新幹線で12時名古屋着。 昼食とって中国語会話帳、 目薬を購入し空港に1時半着。
3時45分定刻どおり出発。 チェックインカウンターに3列目に並んだのになぜか窓側の席は取れないとのこと。
18時上海着。 1時間ロビーで待って19時発、 20時西安着。
しかし驚いたことに両替カウンターは既に閉まっていた。 上海で換えておくべきだったのだ。
ツアー客を出迎えていた中国人に両替してもらう。 レートは1万円に対し680元。
空港バスで市街へ。
21時着。 タクシー拾って 21時半ホテル到着。 相場がわからないのでチップはずみすぎた。ホテル 280元。 高い。
しかしこの時間からでは他に選択肢がない。
フロントのお姉さんはホテル紹介の観光ツアーに一切興味も持たない客に気にくわなそう。
両替に銀行さがしつつ、東大街、和平路を 西安バスターミナルまで散歩がてら歩く。
ハイヤットホテルでは宿泊客にしか両替してくれない。けち。
西安駅前で昼飯。 とにかく一刻も早く西安から離れなきゃあかん。西安の物価の高さに兎に角早く地方へと駆り立てられる。 西安の物価のペースで暮らしたらこのままでは予算が足りなくなってしまうという危機感に支配されていた(所持金は6万2千円と525ドル)。
実際事情でVISAカードが利用できない状況にあり、 ダイナースは中国では殆ど使用できないようである。
カシュガルからの帰りに国内線を利用する予定だったのだが、 すっかりその分の予算を持ってくるのを忘れていたのだ。
11時20分寝台バスチケットを購入したのにバスは13時まで発車しない。
発車しても、 市内をあっちこっちよっては荷物を集めたりして 本格的に出発したのはなんと17時だった。
しばらく走ったところで 唐代皇族廟がいくつか見えてくる。 太宗の昭陵、 高宗の乾陵と思われる小高い山も見えてくる。
寝台バスとは一体どんなものかと思ったが、 要は普通のバスの中を改造して通路の両側を2段ベッドにしたものである。
きれいなものではなくぼろっちく、一見衛生的ではない様に見えるが、布団はしっかりしているし、予想よりあったかく、寝心地は良かった。
しかし私は一つのベットに寝ていたのだが、他の客を見ていると一つのベットに2人(夫婦とか、同僚とかで、まったく見知らぬ他人では
無い様だが)で寝ている。 一人ならともかく、二人では狭かろうと思う。
バスは荷台に大量に荷物を搭載するものらしく、荷物があるいは客席が一杯になるまで街中を走りまわって、客を獲得しようと
している様に思えた。長距離バスの本質を見る思い。 運行スケジュールを守るより、カラで走らす方が損だもんね。
夜中どっかで夕飯になった気もするが、よく覚えていない。
8時。バスの助手に起こされる。 既に蘭州についていた。
空はどんより曇り気味。 これじゃあまり元気になれないなれないなぁ。
10時発の武威行バスの筈が結構乗客が少なかったのかなんなのか、 13時まで待合室で待たされて、
結局10時のバスは運休かなんかか、15時半喜谷関行のバスにさせられてしまった。 おかげで
ずっと待合室で待たされしまって、蘭州観光は出来なかった。ちょっとバスターミナルの周辺を散歩しただけ。
更にまたも市街でもたもたしていて、 黄河をわたったのは夕暮れ時。黄色い大地が続くがそれも宵闇にかすんですぐに見えなくなる。
道路は未舗装部分が多く酷い振動。 どうろというより、ブルドーザーで山を切り開いたばかりに思える。 対向車とのすれ違いで
やたらと渋滞ている。 殆ど進まない。 段段標高が高くなる入っぽうなのがわかる。 殆ど草木が見えなくなり、黄色一色の大地と(夕闇の中かろうじて)思える
ところで真っ暗になってしまい、あたりの景色は見えなくなった。
この日は武威に泊まろうと考えていて、隣の中国人青年も21時か22時には着くと言っていたが、 実際到着したのは午前1時。
もはやこんな時刻に宿探しをする気にはならなく、 そのまま喜谷関迄乗ってしまうことにする。
二日連続で夜行になってしまった。 しかし昨夜と違い、今日のバスは普通バスで席は狭く、ずっとかばんを抱えて身じろぎできないほどの窮屈さ。
バスはブルの公営バスと五十歩百歩のおんぼろ具合。
午前3時トイレ休憩。 凍える程寒かったが、 空はまさにミルキーウェイそのもの。 予期しないインパクトがあった。 吐く息がが白い。絶景だった。 この旅行最初の、印象に残る場面となった。
夕飯は22時頃どっかの街道沿いの店で採ったと思う。そばを食った記憶が。
7時半頃目覚めた。外は薄明るい。 8時にはだいぶあたりの景色が見えだす。
張液の辺りを走っている筈である。 11時45分。 喜谷関着。 チケットは武威までしか購入していなかったのだが、 特に降車するとき何も言われなかったので、
そのまま追加料金を払わないで来てしまう。
到着後すぐに翌日のチケット購入。 バスステーションの前はやたらと広い通りで、見晴らしもよく、500mほど先のホテル(雄閣賓館)がすぐわかる。 値段は安いが
しっかりしている。 毎日この値段でこの内容だったら結構うれしい。
ホテルフロントの女の子は英語で応対可だった。 一休みしてから食事にでる。
食事代、安く済んでほっとする。
ガイドブックには明代長城最西端 嘉谷関まで市バスがあるとあったが、 どうもバス無いことが分かり、高級ホテルのフロントで客待ちしていたタクシーで往復する。
値段のレンジがわからず、10元で行きたい言ったら、フロントのマネージャみたいなおばさん(おねえさん?)に笑われてしまった。結局40元程でチャーター。
なんだか中井貴一に似ている運転手。
嘉谷関遺跡を見て思ったのだが、下部の焼きレンガ作りの部分を見ていると、オスマン朝の城壁遺構が連想された。
内部では城壁から、弓を射るゲームや、貸衣装など、結構観光客相手のサービスもちょろっとあったりするが、全体としてはまだ「観光地化」しきっておらず、
このくらいがいいなぁ、と思う。
城郭の両側に泥壁(の様に見えるが、実際はわからない)の長城が続いている。
帰りタクシーに長城博物館に行ってもらう。 タクシーとはここでさよなら。
この博物館は小さいけど充実していた。 長城に関する年代別の資料の展示は非常に有益。
長城の地図と写真、作成年表は各代、戦国から明代まで展示してあるのだが、特に戦国、漢、明代に焦点が当てられており、
戦国六国の地図と写真、年表は初めてみるもので、紀元前6世紀の斉の石造りの長城や、楚の堀の長城など今まで存在すら知らなかった写真は有益だった。
漢代長城と烽火台の復元模型も非常に参考になった(2mくらい。もはやミニチュアとは言えない。わりと大きい)。
明代のコーナーは3階にあり、ここには長城の部品の一部などがあった気がするが、あまり覚えていない。
2日連続夜行だったので、この日は16時には宿に帰って休むことにする。
7時半起床。バスは9時出発。 西の方に祁連山脈が見えている。 最高峰は4000m級だそうだが。。
お茶を飲みすぎたせいか出発後 1時間を過ぎたあたりからトイレに行きたくなる。
10時40分頃にはとうとう下車したいとメモに書いて助手に渡す。
しかし助手のおばさんはもうすぐだからととりあってくれない。 なんて冷たいんだ。
手を握り締めて我慢する。
11時。 今度は、通じるかどうかもわからないがとにかく 「限界」 と書いたメモを渡す。
しかしばばぁはもうすぐだからと、まったくとりあってくれない。
握り締めた手が白くなる。 窓から飛び出したくなる。 体内に逆流しだしたような。
しかも11時を数分過ぎた辺りで町に入ってしまう、 これではそのへんで停車してすることも出来ない。 鬼婆め。
兎に角バスステーションに着くまで我慢するしかなくなった。 地獄の1時間だった。 懲りた。 おもいっきり懲りた。
お陰でそれ以降、 朝起床後は気付けとビタミン剤を飲む為に一口お茶を飲むだけで、 昼も一杯以内。 バスの発車前に最低2回はトイレに行く習慣になってしまった。
1日のうち、 こころゆくまで飲めるのは 1日のバス移動が終わってから。
しかし乾燥しているので 夕食以降大量に水分を摂取することになる。 その結果毎晩2回トイレに起きる様になる。
しかもバスはイラン以上に トイレ休憩の間隔が長い。 これでは腹をくだしても地獄となろう。 結果、食事で冒険は出来なくなった。
以降の旅行はすべてこの習慣中心支配され、 生活はこの習慣の奴隷となってしまった。
16時頃敦煌に到着。 翌日のチケット購入し、宿(西域賓館)を確保したあと、月牙泉に行く。
距離からすれば自転車でも十分の距離。 ひょっとしたら歩けたかも。 ちょっと無駄金を使ったきもするが、日没になると面白くないので、まあしかたなかったと思うことにする。
肝心の月牙泉は ガイドブックの記述はは誇大だと思う。 それほどの場所だとは・・・
観光用駱駝がたくさんいた。 ガイドが日本語で 「らくだー」 と勧誘してきた。しかし日本人客は殆どいない様に思えた。
夕食後、市内散歩にでる。 飛天市場では青空飲食店で軽食屋が百二百ほど立ち並んでいた。
いかにも観光客が好きそうな場所だなぁと思っていたら、予想通り外人(欧米人)をあちこちで目にした。
5時頃目が覚めてしまう。7時半に駅へ。 押金のカードなくしてしまう。 まぁいいやとそのまま出る。
フロントにもだれもいなかったし。
7時26分出発。 昨日切符を買ってあったのに、 なぜかもう一度外国人料金分を取られる。
係りのおばさんがパスポートを持ってなかなか戻ってこなかったので、 発車を待ってもらう羽目に。
ちゃんとドライバーに言い付けていけよー。
8時7分出発。11時15分柳園着。 時間的にはやいし、 トイレ休憩なのか食事休憩なのかわからず、
食堂で何度も席を立ては店の外へでてバスがでようとしていないかどうかを確認する羽目に。
11時50分出発。
星星峡というところにちょっとちいさなドライブインがありここが州境かも。 ちょっと変わった形のイスラム墓地を目にする。
1mくらいの高さの石造りの御椀を伏せたようなお墓の前に墓碑が立つ形。
18時半ハミ着。
ハミの手前30キロくいらいのところで 通行禁止区間があり 砂漠上を数キロ迂回。
交通事故現場に遭遇し、そこでしばし停車し。 しばらく周囲をぶらぶら散歩したりして、写真を撮ったのはこの柳園ーハミ間のことである。
ハミ到着後すぐ翌日のバスの切符を買いに行くが、切符売り場ではもうレジは閉まっていた。
ハミではまず文物管理所へ行った。
先史時代の衣服、 農業用具、狩りの道具、ミイラなど、漢代の貨幣等、 唐代の文物、 石人などがあった。小さい割には結構充実している。
細かい内容なチケットの余白に記述。
他に街で目についたものは、 電話亭という、掘っ建て小屋に人と電話がおいてある電話キオスクや 路上のビリヤード台(幅10mくらいの歩道に何台も並んでいる)、
そしてライトアップされた 凱旋門 だった。
食事しつつジャッキーチェンの30分の程のドラマを見る。 同じ物が何度も繰り返しやっていたのでビデオかケーブルテレビかもしれない。
ホテルはわりと立派(方堅賓館)。 3人部屋で中国人一人と一緒。
この人テレビつけたまま寝てしまい 2時頃私が消す羽目に。 なんかお互い気を使ってしまったみたい。
7時起床。 フロントを起こして、 7時26分に切符を買いに行ったのに窓口はもう満員。
1台目のトゥルファン行きはもう満員で、2台目のミニバスになる。
9時20分頃出発。
このミニバス。 ものすごくゆれた。 おかげでやたら疲る羽目に。
夕方、未舗装地域の景色良。 ここを抜けたところ、 左側に洞窟群があった(勝金口千仏銅と思われる)。
ほどなく火焔山が見えてくる。 火焔山のことなど知らなかったのだが、目にした瞬間、これは観光ガイドに言及されているだろう、と
思えるインパクト。
昼 ひなびたドライブイン。 ひなびたという言葉はまさにこの様な場所の為にあると確信を持っていえる。 辞書の「ひなびた」に参考写真として載せてもいいくらいだ。
2、3件の簡易宿泊所(旅社)と 食堂がならぶだけ。 殆どの客は清真食堂のほうへ行き、私と一組の華人家族だけが中華屋へ行った。
15時20分ピチャン到着。19時半トゥルファン着。 トゥルファン手前2−30km地点で地平線へ落ちる日没を目にすることが出来た。
最後の方は耐久レースみたいなかんじ。 ひたすら振動に耐えていた。 大型バスと違いミニバスなので振動も余計にあるのだった。
トゥルファン到着時は もう薄暗くなっていた。
日本語のやたらうまい信次とかいう奴に色々教えてもらう。 宿はターミナル前の交通公社。 ガイドブックで言っているほどひどくはなかった。
布団もう1枚もらう。 駅の近所で夕飯。
6時起床。7時ちょうどに切符を買いに行く。 服務員はまだ寝ていて、彼を起こして入り口をあけてもらい、走り出したところで、駐車除けの低いバーがあり、
つまずいて転ぶ。 ひだりのすねと右ひざを打つ。 右ひざはこのあと1ヶ月ほど痛むことになった(一時は骨にひびが入ったのかと心配しまた旅行の負担のネタに)。
チケット購入後、7時10〜53分、 部屋で休む。
8時15分バスに乗り込むが人が集まらず、9時半迄発車しない。
10時にやっと本格的に発車。
11時15分に着いた町(トクスン)では足が痛くて出るのがおっくうになり トイレへいって戻るともう出る気がしなくなり、昼食を抜くことになった。
しかし結局バスは乗り換えになった。多分客が少ないので、他のコルラ行に同乗することになったのだろう。
トゥルファンーコルラ間で 砂がまるで雪山のスロープの様になっている場所を通過した。 タリム盆地で一番見ごたえのある景色はここだった。
この後は延々10日間 沙漠だけを見続けることになるのだった。
19時15分コルラ着。 バスステーションの交通公社にとまる。 簡易宿泊所という感じ。 学校の寮だよねぜ。
しかしベッドと布団は清潔だった。 隣の部屋に日本人バックパッカーカップル。 日本をでてからそろそろ1年になるという。
チベットの話を詳しく聞く。 うーん。いいね。 行きたくなってしまう。
クチャは旅行者ずれしていてあまり印象はよくなかったとの事。
また、カシュガル−クチャ間で数回のパンクに見まわれ、28時間もかかったとのこと。特にアクス−カシュガル間の道路状況は
悪そうである。
交通公社横の定食屋で夕飯食っているとき、停電となる。しばしろうそくの明かりで食事。チンジャオロースー。 うまい。
飯屋のテレビで 「星龍剣ワタル」 という日本のアニメがやっていた。 店の子供が熱心に見ていた。
22時20分寝る。
6時35分起床。 どうもトゥルファンでも思ったのだが、 なんだか夜寝る時あったかくなってきている。
蘭州や喜谷関よりも標高が低いので暖かいのだろうと気づく。
6時45分切符を買いに行くが、 シャッターは閉まったまま。
7時半にやっと開く。 購入後 8時まで部屋で休む。
9時半バスは出発。11時15分から12時昼飯休憩。
18時25分から50分、なんだかわからないけど、 トヨタ四駆の警官が通行止めをしていた。
21時頃アクス着。 23時夕飯休憩。
ウズベキスタンでの風邪も最初は腹下しからきたので、なるべくイスラム料理は避けていたのだが、ここでは選択の余地がなく、うどんのようなものを食べた。
しかしこれがうまかった。 それからはイスラム店では殆どこの 「ラグメン」 を注文することになる。
23時に入った夕飯の店で テレビドラマで清朝時代の宮廷宴会のシーンが放映されていた。
バスは振動で 閉めていても段段と窓が開いてしまうので、 ひもで結んで開かないようにする。 色々手間がかかる。
コルラからカシュガルまで1003kmを夜行で一気に移動してしまったので西域北道は殆ど見ないで終わってしまったのだが、
まざ北道はまた来れるかもしれないが、今回はなかなか来れそうもない南道を優先することにした為である。