8月10日

 最早今日が何曜日かなどということはどうでもよくなっている。
時計はまったく役に立たなくなっているが、 ウィーンでは必要ないのである。
時計はそこいらじゅうにあり、 しかも正確な時刻を示している。
意識が戻ってすぐに起床した。
私の体質ではほぼ7時丁度の筈である。
トイレ行って着替えて食事に行く。 ゆっくり食べて7時45分頃には食べ終る。
 ノルド駅に8時10分頃到着、 8時33分のWolfold行き。 カルヌントゥム到着予定9時42分。 OK。
何の問題もなくカルヌントゥム着。 
 問題が起ったのはこれからである。
 まずインフォメーションは村役場の中にあるとガイドブックに書いてある。
 今日は土曜なので役場は休み。 インフォメーションも休み。 
次ぎ。 カメラのフィルムが無い。
昨日も展望タワーで最後の一枚を撮ったとき、  「ここで買っとかないとあとで困るんだよ。 何度も経験しているでしょう?」 と思いつつ
「展望台で買うと高い」 等と言う言い訳で買わなかったのである。
まあカメラはスーパーが開いていたのでなんとかなった。
次金が無い。 
両替する場所も無く、 カードは宿に置いてきた。
更に遺跡が見つからない。 
博物館方面を示す標識に従い3キロ程歩くが全然無い。 
とうとう通行人のおばさんにきいてみると、 あと4キロも先。
遺跡は反対、 というおばさんの言葉を頼りに(おばさんは5分程ドイツ語で色々話していたが私には上記の事以外一切わからなかった。当然だけど)、
中心から反対方向に行くと数百メ―トルで追跡博物館があった。 見学。
ここで航空写真でこの村を撮影した追跡マップがあったので、 それ購入。
25シリング。 こんなもんが。 オーストリアの物価は高い。
こんなもん只でくれてもいいのに(物価については、スーパーで買った冷やしてない缶ジユース、9. 90シリング。普通自動販売機だと15から19。工夫次第で安くはなると思うけど)
その地図によると遺跡はかなり広範囲に展開していることが判明。
地図に載つてない追跡もあるのでこれは時間がかかる。  
最終的には12、3キロ歩いたことになり、 当初は地図にない追跡には行くつもりはなかったが、 途中でこれはもう1日仕事になると思い、 
も一せっかくだから全部まわっちゃえ、 てな事で最後は5キロ程離れた隣村迄歩き、 そこのカルヌントゥム博物館を見学。

 この博物館は今まで私が行つたことのある博物館の中で もっともお洒落な博物館だった。残金が少なく、もう少し高かったら入れなかったかも知れない。
最後jはドナウの岸辺に下りて小石の採集。 
 14時15分駅に向かうが、意外と遠く、 駅に着いた途端電車が来てしまい、 最後は車掌に発車を待ってもらつて切符を買った。
切符は見込よりも高く、 殆ど残金は残らなかった。 危ないところだった。

 15時45分頃ノルド駅着。 もはや博物館等は閉館時間。
そこで霊園へ行つてベートーベンとかモーツァルトとかの墓を見ることにする。
 霊園は結構遠く、ばかでかかった。
霊園の中心に教会があるのはソフィアの中央墓地と同じであるが、 教会の大きさは比較にならない。
別に皇帝一族が眠るわけでもないのにな一んでこんなにでかい必要があるのだろう。
この巨大さならさぞかし出緒ある教会なのかな、 と思ってガイドブックを見てもこの教会に関しては何も言及されていない。
ベートーベンの墓はあっさりしたもんだった。
天才音楽家といえど単なる庶民だつたのね、 などと周囲の豪奮な墓と見比べなんかわかったような気になる。
中国人観光団体がこの有名音楽家達の眠る一角を見学していた。
 考えてみれば昼飯食ってない。 だいぶ疲れてきている。
明日の予定が詰ってしまうが、 ここまで来たんだ、 なにがなんでも後1日持たせなければ、 と考え今日の観光はこれで終了、 食事して帰ることにする。
途中中華屋を通過した時点で市電を飛びだし、 中華。
疲れていたのでこの日のまたも鴨料理もうまかつた。
最初はジャスミン茶だけだつたけど 結局ビールを頼んでしまった。 後で具合悪くならなきゃいいけど。
 挨拶とか中国語でしていたら最後紹興酒をウェイトレスがおごってくれた。
もっときちんと中国語を話せるようになるべきだ。 とあらためて思う。
20時半頃迄食っていたのかな。 結構のんびりしたから。
後は単に帰るだけ。 カールス教会やリヒャルト シユトラウス像を見に行こうかとも思ったがエネルギーは尽きた。
 

8月11日

 起床時刻は昨日と大体同じ。 若干遅いかな。
食事してシエーンブルンに着いたのは9時10分程前である。 
正門には観光用バスが何台も泊まつており、修学旅行を思い出す。
 門の所に日本人観光団体がいる。 一緒にまわっていいか聞いてみる。
丁度話しかけたおばさんがガイドの人であったので話は早かった。
ツアーの皆さんがよければということで、  「若い人は大歓迎」 一緒にまわることになった。
しかしはた目から見ていても慌ただしい。  「じゃあ解散します。 9時15分に○○に集合してください」 って今9時7、8分てとこである。
集合も何も我々が券を買いに行く時間程度しかない。 彼らこのツアーは庭園は見学する暇もなく、
  10時には見終って次の予定地へと行ってしまった。 
さすがわ日本人詰め込みツアー。 妙に感心してしまった。 
まあ夜は庭園で行なわれるコンサートに参加するそうだが。

 私は彼らと出口で別れて、 一度引き返して、 じっくりもう一度一人で回った。
個人見学者用のハンディガイドを使用して。 といっても英語がわからず、 どの部屋の説明なのか結局よく分からなかったのだが。
しかし。 他の日本人ツアーが続々やって来るのだが、 微妙に、 または完全にガイドの内容が異なっているのには驚いた。
まったく矛盾するとも思える部分さえあつた。
 10時半過ぎまで宮殿内部を見学していて、 その後庭へ。 
なるほど庭園は広大で反対の端は正に丘の上、 である。
ローマ追跡は野外劇場としてあまり近付けないようになっていた(後で購入したガイドブックを読んでみたところ、 これらは正式な廃境ではなく、人造の追跡なのだそうである)。
 11時過ぎ、 おおかた見学終了、 ということで、 宮殿の左側を回って正門へ戻る。
 その後ローマ追跡博物館にゆくが着いたのが丁度12時。
私の前の客が係の人にこれから休憩だから13時から来てくださいとの説明を聞いていて、 予定を変えてシユテファン寺院等を先に見学することにする。

 まずマクドナルドで昼食。 シュテフアン寺院内部にちよっと入つてみて(丁度住民(或はキリスト教徒なら誰でも入れたのかも知れないが)のミサの最中で
教会の最後列迄しかはいれなかった)南塔に登ってみる。 
南塔jの景色は こんなもんか、 という程度。
登りよりも下りの方がやたら長く感じられた。
下りは俺の目の前を子供が2人下りて行つたのだが、 2人とも休まない。 目が回らないのかこいつらは。 と思ってしまった。
 ここでまた両替。 この時初めて手数料が8%も取られていることに気が付いた。
前の客が質問していたので確認してみたのだが。 ひえ―。 なんたる暴利。 いくら今日が日曜日で、 ここがウィーン中心の広場であつてもこんなにとっていいものだろうか。

 大体13時なのでローマ追跡博物館へ再度行く。
既に一組みの老夫婦が入り口前をうろうろしていて、 程無くオープン。
しかし地下の追跡は、 う一ん、 これだけ、ってなものだつた。
よくたったこれだけの遺跡をここまできちんと保存しているなあ、 と妙な感心をしてしまった。
これならソフイアの共産党本部前地下だってもっときれいにすれば金がとれる。 
とはいえ一応当時のウィーンの街の所在地、 道路等も掲げられていて参考にはなった。
しかしカルヌントゥムで金が足りなくて買えなかった本やローマに関する本が色々あるだろう、 という当てはまつたく外れた。
これで明日、 ことによつてはもう一度カルヌントゥム迄行かなくてはならない。
 ところで、このときだよ、館の親父がシェーンブルンにある追跡は本物だ、などとのたまつたのは。 本気にしちやったよ。

 ローマ追跡はあっさり終つて、 次は皇帝廟へ。
16世紀の皇帝(だれのだったかよく覚えていない)はまだあっさりしていて、 単なる箱という感じだが、
レオポルトとかヨーゼフー世あたりから少し華麗さが加わり容量も増え出して、 カール6世はかなり荘厳派手。
マリア テレジアになると棺というより全くの記念物としか思えなくなる。
まだフランツ ヨーゼフの棺の方が大入しい。
 実は今回の旅行で感じられたのは、 マリア テレジアはかなり文化的方面に 言葉は悪いが浪費した人だという印象をもった。
帯在中見かけた昔のウィーンの絵や ガイドブック等の記述によると、 マリアテレジア以前のウィーンは華美や文化とは程遠い、
単に宮廷がおかれているだけの田舎の城塞都市に過ぎなかった様である。 
ルネッサンスはフランスに影響を与え、 バロツク文化が花開いたようであるが、 きっとオーストリアもプロイセンと同じでやつばリドイツ人。
政治や軍事には忙しかったが文化的なものは後回しになりがちだったのではないか。
30年戦争なんてやっていたせいもあるけど。 と考えれば、 このままいったらプロイセン王家みたいに野暮ったいままで終ってしまう可能性も高かったハプスブルグを
フランスと対抗できるような文化国家に脱皮させたのは やはリマリアテレジアの功績であり、 たとえ浪費の部分があったにせよ、 必要な事であったのかも知れない。
同じ理由でフランツヨーゼフの時代もオーストリアの文化的発展には重要な時代であったのだろう。 
してみると、 オーストリアはフランス等と比べると意外と層の薄い、一つ間違えていれば近代化に関しては
南イタリア程度の発展で終わってしまった可能性もあったのではないだろうか。
 オーストリアの文化的発展がチェコ、 旧ハンガリー領等に与えた影響を考えると、 マリアテレジアは非常に重要な遺産を残したことになると考えられる。

 次は国立オペラ座。 
丁度1時間毎の出発のようで、 14時15分くらい前についたので14時の回に間に合った。
例によって英語は半分もわからなかったが、 有名な音楽家が何人もここで指揮をとり、 あるいは常任指挿者であったり、
劇場全体の仕組や人出、 サイズなどいろいろ参考にはなった。
非常に熱心に取材している中国人(多分ジャーナリスト)がいて、 殆どの質問はこの人からなされていた。
楽屋裏迄見れたのはラッキーだった。

 次は王宮宝物庫。 
入り口の辺りが改装中でちょつと分かりにくかつた。
入り口で日本語でフィガロの結婚の勧誘をしているバロック官廷装束風のにいちゃんに声をかけられた。
 展示されているハプスブルクの歴史と趣味、 資産を考えれば、 極一部が展示されているに過ぎないのだろうが、
観光の一環で見ている分にはうんざりする程多かった。
私にとってもっとも興味深かつたのはやはり 1039年作成の神聖ローマ帝冠と 1605年作成のトルコ王冠(?)、  1600年代(だったっけか)作成の帝冠である。
前者はジギスムントが被っている絵が掲げられており、 後者の絵もたしかあった(だれだったか忘れたしまった、 カール5世だつた気もするけど)。

 この時点で16時。 このあと大急ぎでウィーン市歴史博物館へ。
市歴史博物館のことなどすっかり忘れていた。 
せめて書籍コーナーだけでもと行ってみたが、 やはリローマ関係の本は置いてはいなかった。
 カールス教会が近くにあつたので、取り敢えず行ってみる。
正面の入り口は閉じられていて入れなかった。
トラヤヌス円柱を模したと言われるが上台はまあ同じ大きさ(一辺私の8歩分)であるようであつたが円柱自身はこちらのほうが細いように感じられた。

 またまた急いで美術館へ。17時15分前には美術館に入場。
いきなり内部の調度、 装飾に圧倒される。
こりゃブダペストのイストバーンのバシリカや 国立博物館よりも凄いや。
ホール正面階段、  ドームに関しては今まで目に(人生で、という意味)した建築物の中でもっとも豪華な内装であると言えるのではないか。
とにかく口をあんぐりあけて見上げるしかない。
 さてまずは最もみたかったフリューゲル「バベルの塔」である。 じっくり20分近く見た。
分厚い美術解説書を読みながら見ている人もいた。 とくに日本人らしい(本が日本語)中年のおばさんは研究者か評論家、といった感じ。
そのあとはフリューゲル、 ヴァンアイク、 ベラスケス、 ルーベンス、 ティントレット、 ティツィアーノ、 ラフアエロも何枚かあった。
みんな堂々とカメラを撮っていた。 
 駆け足ではあったが、2階はまざ一応見学でき、一階はハプスブルクが収集したエジプトやローマの遺物だがこっちは文字通り駆け足で通りすぎた。
186時10分前にでる。
 疲れた。 しばしマリアテレジア像の前の芝生で寝転がって休憩。

 次。 市電で環状道路周遊。
1周してから市民公園前で下草してリヒャルトシユトラウス像を見る。
この時この公園に昼、 王宮宝物庫の前でフィガロの結婚の客引きをしていたバロック装束のね一ちゃんのほうがいた(だから何だという訳ではないが)。
そのまま歩いてベルベデーレ官殿を目指す。

 しかし官殿入口がわからず結局ほぼ半周して南駅前の入口からはいる。
19時30分。 閉園は20時、 とある。
20分ほどかけて下の宮殿までいって 宮殿の壁に手をついてからもう一度上官にもどる。
庭を一周したことになる。
 この宮殿は豪奮というよりあっさりした印象。 
帰り際、壁が剥がれているところを発見。 バロック宮殿のカラフルな壁がどういう風に作られているかがよくわかった。
 
 全日程終了。 
あとは食事。 宮殿をでた所に、 安食堂と思しきレストランがありそこに決める。
 しかし。
入ってみるとウェイトレスやコックのおばちゃんが 客と一緒に座って煙草ふかしておしゃべりをはじめるし、 
よく聞いていると、  「カク ステ」、 とか「イマ リ」  「ドバル ベーチェル」、 とかの言葉が聞こえ、
極め付けは 「スト シェイセット」。
注意して聞いてみるとかかつている音楽もどこかできいたような曲。
帰り際ウェイトレスに聞いたところクロアチアとの事であつた。
若干驚き。 クロアチアはカトリック。 
しかも殆どトルコの支配を受けずに済んだ地域である。 う一ん。 するとこの景観はトルコ支配のもたらしたものではなく、スラブのものなのか。
 収穫のあった夕食であった。

 市電で戻る途中、 市庁舎前で行なわれているフィルムフェスティバルにゆく。
この日は映画ではなく、 モーツァルトの合唱曲のコンサードが上映され 屋台がところせましとでて盛況。
日の丸の屋台もでていたが、 日本の料理かなぁ? 料理人は東洋人だけど日本人でないようにも見れるし。
というのとかを見て、 そのあとリンク内の中心街を散歩。
前回12月に来た時も感じたのだが、 非常に照明が上手であると思う。 街路といいウィンドウといい
あらゆる照明と建物全体が調和して 街自体が展示品の様な印象を与えるのである。
 王宮入口に中世の城郭の追跡があり これも上手にライトアップされていた。
しかしここは前回ムッシユーと来たところである。 どうしてこの前はこの追跡に気づかなかったのだろう?
23時近くなった。 歩いて宿へ戻った。
 

8月12日

 昨夜前を通った本屋は皆9時からの営業となっていた。 
ので一回カルヌントゥムヘ行って来てからシヨッピングするか、 先にシヨツピングして、
本が有ればカルヌントゥムヘは行かない。 とするか。
結局、  1冊は見つかつたもののもう1冊の方は見つかりそうにもなかったし、 荷物は重いし、
何より気力がもう続きそうになかったので、3、4件の本屋を回つただけでお土産のチョコレート買ってカルヌントゥムヘ行くことにする。
 しかし売店から出た時は既に9時25分。
シュテフアン寺院前の駅から乗ったのだが、 ノルド駅にはもう間に合わない。
ミッテ駅に変更にする。 ところがミッテ駅では反対方向のホームに下りてしまい、 見ると反対ホームにはカルヌントゥム行きの列車が入っている。
反対側のホームに行った時にはもう列車は出発してしまっていた。
ホームのベンチで1時間休憩。  10時37分に乗る。
11時42分到着。 追跡館へ行き目的の本を購入しトイレ借りて駅へ戻る事にする。
 外は雨になっていた。 雨宿りしたかつたが、 そんな事で列車に遅れるのも馬鹿らしいので、 雨の中駅へ。
幸いそれ以上酷い降りにはならず 寧ろ弱まってくれたので助かつた。

 12時10分頃駅に着く。 待合室で待っている内に雨は殆ど上がる。
12時42分(先に下りが到着。この駅で捺れ違うらしい)帰りの列車に乗る。
帰りの列車では 親子5人の家族がそれぞれの自転車を列車に持ち込んだのには驚いた。
 13時14分空港駅着。 
チェックイン済ませ(全席自由なのには驚いた)、食事へ。
セルフサービスのレストラン。
値段もよかつたが、 ボリユームも味も上々。
マトンカレーを頼んだのだが、 食べ切れず、 結局残してしまった。
搭乗開始は16時30分。 まだ2時間以上もある。
 出国審査はあっさり済み、 売店巡りしたリベンチで寝たりして時間を潰す。
ミュンヘンやブダペストヘ行く日本人団体が目についた。
 事務所に電話し、コンピュータ雑誌を購入した時点で金もほぼ尽きた。
日本語新聞が読みたかったがなかった。
16時頃ゲートヘ。 
デイズニーランドや 芦屋加茂市とマークと文字のかかれている袋や、 ジャスコの袋を下げた小学生くらいのブルガリアン集団がうるさかつた。
 機内の客の入は半分といつたところ。 左右3列づつで各3列の席に最低1人がいるくらい。
ブルガリア人のマナーがそれはど悪いとは思えなかったが、 スチュワーデスが最後列座席に座って足組みして煙草ふかしながら新聞読み始めたのには、
やっばリブルガリアだなぁ、 と思つてしまった。
今回もバルカン半島は曇。 まったく下界を眺めることは出来なかった。
フライトは前回より若干短く感じられた。
20時25分頃ソフィアに達する。
 調度ソフイア中心を西から東へ横切るルートで、 ソフィア市のパノラマが実に良く見て取れた。
玩具のようなネフスキー寺院、 日曜教会、 エンデカ。 写真の準備をしていなかったのが悔やまれる。
 地上に下りるとバスが待っていた。 しかし建物迄100mくらい。 バスに乗る意味があるんだろうか。
入国審査は係官が席を外してなかなか戻って来なかったりして時間がかかったが、 最後に 「ア リ ガッ ト」 等とたどたどしく言われたのには驚いてしまった。
 市内へのバスはなかなか来なかった。
バスの排気ガスにあーブルガリアだなぁと実感。 
84番でオルロフモスト迄でて、94番で戻る途中、 少志田邸の窓に明りが見えたのでワインを買って訪問。 この日はここに宿泊する。