中世の西アジア地域 は、短期王朝が多数興亡する政治状況に目を奪われる傾向があり、経済力について、一貫したイメージを描きにくくなっています。そこ で全体的な経済力の傾向を把握できないものかと、、色々な資料・史料から王朝の税収の数字を取り出してきて、比較してみまし た。目的は、西アジアの諸地域の経済力のおおよそのイメージを得ることと、現状政治史のみに目を奪われがちなイメージを財政 という角度から眺めてみて、イメージが変わるかどうか、史料の数値に妥当性があるのかどうか、その他予想していなかった何か の関連性や比較ポイントが見つかるかもしれない、と考えて、取り合えずやってみました。
(1) ウマイヤ朝・アッバース朝・トゥールーン朝・イフシード朝時代のエジプトの
税収規模
*1以外の出典 森本公誠『初期イスラム時代 エジプト税制の研究』p274 762-6年バグダード建設工事作業者の日当は1/3ディルハム(年約100ディルハム:出典はヒッティ (上)p624(その元 の出典はタバリー3巻327頁とのこと。なお、棟梁は日当1ディルハム)。工事作業者の年収 100万円と仮定すると1ディルハム1万円となり、3750万ディルハムは3750億円、1586万ディルハムは、 1586億円、合計5336億円 となります。マームーン時代の小麦価格から算出すると(算出方法詳細はアッバース朝の財政規模の記事で記載予定)、1ディルハム4166円となり、エジプ トは1562億、シリア・パレスチナは661億、合計2223億となります。なお、初期イスラム時代 エジプ ト税制の研究』p423では、1ディナール=15ディルハムとしている。す ると、上記3750万ディルハムは 250万ディナールに相当するので、上記「マームーン時代(9世紀前半」と、「ヒジュラ暦 3世紀前半」の値は同じもの なのかも知れません。
ファーティマ朝時代のエジプトの税収は、Paul Ernest Walker 著「Exploring
an Islamic Empire: Fatimid History and Its Source
(I.B.Tauris in Association With the Institute of Ismaili
Studies) 」のp69に、
1073-94年の間にシリア・パレスチナを失った代わりにエジプトの税収は200万から300万ディナールに増収したとあります(出典史料の記載
は無し。宰相バドルの改革・徴税強化による)。また、森本公誠『初期イスラム時代 エジプト税制の研究』p275に、969
年と970年の記載があります。菟原卓「ファーティマ朝前半期のワズィール職(史 林 /
史学研究会
[編]61巻6号p859〜889)によると、11世紀中頃のエジプト・シリア・パレスチナの値は、(A.H442-450年/1050-1058年)の
ファーティマ朝の税収200万ディナール(出典Yāzūrī))、11世紀末エジプト・シリア・パレスチナの値は、
(A.H483年 /1090-91年)のファーティマ朝の税収310万ディナール(出典マクリーズィーのMawaiz
wa al-'i'tibar bi dhikr al-khitat wa al-'athar
(エジプト誌)」とあり、更に、12世紀初頭の宰相アフダル時代には、十字軍により、シリア・パレスチナを失ったにも関わら
ず500万ディナールに増加しているとあります(500万は、A.H.483年Hīlālī、480年Kharājī(エジ
プト)、498年
Kharājī(シリア)の合計値。出典マクリーズィー。同上)一方、十字軍国家に関する資料は見つけられていないの
で、省きます。
ファーティマ朝時代のディナール貨とディルハム貨の比率は、アッバース朝と同じく
1:15とのことなので 全体的にはアッバース朝時代の税収と大きくかけ離れているわけではなさそうです。
シリア・パレスチナを失っても税収が増収している背景としては、イラクの地盤沈下に より、東方貿易のルートがペルシア湾から紅海に移動したことも大きな要因かもしれません。イラクでは、10世紀の税収定 価の数値は残っているものの、11世紀のブワイフ朝の税収情報については調査しきれていないので、そのうち調べてみる予 定です。一方、通貨価値の下落という要素も可能性としてはありそうです。マームーン時代とマムルーク朝時代前期の賃金を 比べると、5倍となっているので、このインフレが、ファーティマ時代に起こったとすれば、ファーティマ朝の増収はインフ レによるものとなりますが、アイユーブ朝時代になると、1ディナール38ディルハム(「中世イスラーム国家とアラブ社 会」佐藤次高(p45))となっているので、インフレの一部はアイユーブ朝の時期だったとすると、ファーティマ朝時代の 増収は国の繁栄による要素が大きいということになると思われます。貨幣価値の下落と富の増加の両方が同時に起こった可能 性もあります。この点でファー ティマ朝とアイユーブ朝の経済は興味深いものがあります。 税収については地租だけの値であり、
異教徒に課された
ジズヤ、特に後期ブルジー朝マムルーク時代に頻繁に実施された臨時税・財産没収・砂糖販売独占などの専売制・売官収入等は含まれていません。し
かし、後期の財政再建策は、前期マムルーク時代に比べて財政難の補完の為でもあり、例えばイクター削減2万ディナール、カイ
ロの市場の税4万
ディナールなどがあるものの、財政全体の規模からするとあまり多くはなさそうです。臨時徴収の最大のものの一つは1488年と1490年に地租の1/5を
戦費調達用にしたものがありますが、下記表を参照すると、15
世紀末期の税収は、1520年の値に近いと思われ、臨時に20%を調達したとしても、1315年の値に遠く及びません。つまり、後期マムルーク朝では、
様々
な増税策が実施されたものの、その収入は前期マムルーク朝を上回るものではなかったと考えられます。よって、地租減収分を他の税金で埋め合わせよう
としても、以前の地租収入を回復できていないことからも、王朝税収の殆どは地租だと考えてもいいのではないかと思われます。
ちなみにスルタン・カー
イトバーイの(在1468-95年)時代には16回の遠征が実施され、総額706万5千ディナールを要した(出典:人文研紀要61号
(2007年:中央大学人文学研究所)「マムルーク朝末期の財政業務−国家財政とスルターン財政−」五十嵐大介p93)とさ
れています。カーイトバーイの治世27年間で706万ディナールということは、1年平均28万ディナールの負担です。王朝全
体の地租収入と比べると、1520年の地租収入と比べても15.6%にしかなりません。税収規模については、地租収入を目安
にしても、実情から遠くはないかも知れません。
表3 1,2,5行:地租税収見込み額出典:史林51巻6号「マムルーク朝期の商業政策」古
林清一 p47(841)の注 9から 当時の物価は、「中世環地中海圏都市の救貧」(慶應大 学出版会/2004年)所収の「中世エジプト都市の救貧−マムルーク朝スルターンのマドラサを中心に(長谷川史彦)」に、1364年建造のカ イロの大マドラサ(現在も残る史跡)、スルターン・ハサン学院の就業者給与一覧が掲載されています。これによると(p60)、用 務員長、守衛長 50ディルハム/月。用務員、守衛、門番40ディルハム/月となっていて、このクラスの人びとの年収を100万円と仮定すると、1ディルハム2083円と なります。1ディ ナールは14世紀前半のカイロでは、1ディナール15ディルハム程度なので、1298年と1315年については、1:15で計算してディルハム換算値を算 出しました。 14世紀末期から15 世紀初頭にかけて大幅な暴落があったとのことです。1380年頃1ディナール20ディルハムが1410年頃100ディルハムとなり(下記「「十四世紀末− 十五世紀初頭カイロの食糧暴動」p12の物価とディナール・ディルハム為替一覧表より)、ディルハムの通貨価値 が1/5に下落しました(1416年頃に1ディナール280ディルハムのピークを迎え、1421年には1ディナール230ディルハムに低下した)。同時期 の小麦価格も5倍、大麦は 2−5倍、ソラ豆は6−10倍となっています(史学雑誌97巻10号「十四世紀末−十五世紀初頭カイロの食糧暴動(長谷川史彦)」巻末物価一覧表 より)。「中世イスラム国家の財政と寄進」p273の注38では、スルタン・バルスバーイ(在1421-38年)以降は1ディ ナール300ディルハム以上となったとのこと。1520年頃の為替レートと賃金が判明したら、修正する予定です が、ここでは取 り敢えず、バルスバーイ以降の年と1520年の貨幣価値と物価はだいたい同じであると想定して、1520年の労働者賃金は、 1364年の月 40ディルハムの15倍の600ディルハム とし、年間賃金7200ディルハムを100万円として、1ディルハム139円で計算してみます。この結果得られた1520年頃の750億円という値 を、オスマン財政規模の記事で引用し た値と比べてみます。 ・1527/8年のエジプト・シリア・パレスチナの税収は約187万ドゥカートで、1ドゥカート84アクチェとすると15708 万アクチェ(1アクチェ約1200円)=1884億9600万円 ・1582/3年のエジプト・シリア・パレスチナ・メソポタミアの財政収入8265万アクチェ(1アクチェ約1200 円)=991億8千万 となります。1527年の値は、1582年の値の倍の値となっていますが、オスマン財政規模の記事でも記載しましたが、1ドゥ カー ト40アクチェ程度でないと計算が合わない年も多く、16世紀中ごろが、新大陸からの銀流入で、銀の貨幣価値が大きく下落してい たことを考えると、1527年当時は1ドゥカート40アクチェ程度だったかも知れません。この場合は、1527年の187万ドゥ カートは、7480万アクチェ=897億6000万円となり、1583年の値にほぼ等しくなります。 アクチェとドゥカートのレートをどのように考えるかは重要な要素だと思いますが、取り合えず、1527/8年のエジプト税収 は、初期マムルーク朝の税収に近く、1520年頃は、1583年の値に近くなっています。1350年も、黒死病の直後なので税収 が少なかったということなのかも知れません (1344年の187億という低額については、説明がつきませんので、この年に何か特殊な事件があったのか、調べてみる予定で す)。 アッバース朝マンスール時代の賃金(年100ディルハム)が、マムルーク朝前期に年480ディルハムとなり、更に1400年前 後の5倍の物 価暴騰の結果、マームーン時代とオスマン朝初期のディルハム通貨価値を比べると、25分の一となっていることになります。 アッバース朝時代と比べ、1298年と1315年の歳入が高いのは、この頃のインド洋貿易のルートは、紅海を通じてマムルーク 朝を通過していたことと関係があるのかも知れません。大航海時代に入り、インド洋貿易のルートが喜望峰廻りとなった結果、オスマ ン朝エジプトの歳入1000億程度に低下(しかしこの値は、貿易ルートがペルシア湾にあったアッバース朝時代の1337億に近 い)したということなのかも知れません。 セルジューク朝、1335-40年の税収はイル汗国時 代のḤamd-Allāh Mustawfī of Qazwīnの書物『Nuzhat-Al-Qulūb』から。1364年の税収は『Risāla-yi Falakiyya(「簿記術に関するファラキーエの論説/Resāle-ye Falakīye dar ‘Elm-e Siyāqat」著者アルマーザンダラーニー`Abd Allāh b. Muḥammad b. Kiyāal-Māzandarānī」)から(出典は「Cambridge History Of Iran Vol5 SALJUQ and MONGOL period」p497-499)。セルジューク朝の値は、Ḥamd-Allāh Mustawfī of Qazwīnの祖父のAmī n Al-Dī n Nāṣirの記録に基づくとのこと。祖父Amī n Al-Dī n Nāṣirはイラク・セルジューク朝の財務長官だったとのこと。1335-40年の値は、「Cambridge History Of Iran Vol5」では、王領地(Khāṣṣa*3(ハーッサ))の税収と、一般税収の列がわかれているが、ここでは合算している。
表4 セルジューク朝とイル汗国の税収総額(出典は、Cambridge
History of Iran Vol 5 p498-99 から)
セルジューク朝時代とイル汗国時代の物価と賃金に関する情報を入手できていないので、代わりに、マムルーク朝の賃金を流用する ことにしました。イブン・バトゥータの『大旅行記』邦訳第二巻(東洋文庫)のp253によると、マグリブ金貨125ディナー ル=500イラン銀貨ディナールと、イル汗国とマムルーク朝のディナールの換算値の記載があります。日本円換算額は、マムルーク 朝の労働者の賃金(月40ディナール、1ディナール15ディルハム)で計算してみました。 ところで、セルジューク朝とイル汗国の領域は異なっています。したがって、徴税対象地域も異なっています。地域毎の徴税額を以 下に示します。 表5 セルジューク朝とイル汗国の税収
表4と表5からいくつかわかることがあります。 1.セルジューク朝時代の地域にホラサーンやパレスチナの データが含まれていないことから、このデータ(Ḥamd-Allāh Mustawfが記した値)は、スルタン・サンジャル(在1118-1157年)以降の、ルームとイラク・西イラン時代の数字で ある可能性 が高そうです。 2.ガザン汗時代には、セルジューク朝時代比で、ガザン汗の税制改革前は14.2%、税制改革後で16.6%に激減しています。 3.Ḥamd- Allāh Mustawfが記載している合計値(31,638,020ディナール)と各地を合算した値(45,389,120ディナール)と差があります。 4.イル汗国時代の合算値とセルジューク時代の値を比較するにあたって、セルジューク朝時代はホラサーンやギーラーンなどが抜け ているので(12世紀末はホラズム・シャー 朝の領土だったことが理由かも知れません)、同地域を、イル汗国時代の合計値から除して、残りの合計値を比較 すると、セルジューク朝時代の値と比べて、1335-40年の王領地含む合計額は、53.5%となり、税収が半減していることがわかります。この原因とし て、モンゴル時代になり、税制が大きく変化したとはいえ、やはりモンゴル侵攻による打撃 が推測されます。 5.ヤークートの残した13世紀初頭の都市周辺の村落の数を、モンゴル征服後の史料の数(Ḥamd-Allāh Mustawfī of QazwīnやḤāfiẓ Abrūの史料)と比較すると、 村落数が激減している為、セルジューク朝からイル汗国にかけての税収激減はモンゴルによる破壊の可能性が高いと言えそうである(この村落数の表は、 Cambridge History of Iran Vol p497に出ています)。 セルジューク朝の税収をディルハムで
表すと、1ディ
ナール20ディルハムである為、25億3千万ディルハムとなってしまい、アッバース朝最盛期4億1692万ディルハムを大幅に上回わってしまいます。アッ
バース朝最盛期にくらべ、セルジューク朝は領土も縮小している為、納得しがたい額といえます。この理由として、以下の三点が
考えられます。 @.通貨価値の下落 上記@の場合、アッバース時代の労働
者の月収10ディルハムに対し、マムルーク朝前期の月収は40ディルハムと4倍となっている為、この4倍という数値がインフ
レによる価値減価
として考え、これをセルジューク朝の領土にも適用すると、25億3千万の25%は6億3千万となり、アッバース朝最盛期の値4億1692万ディルハムに大
分近づきますが、Ḥamd-Allāh
Mustawfの記載した税収額のあるセルジューク朝の領土は、ホラサーン地方、カスピ海沿岸地方を欠いていて、エジプト・シリア・パレスチナも領土に
入ってはいないので、その範囲に相当するアッバース朝の税収額は1-2億ディルハム程度となると推測でき、そそうなると、6
億3千万と1-2億では差がありすぎることになります。4倍どころか、10倍くらいのディルハム貨幣の価値の下落があったと
想定すれば、妥当な値になりそうです。 上記Aの場合、セルジューク朝の単位は
ディルハムの誤りだとして、1億2638万ディルハムが正しい税収額とすることになります。この額は、アッバース朝時代の同
領域の税収額の近い値となるので、説得力がありそうですが、貨幣価値下落が殆ど無かったと考えるか、セルジューク朝の徴税能
力が低下していたか、民衆の生産力が低下していたか、人口が減少していたか、様々な要因が考えられます。 いづれにしても、ファーティマ朝と同
様、セルジューク朝の経済と財政にも謎が多く、興味をそそられる部分です。 1.サーマン朝の財政収入 2.ブワイフ朝の財政収入 3.サファヴィー朝の財政収入 17世紀のフランス人貿易商人ジャ
ン・シャルダンの著作全集 第四部「ペルシア人の政治、軍事、文治制度(五巻途中から六巻途中まで)」の「第七章 王の収入
か「第八章 財政」の章の記載に、70万トマンという記載があり、一方、Oleariusという研究者は40万トマンと見積
もっているとのことです(この記載の出典は、サファヴィー朝以降の近世イランの研究者Willem Floor著『A
Fiscal History of Iran in the Safavid and Qajar Preriods
1500-1925』(1998年)p68)。 シャルダンの著作全集 第二部「ペル シア総観(三巻途中から四巻途中まで)」(邦訳東洋文庫『ペルシア見聞記』p304)には、1トマンは1万ディナールとの記 載があります。すると、70万トマンは70億ディナール、40万トマンは40億ディナールとなります。従来のディナールの価 値からすると、この額は大きすぎます。サファヴィー朝時代の最少額銀貨はシャーヒーという名称で、上記見聞記p305には、 1トマンは200シャーヒーに相当するとの記載があります。10ディナールが1ビースティー、50ディナールが1シャー ヒー、4シャーヒーが1アッバーシー、1トマンが50アッバーシー。70万トマンは、1億4000万シャーヒーとなり、1 シャーヒー(shahi)が1ディルハムに相当すると仮定すると、現実的な数字になりそ うです。なお、『見聞記』(p302)によれば、サファヴィー朝時代には、ディルハムは貨幣ではなく、銀の重要を表す単 位となっていて、30ディナールの価値がある、と記載されています。これは1シャーヒー(50ディナール)に比較的近い 値です。 サファヴィー朝時代の賃金情報をまだ
見つ けられていないので、具体的な財政規模がわからないのが残念です。 『見聞記』の記載によれば、1リーブル
の1/50が1ディルハムの重量とされているので、17世紀末の1リーブルが、フランスでどの程度の労賃にあたったのかがわ
かれば、サファヴィー朝での賃金を測る目安となるかも知れません。 そこで、17世紀フランスの労賃を調
べてみました。 近世ヨーロッパの諸統計書籍「Introduction to the Sources of European
Economic History: Vol.1: Western Europe, 1500-1800」
のp181に1500年から1790年の間の建設労働者の日当のグラフがあり、17世紀後半の値は15-18Sol(スー)
となっています。取り合えず16Solとすると、1リーブルは19-20スーなので、間をとって19.5スーとすると、日当
は0.82リーブルとなります。 シャルダン著作全集の「第九部 ソレ
イマーンの戴冠(九巻途中から十巻途中まで」の邦訳である東洋文庫『ペルシア王スレイマーンの戴冠』の目次の次の頁に、 「1トマーン=50アッバーシー
(=50リーブル)、1アッバーシー=4シャーヒー(=1リーブル)、1シャーヒー=5ソル」 との記載があります。1リーブル=1
アッバーシー=4シャー
ヒー=200ディナールなので、16スー=0.82リーブル=164ディナールとなります。一方、建設労働者の年収を100万円と仮定すると、日当は
2778円となり、164ディナール=2778円=約1/61トマンとなります。結果、1トマンは
約16万9458円となり、70万トマン は、1186億となります。この値を、イル汗国の歳入の1335-40年
の各地税収(王領
地含む)を合算した値と比べてみます。イル汗国の領域のうち、アルメニア、メソポタミア、ルームはサファヴィー朝の領域外なので、サファヴィー朝の領土相
当のイル汗国の税収総額は、45,389,120ディナール(3547億円)の82%の37,219,078ディナール
(2908億円)となり、相当かけ離れています。1364年のイル汗国税収15,920,000ディナール(1244億円)
の82%、13,054,400ディナール(1020億円)と比べるとほぼ同じ値となっています。しかし、オスマン財政規模の 記事で引用し
た16世紀のオスマン朝の財政規模、3765億円と比べると、大分差がありますが、末期マムルーク朝や、オスマン朝初期のエ
ジプトの財政規模には近い値なので、妥当そうな値です。 ところで、上記リーブルとトマンの
レートは、フランスとサファヴィー朝の貴金属の価値で決まったレートであり、労働生産性や購買力平価で決まったレートではあ
りません。この交換レートから導き出された日当164ディナールは、実際のサファヴィー朝の労働者の賃金とは異なっている可
能性があります。17世紀フランスは、新大陸
からの銀流入でインフレにあったため、労働者の賃金は、大きく上昇しています。フランスの労働者の賃金は、大量の銀流入のため高騰していたとすると、サ
ファヴィー朝の実質労賃は、同じ時期のフランスよりも、より低額だったかも知れません。 そこで、銀が流入する前の1500年
当時のフランスの賃金に、17世紀後半のサファヴィー朝の労賃が、額面上相当していると仮定するとどうなるでしょう。
1500年頃のフランスの都市労働者の賃金は2.5スー、17世紀後半の15.6%です。2.5スー=0.128リーブル=25.64
ディナール=2778円として計算してみます。すると、2778円=1/390トマンなので、1トマンは108万円となり、
70万トマンは7584億円となります。同じことを16世紀後半のフランスで日当8スーとして求めた場合も算出してみまし
た。
個人的な印象としては、16世紀後半 フランス相当の労賃で、財政規模40万トマンが正解のような気もしますが、サファヴィー朝時代の工事労働者の賃金は、実際の ところ、どの程度 だった のでしょうか。今後調べてみる予定です。 最後に。サファヴィー朝の通貨には、
二シャーヒーの価値をもつアッバーシー銀貨( abbasi )、1ビースティー銀貨( bisti
)、銅貨にはハスベギーという銅貨があり、10ハスベギーが1シャーヒーに相当するとのことです(『見聞記』p305)。こ
ちらのコイン販売サイトに各通貨のカタログがあります(p301の記載では、12グレーン(フランスの重量単
位)に相当するダーングという貨幣もあるとのこと)。
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プト税制の研究』岩波書店1975年 |