130ヘクタールの要塞部分を含んだ後でさえアウソニウスが言葉にできない程の人口をもっていたが、12世 紀中盤の半分の大 きさで、1555年の再要塞化時の1/4程度だった。その他多くの都市が中世末までとるに足らなかった。古代の北伊の都市人口は16世紀の1/3くらい だった。ルネサンス時代に北イは古代ローマを上回った。田舎の人口は都市と同じ比率で増加したとは言えない。田舎は 16世紀の1/2程度だったと思われる(※このあたりも出典なし)。1600年の北イの都市人口が100万くらいな ので、帝政期の北イ総人口は300万くらいが想定される(※古代の北イ都市人口が16世紀の1/3なら33万人、古 代の北イ人口が300万なら、田舎人口は267万人で、古代の田舎人口が16世紀の半分なら、534万人となり、こ れに都市人口100万を加算した約634万人が16世紀の北イ総人口ということになる)。しかし300万という数値 は帝政期の成長の結果であって、カエサル時代はもっと低かった筈。

p442 カエサル時代の北伊は200万人くらいだろう。しかし50%くらい上乗せを想定することもできる。つま り、カエサル時代の北イ300万人、帝政時代は425万人とするものであるが、これは経済史や北イの地史を熟知して いる者ならこんな想定はしまい。200万人くらいが妥当だろう。この数字は17世紀末と比べるとあまりに低い。カエ サル時代のナルボネンシスを(ベロッホの推計値120万に対して)66.6%(80万人)上乗せして200万と想定 すると、同じ比率でトレス・ガリアの人口も増やさなくてはならなくなる。そうなるとガリア全体では750万から 950万の人口を想定しなくてはならなくなる。この値は信頼されているとするヘルヴェティイー族の人口規模をカエサ ルが見誤ったと想定せざるを得なくなる。一方信頼できる値として1328年の調査240万戸というものがある。最小 値を570万の2/3とすると、400万となり、570万の40%増を想定すると、最大675万人となる。(※ p443後半以降は数値を吟味しているところはなく、このような推計をすることの意義みたいなことが論じられている ので省略)。最後に帝政時代の成長からすると、コンスタンティヌス時代のガリアに1000万から1200万の人口を 唱える人が出てきても反対しない、と述べて終わる。

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