9月21日〜22日
 

 イランへの国境越えではいろいろアクシデントがあった。
9月21日に午前中にメルブ遺跡訪問後、午後国境越え(ツアーとはメルブ遺跡でお別れ)をするはずだったのだが、
ウズベキスタン人添乗員によると、 イラン国境は12時に閉まる、 国境の町サラックスにホテルは無いので もし国境閉鎖に間に合わなかったら
マリまで引き返すしかない、 (因みに国境迄は200キロ) とのことで、こちらとしては22日に変更つもりでいたのだが、
20日夜突然に 日程変更すると60ドル更に必要である。 と言ってきた。 
国境までのタクシー、 トゥルクメニスタンの現地ガイドの手配は21日になっており、 我々が21分日をキャンセルすると、
彼らの21日の仕事が空いてしまうことになるので21日分は返ってこない、22日に変更するとすれば、60ドル必要だ、ということなのだ。

 21日のホテル代も25ドル自腹をきらねばならないらしい。 彼らの理屈によれば。 
 日にち変更の話は1週間くらい前にしていたのにもかかわらず、 である。 
 当然ふざけるなと支払拒否。 この話を日本人添乗員に伝えていなかったのが更に話がこじれる原因となった。
日本人添乗員がウズベキスタン側に立つ発言をしてくれたお陰で、 旅行代理店と添乗員の存在意義にまで触れる激論になってしまい そのうち熱が出てきてしまった。
健康状態が最優先なので、論争はここでちょん、結局私が立て替えておいて帰国後西遊社を通じてウズベキスタンに請求してもらうことで 話は決着。
 21日の昼食、 夕飯、 22日の朝食は込みであることを何度も確認させるところまでで、旅行代理店に依頼する仕事は終わった。

  21日午前中 メルブ遺跡見学後、 メルブ遺跡を案内してくれたロシア人と一緒に マリーまで戻り、 現地旅行会社の社員とホテルで会い、
60ドル支払う。 この60ドルの領収書はメモ用紙に手書き。 しかも文面は こちらの要急どおりに書くというでたらめさ。
 ま、このへんもブルに近い。 ところがトラブルはこれにとどまらなかった。

 翌朝(22日)7時に出発。 マリから国境まで約200キロ。 10時頃には到着する予定である。 
頭のはげた一見年齢不祥の欧米人男性と一緒。 国境60キロ前くらいから何度も検問。 
同乗のおっさんは名前はスラブだが カナダパスポートを持ち 英語とチェコ語を話す。 でも本人はドイツ人と言っている。
おっさんだと思っていたのも間違いで32歳で私と同じ年であった。 
 彼は旅行代理店を通じてイランの代理店とも話をつけていて、 イラン国境まで イラン代理店のエージェントが迎えにきているとのこと。
 そのせいか彼は若干焦っていた。 度重なる検問、 エンジントラブルで時間は遅れる一方。
(検問時兵士が 「マリーに滞在しているのか?」 という意味で 「マリー?」 と聞いたのを私も彼も 「結婚してるのか?」 
だと思い彼も 「シングル」 などとと答えていたのには笑ってしまった) 
 しかも驚いたことにタクシードライバーは国境がどこだか知らなかったのだった。

 取り敢えず国境の町サラックスに着いて、 町の連中に道を尋ねまわるが、 タクシーは町中をうろうろ。
どういうわけかなかなか着かない。 はっきり言ってこのドライバーは無能なのでは? と疑いだし、 とうとうカナダ人は 独自に道を尋ね始める。

 チェコ語と ロシア語と ブルガリア語で 結構会話が成り立つことが分かった (一つチェコ語を覚えた。 国境はフラニツァというらしい。ブルガリア語ではグラニツァ)。
 そのうちタクシーは役所のような建物についた。 カナダ人が 「国境か?」 とドライバーに尋ねると、 そう、 とのこと。
 確認しないうちに二人とも下りてしまったのがまずかった。 
 我々が下りた 途端タクシーは逃げてしまった。 そしてそこは国境などではなかったのだった。 ・・・やられた。

  別の現地タクシー調達して 国境へ向かう。 タクシーは元来た道をマリに向かって8キロも戻って脇道に入った。
 ちくしょーめー。 あのドライバーやっぱり何も知らなかったんだ。

 国境沿いのバリケードゲートが 見えてくる。 程なくゲートに到達。 しかしそこは国境ではなかった。
 なんということだ。 誰も知らない。 更に先に進む。 漸く国境についたのは11時25頃だった。
 カナディアンは焦りまくっていた。

 ところが、 ゲートになかなか入れてもらえない。 ゲートの入り口にいた係官がいやな奴だったのだ。
 彼の部下3名程が 「もういいじゃないの」 という感じなのに、 理不尽な理屈をこねて嫌みをする。
 最初わたしはあっさり通ったのだが、 カナダ人がまずいちゃもんつけられた。 
 「このビザではこの国境と通過することは出来ない」 
 どいういうことかというと、 ビザには出境地点が取得時あらかじめ記入されるのだが、 それ以外の場所からは出られないらしいのだ。
 カナディアンのビザには 「アシュカバード」 が出境地と記されていた(私のビザが 「サラックス」 でOKだった)。

 変更するには警察署へ行かなくてはならないとのこと。 我々にそんな時間は無い。
 「我々は一緒なんだから一緒に通してよ」 と言ったのがまずかったのか、 なぜか最初OKと言われていた 私までが 「駄目」 になってしまった。
 なんで? カナディアンが 「彼は関係ない」 と言っているのにも関わらず、 今度は昨日泊まったホテルの宿泊証が必要だと言い張る。
 彼も私もそんなもの 持ってはいなかったのだが、 一応 「こういうもののことを言っているのか?」 と他のホテルでもらったレシートみたいな紙を差し出すと、

 「ははは。 こりゃなんだ。 サマルカンドのホテルじゃないか。 こんなの役に立つもんか」とばかり 笑いながら部下に向かってそのレシートをちらつかせるのである。

 いかにも知能が低く、 国境係官という権限で 弱者に威張り散らす役人タイプ。 何度も 「お願いしますよ」と頭を下げまくってようやくホテルに電話をして確認するという
知恵にたどり着いたらしい、 11時40分やっとゲートに入れた。
 その後は私はすんなり通過でき、 パスポートコントロールすまして 国境バスで彼を待ったのだが なかなか来ない。
 やはり出国地点のことでトラブっているのであろうか。
 バスのドライバーが待ちかねて発車 (イラン側とトゥルクメニスタン側ゲートは川を挟んで2キロある、 その間国境バス(1ドル)を利用することになる)。
 12時頃にイランゲートに到着。

  イランゲートは予想外に開放的だった。 もっと息苦しい、 ぎすぎすした感触を想像していた。 
 トゥルクメニスタン側ゲートはまあ、 ひなびていて、 建物はぼろいし、 セクションはドアで区切られていて、
流れ作業の様に入り口からゲートに到達する、 旧共産圏というイメージどおりであったが、 イランのゲートはまるで駅の待合室。
建物も新しく、ホールの真ん中にイスが置かれて、 周囲にパスポートコントロールや 通関の窓口がある。
 人は勝手に出入りしている。 しかも私が入っていった時 パスポートコントロールには 誰もいなかった。
 しばらく待っていても誰も来ない。 そこで例のカナダ人を待っている旅行代理店のエージェントに会った。
 彼はドイツ人を待っているのだ、 と主張したおかげで、 あのカナディアンはおそらく、 「ドイツ出身でカナダ在住のチェコ人」 という見当がついた。
 彼がパスポートコントロール官を呼びに行ってくれ、 検問となったが、 スタンプを押すでもない。
 カスタムも適当。 所持金検査も自己申告制。 流れ作業になっていないし、 厳粛な雰囲気もなく、 
ホールは旅客でわさわさしているので、 代理店の人のアドバイスが無かったら、 うっかりそのままなにもせずにふらりと通過できてしまいそうであった。

 因みにここで受け取った所持金検査申告表は 一度もチェックされることなく、 出国時も要求されなかった。
この時所持金を提出させられたが、 「これだけだよ」と 自分でだせばよいだけ。

 荷物を調べられたりはしないので、 いくらでもごまかせるのだった。 
  取り敢えず換金証明の提出を求められた場合の為に 正規両替を20ドルほどする。

 ホールにたむろしていた旅客は 皆女性がチャドルをしていないところから見て トゥルクメニスタン人の様であった。
本格的にイラン女性に遭遇するのは、 国境から250キロ先の大都市 マシャドに入ってからであった。
 両替所では、 私の前の女性が数百ドルものドルを受け取っていた。 一体どういう商売をしているのだろうか。
ま、まっとうではない部分も多いに違いない。

 後から聞いた話だが、 カナダ人は結局国境越えは出来ずに マリまで引き返したらしい。
私の60ドルとタクシー代 (サラックスから国境迄)は 帰国後西遊社から戻ってきた。 
西遊社の担当者によると、 交渉な難航しているそうである。 ああいえば、 こういう、 くだらない言い訳に苦しめられているとのこと。
 これもブルと似ている。 なんとウズベキスタン側は
 「国境まで行かなかったのは、 カナディアンが国境ではなく、 国境の町、 サラックスへ行くようにとタクシードライバーに要求したから」 などと寝言を言っているらしい。
トゥルクメニスタンの旅行会社を代えてみたらどうですか、 と尋ねてみたら、 既に一度代えているのだそうだ。
 そして、 同国には現在2社しか 旅行会社はないのだそうだ。 これは教育の為にも粘り強くクレームつけねばならないだろう。
 旧共産圏相手の商売は大変ですねえ、 と同情する。
 22日のマリのホテル代は 領収書を受け取り忘れたので 返っては来なかった。 ましかたないわ。
 

 実はマシャドは通過しただけ。 ツアーの添乗員も、 イランゲートで会った代理店のおっさんも 国境からマシャド迄のバスは無いと言っていたが、バスはあった。 でもぼられた。

 マシャド迄3万レアル(約5ドル)とられた。 3時間半程乗って。 5ドルは安いが、 それ以降夜行バスで12時間乗っても9000レアルですんだのとくらべれば、
ぼられているといえる。
 大体1時間1000レアル弱というのが相場であった様に思う。 ま、国境越えは仕方が無い。
 因みにイラン側の国境最寄りの 町もサラックスといい、 国境検問から10キロほど離れたところにあった。

  サラックスーマシャド間の景色は 荒涼としてはいたが雄大。 単なる岩砂漠だがダイナミックな地形は気にいる。
 マシャドのイマーム・レザー廟は見たかったが、 イランを一周して戻ってくる(出来れば)計画を想定していたので、 取り敢えずさっさと移動することにする。
 クーイ・カージャも要塞とかの遺跡らしいし、 たいしたことはあるまい、 と行かないことにする (しかし帰国後NHKシルクロードを見たところ、 「たいしたことない」 どころではなく、
 イラン国内の古代遺跡としては ペルセポリスにつぐ大遺跡のようである、 ということが判明した)。

 初めて目にしたイランの都市は ひなびてほこりまみれの 自動車部品屋がバス通りの両側に延々と続き、 「なんだかインドとかベトナムみたい」(行ったこと無いけど)
という感じ、 アジア特有のエネルギーも感じられず、 黒子のようなチャドルをつけた女性達、
ピカピカだが20年は昔の車が走りまわり、 気分は萎んでいってしまった。

 但し車の量は凄かった。 ブルガリアとは比べんものにならない自動車社会だ。
  昼食がまだだったので、 サンドイッチスタンドに行く。 
 ZAMZAMなるイラン製コーラには驚いた。 
 味はオリジナルと一緒。 食事中、他の客にカザフスタン人と間違えられた。
 

 バスターミナルはとても歩いて行けるような距離ではなく、 市バスに乗ろうとしてそのへんのおっさんに尋ねたら、バスのチケットをくれた。
 バスターミナルはものすごい活気と人の量。 6、50台分のプラットホームがある大規模ターミナル。
あふれかえる人々がそのへんで ピクニックであるかの様に 敷物をしいてバスを待っている。
 チケット購入時に 時差があることに気づく。 時計を1時間遅らせる。 パンとジュースを買い、夕食とする。
 イランの数字に慣れなくて、バスがなかなかわからず不安になる。 
 何度も何度も確認し、 やっと目的のバスに乗れた。
 18時に出発時にはもう暗くなっていた。

 結局マシャドは、 市内バスで移動中遠くからちらりと イマーム・レザー廟を見ただけで、夕方6時の夜行で一気にザヘダンへ移動することにする。
 夜行バスの社内は結構冷えた。 サマルカンドで購入したパジャマを服の上から着込む。
  ブルガリアで買っておいた睡眠薬が役に立つ。 おかげで結構ぐっすりねむれた。
 2度程トイレ休憩。 2度目は5時ころ。 もう東の空はだいぶ明るくなっていた。 冷たいカレーズで顔を洗う。
 
 

9月23日

  9時ザヘダン到着。 マシャド以上にごみごみほこりっぽく、 ざわついた感じの町。
治安もよさそうには見えない。 兎に角両替する必要があり、 バスターミナルでは商人も近づいてこないし、
ここの銀行では両替不可能とのことでとりあえず、 無茶な人数で乗り込んだタクシーで町の中心へ。
 町の中心部ではデモが行われていた。 両替だけしてさっさとバムへ移動することにする。
最初に行った銀行でも次の銀行でもだめ。 結局イラン銀行じゃないとだめみたい。
 でイラン銀行では銀行で窓口を4個所たらいまわしされて、 さらに30分待っても割り込みされ続けて順番はこなかった。
 銀行を出て5分で 闇両替商人にであい、1分で両替完了した。 当然違法だが、 銀行の対応があれでは しかたがなかろう。
レートは正規で1ドル3000レイ。 この時は5800で換金した。 昨日マシャドのバスターミナルでチェコ人バックパッカーから聞いたところでは6000だったからまあいいだろう。

 バスのチケット売り場で 日本人バックパッカー二人組と一緒になる。
 途中夕飯休憩にドライブインに入ったときに、 隣のイラン人たちがウリをごちそうしてくれた。
めちゃうまかった。 午後5時バム到着。 
 なんとなく彼らと一緒にドミトリーへ泊まることにしたが、 なんと カタカナ でゲストハウスの表示が道路沿いの壁にペイントされていた。
 この宿は概観はともかく中身は日本の新築住宅そのもの。 きれいで清潔。
 イランで泊まった部屋のなかではNO1であった。
 しかも価格は一番安かった(ま、ドミトリーだからだけど)。
 こんなにきれいだったら毎日ドミでもいいや、と思った。 
 このゲストハウスには日本語(はりがみ、 旅行メモ、 コピー等)があふれていた。
 パキスタンとの間を行き来する日本人バックパッカー御用達の宿であるようだ。
 よほど儲かっているのだろう。 きっと。 それで改築費を稼ぎ出したに違いない。

 イランでは見知らぬ女性とは会話することも出来ないのだと考えていたら、 ゲストハウスのオーナーの娘(17才)がフロントをやっていて普通に話をしてさしつかえなかった。
バスのチケットは 直前ではとれなくなることもあるのだそうで、 翌日のチケット電話予約してもらう。
 バンダル・アッバース行は1日2便(7時、20時)しかないとのことで、 結局また夜行を利用することになる。
 夕飯はイランの家庭料理はいかが? ということで予約したら、
 なんと普通の民家に案内され、 そこの中庭でその家のその日の料理を食わされることになった。
 ほんとに文字どおり家庭料理やーと一緒に行った宿の連中と苦笑してしまった。 スイス人の保険会社の社員3人組みが一緒だった。
 休暇で3週間イラン旅行をしているのだそうだ。 3週間も休暇とれるなんて。 いーねー。
 21時23分、さっさと寝る。
 
 

9月24日

 翌日は午前中ずっと部屋で休んで 午後サファビー朝の都市遺構 バムに行った。
やどで一緒になったスイス人達や日本人は 「うーん、 それほどでも・・・」 ということであったが、私は満足。
 保存状態は結構良好だったが、 建築資材は日干し煉瓦、 古代と同じ。
 建築様式自体はモスクを除けばササン朝時代からなにも代わっていないのではないだろうか、という気にさせられる。
 若干煉瓦の風化度合いが少ないことが、 最近の建築物(17世紀)だということを思い起こさせてくれるだけで、
これがもうすこし風化していたら、 これがササン朝の遺跡だといわれても そのまま信じてしまうかもしれない。
遺跡の中でバローチ族かと思われる連中数人に時計買わないかーとつきあわされる。 ちょっと緊張した。

 遺跡司令塔から見ると、遺跡の南にバムの市街が広がり、 北側は荒漠たる、 果てがないとさえ思える 沙漠。 岩山。

 壁の日陰沿いに、 頭に白い布をかぶって宿に戻る。 15時から18時まで宿のロビーで休むが 冷房の為に若干冷えてしまう。
たまたまロビーにいた日本人女性は昨年12月に日本をでたそうで、 長く旅行する秘訣を聞いてみた。
  「その国のリズムにあわせることかなぁ。 そうすると本当に楽になった」 と言っていた。
 夕方日本人の青年と夕飯に出た時同じことを聞いてみた。
 彼の答えは 「1に健康、 2に危機回避」。 
 南米を旅行していたときなど、 あぶなそうな奴が乗ってきたら、 それがどんなところでもすぐに下車するようにしていたのだそうだ。
 お陰で襲われたことは一度もないのだそうだ。

 19時頃バスオフィスに行く。 早口が上手な英語だと思っている若造に 「おまえ英語へただな」 と言われてむっと来る。 
下手なのは事実だが、 速いだけで特定の会話しか出きない様な奴に言われたくないよ。

 バスは遅れに遅れたけど21時には出発したのでよかった。